福沢諭吉の西郷観

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西郷隆盛は、幕末から明治維新にかけての日本史において、最もカリスマ的であり、かつ評価が分かれる人物の一人といわれます。彼に対する評価は多面的で、時代や立場によって大きく異なるようです。近代日本を築いた立役者として、維新の英雄として高く評価されています。軍事面での功績: 薩長同盟の締結、王政復古の大号令、そして江戸城無血開城など、決定的な場面で歴史に立ち会っています。

 江戸城無血開城は、後に明治新政府軍となる東征軍と旧幕府との間で行われた一連の交渉過程と江戸城の新政府への引き渡しのことです。徳川宗家の本拠であった江戸城が、同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから明治新政府軍の勢力が一層増すのです。戊辰戦争が新政府側に一気に優勢となる転機となった出来事です。幕府の使者山岡鉄舟の要請に応じた大総督府下参謀の西郷は彼との交渉に応じます。ここで初めて、東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされます。山岡の下交渉を受けて、陸軍総裁であった勝海舟と西郷との江戸開城交渉は、田町にあった薩摩藩江戸藩邸にて行われました。徳川慶喜は江戸城を退出して上野寛永寺で謹慎します。1868年4月、江戸城が東征軍に明け渡され 5月に慶喜は寛永寺から水戸へ隠遁するのです。

西郷隆盛と勝海舟

 特に江戸城無血開城は、戦火による無益な殺生を避けた慈悲深い決断として、今なお高く評価されています。「敬天愛人(天を敬い、人を愛する)」の精神を掲げ、地位や名誉に執着しない姿勢は、多くの人々に尊敬の念を抱かせています。明治政府において廃藩置県をはじめとする重要な改革を主導し、近代国家の基礎作りに貢献しました。

 しかし、明治政府から離脱し、西南戦争の指導者となったことで、別の側面からも評価されています。明治政府の急速な近代化や士族の困窮に対して、政府を去った後の彼は、いわば「時代の抵抗者」としての性格を強めました。西南戦争で敗死したことで、権力から脱落した悲劇の英雄というイメージが定着しました。にもかかわらず敵対した勝海舟でさえ「怖い」と評したほどの圧倒的な存在感や人間的魅力は、多くの弟子や従者を引きつけました。彼が故郷の鹿児島に開いた「私学校」は、彼を慕う多くの若者たちの拠点となりました。

 福澤諭吉の西郷観は興味あります。彼の著書の一つに「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」があります。この本は西南戦争で明治新政府に反抗した西郷隆盛を弁護する内容となっています。序論において、福澤は政府が専制になるのは当然の事とし、これに「抵抗する精神」の重要性を説くのです。さらに、「今、西郷氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にするところあれども、結局その精神に至ては間然すべきものなし」、つまり西郷隆盛は武力で政府に抵抗した点で、自分とは考えが異なるが、その抵抗の精神においては非難すべきものはないと述べて、武力で政府に反抗した点は評価しないにしても、西郷隆盛の「抵抗の精神」を賞賛するのです。

 また、政府が西郷の官位を剥奪した途端に、新聞が一斉に非難を始めたことに対して、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べて、新聞の論調が誹謗中傷の一色になったことと、それに迎合する世論に対して反論していくのです。さらに、「そもそも西郷は生涯に政府の顛覆を企てたること二度にして、初には成りて後には敗したる者なり」、すなわち「西郷は生涯に政府の転覆を2度企てて、最初の明治維新は成功し、2度目の西南戦争では失敗した者である」として、西郷を明治維新の功労者であり忠臣として賞賛します。同時に西南戦争の首謀者であって逆賊として非難することは、ダブルスタンダードであると非難するのです。彼の死後、明治政府は彼を逆賊から「正三位」という高位へと名誉回復せざるを得ませんでした。

 最期に、「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや」、すなわち「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみます。いつかこの人物を明治政府の要人として起用する時もあったはずであると結んでいます

参考文献
 ・丁丑公論 福沢諭吉 時事新報社 1901年

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幕府の終焉と小栗の最期

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アメリカ視察で圧倒的な国力の差を痛感した小栗上野介は、「日本も自前で艦船を修理し建造できる施設を持たなければ、独立は保てない」と考えます。当時の幕府は財政難にあり、莫大な予算の確保は困難を極めます、小栗は「たとえ幕府が滅びても、この施設さえ残しておけば、次の住人がそれを使って国を豊かにできる」と説得し、約240万ドルという巨額の予算を認めさせました。視察の結果、波が静かで水深があり、防御にも適した地形を持つ横須賀が選ばれます。

 慶応4年、1868年に王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と幕府軍との戊辰戦争が起こります、小栗は新政府軍に対して「徹底抗戦」を主張します。彼は、幕府が保有する最新鋭の戦艦「開陽丸」とフランス式陸軍を駆使し、新政府軍を駿河湾で挟み撃ちにする作戦を立てていましたが、将軍徳川慶喜に却下され罷免されます。徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、罷免されて領地である上野国群馬郡権田村、現在の群馬県高崎市倉渕町権田に隠遁します。同年4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出しますが逮捕され、翌日、斬首されます。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという徳川埋蔵金説などが挙げられますが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていません。

 「逆賊」とは明治政府軍が小栗忠順を殺害したあと貼ったレッテルです。小栗忠順は逆賊だから殺されたのではあありません。西軍が殺した人物をすべて「逆賊」としてきた明治政府は、逆賊だからとして教科書に名前も業績も載せませんでした。むしろ殺されて当然の扱いをしてきた歴史があります。

右端が小栗上野介忠順

 明治維新は、尊王攘夷を掲げた革命です。尊王攘夷とは、幕末に盛んになった政治運動で、「天皇を尊び、外国勢力を排除(攘夷)する」という意味です。天皇を中心とする新しい尊王という秩序を確立し、外国の脅威から日本を守る攘夷という、幕府に頼らない自律的な国作りを目指した思想です。尊王攘夷とは、13世紀におこった朱子学の言葉から得たスローガンです。朱子学においては中国の儒教文明の優位をたかだかに掲げ、物事を善玉、悪玉とに分けてすべてを概念化したのです。つまり儒教にあらざるものは夷である、夷は悪であるという思想です。小栗はいわばこのスローガンのもとに不忠者、謀反人に仕立てられたのです。日本の近代化を目指すという大功に着手しながら、賊名を着せられたというべきでしょう。

