トランプ政策と名門大学の抵抗と服従 

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アメリカ東部にある名門私立大学でアイビー・リーグ(Ivy League)の一つ、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania) は2023年12月9日、エリザベス・マギル(Mary Elizabeth Magill学長とスコット・ボク(Scott Bok)理事長の辞任を発表しました。マギル氏は大学内で強まる反ユダヤ主義への対応を巡り、批判されていました。連邦政府は、全国の大学への数十億ドル規模の資金の流れを停止すると脅迫しており、多くの大学は司法省から保健福祉省に至るまで、様々な機関からの調査に直面している。しかし、トランプ政権の大学に対する懲罰的なアプローチは、アイビー・リーグの大学で最も深刻に表れています。昨春、ガザ紛争に反対するキャンパスでの抗議運動の中心地となった同大学は、反ユダヤ主義的行為を容認し無法状態を蔓延させたという非難と学術的・政治的言論を抑圧したという非難に、数ヶ月にわたって対峙してきました。

 トランプ政権が非難のターゲットとしているのは、こうしたアイビー・リーグの大学です。名門ハーヴァード大学(Harvard University)との対立も続いています。政権はハーヴァード大学に対して外国人留学生の受け入れ資格停止を通告し、反発した大学側との法廷闘争に突入しています。背景には「リベラルの牙城」と呼ばれるハーヴァード大学を狙い撃ちすることで他の大学にも「改革」を迫り、さらには中国共産党など外国の影響力を排除する意図が潜むようです。ハーヴァード大学の歴史で最初の黒人学長だったクローディン・ゲイ学長(Claudine Gay)は2024年1月2日に辞任します。その後、就任したアラン・ガーバー学長(A)lan M. Garber)はトランプ政権の政策に訴訟を起こし毅然として立ち向かっています。すなわち、トランプ政権が大学に対し課してきた一連の制裁措置、すなわち連邦研究費の凍結、留学生プログラムの停止、税制優遇の剥奪検討などに対し、訴訟を起こしています。

コロンビア大学エンブレム

 マンハッタン(Manhattan)北部にある同じくアイビー・リーグ大学の一つ、コロンビア大学(Columbia University)は、今年、学生デモで混乱に陥り、結束バンドや暴動鎮圧用の盾を持った警察官が、親パレスチナ派の抗議活動参加者が占拠していた建物に突入する場面もありました。同様の抗議活動は全国の大学キャンパスに広がり、その多くが警察との激しい衝突や数千人の逮捕に至りました。この発表の数日前には、大学当局が、ユダヤ人の生活と反ユダヤ主義に関するキャンパス内での議論中に3人の学部長が中傷的なテキストメッセージを交換したとして辞任したと発表したばかりでした。

 コロンビア大学のミヌーシュ・シャフィク学長(Minouche Shafik)は2024年8月に、イスラエルとハマスとの戦争(Israel-Hamas war)をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応をめぐり、短期間で波乱に満ちた在任期間を終えて辞任しました。ニューヨークの名門大学である同大学の学長は、この間、イスラエルとハマスとの戦争をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応について厳しい批判にさらされてきました。

 次いで暫定学長に就任したカトリーナ・アームストロング(Katrina Armstrong)も、2025年3月までに学内対策に応じた結果、トランプ政権による資金凍結などの圧力からの批判を引き受け、2025年3月28日に辞任発表します。同日に、学長代行としてクレア・シップマン(Claire Shipman) が指名されました。彼女は“学問の自由と開かれた探究を守る”姿勢を表明していますが、下院教育委員会などによる調査も受けてきました。シップマン学長代行も自分の発言でユダヤ人協会から批判され、大学の人事は混迷しています。

University of Virginia

 さらに、ヴァジニア大学(University of Virginia)のジャームズ・ライアン学長(James Ryan)が2025年6月28日に辞表を表明します。ライアンが退任を急いだ決断は、ヴァジニア大学に対する連邦政府の監視が強化されている時期に行われました。ライアンは退任の手紙の中で、「自分が学長職に留任していた場合、大学は多額の資金を失うリスクがあったことを認めます。自分の地位に留まり、連邦政府の資金削減のリスクを冒すことは、空想的なだけでなく、職を失う何百人もの従業員、資金を失う研究者、そして奨学金を失ったりビザを差し押さえられたりする何百人もの学生にとって、利己的で自己中心的に見えるだろう」と述べて辞任するのが最上であるという判断をしたのです。

