アメリカ合衆国建国の歴史 その47 大陸議会の開催

1773年12月の「ボストン茶会事件」に対して、イギリス政府は厳しく応じます。1774年にイギリス議会は「強制諸法(Coercive Acts)」と称される懲罰的な一連の法を通過させます。マサチューセッツの自治権を剥奪し、ボストン港を封鎖します。このようなイギリスの植民地政府への介入は、他の地方を脅かす可能性があり、植民地側は団結して行動することによって対抗できるというのが、広く一般的な見解でした。植民地間の多くの協議の結果、大陸議会(Continental Congress)が設立され、1774年9月にフィラデルフィア(Philadelphia)で会合が開かれます。

Thomas Jefferson

ジョージア州を除くすべての植民地議会は、代表団を任命して派遣します。ヴァジニア州の代表団の提案はトーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)が起草し、後に『A Summary View of the Rights of British America (1774)』として出版されます。ジェファソンは、植民地の立法権の自律性を主張し、アメリカ人の権利の根拠について極めて個人主義的な見解を打ち出します。アメリカ植民地やその他のイギリス帝国の構成国は、王の下に統合された別個の国家であり、したがって王のみに服従し議会には服従しないというこの考えは、ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)やジョン・アダムス(John Adams)をはじめとする他の代表者にも共通し、イギリス議会に強い影響を及ぼします。

John Adams

大陸議会で審議されたことは、各コロニーが1票ずつ投票するか、それとも人口との比率で計算した富の額によって投票するかということでした。コロニー毎の投票という決定は、富も人口も十分に把握できないという現実的な理由からもたらされたのですが、それは重要な結果をもたらします。個々の植民地は、その規模に関係なくある程度の自治権を保持し、それは直ちに主権の言語と特権に反映されるというものです。マサチューセッツ州の影響を受け、議会は次にマサチューセッツ州サフォーク郡(Suffolk County)で示されたサフォーク決議案(Suffolk Resolves)を採択し、初めて自然権を公式の植民地論に採用するのです。それまでは、すべての抗議は不文律(common law)と憲法上の権利に基づいていました。しかし、こうした決定はさておいて、世間では慎重なムードが漂っていました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その46 ボストン茶会事件

イギリス当局とのもう一つの深刻な争いはニューヨークで起こります。ニューヨーク議会は、軍隊の宿営地に関するイギリスの要求をすべて拒否します。双方で妥協が成立する前に、イギリス議会は議会を停止させると脅します。このエピソードは、議会が宣言法の言葉、すなわち「いかなる場合においても植民地を拘束し、立法する権限を有する」という条項を援用しようとする不吉なものでした。これまでイギリス議会は、王室からの訓令を除いて、アメリカの植民地における憲法の運用に介入したことはなかったのです。

Boston Tea Party


1773年、ノース公爵が東インド会社(East India Company)をある困難から救おうとしたときにも、イギリスの植民地経済への介入は起こります。紅茶法(Tea Act)は、インドで紅茶を生産していた同社に、植民地での流通を独占させるものでした。同社は、商人による競売での販売制度を廃止し、自社の代理店を通じて茶葉を販売することを計画します。仲買人のコストを削減することで、広く買われている粗悪な密輸茶を安く売りさばくためでありました。この計画は当然ながら植民地の商人たちに影響を与え、多くの植民地人は、この法律はアメリカ人に合法的に輸入された茶を買わせ、その税金を払わせようとする陰謀であると非難しました。課税された茶の樽を拒否すると脅したのはボストンだけではありませんでした。その拒否は最も劇的で挑発的なものとなります。