 後に、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎からは近代化政策を行った人として評価されています。明治大正の政界や言論界の重鎮であった大隈は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれます。激動期の幕末に、類い希なる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、司馬遼太郎の「明治国家の父の一人」という指摘に表れています。

参考文献
 ・明治という国家「上」 司馬遼太郎 NHK出版 1994年
 ・小栗上野介と横須賀 横須賀市 平2019年

フランス人技師ヴェルニーの貢献

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小栗忠順はフランスの援助を受けることを決め、若き天才技師といわれたレオンス・ヴェルニー(Léonce Verny )を招聘しました。ヴェルニーは当時27歳でした。小栗はその才能を信じ、製鉄所の設計から運営、さらには技術者の育成まで一切の権限を彼に委ねます。二人の間には、単なる雇用関係を超えた強い信頼が生まれました。

レオンス・ヴェルニー

 ヴェルニーは1856年にパリの理工系高等教育機関(リセーlycée)に入学します。この機関は、高等技術者を要するための学校で、フランスでは技術者養成機関の頂点にあるといわれました。1858年に海軍造船学校に進み、造船工学、造船技術を習得します。25歳で⒉等造船技師の資格を取得、その後造船技術者としてフランス海軍にはいります。その後、中国の寧波で造船業務に赴きます

 江戸幕府は江戸近郊に造船所を建設するための支援をフランスに要請します。この計画を建議したのは、当時、勘定奉行を務め、横須賀製鉄所の建造に尽力した小栗上野介忠順です。当時、フランスは東洋への進出に出遅れていたため、フランス公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)はこの要請を受けます。ロッシュは寧波にいたヴェルニーに託すのです。やがてヴェルニーは、建設計画をたてそれに基づいてロッシュは日本とフランの間で横須賀製鉄所の建設に関する契約をとりかわしまし。その建設費は当初240万ドルと見積もられました。このことがきっかけとなり、ロッシュは幕府寄りの立場を取るようになります。また、新任の英国公使ハリー・パークス(Harry Smith Parkes)への対抗意識もあり、内政不干渉を建前とする英国とは異なり、フランスは積極的に幕府を支援していくのです。

 ヴェルニーは、日本で初めて本格的にメートル法を用いて設計をしていきます。さらに職人の世界だった建設現場に、西洋式の勤務時間、休暇制度、そして能力に応じた賃金体系を導入します。当時、日本では日曜日の習慣がなかったので、日曜日でも就業する日本人にフランスの技術者らは困惑したようです。近代的な時間の観念がなかった日本人のルーズさにもてこづったといわれます。帳簿の付け方を学ぶことで近代的な帳簿の管理できるようになります。ヴェルニーは「日本人の手で運営できるようにする」という小栗の意向を汲み、敷地内に学校を設立します。技術者養成機関の設置です。そこでフランス語や数学、物理を教え、後の日本のエンジニアの先駆けとなる人材を育てました。

ヴェルニー記念館のスチームプレス機

 横須賀は江戸に近く、波浪の影響を受けにくい入り江である上に艦船の停泊に十分な広さと深さを備えた海面があり、泊地として良好な条件を備えていたのです。それが造船所や製鉄所を含む同施設の建設地として横須賀が選ばれた理由です。横須賀ではフランス人達が驚くほどのスピードで造成が進められ、入り江が埋め立てられ山が切り崩されます。ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者の先頭にたって工事を指揮していったのです。

 埋め立て工事は順調に進み、1867年には一番の大工事であった1号ドックの開削工事が始まります。横須賀製鉄所は、小栗の処刑後も明治政府によって引き継がれ、日本の工業化の「母体」となりました。「工場の工場」として機能し船を作るだけでなく、そこで使う工具やボルト、ナット、さらにはレンガを焼くための窯まで自前で整備していきます。なかでも熱した鉄をたたいて形を整えるスチームハンマー、鉄を削る先晩や穴をあけるドリルなどの大型工作機械は、現在も国の重要文化財に指定され、JR横須賀駅前にあるヴェルニー記念館に保存されています。ヴェルニーたちは、パン、石鹸、レンガ造りの建物などフランスの生活習慣も持ち込みます。その意味で横須賀はまさに、日本の「近代」が誕生した場所の一つだったと言えます。
    参考文献  ・ヴェルニーと横須賀  横須賀市 平成20年

勝海舟と国民国家思想

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勝海舟のことです。幕府は洋式海軍をおこすべく正式にオランダに海軍教師団の派遣を要請します。やがて1857年に教師団がやってきます。その団長がウイレム・ホイセン・カッテンディーケ(Willem Huijssen van Kattendijke)と言う中佐でした。カッテンディーケは、徳川幕府が発注した軍艦ヤーパン号、後の咸臨丸を長崎に回航した武官です。幕府が開いた長崎海軍伝習所の第2次教官となります。彼の貢献は、勝海舟、榎本武揚などの幕臣に、航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を精力的に行ったことです。

ウイレム・ホイセン・カッテンディーケ

 勝は既に江戸でオランダ語を学んでいました。幕臣とともに、カッテンディーケの生徒として勝も選ばれるのです。若い海軍士官のカッテンディーケの回想路によれば、勝はオランダ語を非常によく理解し、そして聡明な人間であり、さらには真の革新派の闘士というように非常に強い言葉でほめています。勝は、オランダの憲法を学ぶ機会に浴し、オランダの市民国家思想を学んでいきます。

 日米修好通商条約批准のため、1860年に幕府から遣米使節団がおくられることになります。使節団は米国海軍フリゲート艦のポーハタン号(Pawhatan)に搭乗して太平洋を横断することなります。勝はこれとは別に、日本の国威のために、日本人の操船による随行艦を派遣すべきだと運動し、長崎時代の練習船咸臨丸の艦長として勝は太平洋を横断することになります。

彼がアメリカで最も衝撃を受け、深く学んだのは技術的なことよりも、むしろ「社会の仕組み」や「民主主義」のあり方でした。彼はアメリカから戻り、老中に呼ばれます。そして「アメリカと日本はどういうところが違うのか」と問われます。勝は「アメリカは日本と違って偉い人が上にいます」と答えるのです。老中らの苦虫を噛む姿が浮かびます。日本では徳川将軍家のような家柄が絶対視される時代でした。ジョージ・ワシントンの子孫のことを聞くと、アメリカでは初代大統領の子孫であっても特別扱いはされず、一市民として生活していることを知るのです。この事実に勝は「身分よりも実力や個人の自立が優先される社会」の有りようを強く意識したようです。「徳川家という私的な組織」が日本を支配している状態から勝はアメリカを視察して、政治は「日本全体」、「公」のためにあるべきと考えていくのです。

