トランプ政権を相手取り訴訟

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ハーヴァード大学(Harvard University) は4月21日、トランプ政権を相手取りボストンの連邦地方裁判所(U.S. District Court in Boston)に訴訟を起こしました。研究資金の凍結は違憲かつ「完全に違法」であると主張し、裁判所に対し22億ドル(約3150億円) 以上の研究資金の返還を求めるのです。この訴訟は、裁判所に対し、資金凍結を取り消し、既に承認された資金の流れを再開し、連邦法に定められた手続きに従わずに現在の資金を凍結したり、将来の資金提供を拒否したりする政権の試みを阻止するよう求めています。

 アラン・ガーバー学長(Alan Garber)は、大学コミュニティへのメッセージの中で、今回の訴訟は、ハーヴァード大学のガバナンス、雇用、入学方針の変更、そして学生、教職員の見解の監査などを通じて「視点の多様性」を確保することを求める政府の要求を大学側が拒否したことを受けて、トランプ政権がとった措置がきっかけとなったと述べています。

John Harvard

 ガーバー学長は、4月11日付の政府からの書簡に記載されていたこれらの変更は押し付けがましく、「大学に対する前例のない不適切な統制」を課すものだと主張します。ガーバー学長は、トランプ政権の一部の関係者が4月11日以降、書簡は誤って送付されたと主張していることも指摘しています。しかし、その後の政権の発言や行動は、それを裏付けるものではないと述べています。

 ハーヴァード大学がホワイトハウスの要求を拒否してから数時間後、政権は22億ドルの資金凍結を発表し、さらに強硬な姿勢を強め、ハーヴァード大学の免税資格の剥奪と留学生の教育への脅威を検討していると表明します。さらにガーバー学長は、政権はさらに10億ドルの資金凍結を検討していると述べています。

 4月22日にガーバー学長は「先ほど、資金凍結は違法であり、政府の権限を超えているため、停止を求める訴訟を起こしました」と述べます。さらに「懲罰的措置を講じる前に、連邦政府は我々が反ユダヤ主義とどのように闘っているか、そして今後もどのように闘っていくかについて、我々と話し合うことを法律で義務付けられています。ところが、4月11日に政府が要求した内容は、我々が誰を雇用し、何を教えているかをコントロールしようとするものです。」と抗議するのです。

Harvard College in 1769

 ハーヴァード大学の訴状によると、憲法修正第一条(First Amendment)は、イデオロギー的均衡を強制しようとする政府の干渉から言論の自由を保護し、政府が法的な制裁やその他の強制手段を用いて好ましくない言論を抑圧することを禁じています。訴状はまた、政府の「凍結先行」戦略が、公民権侵害の疑いのある研究資金受領者に対する手続きを定めた法律に違反していると主張しています。規定の手続きは、自主的な交渉から公式の聴聞会へと進み、その後、調査結果が発表されます。そして、調査結果が公表されてから30日後に始めて資金提供を停止することができることになっています。

 「これらの致命的な手続き上の欠陥は、被告の突然かつ無差別な決定の恣意的で気まぐれな性質によってさらに悪化しています」と訴状は述べています。訴状は、政府側の急速なエスカレーションについて説明しています。2月に、複数機関からなる反ユダヤ主義対策タスクフォース(Antisemitism Task Force)からの最初の調査の後、大学当局と大学関係者は4月下旬にキャンパスへの公式訪問を予定するとしました。

Memorial Church

 しかし、3月下旬、ハーヴァード大学は、大学とその関連病院への総額87億ドルの研究助成金の見直しを通知する書簡を受け取ります。4月3日、ハーヴァード大学は資金提供の継続を確保するための条件のリストを受け取り、最終的に4月11日にそれらの条件を具体化した書簡を受け取ります。過度で広範囲にわたる要求を含むこれらの詳細に対して、ハーヴァード大学側が拒否し、ガーバー学長がハーヴァード大学は独立性や憲法上の権利について妥協しないという声明を出すのです。

 ガーバー学長は、トランプ政権の行動は、ガン、感染症、戦場での負傷に関する重要な研究を危険にさらしていると述べます。訴訟では、資金が流動的であるため、疾患の研究に用いられる生きた細胞株や、連邦政府の助成金に縛られている研究者の雇用などについて、難しい決断を下さなければならないと指摘します。資金が回復されない限り、ハーヴァード大学の研究プログラムは大幅に縮小される懸念を表明しています。