1773年12月16日、ボストン市民がモホーク族(Mohawk)に扮装して停泊中の船に乗り込み、1万ポンド相当の茶を港に投棄した事件は、「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」として一般に知られています。イギリスの世論は憤慨し、イギリス議会のアメリカの盟友たちは立ち往生します。他の都市のアメリカ商人も混乱します。1774年の春、イギリス議会はほとんど反対もなく、マサチューセッツを秩序とイギリス主義の規律に従わせるための一連の措置を可決します。ボストン港は閉鎖され、マサチューセッツ州政府法では、議会は初めて植民地憲章を実際に変更し、1691年に設立された選挙制の議会を任命制に置き換え、知事と議会に大きな権限を付与します。

Tea Party in Boston Harbor

急進的な思想家の集まりであったタウンミーティングは、政治機関として禁止されます。さらに事態を悪くしたのは、議会はカナダ統治のためのケベック法(Quebec Act)も可決したことです。ニューイングランドの敬虔なカルヴァン主義者たちが恐れたように、フランス系住民のためにローマ・カトリック教の布教も認めていきます。さらに、南部カナダは、行政上の理由からミシシッピ渓谷に連結され、アメリカ西部開拓の支配の可能性を永久に封じ込めようとしました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その45 不平等な扱いとボストン虐殺事件

両陣営の立場は、使用される言葉にも表れています。つまり議会主権の原則は、父権的な言葉で表現され、イギリス人は自分たちを親とし、植民地の人々を子どもと呼びました。社会の安定のためにイギリス議会の言い分を受け入れる植民地の保守主義派(Tories)も、このような用語を使いました。こうした観点から、子どもが親に反抗するのが不自然であるように、植民地の不服従は不自然なのであるという主張でした。これに対して植民地主義者たちは、権利という言葉で反論しました。彼らは、イギリス議会は植民地においては、イギリスでできないことは植民地でも何もできないのだと考えました。なぜなら、アメリカ人はイギリス人のすべての慣習法上の権利によって保護されているからであると主張します。植民地で開かれた1774年9月の第一回議会では、その最初の行動の一つとして、植民地にはイギリスの慣習法を適用する権利があることを確認しました。

Boston Massacre

ヴァジニア州のリチャード・ブランド(Richard Bland)は、1764年に発表した『罷免された大佐(Colonel Dismounted)』の中で、権利とは平等であると主張しました。彼は、植民地時代の不満の根源に言及しています。アメリカ人は不平等な扱いを受けており、それに憤慨しているだけでなく、自分たちの事案を自分たちで処理できなくなることを恐れていました。植民地の人々は、1761年にボストンで援助令状(writs of assistance)(基本的には一般捜査令状)が敷かれたことに法的不平等を感じます。というのはイギリスでは2つの有名な事件において「一般捜査令状」が非合法とされたからでした。タウンゼントは、1767年に植民地における援助令状を明確に合法化します。ディキンソン(Dickinson)は「農民からの手紙 (Letters from a Farmer)」の中でこの問題を取り上げています。

Boston Massacre Memorial

1770年初頭、ノース公爵(Lord North)が首相に就任すると、ジョージ3世(George III)はついに、自分と議会の双方に働きかけることのできる大臣を見つけます。それ以来、イギリス政府は安定を取り戻し始めます。1770年、アメリカの不輸入政策に直面し、タウンゼント関税(Townshend tariffs)は、象徴的な理由で残されていた紅茶税を除き、すべて撤廃されます。ニューイングランドの海岸線では、税関職員が地元の陪審員の支持を得られず、植民地人が反抗する事件が頻発しますが、比較的平穏な状態が戻ります。これらの事件は他の植民地からの共感は得られませんでしたが、ボストンに駐留するイギリス正規軍の増員を要求するほど深刻でした。最も激しい衝突は、タウンゼント税が廃止される直前にボストンで起こります。暴徒の嫌がらせに脅かされたイギリスの小隊が発砲し、5人を殺害した事件は、まもなく「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」として知られるようになります。兵士たちは殺人の罪に問われ、市民裁判にかけられますが、ジョン・アダムス(John Adams)が被告の弁護を担当し、上手に納めていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その43 印紙税法の廃止