戊辰戦争での薩摩軍兵士

 勝は幕府の家臣でありながら、「幕府を守る」ことよりも「日本という国を守る」ことを優先しました。彼の最大の功績は、1868年の戊辰戦争において、官軍の西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現させたことです。戊辰戦争とは慶応4年1868年から1869年にかけて、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧幕府陸軍・幕府海軍が戦った日本近代史上最大の内戦と呼ばれます。新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅していきます。この内戦において、欧米などの諸外国は局外中立の立場であったが、フランスのレオン・ロッシュ公使(Léon Roches)などが個人的に旧幕府側を支援していました。

 勝は諸藩が対立する中で、幕府・朝廷・諸藩が統一して欧米列強に対抗すべきであるという「公議政体論」に近い考えを持っていたといわれます。彼のこの広い視野に、敵対していた坂本龍馬や西郷隆盛らが勝に心酔したのは、敵味方の垣根を超えた「橋渡し役」として役割を果たしたからでしょう。勝は維新後も参議、海軍卿として、後の海軍大臣などを歴任しました。

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勝海舟と西郷隆盛との対比

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司馬遼太郎からみた小栗上野介の勝海舟と西郷隆盛との対比は興味あることです。司馬は、勝海舟を「時代を泳ぐ政治家・策士」とするなら、小栗は「実務を積み上げる技術者・構築者」であったと評します。司馬は勝の柔軟さを認めつつも、実務能力では小栗が圧倒していたとみています。次に、西郷隆盛との対比です。西郷を「情緒と徳の人」とするなら、小栗は「論理と数理の人」と評価します。明治新政府が西郷的な情緒を削ぎとり、小栗的な官僚機構へ移行していく過程を司馬は冷静に記述しています。司馬にとって小栗上野介は、「不運にも時代に殺されたが、近代化の構想という魂は後の日本を支配し続けた人物」という、非常に敬意を払う描き方をしています。

勝海舟

 1860年の万延元年に小栗は遣米使節団に加わります。日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府が派遣した使節団の「目付」いわゆる監察役としてです。当時のアメリカ大統領ブキャナン(James Buchanan)への謁見や、造船所・工場などの視察を通じて、身分制度に縛られない実力主義や、効率的な経済システム、軍事組織のあり方を深く学びます。帰国した小栗は、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行といった要職を歴任し、破綻寸前の幕府財政を支えながら、猛スピードで近代化を推し進めました。

 小栗の最大の功績は、日本近代工業の礎となる「横須賀製鉄所」の建設です。フランスの支援を得て、現在の横須賀海軍施設内に「横須賀製鉄所」、後の横須賀造船所を建設したことです。単なる造船所ではなく、ボルト・ナットの製造から金属加工までを行う「工場の工場」を目指したのです。日本で初めて「就業時間」、「賃金制度」、「洋式簿記」などを導入し、近代的なマネジメントを確立したといわれます。

西郷隆盛

 小栗は、株式会社の先駆けとなる「兵庫商社」を設立し、貿易の活性化を図りました。兵庫商社は、幕府の主導により、大坂や兵庫の商人の出資によって設立されました。構成員には、三井のほか、大坂の有力商人の鴻池や加島屋、兵庫からは酒造業者が名を連ねました。小栗は提案書で初めて「商社」という言葉を使ったといわれます。郵便制度、電信、鉄道の設置も提言し、先見の明があったことがわかります。これらは後に明治政府によって実現されました。

 軍制改革と教育面でも小栗は活躍します。すなわち、幕府軍の近代化のため、フランス軍事顧問団を招へいします。外交官や技術者を育成するため、幕末の1865年、慶応元年に横浜仏語伝習所というフランス語学校が開設されます。日本初の官立フランス語学校です。幕臣の子弟を中心に選抜された精鋭たちが集まりました。フランス語の習得はもちろん、西洋の諸科学や文化も教えられていました。この伝習所からは、近代日本哲学の父、西周や法学者の津田真道が育っていきます。ここで学んだ若者やフランス学の伝統は、後の明治政府における司法制度の確立に貢献します。

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ポトマック川の五色桜

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今ワシントンD.C.のポトマック川の五色桜は満開です。もともと五色桜は、現在の東京都足立区の荒川堤に植えられていた桜の総称です。明治時代、ソメイヨシノだけでなく、多種多様な里桜が約78種類も植えられ、その多様な色彩から「荒川の五色桜」として世界的に有名になりました。1912年に日本からワシントンD.C.へ贈られた3,000本の桜の多くは、この荒川堤の苗木から育てられたものでした。

 しかし、本家である日本の五色桜は、その後の不幸な歴史によって絶滅の危機に瀕します。その理由は、工場の排煙や都市開発による環境悪化、荒川の改修工事に伴う伐採、そして第二次世界大戦による被害によります。これにより、東京の五色桜はほとんどが失われてしまいました。

 戦後、かつての美しい五色桜を復活させようという動きが日本で起こりましたが、すでに日本国内には元々の品種が揃っていませんでした。そこで、ワシントンに贈った桜が、当時の血統を保ったまま元気に育っていることに着目し、ワシントンから枝を分けてもらうことになったのです。1952年に荒川堤の改修を機に、初めてワシントンから枝が贈られました。1981年には「レーガン桜」として、さらに大規模な里帰りが行われ、足立区などに植樹されました。

 真珠湾攻撃後の戦時中、ワシントンでは日本への敵対心から桜が数本切り倒される事件が起きました。さらに「桜をすべて引き抜いてしまえ」という過激な意見も出たといいます。しかし、多くのアメリカ市民や関係者が「木に罪はない」「この桜は平和と友情の象徴である」として、桜を守り抜きました。戦時中は「日本の桜」と呼ぶ代わりに「東洋の桜」と呼び方を変えるなどの工夫をして、この美しい景観が維持されたのです。

The Goshikizakura (five-colored cherry blossoms) along the Potomac River in Washington D.C. are in full bloom. Originally, Goshikizakura was a general term for cherry trees planted along the Arakawa River embankment in what is now Adachi Ward, Tokyo. During the Meiji era, not only Somei Yoshino cherry trees but also approximately 78 varieties of other diverse village cherry trees were planted, and their diverse colors made them world-famous as “Arakawa’s Goshikizakura.” Many of the 3,000 cherry trees gifted from Japan to Washington D.C. in 1912 were grown from saplings along this Arakawa River embankment.

