アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その90 領土拡張主義と奴隷制の行方

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 19世紀の民主的なアメリカで、後の20世紀の全体主義的な悪政策を予見させるような先住民族を「人口移動」させる政策がこれほど容易に受け入れられたことは、不思議なことです。たとえば霊的覚醒運動と呼ばれるリバイバルの影響を受けた伝道活動は、先住民にも受け入れられるのですが、彼らが「キリストのもとに導かれる」とき、彼らの土地の文化的なアイデンティティーは消滅するだろうという前提に立っていたといえます。

 ジェームズ・クーパー(James Cooper)やヘンリー・ロングフェロー(Henry Longfellow)の文学作品、マーク・トウェイン(Mark Twain)が書いた先住民の気質を表現した「気高い赤人(noble red man)」に対するロマンチックな感傷は、彼らの生活の優れた独特な側面に注目するものの、先住民は本質的には消えゆく人種であると考えていたようです。

 一般的に先住民族は「危険なレッドスキン(treacherous redskin)」と呼ばれていました。こうした先住民に対する軍事的勝利によって、1828年にジャクソン、1840年にウィリアム・ハリソン(William Harrison) はそれぞれ大統領に押し上げられます。情熱と独立心というアングロサクソン (Anglo-Saxon)の特徴といった大衆が称賛することは、他の「人種」たとえば、先住民、アフリカ人、アジア人、ヒスパニックらを進歩に屈する劣等人種であると烙印を押すことにつながったのです。実際、アメリカの発展と繁栄を支えた価値観は、先住民と新参者の間の「互いに共存しあう」(Live and Let-Live )な関係を阻害するものでありました。

 メキシコ領土への拡張に対する国民の態度は、奴隷制の問題に大きく影響されました。奴隷制の普及に反対する人々、あるいは単に奴隷制に賛成しない人々は、奴隷制廃止論者とともに、米墨戦争(Mexican-American War)における奴隷制推進政策を見極めていました。戦後の大きな政治問題は、準州の奴隷制度に関わるものでありました。カルホーン(Calhoun)や奴隷を所有する南部の代弁者たちは、メキシコ割譲地では奴隷制度を憲法上禁止することはできないと主張しました。「自由奴隷主義者(Free Soilers)」は、ウィルモット・プロビソ(Wilmot Proviso)の主張する新しい領土では奴隷制を認めてはならないという考えを支持しました。また、領土内の入植者がこの問題を決定すべきだという人民主権を優先させるという提案も支持しました。

 さらに、1820年にミズーリ論争によって決まった奴隷制の境界線である36度30分線を西方に延長することを求める者もいました。それから30年後、ヘンリー・クレイ(Henry Clay)は、老齢のダニエル・ウェブスター(Daniel Webster)と議会内外の穏健派から劇的な支持を得て、再び妥協案を国内外に宣言します。1849年に始まったカリフォルニアの金鉱地帯での出来事が示すように、多くの人々は政治的な理念とは別のことを考えていました。南部の人々は、こうした妥協案がカリフォルニアを自由州として認め、コロンビア特別区における奴隷貿易を廃止し、領土にその「特異な制度」の存在を否定する理論に憤慨します。そして反奴隷主義者の理論的権利を非難し、より厳格な新しい連邦逃亡奴隷法(federal fugitive-slave law)を憎悪していたのです。

 奴隷制の賛否に関する妥協案が成立した直後、南部の政治指導者たちは、分離独立の話を中断します。この政治的小競り合いに誰が真に勝利したかですが、民衆はおそらくこの和解案を承認したようです。その後の事態が示すように問題は解決されたのではなく、先送りされただけだったのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その73 産業革命期の文学界

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 1861年から1865年にかけてのアメリカの南北戦争(Civil War)前の数十年間、アメリカの文明は旅行者を惹きつけてやみませんでした。何百人もの旅行者が、新しい社会に魅了され、ヨーロッパの人々にアメリカを紹介するために「伝説の共和国(fabled republic)」のあらゆる面について情報を得ようとしてやってきました。

 旅行者たちが何よりも興味をそそられたのは、アメリカ社会のユニークさでした。旧世界の比較的静的で整然とした文明とは対照的に、アメリカは激動的で、ダイナミックで、絶えず変化し、人々は粗野ですが生命力にあふれ、強烈な野心と楽観、そして独立心に満ちているようにみえました。多くの教養あるヨーロッパ人は、軽い教育を受けたアメリカの庶民の自己肯定感に驚かされたようです。普通のアメリカ人は、地位や階級を理由に誰かに従うことはしないようにみえました。

 1800年代初頭、イギリスの風刺作家が「世界の至るところで、誰がアメリカの本を読むのか」と問いかけたことがあります。もし、そうした風刺作家が「ハイカルチャー」の枠を超えたところに目を向けていたなら、多くの答えが見つかっただろうと思われます。実際、1815年から1860年の間に、ヘンリー・ロングフェロー(Henry Longfellow) やエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の詩、ジェームズ・クーパー(James Cooper)の小説、ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne) の小説、ラルフ・エマーソン(Ralph Emerson)のエッセイなど、今では世界中の英語散文・詩の学習者に知られている伝統的文学作品が溢れんばかりに生み出されたのです。これらはすべて、アメリカらしいテーマを表現し、ナッティ・バンポ (Natty Bumppo)、ヘスター・プリン(Hester Prynne)、エイハブ船長(Captain Ahab)など、今や世界のものとなったアメリカらしい登場人物が描かれています。

 ナティ・バンポは白人の両親の子で、デラウェア・インディアンの間で育ち、モラヴィア派(Moravian)キリスト教徒によって教育を受けます。成人した彼は、多くの武器、特に長銃に熟練した、ほぼ恐れを知らない戦士です。ヘスター・プリンは「緋文字」(Scarlet Letter)の主人公で、婚外子を産んだとして近所の清教徒から非難された女性として描かれます。ヘスターは「アメリカ文学における最初で最も重要な女性主人公の一人」といわれています。エイハブ船長は、自らの片脚を奪った白い巨大なクジラ「モビーディック」(Mobby Dick)を追い求める半ば狂気の男です。

 それはさておき、ナサニエル・ボウディッチ(Nathaniel Bowditch)の『The New American Practical Navigator』(1802年)、マシュー・モーリー(Matthew F. Maury)の『Physical Geography of the Sea』(1855年)、ルイス・クラーク探検隊 (Lewis and Clark Expedition) やアメリカ陸軍工兵隊による西部開拓、そしてアメリカ海軍南極観測隊のチャールズ・ウイルクス(Charles Wilkes)による報告書は、世界中の船長、自然科学者、生物学者、地質学者の机上に置かれることになりました。1860年までには、国際的な科学界はアメリカの知的存在を認めるようになりました。

 エドガー・アラン・ポーは「アッシャー家の崩壊」(The Fall of the House of Usher)、「黒猫」(The Black Cat)、「モルグ街の殺人」(The Murders in the Rue Morgue)などの推理小説や「黄金虫」(The Gold-Bug)など多数の短編作品を発表します。有能な雑誌編集者であり、文芸批評家であったともいわれます。しかし、アメリカ文学がもともと清教徒の多い北部ニューイングランドで起こったもので彼の作品は不人気だったといわれます。

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