印紙税法の廃止に歓喜した植民地の人々は無数の乾杯をし、大砲の音を鳴らし、宣言法は面目を保つための粉飾であると無視しようと叫びました。しかし、ジョン・アダムス(John Adams)は、『正典と封建法に関する論文』の中で、議会がこのような権力観で武装し、再び植民地に課税しようとすることを警告します。1767年、ウィリアム・ピット(William Pitt)が率いる内閣でチャールズ・タウンゼント(Charles Townshend)が大蔵大臣に就任すると、このような懸念が起こります。問題は、イギリスの財政負担が軽減されていないことでありました。

William Pitt

タウンゼントは、植民地時代の外税と内税の区別を文字通りに解釈し、鉛、ガラス、塗料、紙、家庭の主要飲料である茶など、さまざまな必需品に外税が課されていきます。その結果、植民地の人々は、イギリスは植民地を従属的な地位おこうとする長期的な展望をもっていると考えます。彼らはそれを新たな「奴隷制」と呼ぶようになります。しかし、このような見方は間違っていました。グレンヴィルの政策は、慎重に検討されたパッケージとして設計されていたのでした。グレンヴィルには、いくつかの整理法案を除いて、印紙税法後に植民地に対するさらなる計画はなかったのです。グレンヴィルの後継者たちは、当初の印紙税法の延長線上ではなく、印紙税が廃止されたことを理由にさらなる措置を講じようと画策していきます。

しかし、植民地の人々は怒り狂いました。ペンシルベニアでは、弁護士で立法者でもあったジョン・ディキンソン(John Dickinson)が一連のエッセイを書き、1767年と1768年に『ペンシルベニアの農民からの手紙』として発表し、広く再版され、植民地の統一した反対運動を形成する上で大きな影響を及ぼしました。ディキンソンは、イギリス議会が帝国全体に関わる最高権力者であることには同意しますが、植民地の内政に関する権力は否定し、植民地の忠誠心の基本は上位者への服従ではなく、対等の関係にあることを冷静にほのめかします。

John Dickinson

植民地人が意見で一致することは、行動で一致するよりも簡単なことでした。多くの駆け引きと交渉の末、徐々にイギリス製品に対する広範な非輸入政策が実施されるようになります。こうした際の合意形成は容易ではなく、時には非協力的な言いがかりをつけられ緊張が起こりました。また、この政策は、新たに設置された地方委員会によって執行されなければなりませんでした。その過程で、これまで公務の経験があまりない地方出身者が新たな規律権を握ることになります。その結果、一部の植民地では、内政干渉に対する不満の声が多く聞かれるようになります。こうした状況は、後にさらなる措置が必要となるにつれて、植民地政治の将来に影響を及ぼすことが明白となっていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その42 印紙税法

印紙税法は植民地の経済活動の重要な部分を攻撃し、貿易取引に影響を与えます。また、植民地で最も明晰で影響力のある弁護士、ジャーナリスト、銀行家の多くに影響を与えます。さらに、イギリス議会が植民地に対して直接賦課した最初の「内国税」でありました。それまでの植民地税は、地方自治体が徴収したり、「外的」輸入税であったので、歳入を増やすというよりも、イギリス帝国全体の利益のために貿易を規制することを主な目的としていたと考えられました。

印紙税法の反対

しかし、こうした印紙税法は暴動を引き起こします。イギリスも植民地もこうした騒ぎなるとは誰も予想していませんでした。ボストンなどの町では暴動が起き、任命された切手販売人は職を辞することを余儀なくされ、合法的な取引はほとんど停止してしまいます。1765年夏、いくつかの植民地はニューヨークの会議に代表団を送ります。そこで印紙税は、選ばれた代表を通じてのみ課税されるというイギリス人の権利を侵害するものとして非難され、あわせてイギリス製品の禁輸措置という提案が採択された。

