アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その25 文化的媒体と新聞

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科学以外の分野でのアメリカの文化的成果は、植民時代ではそれほど目覚ましくはありませんでした。アメリカ文学では、少なくとも伝統的なヨーロッパの形式のものはほとんど存在していませんでした。文学で最も重要なものは、フィクションでも形而上学でもありませんでしたが、ロバート・ビバリー(Robert Beverley)の著作による「歴史とヴァジニア州の現在の状態」(The History and Present State of Virginia)やウィリアム・バード(William Byrd)の「分岐点の歴史」(History of the Dividing Line)です。こうした書物は1841年まで公開されませんでした。

アメリカで最も重要な文化的媒体は、書物ではなく新聞でした。高額な印刷の費用では、最も重要なニュースを除いて書物での伝達は無理でした。したがって、求人広告や作物価格の報告などのより重要な情報が優先され、地元のゴシップや広範な投機的ニュースは後回しとなりました。新聞の次に、年鑑(almanac) はアメリカで最も人気のある文学形式であり、1739年に刊行されたベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャードの暦」(Poor Richard’s Almanack)は、この種の範疇で最も有名になりました。 1741年になって、フランクリンのGeneral Magazineが発行され、文芸雑誌がアメリカで始めて登場しました。しかし、18世紀のこうした雑誌のほとんどは購読者を引き付けることができず、わずか数年の発行でほぼすべて廃刊となりました。ワシントンD.C.にある議会図書館(Library of Congress)には、貴重な雑誌として貯蔵されています。

Library of Congress

南部植民地、特にチャールストンは、他の地域よりも住民のための立派な劇場を設立することに関心を持っているようでした。しかし、どの植民地でもヨーロッパの優れた劇場には追いついていませんでした。 ニューイングランドでは、ピューリタンの影響が演劇活動を広げる障害となり、国際的な都市となったフィラデルフィアでさえ、クエーカー教徒によって長い間、舞台芸術の発展が阻害されていました。

注釈」 議会図書館は、世界中から膨大な資料を集めた世界最大の図書館です。現在は、インターネット技術を駆使した電子図書館事業を推進しています。

 

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その24 植民地時代の知的文化の発展

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 アメリカが生んだ科学の天才は、ペンシルベニア州のジョン・バートラム(John Bartram)でした。彼は、新大陸で重要な植物データを収集し分類します。 1744年に設立されたアメリカ人文科学協会(American Philosophical Society)は、アメリカの優れた学術団体として知られていました。アメリカで最初のプラネタリウムを建設した天文学者はデビッド・リッテンハウス(David Rittenhouse)でした。ニューヨーク州副知事のカドウォールーダー・コールデン(Cadwallader Colden)は、植物学者および人類学者としての業績が、おそらく政治家としての業績を上回っていたといわれます。

 社会改革の多くの分野のパイオニアであり、植民地時代のアメリカの物理学者の第一人者の一人であるベンジャミン・ラッシュ(Benjamin Rush)は、人文科学協会の有力な会員の1人でした。人文科学協会の創設者の一人にベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)がいました。彼は、電気の流れに関する実験で主要な理論的進歩を発表した数少ない科学者の一人となりました。他に熱効率のよいストーブの製造とか避雷針の開発などの応用研究でも知られています。

Benjamin Franklin

 アメリカ独立宣言の起草委員の一人であったベンジャミン・フランクリンの名言はいろいろあります。「どんな愚かな者でも他人の短所を指摘できる。そして、たいていの愚かな者がそれをやりたがる」、「時間を浪費するな、人生は時間の積み重ねなのだから」、「 知識への投資がいつの世でも最高の利子を生む」、「友人はゆっくり選べ、変えるにはさらにゆっくりとやれ」、「生きるために食べろ、食べるために生きるな」、「財布が軽けりゃ、心は重い」 次の言葉は含蓄があります。「もし財布の中身を頭につぎこんだら、誰も盗むことはできない。知識への投資がいつの世でも最高の利子を生む」という名言です。

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アメリカ合衆国建国の歴史 その41 税を巡る議論

1763年に首相に就任したジョージ・グレンヴィル(George Grenville)は、すぐに植民地での歳入を増やすことで国防費を賄おうと考えます。最初の措置は、1764年のプランテーション法、通常「歳入法(Revenue Law)」または「砂糖法」と 呼ばれるもので、輸入された外国産糖蜜の関税をわずか3ペンスに引き下げる一方、精製糖への高い関税と外国のラム酒の禁止を関連づけたものでした。この政策は、イギリスの財務省のニーズと西インド諸島のプランターおよびニュー イングランドの蒸留業者のニーズのバランスを慎重に考慮したものでした。

この措置は実施されませんでしたが、政府はイギリス人将校を配置した税関のシステムを構築し、副提督裁判所(vice-admiralty court)まで設立します。この裁判所はノバスコシア州(Nova Scotia)のハリファックス(Halifax) に置かれ、ほとんど審理されることはありませんでしたが、原則的には地元の陪審員による裁判なので、イギリスの大事な特権を脅かすものでありました。ボストンはさらに、憲法上の理由から税の増収に反対しなます。こうした不安の声も聞かれますが、植民地は概してこうしたイギリスの措置を容認しました。

Benjamin Franklin


次に議会は、1764年に通貨法を制定し、戦時中から残存する多くの紙幣を流通から撤廃することで、植民地経済の展望に影響を与えます。この措置は、経済成長を制限するためではなく、不健全と思われる通貨を回収するために行われたものですが、戦後の困難な時期に流通媒体を著しく減少させ、さらにこのような状況はイギリス政府の困難を物語るものでした。

Statue of Benjamin Franklin

グレンヴィルの次なる政策は、法的文書、新聞広告、船舶積荷証券など、さまざまな取引に適用される印紙税の徴収でした。植民地は正式に相談を受けますが、代替案を提示することはありませんでした。ロンドンでは、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)も同意見でしたが、正式な異議申し立てを行った後、植民地は以前の税金と同様に新しい税金を受け入れるだろうと考えていました。しかし、1765年の印紙税法(Stamp Act)は、それまでの議会のどんな措置よりも強く深い打撃を与えます。一部の諜報員がすでに指摘していたように、戦後の経済的困難のため、植民地は準備資金が不足していました。ヴァジニア州では、資金不足は深刻で、議会議長で州財務長官のジョン・ロビンソン(John Robinson)は、通貨法によって公式に流通が停止された紙幣を操作して再分配します。