逆賊の幕臣 その3 横須賀製鉄所の建設

1853年のペリー来航以降、江戸幕府は欧米列強との軍事・技術格差を痛感します。特に、外国製の軍艦に頼っていては国を守れないという危機感が強まり、「自前で軍艦を修理・建造できる近代的工場」が必要になりました。江戸幕府が横須賀製鉄所を建設しようとした背景には、幕末の「海軍力強化」と「近代工業化」がありました。その中心となったのが小栗忠順です。

 小栗は1860年、日米修好通商条約批准のための遣米使節としてアメリカへ渡航しました。この時、ワシントン海軍工廠などを見学し、西洋の巨大な造船や製鉄技術に衝撃を受けます。帰国後、「日本も近代工業を持たなければ生き残れない」と確信したようです.。

明治初期の横須賀村

 その後、小栗は幕府の勘定奉行・軍艦奉行となり、フランスの協力を得ながら本格的な造船所建設を推進します。フランス人技師のフランソワ・レオンス・ヴェルニー(Francois Léonce Verny )を招聘し、1865年頃から横須賀で建設が始まりました。横須賀が選ばれたのは、天然の良港であり、水深が深く軍港に適していたためです。

 しかし、当時の幕府財政は旧弊しており、多額の建設計画に反対も強かったのです。「幕府がいつ倒れるか分からないのに大工事をするのか」という批判に対し、小栗は有名な「土蔵付き売家」という言葉を残しました。これは、たとえ幕府が滅びても、後世に役立つ財産を残せればよい、という意味だとされています。

 明治維新後も新政府はこの工場を接収して活用し、「横須賀造船所」から「横須賀海軍工廠」へと発展しました。ここで日本海軍の艦船建造技術が育ち、日本の近代工業・重工業の中心の一つになります。

 小栗忠順が横須賀製鉄所の計画には、欧米列強に対抗する海軍力が必要だったこと、そして日本独自の近代工業基盤を作ろうとしたのです。幕府の存続を超えて未来の日本に欠かせないと考えたのです。その慧眼には敬服するものです。

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