懐かしのキネマ その31 【The Sound of Music】

1963年にロバート・ワイズ(Robert Wise)によって製作されたのが【The Sound of Music】です。小学生から大人まで知っている「 エーデルワイス」(Edelweiss)や「ドレミの歌」(Do-Re-Mi)が歌われます。主演は、マリア(Maria) 役のジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)、ゲオルク・フォン・トラップ大佐(Georg Von Trapp)のクリストファー・プラマー(Christopher Plummer)です。

時代は、ナチスドイツが勢力を強め第二次世界大戦が勃発した頃のオーストリア(Austria)のザルツブルク(Salzburg)。帝国海軍の退役軍人であったトラップ大佐に7人のいたずらな子どもがいます。どの家庭教師も長続きせず、何度も入れ替っていました。修道院で見習いをしていたお転婆娘のマリア(Maria)は、修道院長の勧めでの子どもたちの家庭教師をすることになります。マリアも、最初は子どもたちのいたずらに振り回されます。しかし、厳格な父親に内緒で森へ出かけたり、一緒に歌って踊ったりと、親身になって子どもたちの相談を聞きくマリアに子どもたちは次第に心を打ち明けてきます。

そんなマリアと一緒に歌を歌い喜ぶ子どたちの姿を見て、最初は躾けで厳しかった父トラップ大佐も、次第にマリアに心を打ち明け、2人は惹かれ合っていきます。トラップ大佐一家とマリアは友人の誘いで舞踏会に出演することが決定し、7人の家族による歌声とダンスは賞賛を浴び舞台は大成功を収めます。これをきっかけにマリアとトラップ大佐はマリアと結婚し新婚旅行へと旅立ちます。旅行から帰国した大佐に待ち受けていたのは、ドイツ軍のオーストリア併合(Austria)によるトラップ大佐の出頭命令でした。命令を拒否したトラップは2人は家族を引き連れてスイス(Switzerland)に亡命しようと決意します。自国オーストリアからの亡命を図り、国境を越えようとアルプスを越える場面で終わります。

クリススマス・アドベント その11  Little Drummer Boy

クリスマスキャロルはいろいろに分類されそうです。聖夜のように礼拝堂で厳かに歌われるもの、ポピュラーソングのようなもの、子どもたちだけで歌われるものもあります。今回紹介するのは子どもが歌う曲です。

「誕生」はすべての人にとって喜ばしく嬉しい時です。老いも若きもその時を祝います。数あるクリスマスの歌には、古く伝統的なものから現代的(contempolary)なものまで誕生を主題とする曲がいろいろとあります。今回、紹介するのは一人の少年が太鼓を叩きながら、イエスの誕生の喜びに加わるという曲です。それが「The Little Drummer Boy」というもので、別名は「Carol of the Drum」です。

作曲したのはキャサリン・デーヴィス(Katherine Davis)。作曲家であり教師でした。作られたのは1941年。曲の由来はチェコスロバキア(Czechoslovakia)に伝わる古い民謡です。1950年代、この曲を収録したレコードはアメリカで大ヒットしたそうです。歌詞は次のような内容です。

”さあ行こう。一人の王様が生まれたぞ” と大人が僕に声をかけた。
”大切な贈り物をこの王様のところに届けよう”
”だけど、僕は貧しいので、なにも持っていくものがありません”
”マリアさん、お祝いとしてこの太鼓を叩いていいですか?”

”マリアさんは優しく頷いてくださった。牛や羊はじっと待っていた。”
”僕は一生懸命、赤ちゃんのために太鼓を叩いた。”
タタタッタ、タタタッタ、、、、”
”赤ちゃんは僕と太鼓に微笑んでくれた。”

Come they told me pa ra pa pam pam
a newborn King to see pa ra” pa pam pam
Our finest gifts we bring pa ra pa pam pam
to lay before the King pa ra pa pam pam
Ra pa pam pam ra pa pam pam
So to honor him pa ra pa pam pam when we come
Little baby pa ra pa pam pam
I am a poor boy too pa ra pa pam pam
I have no gift to bring pa ra pa pam pam
that’s fit to give our King pa ra pa pam pam
Ra pa pam pam ra pa pam pam
Shall I play for you pa ra pa pam pam on my drum
Marry nodded pa ra pa pam pam
the ox and lamb kept time pa ra pa pam pam
I played my drum for him pa ra pa pam pam
I played my best for him ra pa pam pam
Then he smiled at me pa ra pa pam pam me and my drum

聖書の中の女性の生き方 その二十 「シオニズム」

pic2 palestine3 02b 202471_a_palestinian_child_sits_above_the_ruins_of_his_ruined_home1時代を経て、イスラエルの地に故郷を再建しユダヤ教を中心としたイスラエル文化の復興という近代的運動が起こります。これがシオニズム (Zionism)です。この運動を最初に唱道したのはモーゼス・ヘス (Moses Hess)というユダヤ系のドイツ人哲学者です。

ヘスは、歴史を次のように把握します。すなわち、歴史とは民族の囲み合いであり国家間の闘争であるというのです。1800年代になるとイタリアで民族主義が台頭しドイツもまたそうした主義に呼応していきます。