(住友林業グループより引用)

However, the original Goshikizakura in Japan faced extinction due to unfortunate circumstances. These included environmental degradation from factory emissions and urban development, felling during Arakawa River improvement work, and damage from World War II. As a result, almost all of Tokyo’s Goshikizakura were lost.

After the war, there was a movement in Japan to revive the beautiful Goshikizakura of yesteryear, but the original varieties were no longer available within Japan. Therefore, noticing that the cherry trees gifted to Washington were still thriving while maintaining their original lineage, it was decided to request branches from Washington. In 1952, during the renovation of the Arakawa River embankment, the first branches were gifted from Washington. In 1981, a larger-scale return of the trees, known as “Reagan Cherry Trees,” took place, with trees being planted in Adachi Ward and other areas.

During the war after the attack on Pearl Harbor, several cherry trees were cut down in Washington due to hostility towards Japan. There were even extreme calls to “uproot all the cherry trees.” However, many American citizens and those involved protected the trees, stating that “the trees are innocent” and “these cherry trees are symbols of peace and friendship.” During the war, efforts were made to preserve this beautiful landscape, such as changing the name from “Japanese cherry trees” to “Oriental cherry trees.”

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「逆賊の幕臣」小栗上野介忠順

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日本初の遣米使節として海を渡り、司馬遼太郎の言葉を借りれば新しい国のかたちをデザインし、江戸幕府の天才と呼ばれたのが小栗上野介忠順です。忠順の呼び名は「ただまさ」で、幕末に生きた“ラスト・サムライ”にして、誰よりも早く日本の近代化を担ったのです。やがて明治新政府に「逆賊」として葬られながらも、「明治の父」、「勝海舟のライバル」と呼ばれたのです。

小栗上野介忠順は、幕末の江戸幕府の外国奉行を担い、後に勘定奉行にもなります。今で言えば外務大臣であり大蔵大臣でした。安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米国海軍フリゲート艦のポーハタン号(Pawhatan)で渡米し、その後地球を一周して帰国します。ワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを日本へ持ち帰ったともいわれています。また、この遣米使節団の隠れた目的の一つが、通貨交換比率の交渉であり、その特命担当が小栗忠順といわれます。当時、諸外国との交換比率の違いが日本から金の大量流失を招いていました。小栗はフィラデルフィアの造幣局の一室でそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し不公平さをアメリカ側に納得させたという逸話があります。

 アメリカの工業力に衝撃を受け、その後旧横須賀製鉄所という造船所建設や近代軍制の整備など「国家百年の計」を描いた先見の明を持つ人物です。その功績から司馬遼太郎には「明治の父」と評され、2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公となります。

 「幕府を守るためではなく、日本という国家を近代化させるために動いた人物」と小栗を評したのは司馬遼太郎です。さらに横須賀製鉄所の建設は、後の明治政府が引き継いだ最大の遺産として描いています。「たとえ幕府が滅びても、土蔵(製鉄所)付きの家(日本)が残ればよい」という小栗の言葉を引用しています。彼の献身が組織の利害を超えた国家レベルのものであるという先見性を強調するのです。小栗は反対を押し切って、フランスの制度の導入に邁進します。小栗が推進した軍制改革や外交政策は、当時の日本において合理的で、西洋の合理主義を正しく理解したがゆえに推進できたと評されています。

 司馬によれば、小栗は感情や情緒に流されないリアリストとして登場します。尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中、小栗だけは計算とロジックで世界を見つめていた人物として描かれます。小栗の「冷たさ」や「傲慢」ともとれる姿勢は、周囲の無理解に対する知的な孤独感の裏返しであると分析し、その孤高さを一つの美学として捉えています。

 司馬は、明治維新を成し遂げた薩長土肥の志士たちを称賛するのですが、同時に彼らが作った近代日本のプランの多くは小栗が書いたものだった、と指摘しています。司馬はしばしば、同時代の人物と対比させることで小栗の独自性を浮き彫りにします。例えば、勝海舟などの他の幕臣と比較しても、小栗の能力を「行政官・技術官僚として日本史上稀に見る天才」と極めて高く評価しています。実に興味ある指摘です。

 司馬の明治観は、清廉で透きとおった公感覚と道徳的緊張をもっていた、ということに表れています。その代表が小栗上野介忠順ということのようです。

・参考文献 明治という国家(上) 司馬遼太郎 NHK Books

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「知」の先人達

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江戸時代の末期の文久2年(1862年)に幕命でオランダへ留学し、西洋哲学を日本に紹介した最大の人物が西周です。オランダ最古のライデン大学(Universiteit Leiden)でシモン・フィッセリング(Simon Vissering) に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学びます。現代の私たちが日常的に使っている多くの哲学用語の生みの親とも知られています。例えば、「哲学」「命題」「定義」「主観」「客観」「帰納」「演繹」「知識」「概念」「理性」「芸術」「科学」「技術」「心理学」「意識」といった訳語を作ったのも西です。西洋の概念を漢字で表現することで、日本人が西洋思想を深く理解するための土台を作りました。

ライデン大学

ライデン大学は、1575年にネーデルラント(オランダ)の指導者ウィレム1世(Willem I)によって設立されます。ヨーロッパでも最も古い大学の1つといわれます。ルネ・デカルト(René Descartes)、レンブラント(Rembrandt van Rijn)、フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)などを輩出しています。

中江兆民もまた岩倉使節団の一員としてフランスに渡り、フランス流の民主主義を日本に輸入しました。岩倉使節団は、明治維新期の明治4年から明治6年まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団です。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されました。その中の一人、中江兆民は「東洋のルソー」と呼ばれ、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の『社会契約論』を翻訳し、それを『民約訳解』として出版し、自由民権運動の理論的支柱となります。

中江兆民

近代的な法律学を輸入した人物に穂積陳重がいます。彼はイギリスとドイツに留学し、日本の民法起草に携わりました。医学面では北里柴三郎がいます。ドイツ留学にしコッホ(Heinrich Robert Koch)に師事して、細菌学や血清療法を導入します。ペスト菌の発見や血清療法の確立など、日本の近代医学や公衆衛生を世界レベルに引き上げるのです。建築の分野に辰野金吾がいます。イギリスに留学しジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に学び、後に赤レンガの東京駅などを設計した建築家です。科学の分野では高峰譲吉がイギリスに留学し化学工業の基礎を築き、アドレナリンを発見するのです。芸術の分野に黒田清輝がいます。フランスに留学し印象派の明るい作風を日本画壇に持ち込み、後に「洋画の父」と呼ばれるのです。

