ロシアは1775年、コサックの本拠を襲いコサックを武装解除し、ロシア・ウクライナを三分割します。1793年のポーランド分割でウクライナは再び統合されます。然してウクライナの政治的自治権ばかりか、その名称さえも消滅します。1764年から1781年に、エカチェリーナ2世(Yekaterina II) は中央ウクライナをロシア帝国に編入します。その頃になるとコサック族やその本拠であったシーチは滅亡しています。1783年にクリミア半島を併合し、ロシア人によって ノヴォロシア(Novorossiya)という街が造られます。ノヴォロシアとは「新しいロシア」という意味です。
ロシア皇帝ツァーリ (Tsarist) の支配が及び、ロシア化が進み、ウクライナ語の使用は禁止され、ウクライナの国民性は封印されていきます。現在のウクライナの西側は、ロシアとオーストリアのハプスブルグ王家 (Habsburg)の支配に置かれ、1795年のポーランド・リトアニア公国の消滅まで続くのです。ハプスブルグ家は、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた名門で、オーストリアを領有しカール五世(Karl V)のとき、スペイン王をかねて「日の沈まない世界帝国」と呼ばれるほど、ヨーロッパ最大の勢力となります。
19世紀になると、ロシア帝国の奥地にウクライナ人の移民が始まります。1897年の統計によれば、223,000人のウクライナ人がシベリアへ、 102,000人が中央アジアへ移民しています。レーニン(Vladmir Lenin)が率いた左派のボルシェビキ(Bolsheviks) が極東共和国を建設しようとします。1906年のシベリア鉄道の開通によって、その後10年間に1,600万人のウクライナ人が極東へ植民します。アムール川(Amur River)から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地は、「緑のウクライナ」(Green Ukraine)と呼ばれるようになります。しかし、「緑のウクライナ」と呼ばれる国家の建設運動は失敗します。