イタリアの中部を旅行しますと城塞都市があちこちに見られます。中世以降、イタリアは都市を中心とした小国に分裂していたことが分かります。こうした小さな国家はオーストリアやスペイン、フランスの後ろ楯で権力争いが行われていた歴史があります。こうしてイタリアの統一と独立の機運が起こるのです。これがイタリアの民族主義運動です。さらにドイツを中心にに反ユダヤ主義 (anti-semitism)も勃興します。Anti-semitismとはユダヤ人に対する敵視、偏見、差別意識のことです。歴史学者のハインリヒ・トライチュケ(Heinrich Treitschke) がユダヤ人、社会主義、普通選挙などを強く排撃します。反ユダヤの言動は後年のナチスによって継承されます。とまれ話はいささか進み過ぎました。

少し時代を戻します。ユダヤ人の同化主義(assimilationism) が広まります。ヘスはこうした同化主義に対して、1862年に「ローマとエルサレム」(Rome and Jerusalem)という本の中で「ドイツ社会はユダヤ人に対して寛容ではない。ユダヤ人は自分の民族性を否定することによって他の民族の軽蔑を招いている、反ユダヤ主義には、パレスチナ地にユダヤ人社会主義共和国(Jewish socialist commonwealth)を建設することで対抗すべきだ」と主張します。ヘスはナチズム(Nazism)をすでに予言していたといえます。

Encyclopedia Britannicaによりますと、ヘスは1897年の8月にスイスのベーゼル(Basel, Switzerland) においてシオニスト世界会議(World Congress of Zionists)を主宰し、世界シオニスト機構 (World Zionist Organization) の初代会長となります。イスラエルが独立を宣言したのが1948年です。ヘスは独立の40年前に他界します。

失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動の活動家の一人にセオドア・ハーツル(Theodor Herzl) がいます。ジャーナリストや作家として1895年に「The State of the Jews」という本をあらわします。ハーツルはヘスを高く評価し、 ユダヤ系オランダ人の哲学者、スピノザ (Baruch Spinoza) を凌ぐ哲学者であると書いています。ハーツルもまた後に世界シオニズム機構で活躍します。

ユダヤ人は1948年5月にイスラエル独立を宣言します。これに対しアラブ諸国はパレスチナ人を支援するためパレスチナに侵攻、第一次中東戦争が勃発します。国連の仲介により両陣営は6月11日から4週間の停戦に至ります。これ以来四度にわたる中東戦争が続きます。

1956年10月、エジプトのナセル大統領 (Gamal Nasser)のスエズ運河(Suez Canal)国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻し、第二次中東戦争が起こります。イスラエルはゴラン高原 (Golan Heights)やエルサレム旧市街を含む東エルサレムとヨルダン川西岸(West Bank)を占領します。さらに1967年5月に6日間の第三次中東戦争、そして1973年10月にはエジプトとシリアによるイスラエルの奇襲、いわゆる第四次中東戦争へと続きます。

1978年9月にイスラエルの占領地からの撤退とパレスチナ人の自決権についての合意がなります。これが「キャンプ・デービッド合意」(Camp David Accords) です。この合意によりシナイ半島(Sinai Peninsula)はエジプトに返還されますが、パレスチナの自治については協議は決裂します。その後パレスチナ人の統治について協議を開始しますが、今もパレスチナ問題は根強く続いています。

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聖書の中の女性の生き方 その十九 「イスラエル」

michelangelo_buonarroti_020 10145224957 sadat_carter_begin_handshake_cropped_-_usnwrイスラエル(Israel) は中東のパレスチナに位置し、東はヨルダン (Jordan)、北東はシリア (Syria)、北はレバノン(Lebanon)、西は地中海に、南はエジプト(Egypt) と紅海に接しています。ガザ地区(Gaza)とヨルダン川西岸地区を支配するパレスチナ自治政府(パレスチナ国)(Palestinian National Authority) とは南西および東で接しています。首都はエルサレムです。

イスラエル(Israel) という国名ですが、アブラハム(Abraham)の孫にあたるヤコブ(Jacob)の別名である「イスラエル」に由来するといわれます。ヤコブが神と組み合った際に与えられた「神に勝つ者」を意味する名前が「イスラエル」です(創世記32:23-33)。ヤコブは古代イスラエルの王の祖先であり、伝統的にはユダヤ人の祖先と考えられています。

古代イスラエルはカナン (Cannan) の地と呼ばれ、カナン人をはじめ様々な民族が住んでいました。この地は肥沃な三日月地帯であり、ユダヤ人の祖先となるヘブライ人(Hebrew)も移住してきます。ですが、飢饉などが襲い子孫たちはエジプトに移住しエジプト人の奴隷となります。長い期間を経てエジプトを脱出したヘブライ人は、イスラエルを征服し紀元前11世紀頃イスラエル王国をつくります。いわゆるダヴィデ王 (David)やソロモン王(Solomon)の時代です。古代イスラエルの最盛期といわれます(サムエル記, 列王記)。