1867年のパリ万博は、当時の世界最新のテクノロジーや芸術、そして各国の文化が一堂に会した「文明の祭典」といわれました。日本にとっては、江戸幕府が公式に参加した最初の万博であり、日本文化が初めて西洋に本格的に紹介された歴史的なイベントとなります。パリ万博を視察した渋沢栄一は1867年から約1年半にわたってパリを中心にヨーロッパを歴訪します。この滞在は、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる彼の基盤を築く決定的な体験となります。株式会社制度を学び、帰国後は第一国立銀行、現在のみずほ銀行など500以上の企業設立に関わります。日本の近代化には、信頼の拠点となる銀行が不可欠であると考えたのです。

渋沢は、経済活動だけでなく、社会福祉を向上する制度にも注目したようです。その例は、病院、孤児院、盲学校などの医療、福祉施設を視察し、「富は個人が独占するものではなく、社会に還元すべきもの」という考えを深めていきます。これが、彼が晩年に社会公共事業や教育に力を注ぐ原動力となったといわれます。 フランスにおいて、生活インフラと都市機能の発達を見聞します。例えばガス灯、鉄道、水道、郵便、そして最新の科学技術など、近代都市を支えるインフラを理解していくのです。

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日本近代化の先駆者達

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江戸末期から明治初期にかけて、多くの先覚者たちが、いわば命がけで海を渡りました。やがて彼らが持ち帰った「西洋の衝撃」は、停滞していた旧体制を打破し、近代国家の日本を形作る力強い原動力となっていきます。当時の交通機関の未発達な状況で、海外渡航は大変な苦労だったことが想像できます。それでも不安ながら大望を抱いた指導者らは、祖国日本の発展のために大きな期待をいだいて出発したに違いありません。

幕末の先駆者たちは、開国へと目覚めていきます。江戸幕府が派遣した使節団や密航に近い形で渡欧した若者たちは、やがて日本の「近代化」の種を蒔きに貢献していきます。その最たる人物は福澤諭吉です。幕府の遣欧使節団に加わりアメリカを見聞していきます。福沢は 帰国後、西洋の日常習慣や社会制度をわかりやすく解説した『西洋事情』を執筆し、ベストセラーとなります。慶應義塾の創設や「天は人の上に人を造らず…」で知られる『学問のすゝめ』を通じて、個人の独立自尊こそが国を強くすると説きました。

西洋事情

 1863年に長州藩から派遣された5人の若者たちは、密航同然でイギリスへ渡航します。帰国後は倒幕運動の中心となります。後に長州五傑と呼ばれたのが、井上馨、後の初代外務大臣、伊藤博文、後の初代内閣総理大臣、山尾庸三、後に「工学の父」と称され、工部省の設置に尽力、井上勝、後に「鉄道の父」と呼ばれ、日本の鉄道建設を指揮、そして遠藤謹助で後に造幣局長を務め、「造幣の父」と呼ばれます。当時はまだ江戸幕府による鎖国令の下、海外渡航は死罪に値する禁忌でしたが、彼らは密航という形でイギリスへ渡航したのです。

 長州五傑に続き、1865年に薩摩藩から密使としてイギリスへ送られた一行は総勢19名でした。森有礼は初代文部大臣となり、日本の近代教育制度を確立します。五代友厚は大阪経済の父と呼ばれ、大阪株式取引所などを設立します。寺島宗則は「電気通信の父」と呼ばれ、外交官としても活躍します。長澤鼎という人物は、 唯一日本に帰らず、カリフォルニアで「カリフォルニアのブドウ王」として成功するのです。忘れてはならない人物は新島襄です。長州五傑に先立つ1年前、1864年に函館からアメリカへ密航します。帰国後同志社大学を創設します。

 岩倉使節団は、1871年から約1年10ヶ月にわたって欧米諸国を視察します。明治政府の威信をかけた総勢100名を超える大規模な使節団といわれます。その一行の中の主要メンバーとして特命全権大使となったのが岩倉具視です。「維新の三傑」と呼ばれ、長州派のリーダーであった木戸孝允もいました。薩摩派のリーダーであった大久保利通も加わっています。帰国後は殖産興業を牽引した人物です。

不平等条約の風刺画

 この使節団には、現地で学ぶための留学生や各分野の専門家も多く同行しました。後に大日本帝国憲法の起草に参画した金子堅太郎、後に外務大臣や内大臣を歴任した牧野伸顕、そして日本初の女子国費留学生となる津田梅子です。当時彼女は6歳だったようです。長期間の米国生活を経て帰国後、日本の女子教育の遅れに衝撃を受けた彼女は、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設し、女性の地位向上と高等教育に一生を捧げていきます。

 こうした使節団は、幕末に結ばれた不平等条約の改正を求めて交渉するのですが、国力不足のために改正は成りませんでした。それでも、政治、経済、教育、軍事、文化などあらゆる分野に直接触れて、日本を近代化するための知見を得て帰国します。

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「逆賊の幕臣」と日本の近代化

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2027年のNHK大河ドラマは「逆賊の幕臣」と報道されています。ドラマのタイトルが衝撃的なので、調べると主人公は小栗上野介忠順という幕臣とあります。この人物のことを全く知らなかったので、調べることにしました。驚きの一つは、かつて小生が10年余り暮らした横須賀がこの主人公の活躍の場であったことです。司馬遼太郎は、著作「明治」という国家』の中で、横須賀製鉄所、後の旧横須賀造船所の建設は、明治政府が引き継いだ最大の遺産として描いています。本稿では、日本の近代化を「逆賊の幕臣」を通して、近代化の変遷を考えることとします。

長崎海軍伝習所

 江戸末期から明治初期にかけて、多くの先覚者たちが海外に渡航しました。彼らが学んできた西洋の衝撃は、停滞していた旧体制を打破し、近代国家の日本を形作る強力な推進力となっていきます。勝海舟、福澤諭吉、さらに 伊藤博文、井上馨、森有礼、五代友厚、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、そして津田梅子らです。さらに渋沢栄一や北里柴三郎も海外の近代化の姿に触れていきます。彼らは、民法・刑法など法典の整備、学制の発布と大学の設立、医学の研究、さらに科学技術の導入などにより、近代国家へと変貌させる原動力となっていきます。

