幕府の終焉と小栗の最期

アメリカ視察で圧倒的な国力の差を痛感した小栗上野介は、「日本も自前で艦船を修理し建造できる施設を持たなければ、独立は保てない」と考えます。当時の幕府は財政難にあり、莫大な予算の確保は困難を極めます、小栗は「たとえ幕府が滅びても、この施設さえ残しておけば、次の住人がそれを使って国を豊かにできる」と説得し、約240万ドルという巨額の予算を認めさせました。視察の結果、波が静かで水深があり、防御にも適した地形を持つ横須賀が選ばれます。

 慶応4年、1868年に王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と幕府軍との戊辰戦争が起こります、小栗は新政府軍に対して「徹底抗戦」を主張します。彼は、幕府が保有する最新鋭の戦艦「開陽丸」とフランス式陸軍を駆使し、新政府軍を駿河湾で挟み撃ちにする作戦を立てていましたが、将軍徳川慶喜に却下され罷免されます。徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、罷免されて領地である上野国群馬郡権田村、現在の群馬県高崎市倉渕町権田に隠遁します。同年4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出しますが逮捕され、翌日、斬首されます。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという徳川埋蔵金説などが挙げられますが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていません。

 「逆賊」とは明治政府軍が小栗忠順を殺害したあと貼ったレッテルです。小栗忠順は逆賊だから殺されたのではあありません。西軍が殺した人物をすべて「逆賊」としてきた明治政府は、逆賊だからとして教科書に名前も業績も載せませんでした。むしろ殺されて当然の扱いをしてきた歴史があります。

右端が小栗上野介忠順

 明治維新は、尊王攘夷を掲げた革命です。尊王攘夷とは、幕末に盛んになった政治運動で、「天皇を尊び、外国勢力を排除(攘夷)する」という意味です。天皇を中心とする新しい尊王という秩序を確立し、外国の脅威から日本を守る攘夷という、幕府に頼らない自律的な国作りを目指した思想です。尊王攘夷とは、13世紀におこった朱子学の言葉から得たスローガンです。朱子学においては中国の儒教文明の優位をたかだかに掲げ、物事を善玉、悪玉とに分けてすべてを概念化したのです。つまり儒教にあらざるものは夷である、夷は悪であるという思想です。小栗はいわばこのスローガンのもとに不忠者、謀反人に仕立てられたのです。日本の近代化を目指すという大功に着手しながら、賊名を着せられたというべきでしょう。

 後に、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎からは近代化政策を行った人として評価されています。明治大正の政界や言論界の重鎮であった大隈は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれます。激動期の幕末に、類い希なる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、司馬遼太郎の「明治国家の父の一人」という指摘に表れています。

参考文献
 ・明治という国家「上」 司馬遼太郎 NHK出版 1994年
 ・小栗上野介と横須賀 横須賀市 平2019年

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