どうも気になる その22 旧ユダヤ人街が世界記憶遺産へ

4月19日日曜日の朝刊に「旧ユダヤ人街 上海の歴史紡ぐ」という記事があった。筆者はユダヤ人の歴史や日本との関わりについて関心がある。ユダヤ系の人との個人的なつながりがりによる。

第二次大戦中、上海でユダヤ人が暮らした記録を世界記憶遺産に登録しようとする動きが出ているというのである。迫害で国を追われたユダヤ人にとって上海は一時、数少ない安住の地となり、その後は狭い区域で隔離生活を強いられたといわれる。かつての居住者らへのインタビューや資料収集が進められており、関係者は「遺産登録を実現し、上海の知られざる歴史を世界に伝えたい」と意気込んでいるそうである。是非実現してもらいたいものだ。

旧日本軍が占領した上海は当時国際都市で、パスポートやビザがなくても上陸できる世界唯一の場所だったという。上海の北東部に旧日本人街があった。そこに上海ユダヤ人難民記念館がある。このあたりは上海随一の観光エリア、バンド(The Bund)に近く、煉瓦造りの建物が今も残っているようである。第二次大戦中、ナチスの迫害を逃れて大勢のユダヤ人が上海にたどり着いた。その数、18,000人ともいわれる。リトアニア領事代理であった杉原千畝氏が発行した通過ビザを所持していたユダヤ人もいたようである。

上海には米英の租界地ができていた。日本人租界地もそうである。そこにヘブライ語の新聞が発行され、シナゴーグや学校、いろいろな店が建ち並んだ。旧日本軍が上海を占領した1937年以降、こうした姿が上海にできた。だが、1942年、第二次大戦が始まりナチスのユダヤ人迫害が上海にも迫る。日本は日独伊防共協定を結ぶことによりユダヤ人の自由な活動を制限せざるをえなくなる。

日本本土にもドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、オーストリア、リトアニアでの迫害から逃れてきたユダヤ人がいた。だが、“無国籍難民の定住と商売の制限に関する声明”によって日本占領下の上海に移住させられる。そこで日本政府は無国籍難民隔離区という上海ゲットー(Shanghai Ghetto)をつくる。そこに全てのユダヤ人が集められた。外出には許可が必要となる。このゲットーには、貧しい100,000人の中国人も定住していたという。

1941年頃までの上海のユダヤ人社会だが、アジア・アフリカ系のユダヤ人であるスファラディム(Sephardim)社会と東欧系ユダヤ人であるアシュケナジム(Ashkenazim)社会があった。この二つのユダヤ社会の二大勢力のことは既述した。スファラディム系のユダヤ人の中にイギリス国籍を取得していた富豪がいた。銀行家・商人であったサッスーン家(Sassoon Family)だった。サッスーン家の家長ビクター・サッスーン (Victor Sassoon)は、上海を中心とした大富豪であった。

もともと東インド会社(East India Company)からアヘンの専売権を持ったサッスーン商会は、中国でアヘンを売り払い、とてつもない利益を上げたといわれる。イギリス政府に代わって徴税や通貨発行を行うなど植民地経営にもあたったというからその威光は絶大であったようである。ロシア革命やポグロムが発生するたびに、ユダヤ人が満州へ流出し、そこから上海へ向かった。ロシア系ユダヤ難民は上海に根をおろし、多くは交易で栄えた。だが第二次大戦により上海のユダヤ人もまた流浪の民、ディアスポラ(diaspora)となる。上海ゲットーは1945年9月に解放され、ほとんどのユダヤ人は上海から去ったといわれる。

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