 そうした先駆者の中で、近代国家への礎を築いた一人が小栗忠順であったといわれます。司馬は、彼の著作のなかで、小栗忠順を時代の先を見通す並外れた知性と、冷徹なまでの実行力を持つ「近代日本建設の真の設計者」として高く評価しています。司馬は小栗忠順をどのように描いたかです。小栗のユニークさは次稿以下で説明していきます。

参考図書 
・「明治」という国家 司馬遼太郎 NHK出版

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貨幣論 その6  経済や財政上の用語

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少し専門的な分野の経済や財政にまつわる略語を説明します。テレビや新聞などのオールドメディア、SNSなどでの新興メディアでしばしば登場する財政上の略語です。財政均衡とか健全財政をうたい、増税を意図する財務省や与党や野党の一部の議員、積極財政というかけ声で、内需の拡大やデフレ回復を叫ぶ学者や議員の双方がしばしば使う略語を紹介します。

P.M.:Primary Balance
 プライマリー・バランスと呼ばれ「基礎的財政収支」と訳されています。税収や税外収入と、国債費(国債の返済や利子)を除く歳出との収支のことです。簡単に言うと、社会保障や公共事業などの政策的経費を税収などで賄えているかを示す指標です。財務省が使いたがる略語です。経済が不況で需要不足の状態の場合、基礎的財政収支の赤字を拡大する積極財政で民間部門に資金を供給して、経済を活性化する財政政策が求められるのです。今はそうした時期なのです。プライマリー・バランス黒字化目標を旗印に増税と緊縮財政に突き進む財務省への批判として、「ザイム真理教」とか「財務省、亡国論」と呼ぶ者が増えています。

MMT:Modern Monetary Theory
 MMTは現代貨幣理論と呼ばれています。この話題は既に前稿で取り上げています。通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる通貨を自在に創出できることから、「財源確保のための徴税は必要ではない」、「財政赤字で国は破綻しない」、「インフレにならない限り国債はいくら発行しても問題はない」と主張するのです。MMTはケインズ(John M. Keynes) 経済学の流れを汲むマクロ経済学理論のひとつで、「政府の財源は税と債券発行によって調達すべき」、「赤字拡大が続けば国は破綻する」という主流派経済学の見方に対抗しています。

BS: Balance Sheet
 貸借対照表と呼ばれています。ある時点における企業の資産状況を示す書類です。企業がどのくらいの資産を保有し、その財産を調達するためにどのくらいの負債を負い、どのくらいの純資産があるのかを表す財務諸表のことです。資産、負債、純資産の3つの要素で構成され、左側に借方として資産、右側に貸方として負債と純資産を記載します。銀行は企業に融資するとき、企業の貸借対照表を見て、企業の返済が可能かを判断します。大切な財務諸表といえます。決算に際して作成する決算書と財務諸表のひとつで、企業の保有資産と負債、純資産が表形式で示されています。

CEFP: Council on Economic and Fiscal Policy
 経済財政諮問会議の略語です。この諮問会議は、日本の内閣府に設置され重要政策に関する事案を協議します。この会議では、最終的に経済財政運営と改革の基本方針、いわゆる骨太の方針がとりまとめられ、予算方針に反映されます。会議の成員は、議長と10人以内の議員から成ります。民間有識者数を議員の4割以上確保することが法により定められています。ですが、議員の内2人は日本経団連幹部であり、経団連の利害が強く反映されているのではないかという批判があります。

FTA: Free Trade Agreement
 「自由貿易協定」と呼ばれるもので、2か国以上の特定の国・地域の間で、貿易自由化のために締結する協定のことを指します。自由貿易協定のメリットは「関税の軽減・免除」にあります。日本は’通商交渉ではWTO体制下の多国間主義に重きを置いていました。しかし、多国間主義の限界を認め、他国との競争条件を等しくするために、積極的な二国間・地域間交渉に乗り出さざるを得なくなりました。それまではFTAに対する取り組みは、欧米諸国と比較すると遅れていました。グローバル経済が拡大するなかで、日本がFTAを締結していないことで、海外ビジネスにおいて日本企業が不利益をこうむるケースも発生していました。そのような状況から、日本政府もFTAを推進する意識を強く持つことになります。FTAを相手国と締結することで、協定の内容および交渉によって、段階的な関税の軽減・免除ができるようになり、お互いのメリットを追求した貿易ができる可能性が高くなりました。
 ただし、FTAの協定内容によっては、従来は守られていた産業が衰退してしまったり、自国の特定産業が育たなくなってしまうデメリットもでてきます。その例は、アメリカやオーストラリアからの畜産物の輸入により、国内の酪農家が影響を受けたことです。

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貨幣論 その5 MMT(現代貨幣理論)とは

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現代貨幣理論(Modern Monetary Theory: MMT) の最も根本的な主張は「自国通貨を発行できる政府は、財政的に破綻することはない」という点です。このことを本稿では取り上げます。通貨主権国は財源の制約を受けないというMMTの核となる考え方は、日本やアメリカのように自国の通貨、すなわち日本なら円、アメリカならドルを発行できる国は、税収や国債発行に依存しなくても、必要であれば無制限に自国通貨を生み出すことができるという点です。

(角川書店より引用)

 従来の考え方、つまりこのブログのどこかで取り上げたザイム真理教が基盤とする考えによれば、政府は、税金や借金(国債)で資金を集めてからでないと支出できないとし、財源の制約があると主張します。他方MMTの考え方:政府は、支出することによって通貨(お金)を創造している、そのため、お金を調達する能力には制約がない、これにより、自国通貨建てで国債を発行している限り、債務不履行(デフォルト)は論理的にあり得ないと主張します。

 政府がいくらでもお金を生み出せると聞くと、「無制限に支出してよい」と誤解されがちですが、MMTはそうではありません。MMTは、財政支出の制約となるのは「財源(お金)」ではなく、「インフレ率」であると主張します。政府支出の限界、つまり政府が支出を拡大しすぎると、国内の人・モノ・設備などの実物的な資源が不足し始めます。インフレの発生とは、モノやサービスを生み出す力経済の供給能力の限界を超えて政府がお金を使いすぎると、需要が供給を大幅に上回り、物価が急激に上昇します。この現象はハイパーインフレといわれます。したがって、MMTは、「インフレ率が許容できない水準に達しない限り、財政赤字は問題ない」という立場をとります。