印紙税法の風刺画

イギリス内閣の交代は、課税政策の変更を促します。イギリス議会は植民地の無法状態を怒りを表すのですが、イギリス商人はイギリスの輸入の禁止を懸念していまた。グレンヴィルの後を継いだロッキンガム侯爵(marquis of Rockingham)は、植民地の抗議に同調するためではなく、国内の理由から印紙税を廃止するように説得し、1766年に廃止が可決されます。しかし同日、議会は宣言法(Declaratory Act)も可決します。宣言法は、議会が「いかなる場合においても植民地を拘束し、立法する権限を有する」と宣言したのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その41 税を巡る議論

1763年に首相に就任したジョージ・グレンヴィル(George Grenville)は、すぐに植民地での歳入を増やすことで国防費を賄おうと考えます。最初の措置は、1764年のプランテーション法、通常「歳入法(Revenue Law)」または「砂糖法」と 呼ばれるもので、輸入された外国産糖蜜の関税をわずか3ペンスに引き下げる一方、精製糖への高い関税と外国のラム酒の禁止を関連づけたものでした。この政策は、イギリスの財務省のニーズと西インド諸島のプランターおよびニュー イングランドの蒸留業者のニーズのバランスを慎重に考慮したものでした。

この措置は実施されませんでしたが、政府はイギリス人将校を配置した税関のシステムを構築し、副提督裁判所(vice-admiralty court)まで設立します。この裁判所はノバスコシア州(Nova Scotia)のハリファックス(Halifax) に置かれ、ほとんど審理されることはありませんでしたが、原則的には地元の陪審員による裁判なので、イギリスの大事な特権を脅かすものでありました。ボストンはさらに、憲法上の理由から税の増収に反対しなます。こうした不安の声も聞かれますが、植民地は概してこうしたイギリスの措置を容認しました。

Benjamin Franklin


次に議会は、1764年に通貨法を制定し、戦時中から残存する多くの紙幣を流通から撤廃することで、植民地経済の展望に影響を与えます。この措置は、経済成長を制限するためではなく、不健全と思われる通貨を回収するために行われたものですが、戦後の困難な時期に流通媒体を著しく減少させ、さらにこのような状況はイギリス政府の困難を物語るものでした。

Statue of Benjamin Franklin

グレンヴィルの次なる政策は、法的文書、新聞広告、船舶積荷証券など、さまざまな取引に適用される印紙税の徴収でした。植民地は正式に相談を受けますが、代替案を提示することはありませんでした。ロンドンでは、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)も同意見でしたが、正式な異議申し立てを行った後、植民地は以前の税金と同様に新しい税金を受け入れるだろうと考えていました。しかし、1765年の印紙税法(Stamp Act)は、それまでの議会のどんな措置よりも強く深い打撃を与えます。一部の諜報員がすでに指摘していたように、戦後の経済的困難のため、植民地は準備資金が不足していました。ヴァジニア州では、資金不足は深刻で、議会議長で州財務長官のジョン・ロビンソン(John Robinson)は、通貨法によって公式に流通が停止された紙幣を操作して再分配します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その40 部族文化の解体と新興宗教

南北戦争後の急激な資本主義の発展のなかで、牧畜業者、鉱山業者、森林業者、鉄道業者、土地投機業者、そして農民は諸部族の保留地の土地と資源に目をつけて保留地そのものを解体しようとしていました。他方、人道主義的改革家は、部族の組織と部族文化を解体し、彼らを農民や市民として文明化し、白人市民社会に同化させることを目指しました。この経済的欲求と文明化のイデオロギーが合致して、1887年に一般ドーズ法(Dawes Act)と呼ばれる土地割当法が制定されます。それは、保留地の一部を部族個人に単純所有地として割り当て、余剰分を白人耕作者に解放すると規定したもので、軍事力による土地収奪から、法により土地奪取へと転換するものでした。