 コロンビア大を含む、アメリカ東部の八つの有名私立大で構成されるアイビー・リーグのうち、学長が辞任したのは昨年10月以来、ペンシルベニア大学とハーヴァード大学で3例目です。いずれも、中東情勢をめぐる抗議デモの対応で追及を受けています。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ヴァジニア州・Mother of Presidents

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ヴァジニア州(Virginia)のナンバープレートにもいろいろなデザインがあります。うっそうとした豊かな森や清流など自然の生態系を反映してデザインには野鳥などを配置しています。ヴァジニアは、「アメリカ大統領の母なる地」「Mother of Presidents」の名にふさわしい風格のある州です。

License Plate of Virginia

 ヴァジニア州東部の大部分に最初に定住したヨーロッパ人はイングランド人(English)で、イングランドの中部および南部の郡、特にロンドンとその周辺地域からやって来ました。1700年代には、ウェールズ人(Welsh)とフランスのユグノー人(Huguenots)が移民の中で目立っていて、スコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)とドイツ系(German)の人々がペンシルベニア(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)に移住してきました。特に西部と南西部の郡では、スコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先を持つ人々が今でも多数派を占めています。

Map of Virginia

 ヴァジニア州は、清教徒連邦(Puritan Commonwealth)と1653年から1659年の間に保護領(Protectorate)亡命したイングランド王チャールズ二世(Charles II)への忠誠心からオールド・ドミニオン(Old Dominion)と呼ばれました。17世紀初頭のジェームスタウン(Jamestoewn)入植以来、アメリカの州の中で最も長く続いている歴史の1つです。処女女王エリザベス一世(Elizabeth I)にちなんで名付けられ、当初の憲章では、大西洋岸の入植地からミシシッピ川、さらにその先まで西に広がる土地のほとんどが与えられましたが、ヨーロッパ人には未踏の領域でした。ジョージ ワシントン(George Washington)、トーマス ジェファソン(Thomas Jefferson)、ジェームズ マディソン(James Madison)などのヴァジニア人の貢献はアメリカ合衆国の建国に極めて重要であり、共和国の初期の数十年間、この州は大統領誕生の地として知られていました。

 1607年にイギリス初のアメリカ植民地がジェームズタウン(Jamestown)に設立された時、ヴァジニア州にもネイティブ・アメリカンが住んでいました。ヴァジニアからはアメリカ独立革命の指導者を生み、後にアメリカ最初の大統領5人のうち4人を輩出していきます。1788年には合衆国憲法を批准した10番目の州となります。

 奴隷制度はヴァジニア州経済の重要な部分を占めていました。1831年にナット・ターナー(Nat Turner)の奴隷反乱がここで起こりました。奴隷であり反乱の指導者ナットは数人の信頼する仲間の奴隷と決起します。反乱は家から家へと伝わり、奴隷を解放し、見付けた白人全てを殺したといわれます。最終的に反乱に加わった奴隷は自由黒人を含めて50名以上になります。ナットとその反乱部隊が白人民兵の抵抗に遭った時、既に57名の白人男女や子どもが殺されていました。

 南北戦争が始まってすぐの1861年に、ヴァジニア州は連邦(Union)から離脱します。リッチモンド(Richmond)は南部連合(Confederacy)の首都となります。そしてヴァジニアは戦争を通じて主な戦場となります。ただヴァジニア州西部は連邦からの離脱を拒否します。1863年に分離してウェストヴァジニア州ができました。ヴァジニア州は1870年に連邦への再加盟を認められました。その後数10年間、州の債務をめぐる争いが政治生活を引き継ぎましたが、第一次世界大戦後、州の繁栄は増大していきます。

 第二次世界大戦により、数千人の捕虜がヴァジニア州の軍事キャンプに収容され、港町のノーフォーク(Norfolk)地域は急速な成長を遂げます。ヴァジニア州にとっては、連邦政府は州最大の雇用主であり、製造業は二番目に大きい規模となっています。州南東部の海域およびそれを取り囲む陸域であるハンプトン ローズ(Hampton Roads)は、国内有数の港の1つであり一大観光地域でもあります。

 ヴァジニア州は正式には「Commonwealth of Virginia」と呼ばれます。植民地時代から地域がそれぞれに共通した目標である独立に向けて共に発展するという意思を表しています。歴代4名の大統領とは、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンらです。それゆえに「アメリカ大統領の母なる地」とも言われるほどです。ワシントンDCの対岸の州内にはアメリカ国防総省(Pentagon)やCIA本部もあります。