イスラエル王国はアッシリア(Assyria)に滅ぼされます。アッシリアは今のイラク(Iraq)といわれます。さらに南のユダ王国(Judea)は新バビロニア(Babylon)に滅ぼされます。新バビロニアもペルシア帝国(Persian)に滅ぼされ、その後パレスチナの地はアレクサンドロス大王(Alexander the Great) の東方遠征により征服されます。さらにローマ帝国によってユダヤ属州となります。総督の一人がポンティウス・ピラトゥス(Pontius Pilatus)です。

このような戦乱は多くのユダヤ人を海外に離散させる結果となります。いわゆる離散ユダヤ人(ディアスポラーdiaspora) です。Diasporaとは「散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉です。世界中にユダヤ人は「蒔き散らされ」ます。

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聖書の中の女性の生き方 その十八 「エジプト」

135704553148913115823_kaidokuhyou pyramid_by_flucid-dah6yq9 pyramiddatepalms古代では、所有物扱いをされていたのが女性です。人質、側女、女郎、、、性の奴隷といえます。誠に女性には生きにくかった時代だろうと察します。ですが当時の文化や風習を乗り越えるほどの意志が強い女性がいたのも事実です。その舞台となった二つの国、エジプト (Egypt) とイスラエル (Israel)の歴史を振り返ることにします。

エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成していたというのですから驚きです。ピラミッド (Pyramid) や岩窟墓群である王家の谷、聖刻文字と呼ばれるヒエログリフ(hieroglyph)などを通じて、人類の文明史の歴史観でいわれる世界四大文明発祥の一つとして発展してきました。教科書にはメソポタミア文明 (Mesopotamia)、インダス文明 (Indus)、黄河文明 (Yellow River)、そしてエジプト文明 (Egypt) とあります。すべて大河の流域で発展したところです。

エジプトとイスラエルの歴史はなかなか複雑です。多くの争いの渦中にあって人々はしぶとく生きてきた歴史があります。旧約の時代、アブラム(Abram)とサライ(Sarai)はユダヤの地が飢饉におそわれたとき、一族と家畜を連れてエジプトへ逃れたことがあります(創世記12章)。

エジプトの国力の基礎はナイル川(Nile) 流域とデルタ広がる豊かな穀倉地帯です。経済的な豊さと政治的な安定は世界中から人々の移住をもたらしたといわれます。何世代にもわたってエジプトに移住したイスラエル人も多く、古代イスラエルの民族指導者といわれたモーセ (Moses) に率いられたユダヤ人がファラオ(Pharaoh)が王のとき、エジプトを脱出したこと(Exodus)も出エジプト記で知られています(出エジプト記13-14章)。後に、ヨセフとマリアもイエスと連れてヘロデ王(Herod)の迫害を避けて一時エジプトへ避難したこともあります。

エジプトはその経済的な豊かなのゆえに、周りの国々からの侵攻を受けます。リビア (Libya) 、アッシリア (Assyria) 、スキタイ (Skythai)といった古代国家です。そのため北アフリカやアジアに対する支配力の弱体化を招きます。新興国であるバビロン (Babylon)の攻撃、そしてペルシャ (Persian)帝国による占領と属国化など幾多の変遷を辿ります。当時最も豊かであった国も他国の侵略には抗することができない時代がやってきます。

その後のエジプトの近代と現代は、植民地主義という国家主権の対外的拡大と富の収奪に翻弄される歴史です。

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聖書の中の女性の生き方 その十七 「万人祭司」

106154 theprieshoodofallbelievers 111355旧約聖書の時代の女性は、男性優位の伝統と文化にあって辛い地位にありました。その中でも男性に伍して傑出した指導者や預言者、そして家長のように家族をとりしきった女性がいたことを既に紹介しました。エリザベート(Elizabeth)、レベカ(Rebekah)、デボラ(Deborah)などの女性です。あたかも祭司のような役割を担った女性です。そうした女性の存在は今に至るまで宗教の世界にも及んでいます。

あまり聞き慣れない言葉かもしれません。それが「万人祭司」(the priesthood of all believers) です。「万人祭司」とは、プロテスタント教会の根本的な教義の一つのことです。その原典は新約聖書の聖句にあり、すべてのキリスト者が祭司であるというキリスト教の教えのことです。

宗教改革者(Ecclesiastical reformer)といわれたマルティン・ルター(Martin Luther)は、1520年その著書「ドイツのキリスト者貴族に与える書」 (To the Christian Nobility of the German Nation) の中で、神の目からみれば、キリスト者がすべて「祭司ーPriest」であると主張したのです。

ルターが「万人祭司」の考え方の根拠とした聖句は、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の庇護にある民です(第一ペテロ2:9) 」です。
‘You are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, God’s special possession.