Ghost Dance


Sun Dance

その後の修正立法措置で割り当て地そのものにも賃貸制が導入されて、保留地の土地は急速に部族の手から白人の手に移りました。その結果1887年に1億5800万エーカーであった保留地は1900年には7780万エーカーに、1934年には4900万エーカーに減少しました。1924年にいたって部族に市民権が認められたものの、白人市民と完全に平等になったわけではありませんでした。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は、救済を宗教にもとめ、ゴーストダンス(Ghost Dance)やサンダンス(Sun Dance)、ペヨーテ信仰(Peyotism)が流行していきます。ちなみに1エーカーとは4047平方メートル位で、東京ドームはおよそ11.5エーカーです。ゴーストダンスとは、先住民族の間におこった千年王国論的な宗教運動で、1870年にネバダ州の先住民パイユート(Paiute)のウォボカ(Wovoka)という予言者によって始められたものです。サンダンスとは、自然復活と和平祈願の最大の儀式で「聖なるパイプ」と煙草が用いられます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その39 リトルビッグホーンの戦い

イギリスと植民地との対立は深刻化し、やがて独立戦争へと展開します。独立革命から南北戦争(1760年〜188年代)後及び、独立戦争で大半の部族がイギリスと同盟し、独立派軍に対抗します。そのうち五大湖周辺の北西部諸部族は、1763年のポンティアック戦争から1794年のフォールン・ティンバーズの戦い(Battle of Fallen Timbers)の敗北まで、本国からの独立革命を遂行しつつあった植民地人に対して、自らの自由と解放のために戦います。

フォールン・ティンバーズの戦いとは、独立派軍よる北西部領土侵略に対抗して、諸部族が大同盟を組んで挑んだインディアン戦争のことです。この戦いは、1812年戦争といわる英米戦争の際にショーニー(Shawnee)部族長テクシム(Tecumseh)によって受け継がれ、彼は部族の大同団結を提唱しますが大望を果たせず、ハリソン将軍( William Harrison)に敗れ戦死します。

Cherokee

同じ頃、南部ではチェロキー族(Cherokee)などが文明化政策を受け入れて農業化、文明化への道を歩み、黒人奴隷制度も導入します。チェロキーはアンドリュー・ジャクソン軍(Andrew Jackson)と戦って敗れ広大な領土を奪われます。こうしてミシシッピー川以東における優位を確立した政府は、1830年にインディアン強制移住法(Indian Removal Act)を制定し、ミシシッピー川以東の諸部族に同川以西への移住を強制します。諸部族は多大の犠牲者を出しながら長い「涙の旅路」(Trail of Tears)を辿ります。セミノール族(Seminole)は強制移住に抵抗し黒人と結束しますが敗北します。「涙の旅路」とは、1838年にチェロキー族を、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことを指します。17,000名のチェロキー族のうち、途中で4,000名以上が亡くなったといわれます。

第7騎兵連隊

1840年代の急激な領土膨張とゴールドラッシュ(gold rush)によって、南西部や大平原、グレートベイスン(Great Basin)や太平洋沿岸の諸部族は、押し寄せる移民者の群れと合衆国軍に始めて向き合うことになります。ゴールドラッシュとは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することです。コマンチ(Comanche)、アパッチ(Apache)、ナバホ(Navajo)、シャイアン(Cheyenne)、スー(Sioux)、アラパホ(Arapaho)などの諸部族は果敢な抵抗を開始します。

Battle of Little Big Horn

南北戦争が起こると部族間のみならず、部族内が敵味方に分かれて戦う悲劇を強いられます。戦争中、スー族の討伐やサンドクリーク(Sandcreek)の虐殺など大平原部族への圧力が高まります。サンドクリークの虐殺とは、1864年11月にコロラド地方で、政府軍が無抵抗のシャイアン族とアラパホ族インディアンの村に対して行った無差別虐殺です。

アメリカ合衆国建国の歴史 その38 砂糖法と通貨法

入植者にさらに深刻な影響を及ぼしたのは、イギリスの新たな歳入財政政策でした。イギリス政府は、拡大する帝国を支えるため、もっと多くの資金を必要とすると同時に、国内では納税者の不満の増大に直面していました。植民地が自らの防衛の費用を負担することは、政府にとって十分に妥当な政策だと考えられました。イギリス議会が新たに税金を徴収することによって、植民地の自治を圧迫していきます。

