小栗忠順はフランスの援助を受けることを決め、若き天才技師といわれたレオンス・ヴェルニー(Léonce Verny )を招聘しました。ヴェルニーは当時27歳でした。小栗はその才能を信じ、製鉄所の設計から運営、さらには技術者の育成まで一切の権限を彼に委ねます。二人の間には、単なる雇用関係を超えた強い信頼が生まれました。
ヴェルニーは1856年にパリの理工系高等教育機関(リセーlycée)に入学します。この機関は、高等技術者を要するための学校で、フランスでは技術者養成機関の頂点にあるといわれました。1858年に海軍造船学校に進み、造船工学、造船技術を習得します。25歳で⒉等造船技師の資格を取得、その後造船技術者としてフランス海軍にはいります。その後、中国の寧波で造船業務に赴きます
江戸幕府は江戸近郊に造船所を建設するための支援をフランスに要請します。この計画を建議したのは、当時、勘定奉行を務め、横須賀製鉄所の建造に尽力した小栗上野介忠順です。当時、フランスは東洋への進出に出遅れていたため、フランス公使レオン・ロッシュ(Léon Roches)はこの要請を受けます。ロッシュは寧波にいたヴェルニーに託すのです。やがてヴェルニーは、建設計画をたてそれに基づいてロッシュは日本とフランの間で横須賀製鉄所の建設に関する契約をとりかわしまし。その建設費は当初240万ドルと見積もられました。このことがきっかけとなり、ロッシュは幕府寄りの立場を取るようになります。また、新任の英国公使ハリー・パークス(Harry Smith Parkes)への対抗意識もあり、内政不干渉を建前とする英国とは異なり、フランスは積極的に幕府を支援していくのです。
ヴェルニーは、日本で初めて本格的にメートル法を用いて設計をしていきます。さらに職人の世界だった建設現場に、西洋式の勤務時間、休暇制度、そして能力に応じた賃金体系を導入します。当時、日本では日曜日の習慣がなかったので、日曜日でも就業する日本人にフランスの技術者らは困惑したようです。近代的な時間の観念がなかった日本人のルーズさにもてこづったといわれます。帳簿の付け方を学ぶことで近代的な帳簿の管理できるようになります。ヴェルニーは「日本人の手で運営できるようにする」という小栗の意向を汲み、敷地内に学校を設立します。技術者養成機関の設置です。そこでフランス語や数学、物理を教え、後の日本のエンジニアの先駆けとなる人材を育てました。
横須賀は江戸に近く、波浪の影響を受けにくい入り江である上に艦船の停泊に十分な広さと深さを備えた海面があり、泊地として良好な条件を備えていたのです。それが造船所や製鉄所を含む同施設の建設地として横須賀が選ばれた理由です。横須賀ではフランス人達が驚くほどのスピードで造成が進められ、入り江が埋め立てられ山が切り崩されます。ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者の先頭にたって工事を指揮していったのです。
埋め立て工事は順調に進み、1867年には一番の大工事であった1号ドックの開削工事が始まります。横須賀製鉄所は、小栗の処刑後も明治政府によって引き継がれ、日本の工業化の「母体」となりました。「工場の工場」として機能し船を作るだけでなく、そこで使う工具やボルト、ナット、さらにはレンガを焼くための窯まで自前で整備していきます。なかでも熱した鉄をたたいて形を整えるスチームハンマー、鉄を削る先晩や穴をあけるドリルなどの大型工作機械は、現在も国の重要文化財に指定され、JR横須賀駅前にあるヴェルニー記念館に保存されています。ヴェルニーたちは、パン、石鹸、レンガ造りの建物などフランスの生活習慣も持ち込みます。その意味で横須賀はまさに、日本の「近代」が誕生した場所の一つだったと言えます。
参考文献 ・ヴェルニーと横須賀 横須賀市 平成20年