さらに、「私たちの神のために、この人々を王国とし祭司とされました。彼らは地上を治めるのです(黙示録5:10)」という箇所も「万人祭司」とか「全信徒祭司」という考え方の根拠となっています。

ルターがなぜ「万人祭司」ということ主張したかには理由があります。中世カトリック教会には、ローマ教皇によって叙任された「聖職者」が神とつながり、一般の信徒は聖職者を通してのみ神につながると考えられていたことです。さらに「霊的」(Spiritual) と「世俗的」(Secular)という二つのグループにキリスト者が分けられていると考えていたのがカトリック教会でした。彼はこうした教条的なあり方を批判します。

「祭司」ですが、初代キリスト教会では長老(Elder、Presbyter)、監督教会や聖公会では司祭(Priest  Clergyman)、メソジスト(Methodist)やバプテスト(Baptist)教会では牧師(Pastor, Minister) という名称を使います。

宗教改革後のプロテスタント諸派には「聖職者」との呼称や役割は存在しないとして、祭司は、教役者とか教職者としての意味で使われ、教会の指導にあたるとされます。

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聖書の中の女性の生き方 その十六 「エバ」

139 b0140046_42382 adam_and_eve_expelled_from_paradiseまたの名をイブ(Eve)。彼女は旧約聖書の最初の書、創世記 (Book of Genesis) に出てきます。 創造という神話のような世界ですが、最初に登場する女性がエバです。イスラムの世界では、彼女はアダム (Adam) の妻とされます。Eveという名は、生きもの (living one)とか 命の源(source of life)という意味です。ヘブル語の「Eve」 とはアラビア語の蛇(snake)に類似するというのですから興味あることです。

創世記によりますと、神は最初の人間アダムを土の塵から造ったとあります。アダムとはヘブル語の「Adama」、「土」という意味です。最初の男女の一組を「神にかたどって創造した」というのです(創世記1:27)。「神にかたどって」とはどのような生きものも大切な存在であり、神の豊かさを現す必要があるということです。これが聖書の人間観です。他方、バビロニア人 (Babylonians)は、人間は神の奴隷であると考えます。聖書では人間は被造物の支配者として描かれます。

神はエデンの園(Garden of Eden)でアダムを眠らせそのあばら骨から女を作ります(創世記2:22)。神はアダムとその妻エバに「産めよ、増やせよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地に動く生き物をすべて治めるよ」と命じます(創世記2:28 )。エデンの園には命の木と善悪の知識の木という特別な木が生えています。不幸にもアダムは蛇の嘘を信じたエバから禁断の実(Forbbiden fruit)をもらいそれを口にします(創世記3:6 )。ために子孫は死すべき運命を背負うとされます。これが原罪 (Original sin)で、やがて人間は原罪で苦しめられていきます。

エバを誘惑した蛇を断罪した神は次にエバに対して二つの罰を科します。出産の際に苦しむこと、夫によって支配されることです。アダムもまた死すべき運命と、報われない厳しい肉体労働を宣告されます(創世記3:16-19 )。

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聖書の中の女性の生き方 その十五 「サラ」のその後

michelangelo_buonarroti_020 images noahペルシャ湾 (Persian Gulf) の近くのウル(Ur)で生まれたアブラハムはノアの方舟(Noah’s Ark) で知られるノアの子孫です。異母兄弟であったサライ(Sarai)と結婚します。やがて「サラ(Sarah)」と呼ばれることについては以前述べてきました。

創世記12:1には「わたしが示す地に行きなさい」とあります。この地とはパレスチナ(Palestine)のカナン(Cannan)でありました。こうして神はアブラハムにパレスチナを与えると、富、名声、子孫を約束します(創世記12:3)。

アブラハムとサラは高齢になりますが、子供が生まれません。当時の習慣にそって僕に家を継がせようとします。サラの意見に従ってアブラハムは、サラのエジプト(Egypt) 人女奴隷であるハガル(Hagar)を側女に迎えます。そしてイシュマエル(Ishmael)が産まれます。神はアブラハムに対してイシュマエルは約束した子孫でないと告げます。やがて高齢のサラも妊娠しイサク(Isaac)を産みます(創世記21:2-3)。

サラが跡取り息子のイサクを産んだので、アブラハムにハガルとイシュマエルを一族から追放するよう願い出ます。そのときアブラハムは86歳でした。その後、アブラハムは神からの試練を受けます。イサクを捧げ物とするようにアブラハムに命じますが、最後の瞬間に止めさせ、代わりに雄羊を捧げさせます(創世記22:12-14)。

サラが127歳で亡くなると、アブラハムは再婚しイサク以外に妻や側女との間に子を儲けます。彼が亡くなったのは175歳とあります(創世記25:7)。

後年、サラの側女ハガルに対する扱いが虐待のようであったという説があります。またサラは自立した女性としても描かれています。一般にサラの性質を象徴する言葉として豊穣、忍耐、寛容があげられています。

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聖書の中の女性の生き方 その十四 「レベカ」

rebekah-isaac rebecca 65761_rbkah_welcm_mdアブラハム(Abraham)とサラ(Sarah) の息子イサク(Isaac)は40歳になっても一度も結婚していませんでした。そこでアブラハムは故郷の親戚から嫁を探すために、僕のエリエゼル(Eliezel)を送り出します。

彼はある町の近くまでくると次のように神に祈ります。

町に住む女達が井戸で水を汲みにやってきたとき、その内の一人の娘に、「水瓶を傾けて飲ませてください」と頼みます。彼女が 「どうかお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう」 と答えればあなたが、あなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによって、わたしはあなたが私に慈みを示されたのを知るでしょう。(創世記24:14)。

井戸にやってきた娘は、祈りの条件を全て満たします。これがレベカ(Rebekah)です。エリエゼルは高価な装飾品や金貨をその場でレベカに渡します。そして、一夜の宿を提供してくれるようレベカの頼みます。レベカはエリエゼルを自宅に招待し、エリエゼルはレベカの家族に自分がやってきた目的を語るのです。