Sugar Act

課税の第一歩として、1733年の糖蜜法(Molasses Act)に代わって、1764年に砂糖法 (Sugar Act)が制定されます。糖蜜法とは、アメリカ植民地に対して外国領産糖蜜・砂糖の輸入に課した高額な関税法のことです。これに代わる砂糖法は、外国製ラムの輸入を違法とし、あらゆる地域から入る糖蜜に控えめな関税を課し、またワイン、絹、コーヒーなど多くのぜいたく品に課税することを定めました。イギリス政府は糖蜜法を精力的に執行します。税関吏は、職務の効果を上げることを命じられます。アメリカ海域を航行する英国の軍艦は密輸業者を捕獲するよう指示され、イギリスの役人は、「家宅捜索令状」によって、疑わしい施設を捜索することができました。

Sugar Cane

砂糖法が課した関税とその執行のための措置は、いずれもニューイングランドの商人たち仰天させます。彼らは、たとえ少額であっても関税を払えば、事業に壊滅的な影響が及ぶと主張します。商人、議会、そして町民会が、この法律に抗議していきます。植民地の弁護士は、「代表なき課税」(Taxation without representation)に対して抗議します。イギリス議会への代表権がないのにイギリスの国税を課税することは不合理と主張します。この「代表なき課税」というスローガンは、多くのアメリカ人に、母国によって抑圧されているという実感を与えていきます。

その後、1764年に、イギリス議会は「今後、国王陛下の植民地で発行される紙の信用証券を貨幣とすることを禁じるため」に、通貨法(Currency law)を制定します。アメリカの13植民地すべての通貨制度を完全に支配しようとするのです。通貨法はジョージ3世の治世中にイギリス政府によって可決された最も影響力のあるものといわれました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その37 新たな植民地制度

フランス・インディアン戦争の後、イギリス政府は、いっそう中央集権的な支配を強め、帝国全体の経費を、より公平に分散させようとします。そしてフランス系カナダ人と北米先住民の利害を考慮するような、新たな帝国の仕組みの必要性を感じていました。一方、長年にわたり高度の独立に慣れていた植民地は、自由の抑制ではなく、自由の拡大を期待していきます。また、フランスの脅威がなくなったため、植民地側は、イギリスの強力な存在は必要でなくなると考えます。こうして自治に熟達し干渉を嫌う植民地人とイギリスは対立することになります。

カナダとオハイオバレー(Ohio Valley) を治めていくために、イギリスにはフランス人と先住民族を疎外しないような政策が必要となります。しかし、イギリス政府と植民地の利害は根本的に対立し、人口が急増し、定住するための新たな土地を必要としていた植民地側は、西のミシシッピ川まで境界線を拡大する権利をイギリスに対して主張していきます。他方、部族との一連の戦争を恐れたイギリスは、もっと漸進的に土地を開拓するべきだと考えます。また、入植者の移動を制限することは、新しい植民地が形成される前に、既存の植民地に対する英国王の支配を確保する1つの手段でもありました。

ジョージ三世

1763年のイギリス国王ジョージ3世(George III)の名で発布した「国王布告」 (Royal Proclamation)により、合衆国とカナダの東部に連なる長大なアパラチア山脈の一部、アレゲーニー山脈(Allegheny Mountains)からフロリダ、ミシシッピ川、ケベックの間にまたがる西部のすべての領土が、先住民のために確保されます。これによってイギリス政府は、13の植民地による西部領土の所有請求を無効とし、西方への拡張を阻止しようとします。このイギリスの措置が、効果的に執行されることはありませんでしたが、入植者にとっては、西部の土地を占有し定住する基本的な権利を無視した高圧的な対応にほかなりませんでした。

フランス・インディアン戦争