 観光は州の重要な産業です。ヴァジニア州には、植民地時代のウィリアムズバーグ(Williamsburg)、ジョージ ワシントンの邸宅であるマウント・バーノン(Mount Vernon)、トマス・ジェファソンのモンティチェロ(Monticello)、南北戦争の戦場、現在のアーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)の敷地内にあるロバート・リー(Robert E. Lee)将軍の家など、多くの史跡があります。特に、ウィリアムズバーグは是非訪れたいところです。1690年代には植民地時代の首都でありました。2.25キロ平方の地域に入植当時の建物はすっかり復元されて、植民地時代の面影を感じることができます。

 1693年設立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary)は、この国で2番目に古い大学です。この大学は、イングランド国教会によって設立され、イギリス国王の勅許状を持つ最初のアメリカの大学となりました。ハーヴァード大学に続いてアメリカで最も由緒のある、また優れた学部教育のカレッジとして知られています。研究機関の中心はなんといってもヴァジニア大学です。創立は1819年、ジェファソンらによって創建されました。学内のすべての建物がコロニアルスタイル(colonial style)で統一され、全米で最も美しい大学キャンパスと称されています。これらの大学は、「最も入学が難しい大学」 (Most Selective)となっています。

アメリカ合衆国建国の歴史 その65 ジェファソンと共和党の進出

アメリカ合衆国の第3代大統領、トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson) は、「アメリカ独立宣言」の起草者の一人としても知られています。大統領就任にあたり、ジェファソンは次のような和解を求める演説をします。すなわち「我々はすべて共和主義者であり、我々はすべて連邦主義者です。」彼には恒久的な二大政党制の計画はありませんでした。彼はまた、小さな政府と憲法の厳格な施行に対する強いコミットメントを表明します。これらのすべてのコミットメントは、戦争、外交、および政治的不測の事態の緊急事態によってすぐに試練に立たされることになります。

アメリカ大陸では、ジェファソンは拡大の方針をとります。彼は、ナポレオン1世(Napoleon I )がルイジアナ準州を売りに出し、アメリカでのフランスの野心を放棄することを決定したことの機会をとらえます。スペインは、領土をフランスに譲渡していました。この特別な買収であるルイジアナ買収は、1エーカーあたり数セントの価格で購入され、アメリカの面積を2倍以上に増やすことになります。ジェファソンには、そのような行政権の行使においては、憲法上の制裁はありませんでした。彼は、この領土拡大に関する憲法の幅広い建設的な見解をとりながら、関連する規則を作っていきます。

Monticello

ジェファソンはまた、スペインからフロリダを獲得する機会を求め、科学的および政治的な理由から、メリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis)とウィリアム・クラーク(William Clark)を大陸全体の探検隊として派遣しました。この領土拡大には問題がなかったわけではありません。ニューイングランド連邦主義者によって策定された北軍の計画を含む、さまざまな分離主義運動が頻繁に発生します。 1800年にジェファソンによって副大統領に指名されたアーロン・バー(Aaron Burr)はいくつかの西部開拓での謀議を主導しました。バーは1804年に辞して反逆罪に問われますが、1807年に無罪となりました。

最高行政責任者として、ジェファソンは司法のメンバーと衝突しました。その多くはアダムズによる任命者でした。彼の主な反対者の1人は、アダムズが任命したジョン・マーシャル(John Marshall) 裁判長であり、特にマーベリー対マディソン(Case of Marbury v. Madison)(1803)において、最高裁判所は議会の立法について、違憲審査を最初に行使します。この司法審査の権限は有名となります。

University of Virginia

ジェファソンの二期目の任期が始まる頃、ヨーロッパはナポレオン戦争(Napoleonic Wars)に巻き込まれました。アメリカは中立を維持しますが、イギリスとフランスの両方がさまざまな命令を課し、ヨーロッパとのアメリカの貿易を厳しく制限し、新しい規則に違反したとしてアメリカの船舶を没収します。イギリスはまた、アメリカ市民が時々巻き込まれるような事件を起こします。ジェファソンはイギリスとの条約条件に同意できず、アメリカの輸出を全面的に禁輸するイギリスとフランスの両方に「中立的権利」の侵害をやめさせようとします。そして通商禁止法が1807年に議会が制定されます。ニューイングランドでは、禁輸措置が、ニューイングランドの富を破壊するための南部の計画であると指摘します。マディソンが大統領に選出された直後の1809年に、この通商禁止法は廃止されます。