 次に、税の役割は「財源確保」ではないという立場です。MMTでは、税金の役割を以下のように捉えます。税の役割とは、政府の活動に必要な財源を調達することであり、民間からお金を回収し、インフレを抑制する役割があると主張します。政府の国債によって集めた資金を効率的に使うこと、インフレ率が目標内に収まる範囲で、完全雇用達成のために必要な支出を行うことが税の役割であるというのです。すなわち税金は、政府が市場からお金を吸い上げ、過剰な需要を減らして景気を調整するためのツールであると位置づけるのです。

櫂歌書房より引用)

 MMTの観点から見ると、現在の日本経済は以下のようになります。巨額の国債に関しては、自国通貨建てであり、実質的な債務不履行リスクはないため、過度に心配する必要はないのです。日本の現状は、供給力に対して需要が不足する長期間のデフレにあり、インフレの心配がほぼない状況といわれます。MMTの政策への提言として、増税や緊縮財政は経済を冷やすため行うべきではなく、インフレ率が上がるまで、公共投資や国民への給付金などの積極的な財政赤字の拡大する財政出動をすべきであるという考え方です。

 高市政権は、現代貨幣理論に厳密に沿った政策をとっているかは分かりませんが、積極的な財政出動を公約に掲げ実行しつつあります。今回の衆議院議員選挙で自民党が大勝したのは、現代貨幣理論にそった「責任ある積極財政政策」を国民が支持した結果だと考えられます。

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貨幣論 その4 商品貨幣論とは

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商品貨幣論の論拠は、「お金の価値はもともと商品そのものの価値から生まれる」という考え方です。古典派経済学や一部の貨幣史研究で広く語られてきた説明です。本稿では商品がなぜ貨幣として考えられたか、その考えがなぜ論拠として不十分といわるかを整理します。

 商品貨幣論の根拠は、主に 歴史観や交換の理論、金属貨幣の存在から説明されます。要は物々交換から貨幣が生まれたという説明です。大昔は米と魚などで物々交換をしていました。しかし交換することは運搬や時間がかかり誠に不便でありました双方の欲求が一致しないと交換は成立しません。必そこに交換しやすい商品が媒介になるという状況になります。それが塩であったり貝であったりするのです。こうして、最終的に 金銀などが 自然に貨幣化するのです。

1923年発行のレンテンマルク硬貨

 金銀は保存性や希少性、そして分割可能で持ち運びやすいという特徴があり、商品として価値があるため貨幣になったと説明されました。金貨は金として価値があり、銀貨は銀として価値があるからです。アメリカの人類学者でデヴィッド・グレーバー(David Graeber)は、「負債論─貨幣と暴力の5000年」という著作のなかで、人類学研究では、純粋な物々交換社会はほぼ確認されていないと主張します。つまり、歴史的に多くの貨幣は国家の税制度と結びついて成立したというのが定説となっています。例えば国家が税を貨幣で支払わせるとか、国家が貨幣を発行することにより貨幣需要が生まれるという立て付けです。

 ところで現在の貨幣の大半は、銀行預金であり電子マネーであり中央銀行が発行する通貨です。これらの通貨は、商品価値を持たないのです。貨幣価値 ≠ 商品価値という式となります。その代わり、現代の多くの研究では貨幣 = 債務(I owe you: IOU)と考えられています。IOUは通常、債務を認める非公式の信用証書のことであり、 貨幣とは「誰かの支払い義務」ということになります。つまり、IOUとは、自分が相手に対して何か(お金、物品、サービス)を渡す義務があることを認める債務の承認であり、貸し手側から見れば、そのメモは「将来何かを受け取れる権利(債権)」ということです。私たちが銀行に預けている「預金」は、実態としては「銀行が預金者に対して発行したIOU」となります。通帳の数字は、銀行があなたに対して「あなたが求めた時に、いつでもその額の現金を支払う義務があります」と約束している証拠です。

 商品貨幣論には深刻な欠陥が指摘されています。その一つは、前述してきたように貨幣が交換手段を起源として生じたという歴史的な根拠がないことだといわれます。もっとも商品貨幣論には、紙幣がどうして貨幣として流通しうるのかを説明できないという見方があります。金貨や銀貨であれば賃金属片としての価値があるとはいえなくもないのですが、紙幣は紙片に過ぎず、その経済的価値はほぼないに等しいのです。一万円札の印刷代は20円といわれるほどです。そこで主流派経済学者は紙幣の存在を商品貨幣論によって説明するために、人々が紙幣に貨幣として価値があると信じているから、紙幣は貨幣として価値があるという論法を持ち出さざるをえなるのです。

 しかし、この論法は紙幣を貨幣として受け入れる々人々がいるからだ、ということを暗黙のうちに前提しています。商品貨幣論には貨幣が計算単位であることについて誤解があるようです。主流経済学の理論では、金貨などの賃金属片の価値は市場における交換によって定まり、それが価値の標準となり計算単位となると主張します。タバコ一箱を例にとりますと、市場における交換を通じてその価値が定まり、それが標準となり計算単位となればタバコ一箱でも貨幣になりうるというのが商品貨幣論です。

 市場には無数の商品があり取引されています。無数の交換レートが発生しうるというのが商品貨幣論です。しかし、現実の貨幣経済における取引はそのようになっていません。これは商品貨幣論が誤りであることを示しているのです。ちなみに、かつて金本位制という貨幣の価値を金の価値に固定することで安定させようとする時代がありました。紙幣の価値を金の保有量と結びつけ、銀行券をいつでも金と交換できることを保証する制度でした。しかし、日本は1931年12月に金本位制を停止し、金兌換がなくなりました。貨幣と金の交換価値は政治的な権威によって決定されたのです。市場が決めたのはありません。その後、1942年に日本銀行法によって管理通貨制度へ移行し、今日の通貨制度の基礎が作られました。商品貨幣論は消滅したといえます。

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貨幣論 その3 信用創造とは

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銀行がどのようにお金を作り出すか、という過程は私どもの直感とは少し異なるため、非常に興味深い話題です。一般的には「誰かが預けたお金を、銀行が別の人に貸し出している(又貸し)」と思われがちです。しかし、現代の貨幣論、特にイングランド銀行(Bank of England) などの中央銀行も認めている見解では、「貸し出しによって預金が生まれる」と考えます。これを「信用創造(credit creation)」と呼びます。