レベカがイサクとの結婚に乗り気なのがわかると、エリエゼルと共に家族はレベカをイサクのもとに送り出します。やがてレベカは野原でイサクと出会います。始めてイサクを目にしたレベカはらくだを下りて、ベールを被るのです。

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聖書の中の女性の生き方 その十三 「デボラ」

Prophetess-Deborah-Judges-Women-of-the-Bible-e1349912955179 judges-910x390 053.Deborah_Praises_Jael箴言(Proverbs)31章10節にはデボラ (Deborah) は高貴な妻であり、士師記 (Judges)章5節には、ララピドス (Lappidoth)の妻であり預言者であると記されています。デボラはカナン(Cannan) の王ヤビン(Jabin)がイスラエルを統治していた頃の士師であるともいわれます。

あるとき、デボラはイスラエルの将軍バラク(Barak)に神がバラクがナフタリ(Naftali)とゼブルン(Zebulun)の部族を率いてセビンの軍隊を撃つように求めていると告げます。そして次のように言います 「セビンの将軍シセラ(Sisera)をおびきだすので、バラクは待ち伏せすればよい」(士師記4:6-10)。

士師記5章7-10節には次のように記されています。
「イスラエルには農民が絶え、かれらは絶え果てたが、デボラよ、ついにあなたは立ちあがり、立ってイスラエルの母となった。人々が新しい神々を選んだとき、戦いは門に及んだ。わたしの心は民のうちの喜び勇んで進み出たイスラエルのつかさたちと共にある。主を賛美せよ。」

そしてデボラはいいます。
「どのような知恵もどのような叡智も勧めも主の御前には無に等しい。戦いの日のためには馬が備えられるが、救いは主による。」

箴言の最終章である31章で、作者はデボラを次のような詩で飾ります。

高潔な妻、(Virtuous wife)、宝石以上の尊い女性、(Her worth is far above rubies)、貧しい者への慈悲(She stretches out her hand to the poor)、知恵ある言葉の持ち主(She opens her mouth with wisdom)、家事をとりしきる妻(She looks well to the ways of her household)。

デボラは「蜂蜜」という意味で、聖書には「イスラエルの母」と記されています。建国の父とか中興の祖と同じように尊敬の念がこめられています。

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聖書の中の女性の生き方 その十二 「エリザベト」

elizabeth Bowyer_Bible_artists_image_9_of_10._the_visitation_of_Mary_to_Elizabeth._Bonvicino%5B1%5D maxresdefaultエリザベト(Elizabeth)は洗礼者ヨハネの母として知られています。イエスの母、マリアの従姉妹でもあります。夫は祭司であるザカリア(Zacharias)です。

Elizabethという名前はポピュラーです。Elisabethともいわれます。Wikipediaによりますと、Elizabethはもともとヘブライ(Hebrew)語名のエリシェバ (Elisheba) がギリシア語に転じたものでエリシェバのエリ(Eli)はヘブライ語で「わが神–My God」、シェバ(sheba) は「誓い–sworn」を意味し、エリシェバとは「わが神はわが誓い」と解説されています。

エリザベトがヨハネを身ごもったとき、従姉妹のマリアが訪ねてきます。そのとき、エリザベトの「胎内の子がおどった」とあります(ルカ1:41)。エリザベトは聖霊に満たされマリアに「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」と告げます。(ルカ1:42−45)

彼女はローマカトリック教会や東方正教会(Eastern Orthodox Church)、聖公会(Anglican Church)では聖人として崇敬されている女性です。また、妊婦の守護聖人ともされています。東方正教会は9月5日、ローマカトリック教会は11月5日を祝祭日としているくらいです。

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聖書の中の女性の生き方 その十一 「サロメ」

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新約聖書の中には、悪女とみなされる女性も登場します。サロメ(Salome)です。サロメはヘロデ・アンティパス(Herod Antipas) 王の継娘です。イザベル(Jezebel)という女性もそうです。彼女はイスラエル王国のアハブ王(King Ahab)の王妃です。イスラエルの神、支配者としてバール(Baal)を信仰した女性です。Jezebelとはヘヴル語で「不貞」とか「糞の山」という意味だそうです。

さて、紀元前37年頃から、パレスティナ・ユダヤ(Palestine-Judea)地区に成立された国家はヘロデ一家による支配によるもので、ヘロデ朝(Herodian Dynasty)と呼ばれます。ヘロデの孫娘にヘロディア(Herodias)がいました。彼女は最初は王位継承者であるヘロデ二世のポエトス(Poetos)と結婚しますが、ポエトスは暗殺されます。そして叔父であるヘロデ・フィリポ(Herod Philip)と結ばれます。その間に生まれたのがサロメです。

このように姻戚結婚を繰り返すヘロディアに対して洗礼者ヨハネ(John the baptist) はモーセ(Moses) の律法に反するとして非難するのです。ヨハネは民衆に人気があり、ヘロデは不人気でした。そこで反乱を恐れたヘロデはヨハネ投獄するのです。

