キリシタンと共産党員 その二 キリシタン禁教令

戦国時代から江戸時代にかけて カトリック教会の教徒はキリシタンと呼ばれていました。宣教師追放令を含むキリシタン禁教令は、特定の誰か一人が一度だけ出したものではなく、時の権力者たちによって段階的に強化されていきました。1587年(天正15年)に豊臣秀吉によるバテレン追放令がだされます。九州平定を終えた秀吉が、長崎が教会領となっていることや、日本人が奴隷として売買されている実態を知り、バテレンと呼ばれた宣教師の国外追放を命じたのです。ただし、当初は南蛮貿易の利益を優先したため、徹底した禁教には至りませんでした。

切支丹禁札

 1612年(慶長17年)に江戸幕府を開いた徳川家康が、耶蘇教とも呼ばれていたキリスト教の教えが幕府の主従関係をもとにした支配体制を脅かすと判断し、全国にキリスト教の信仰を禁止する命令を出しました。これにより教会が破壊され、修道士や高山右近などの有力なキリシタンが国外へ追放されました。所領や財産を失った右近はのちにフリッピンで病死します。

 第三代将軍家光の時代に、禁教は最も厳格化します。1638年の島原の乱の鎮圧を経て、1639年にはポルトガル船の来航を禁止します。さらに「宗門改」や「踏絵」といった制度を整え、キリシタンを完全に排除する体制を築きました。鎖国とキリシタン禁制が徹底化されキリシタンとわかれば火あぶりの刑に処せられました。「かの伴天連の徒党、件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を損なう、邪法にあらずして何ぞや」、「キリシタンは国を売る」と江戸時代の人々はそう思い込まされたのです。

 徳川幕府のみならず、政権の座にある者ははときに自分にとって都合のいい伝説をつくるものです。一つの政治体制が伝説を作って長年宣伝し続ければ、人々は信じてしまうものです。禁教令は300年続きました。その間、誰もがキリシタンは怖ろしい、と思ってしまったのです。翻って今や憲法によって信教の自由が認められていても、300年の旧教に対する圧制の影響は拭い去られていないというべきです。

 キリスト教は一神教であり、他の宗教と共存することは教義上ではありえません。その厳格さが日本人一般の宗教観に適合できなかったというべきです。明治になってキリシタン禁制が解除された後も、バテレン邪宗門の観念は根強く残存し、耶蘇教ーキリスト教撲滅運動は全国的に激しく行われます。

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