 信用創造のステップですが、銀行が私に融資をする際、金庫から現金を取り出して渡すわけではありません。私が銀行から100万円を借りる契約をすると、銀行は私の通帳に「1,000,000」と数字を書き込みます。キーボードの入力で済むのです。この瞬間、世の中に新しい預金というマネー、100万円が誕生します。銀行の貸借対照表には借方に資産として「貸付金」が、貸方に「預金」として同額計上されます。信用創造とは、銀行は元手となる現金を持っていなくても、借り手の「返済能力」という信用を担保に、記帳だけでお金を作り出せるのです。無からの創造という立て付けなのです。

やさしい経済学と哲学から引用)

 市中銀行は無限にお金を作れるわけではありません。そこには一定のルールがあります。預金準備率という制約で、それが「準備預金制度」です。市中銀行は、預金の一定割合、例えば1%などを「準備預金」として中央銀行、日本なら日銀に預けなければならないという決まりがあります。これは中央銀行への預け入れと呼ばれます。この比率があるため、銀行が作り出せるお金の総額には理論上の上限が生じます。

 信用創造の連鎖は次にようになります。A銀行に100万円が預けられるとします。準備率が10%ならA銀行は10万円を日銀に預け、残り90万円をB会社に貸し出します。B会社がその90万円を支払いに使い、受け取った会社C会社がそれを乙銀行に預けるとしてます。乙銀行は9万円を日銀に預け、残り81万円を貸し出すという連鎖となります。このように、連鎖的に預金が膨らんでいくプロセスを指して「信用創造」と呼ぶこともあります。

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貨幣論 その2 インガムの貨幣論

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ケンブリッジ大学(University of Cambridge) の経済社会学者にジェフリー・インガム(Geoffrey Ingham)がいます。主著は 1996年論文「貨幣は社会関係(Money is a Social Relation)」と、2004年著書「貨幣の本質(The Nature of Money)」です。彼の貨幣論は、経済学・社会学・歴史学の学際的視点から貨幣の本質を根底から問い直すものといわれています。というのは、伝統的な商品価値としての貨幣論から訣別する先駆的な理論といわれるからです。その理由は以下のようなことです。

Geoffrey Ingham (ケンブリッジ大学から引用)

 インガムの貨幣論の出発点は、主流派とか新古典派と呼ばれる経済学への根本的批判から始まります。新古典派の貨幣論は、「物々交換」から貨幣が生まれたと説明します。孤立した個人が物々交換の不便を解消するために貨幣を自然発生的に生み出した、と説明します。インガムはこうした立場を歴史的根拠のない「神話」と断じます。人類学や歴史学の検証では、物々交換が貨幣に先行した社会は存在しないことを示しており、むしろ信用(credit )関係こそが貨幣より先に存在したと主張します。

 主流派経済学では貨幣は実物経済に対する「貨幣は中立的なヴェール」にすぎないと見なします。この意味は、「お金は交換の仲立ちをするだけの存在であり、お金の量を操作したところで、国全体の生産力や豊かさという本質は変わらない」というのです。「貨幣を中立的なヴェール」と宣明するのは、方法論的な出発点が物々交換モデルという虚構に基づいているからです。インガムはこれを否定し、貨幣は実物経済を根底から構造化する社会的力だと主張します。インガムの核心的な命題は、「貨幣とは、計算貨幣の単位によって表示された信用と負債の社会関係である」というのです。 貨幣は社会関係であると主張するのです。

 つまり、貨幣は「モノ(商品)」ではなく、人々の間の債権や債務の社会関係そのものと考えるのです。金貨であれ紙幣であれ、その物質的形態は本質ではなく、貨幣が「誰かが誰かに対して何かを支払う義務を負っている」という社会関係を体現していると考えるのです。現実の資本主義経済では、銀行による「信用創造(credit creation」こそが投資と生産を可能にし、貨幣は決して受動的な「ヴェール」ではなく、経済を能動的に形作る構造的な力だという主張です。

 インガムの理論は4つの基本要素からなります。第一は、計算貨幣(Money of Account)という最も根本的な概念です。インガムにとって、貨幣の最も根源的な機能は「計算単位(measure of value)」です。円、ドル、ポンドといった抽象的な価値の尺度が先にあり、その単位で表示された信用や負債が「貨幣」となるというのです。交換を可能にする「媒介手段」より、価値を計測し記録する「計算単位」こそが貨幣の本質だと強調します。これはメイナード・ケインズ(Maynard Keynes) が「貨幣の計算単位は貨幣理論の本源的概念だ」という洞察を継承したものといわれます。

 第二は、信用貨幣論(Credit Theory of Money)です。インガムは、アルフレッド・イネス(Alfred Mitchell-Innes)の貨幣の信用理論を発展させ、貨幣の発行とは負債の創造であり、銀行が貸出を行うとき、銀行の負債(預金)が新たに「創造」されると主張します。この考えは前述した信用創造とも呼ばれています。貨幣を受けとった者は「将来において財・サービスを受け取る権利」を得るのです。

 信用創造の一例を申し上げます。A銀行が100万円を借りたいというB会社に貸し出す際、手元の預金からB会社に又貸しするのではありません。単にB会社の口座に100万円と記帳するだけです。その記帳の瞬間に100万円という預金、すなわち貨幣が創造されるのです。B会社はそれによって収益を上げたとき、借りた額をA銀行に返済すると、100万円という貨幣は消滅するのです。言い換えれば預金通貨という貨幣は、民間銀行と民間企業との間に「信用ー負債」という社会関係が成立することで創造されるのです。その関係が終わると社会関係は解消されるのです。この関係では、100万円という札の束の交換という行為は全く存在しません。

(iLinkより引用)

 すべての貨幣は誰かの負債であります。そしてその「信用度」や「通用力」には階層があります。これは「負債のピラミッド(Debt pyramid)」と呼ばれます。ピラミッドの上に行くほど信用度が高く、決済の最終手段として機能します。ピラミッドの最上層は、政府や中央銀行が発行する貨幣です。紙幣、硬貨、および民間銀行が中央銀行に預けている「日銀当座預金(準備預金)」がピラミッドというわけです。日銀当座預金は、銀行などの金融機関が日本銀行に開設している原則、無利息の口座です。銀行間の決済、現金決済、および法定の準備預金を預け入れるために使用されます。

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