ウクライナの歴史から学ぶ その十三 コルホーズとウクライナ

1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域で人為的なホロドモール(Holodomor)と呼ばれ大飢饉が起きます。ウクライナで収穫される小麦は貴重な外貨獲得の手段でした。重工業化を進めるスターリンは、ウクイナのコルホーズ(集団農業) (Kolkhoz)に過剰な穀物徴収を課します。その結果、現地の農民が食べるものは残らず、約400万人もの人々が死亡したといわれる大飢饉です。自営農家(クラーク:Kulak)と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府によるコルホーズ化により家畜や農地を奪われます。クラークとは、「共産主義に反対して個人で富を蓄える農民」とわれました。それでも農民は各地で根強く抵抗しますが抗し切れず、最終的に自営農地や家畜などの資産はコルホーズに接収されます。2006年に当時のウクライナ大統領ユシチェンコ(Viktor Yushchenko)によって「ホロドモールはジェノサイド(大量虐殺)であった」とし、ホロドモールを否定した者を刑事罰に処するとします。

ホロドモール–大飢饉

1941年6月の独ソ戦の勃発にスターリン体制からの解放という希望がウクライナに生まれます。ウクライナ民族主義者組織(OUN)はドイツ軍の占領下でウクライナ独立を宣言しますが、ドイツ軍はそれを認めず、ウクライナを植民地とし、ウクライナ人を劣等人種として数十万人のウクライナ人を東方労働者として強制的にドイツに送ります。さらにウクライナ・パルチザン蜂起軍 (UPA)を組織し、ドイツ軍とゲリラ戦を展開します。

ドイツ軍の撤退のあと、蜂起軍は反ソ独立を掲げてソビエト軍と戦争を継続しますが、1950年半ばまでに鎮圧されます。第二次大戦で、ウクライナでは少なくとも民間人390万人を含めて550万人の死者がでて、そのうち90万人はユダヤ人といわれます。第二次大戦によってガリツィアはウクライナに併合されます。その直後から農業の集団化が強行されます。その地で優勢であったウクライナ・カトリック教会は非合法化され、ガリツィアから約50万人の人々がシベリヤに流刑となります。戦後、ウクライナ共和国は白ロシア共和国とともに国際連合(UN)に加盟します。これは、1945年のヤルタ会談(Yalta Conference)によるものでした。ヤルタ会談とは、クリミア半島の保養地ヤルタで戦後処理の基本方針について協議した会談です。

Holodomor in Ukraine

1954年には、ウクライナ・コサックのポーランドからの独立戦争勝利を祝い,クリミア半島はロシア共和国からウクライナに移譲されます。そして1956年以降、多くの粛清されたウクライナ人の名誉回復が行われます。1960年代になると若い世代の作家や詩人らによってウクライナ化を求める声が上がります。1963年から共産党第一書記シェレスト(Petro Shelest)は、これを支持しますが後に民族主義者として批判され失脚します。