ヘロデの誕生祝いの席で、ヘロデはサロメに列席者の前で踊りをさせます。喜んだヘロデは、酔ったあげくサロメが望むものならなんでも与えると叫びます。サロメの母、ヘロディアは、盆に載せたヨハネの首を求めるようにサロメにいいます。衆人の前で宣言したヘロデは約束を破るわけにいかず、ヨハネの首をはねるように命じるのです。この様子はマタイによる福音書14章(Matthew 14)に記述されています。

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聖書の中の女性の生き方 その十 女性の執事の「プリスキラ」と夫のアクラ

RH-PaulMakingTents_DSC_0050 aquilabella2taglioultralight AandPパウロ(St. Paul) が始めた教会では、女性にいろいろな役目があって、教会の前でみ言葉を取り次ぐ役目さえも女性が果たしていました(第一コリント11章5節-1 Corinthians 11:5))。この教会の中には、寡婦と年とった女性に、特別なディアコニア(diaconia)という奉仕や介護がありました。伝道師アクラ(Aquila) の妻プリスキラ (Priscilla)はパウロの同労者であり、友達でもありました(ローマ書16章3節-Romans 16:3)。この女性はまた、すぐれた執事でもあったようです

まずローマ書16章に出てくるプリスキラとアクラの二人についてです。パウロは、最初にこの二人に会ったのはコリントの教会でした。テモテへの手紙第一(1 Timothy)にもでてきます。やがてこの二人がローマの教会で働き、パウロを助けるのです。新約聖書の中で何度も出てくるのがこの夫婦です。使徒行伝18章2節(Acts 18:2) には、アクラはポント(Pond)生まれのユダヤ人で職業は天幕作りであったと記されています。プリスカもおそらくユダヤ人でしょう。パウロもまた天幕を作る仕事をしていた。天幕は山羊の皮と毛で作られました。プリスキラとアクラと一緒に天幕で暮らしていたと思われます。

ローマ書16章3節の言葉です。
「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスキラとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」

その他の女性の執事に関する記述ですが、ピリピ人への手紙4章(Philippians 4:2-4)では、ユウオデヤ (Euodia)とスントケ(Syntyche) という女性の同労者の名前が出てきます。この女性たちは福音を広めるためにパウロと協力して戦った、とまで書いてあります。伝道のわざに励んだ女性だったことがうかがわせます。

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聖書の中の女性の生き方 その九 男性優位の社会

76c700313538d1588f0d706f1972dfa4-400x400 e0011664_21492687 1852556-神聖な聖書勉強の女性聖書は登場する人物が描かれた書といわれます。時間を軸とした歴史書のような記述ではありません。よく知られた人物もいれば、なにをしたかがはっきりしない人々も登場します。

旧約時代も新約時代も共通することですが、女性は男性優位の社会にあって時に虐げられ、産みの苦しみを経ても、いつも家族を形成する中心でした。生きることのしたたかさや力強さを伝える存在でもあります。このブログで女性を取り上げている理由は、私たちの興味をかきたてるに十分な特徴と魅力を持った存在であることです。

こうした女性は後世の人々の想像の世界で生き続けただけでなく、芸術という創造のうちに生き続ける存在でもあります。フレスコ画や音楽に、彫刻やステンドグラスに、散文や韻文に残されています。こうした芸術作品が私たちの女性についてのイメージを豊かにしています。

ここで取り上げている女性は人名事典ではなく、人名の索引を少し膨らませた私の「好み」によって選ばれています。聖女といわれるマリア(Maria)もいれば、悪女といわれるサロメ(Salome) もいます。共通することは、どの女性も個性的であり真摯な生き方をしていたということです。

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聖書の中の女性の生き方 その八 女性の按手

Anglicancanada.rel ordinationhands ORD38T按手 (Ordination) はキリスト教会で行われる儀式の一つです。教役者・教職者を任命するとき、司教や監督などが牧者としての権能や必要な賜物を志願者へ授与しその継承を神に誓うことです。もちろん他の宗教も同様な儀式を執り行い、新しい霊的な指導者の出発を祝います。

多くのキリスト教会はいまだに女性の教職を認めていません。この伝統は長らく議論されてきました。その根拠は聖書のいくつかの箇所にある言葉によります。例えば、パウロの手紙は言います。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」 (エペソ人への手紙5章21節) さらに「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい」。キリスト教徒は、皆が互いに従わなくてはなりませんが、男性は女性のかしらとされています。女性は特に男性に従わなければならない、といった言葉です。

なにか男女の序列を聖書は主張しているようですが、そうではありません。かしらの頂点には神があり、人間はその下で秩序を形成しているというのです。戸籍にある筆頭者と考えればよいでしょう。あるいは世帯主ともいってよいでしょう。この両者には違いがありますが、、、教会の大事な役割や仕事を女性に任せることはできないという考えは聖書にはありません。

性別に関係なく「全ての人が生ける石となって祭司とする」と教えられています(ペテロの手紙第一2章5節)。既述してきましたが、旧約聖書や新約聖書の他の箇所でも女性が教会の中で活躍しており、教職者への召命は全ての人に臨む可能性があるということから、女性も教職者として召されると考えるべきであるという考えが浸透していきました。

1853年にイングランド(England) において女性が初めて按手礼を受け、遅れること1933年には日本基督教会が女性の牧師を誕生させます。スウェーデンルーテル教会(Swedish Lutheran Church)は、1958年に女性牧師を按手します。1989年にはマサーチューセッツ(Massachusetts)の聖公会(Anglican Church) が最初の女性主教として按手されます。イングランド国教会(Church of England) では、1994年に女性司祭の叙任が認められ、その後数百人の女性司祭が誕生しています。イングランド国教会は聖公会のことです。

旧約聖書時代では、女性は祭司になれませんでしたが、キリストを信じる者は男女を問わず万人祭司 (Priesthood of all believers)とされます。女性も洗礼を受けることができるようになりました。男尊女卑を撤廃したのは、長い神学論争がありましたが、最後は聖書の教えである神と人間との秩序が、女性に自由と平等をもたらしたといえます。

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聖書の中の女性の生き方 その六 女性の執事「フィベ」

Deaconess-Ministry--element60 3382718003_1623cf6c00 deacon-and-deaconess-clipart-1新約聖書の中に、次のような神と人との順序に関する記述があります。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(第一コリント人への手紙11章3節)。この手紙はパウロ(St. Paul) がコリント(Corinthian) の人々に送ったものです。

コリントは、紀元前5世紀頃にはギリシアの三大都市国家といわれました。アテネ(Athens)やスパルタ(Sparta) と並ぶ古い港湾都市です。今回は、コリント地方のケンクレヤ(Cenchrea)にあった教会の働き人で、女性の執事 (deaconess)  であったフィベ (Phoebe)を取り上げます。ケンクレヤはギリシャのコリントの南東にある町です。

「女のかしらは男であり」というフレーズは、いろいろな議論や誤解を生んできました。旧約や新約聖書の時代には、こうした男女の関係が存在して秩序が保たれていたように思われます。後年、男女平等とかウーマンリブにも影響を与えました。神とキリストに上下関係がないのと同じように、男と女の上下関係を決定するものではなく、役割を示唆した言葉ということを示唆しています。

教会には司祭とか牧師といった聖職者あるいは教職者がいます。神学教育を受けて按手(ordained)された人です。按手とは、教職者の権能や役割を志願者へ授与し、教職者として任命する儀式のことです。聖書の講解、結婚式や葬儀などの式典を担う人です。こうした人は、聖書の神と人の順序の記述にあるように、男性に限られてきました。

教会は教職者だけでなく、それを補佐する者、教会教育や音楽、書記を担当する者などから構成されます。この教職者を補佐する者は「執事」(deacon) と呼ばれています。女性もまた執事(deaconess) として奉仕します。「執事」という言葉は「しもべ」(servant) 、「仕えるもの」を意味するギリシャ語の「diakonos」から由来しています。

ローマ人への手紙やピリピ人への手紙には、パウロが教会で働く女性にあいさつの言葉を送っています。特に、ケンクレアの女性執事、フィベを歓迎するようにということをローマのキリスト教徒に頼んでいます。パウロにとって助けになったとさえ書いてあります(ローマ書16章1節)。

パウロはいいます。「どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」

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聖書の中の女性の生き方 その五 マリアの賛歌

pontius_pilate Pontius-Pilate 0カトリックであれプロテスタントであれ、最も見られる名前はマリア(Maria)とかメアリー(Mary)でしょう。Mariaという名前はラテン語から由来するといわれます。ギリシャ語ではMariam、ヘヴル語ではMiryamというように使われます。いずれもMariaの類似語です。イングランドでは12世紀以来、Maryの名が最も使われ、その最盛期は16世紀といわれます。

男性の名前でもMariaは大きな影響を与えます。例えば、Marioとか Marionという名前はMariaから由来します。ともあれ、今も最も命名される女性の名前がマリア、Mariaです。ついでに男性といえばヨハネ、Johnといえるでしょう。

Mariaの由来であるMariamとかMaraという言葉です。その意味は苦悩とか苦い水(bitter water)、つまり荒野の旅の果てにたどり着いた死海の苦い水、「Marah」ということだそうです。辛いこととは困難、悲しみ、試練といったことです。マリアもまたその後、幾多の試練に直面します。処女にして懐妊するという出来事、周りの人の目、そしてイエスを生むという重圧に耐えていきます。

イエスがベツレヘム(Bethlehem)で生まれたのはジュリアス・シーザー(Julius Caesar) の養子であった初代ローマ皇帝のアウグストゥス(Augustus)の治世でした。ユダヤの国はローマ帝国の属州であり、エルサレム(Jerusalem) の周辺はローマの総督であったポンティウス・ピラト(Pontius Pilatus)によって統治されていました。ガリラヤ (Galilee)地方は傀儡の王が治めていました。ローマ帝国の支配に対する苛立ちが広まり、民は圧政から解放されることを待ち望んでいたのです。ガリラヤはマリアが天使ガブリエル(Gabriel)から受胎告知を受けたところといわれます。

ルカによる福音書1章46節から50節は「マリヤの賛歌」ーマニフィカート」と呼ばれる有名な聖句で、「マニフィカート」はラテン語でMagnificatと記されます。マリヤの賛歌の冒頭にでてくる“My soul magnifies the Lord.“にある「magnifies」、讃える、崇める、誉むという言葉からきています。マリヤの賛歌は「マリアのカンティクム」 (Canticle of Mary) ともいわれます。Canticleとは賛美歌とか聖歌という意味です。

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聖書の中の女性の生き方 その四 「マルタ」

2fec502f6b548aac5cbbe1fb2404174e img_mouseover3 Martha_and_Mary_by_He_Qi_China新約聖書のルカによる福音書に登場する女性にマルタ (Martha) がいます。イエスと弟子たちが、ベタニア (Bethany)という村にマルタとマリアという姉妹の家を訪ねます。この姉妹にはラザロ(Lazarus)という兄がいます。重い皮膚病を患っていました。ベタニアはエルサレム(Jerusalem)の東2キロ余り、オリーブ山(Mt. Olive) の南東斜面に位置しています。

Marthaとはラテン語では「婦人」とか「女主」といった意味です。マルタとマリアの性格は違います。マリアはいわゆる内向きなのに対してマルタは積極的な性格の持ち主です。

あるときイエスがベタニアを訪れます。マルタとマリアはイエスの来訪を喜びます。マルタは、イエスと弟子達のために甲斐甲斐しく世話をします。ですが、妹のマリアはイエスの足許に座り、イエスの話しに熱心に聞き入っいました。姉のマルタは心穏やかではありません。マリアが手伝ってくれないからです。

マルタはだんだんと苛立ってきます。そして、ついにイエスにその不満をぶつけてしまうのです。

「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)

マルタは、イエスはマリアの怠惰を諫めてくれると期待したようです。ところが、イエスはマリアではなく、マルタに向かって次のように言われます。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41-42)

兄のラザロが亡くなったとき、マルタはイエスに言います。
「主よ、あなたがここにおいででしたら、兄は亡くならなかったでしょう。」(ヨハネ11:20-21)

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聖書の中の女性の生き方 その三 「マグダラのマリア」

top10_conspiracy_jesus images MM Full Relief hi res新約聖書(New Testament) の中には、話題となる女性もいます。その一人がマリア(Maria)です。ガリラヤ湖(Sea of Galilee)沿いの町マグダラの出身であるために「マグダラのマリア」(Mary of Magdala) と呼ばれたといわれます。

マグダラのマリアについて四つの福音書が記述することは、七つの悪霊をイエス (Jesus) に追い出していただき、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたとあります。そして、復活したイエスに最初に立ち会ったのがマリアです。「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから触れないように」 と言われたのです。マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人であるとされます。

しかしながら、マグダラのマリアには別な解釈もあります。ヨハネによる福音書(Gospel of John) 第8章3節以下に次のような記述があります。マグダラのマリアらしき女性ではないかという説です。

「イエスを試すために、律法学者たちやファリサイ派(Pharisees)の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。律法では石打ちの死刑に値する。イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。」

ルカによる福音書(Gospel of Luke) 第7章37節にもマグダラのマリアらしき女性が登場します。

「この町に一人の罪深い女がいた。イエスが律法を重視するファリサイ派 の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」

この女性がどのような罪を犯したのかはわかりません。ですが性的不品行と説明されてきたようです。しかし、彼女は罪から悔悛したことが使徒ヨハネやルカの記述から伺えます。マグダラのマリアはカトリック教会、東方正教会 (Eastern Orthodox Church)、聖公会 (Anglican Church)、ルーテル教会などでは悔い改めた女性として聖なる扱いをされています。

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聖書の中の女性の生き方 その二 「サラ」

Foster_Bible_Pictures_0032-1 tumblr_inline_nvkf8xY6EP1ryni46_400 080624_sarasoju_torinin2004_edited創世記(Book of Genesis)に登場する一人の女性がサラ(Sarah)です。元の名はサライ (Sarai)です。ヘヴル語(Hebrew) で Sarahとは位の高い女性を指し、「プリンセス」とか「高貴な女性」と呼ばれていました。ユダヤ人の間ではSarahは「我等の母サラ」と呼ばれています。

彼女がアブラハム(Abraham)と結婚したのは、まだカルデア地方(Chaldea)のウル(Ur)に住んでいた頃です。カルデアとはメソポタミア (Mesopotamia)南東部に広がる沼沢地域の歴史的な呼称のことです。アブラハムの父であるテラ(Terah)の一族の移住に伴い、故国を離れてカナン(Cannan)の地へと向かいそこで定住していきます。しかし、カナンに大飢饉が起こり、サラとアブラハムはエジプト(Egypt) へ移住します。

創世記 23章1-20節には、サラは90歳で約束の子イサク(Isaac) を生んだとあります。神は、それに10年を加えて、サラは100歳まで生きたと言うのです。加えられた10年は、幼子イサクが立派な少年に育っていく期間で、母親の愛を必要とする大切な10年でありました。

やがて、妻サラが息を引き取ったとき、アブラハムはサラのために二つのことをしたといいます。一つは、サラのために悲しみ泣いたこと、もう一つはマクペラ(Machpelah)の洞窟に墓を買い、そこにサラを丁重に葬ったことです。「我等の母サラ」に対する別れの仕草です。

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