「政府の過度な介入の影響は深刻で長期的なものとなるだろう」とガーバー学長は述べています。「医療、科学、技術研究を無差別に削減することは、アメリカ国民の生命を救い、アメリカの成功を促し、イノベーションにおける世界のリーダーとしてのアメリカの地位を維持するという国家の能力を損なうことになる」ガーバー学長は、反ユダヤ主義との闘いはキャンパス内でまだ行われていないことを認めています。

Memorial Hall

 ハーヴァード大学はすでにその方向でいくつかの措置を講じていますが、ガーバー学長によると、反ユダヤ主義および反イスラエル偏見対策タスクフォース(Task Force on Combating Antisemitism and Anti-Israeli Bias)と、反イスラム教、反アラブ、反パレスチナ偏見対策タスクフォース(Task Force on Combating Anti-Muslim, Anti-Arab, and Anti-Palestinian Bias)がまもなく完全な報告書を発表する予定としています。ガーバー学はこれらの報告書を「強烈で痛みを伴うもの」(hard-hitting and painful)と評し、具体的な実施計画を伴う提言が含まれているとも述べています。

 「ユダヤ人でありアメリカ人である私は、反ユダヤ主義の高まりに対する正当な懸念があることを深く理解しています。この問題に効果的に対処するには、理解、意図、そして警戒が必要です」とガーバー学長は述懐しています。「ハーヴァード大学はこの取り組みを真剣に受け止めています。法律上の義務を完全に遵守しながら、憎しみとの戦いに対して引き続き緊急に取り組んでいきます。これは私たちの法的責任であるだけでなく、道義的責務でもあります。」

 ハーヴァード大学は敢然と次のように宣言しています。「どの政党が政権を握っているかに関わらず、いかなる政府も私立大学が何を教えられるか、誰を入学させ、雇用できるか、そしてどのような研究分野や探究分野を追求できるかを指示すべきではない。」

ハーヴァード大学:トランプ政権の要求を拒否

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トランプ政権の相互関税政策の影響は海外だけではありません。アメリカの大学へも深刻な打撃を与えようとしています。世界で最も優れた大学の一つ、ハーヴァード大学(Harvard University)もその影響を受けています。ハーヴァード大学の学生数は22,000名、そのうち大学院生は15,200名という一大研究中心の大学です。これまでのノーベル受賞者数は162名、大学が有する基金(endowment)はなんと370億ドル(5兆2,890億円)で全米第一となっています。ちなみにWikipediaによりますと日本で最も基金を有するのは慶應義塾大学で780億円です。この違いが日米の大学の実力の差を顕著に示しています。

ハーヴァード大学のエンブレム

 トランプ政権は、これまでガザ(Gaza Strip)紛争に関連する学生抗議活動へのハーヴァード大学の対応を批判してきました。トランプ大統領は、 ハーヴァード大学がキャンパス内のユダヤ人学生を反ユダヤ主義的な差別や嫌がらせから適切に保護していなかったとして、1964年公民権法第6条(Title VI of the Civil Rights Act) に違反していると非難しています。

 これに対してハーヴァード大学第31代学長のアラン・ガーバー(Alan M. Garber) は2025年4月14日、トランプ政権との補助金を巡る交渉で、学生や教員の「反ユダヤ主義的な活動」(antisemitism movement) の取り締まり強化などを求めた政権側の要求を拒否すると明らかにしました。ガーバーはユダヤ系アメリカ人であることも注目されます。トランプ大統領は、政権が推進する方針に従わない教育機関への補助金を打ち切る姿勢を示しています。 ハーヴァード大学は政権と真正面からぶつかる初めてのケースとなっています。

 パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip, Palestinian Territories)での戦争を巡り、トランプ大統領は「反ユダヤ主義」から学生を守らない大学への補助金打ち切りを明言し、ハーヴァード大を含む多数の大学に対策を講じなければ強制措置を取ると警告しました。2024年に全米に広がったガザ反戦デモの発信地となったコロンビア大学(Columbia University) は、4億ドル (573億円)相当の補助金や契約を凍結された後に政権の要求を受け入れ、パレスチナを含む中東研究のカリキュラム見直しや抗議活動の取り締まり強化を約束しました。背に腹はかえられないと考えたのでしょう。

創設者 John Harvard

 トランプ政権が推し進める改革は「法から乖離している。大学は独立性を放棄することも、憲法上の権利を放棄することもない」とガーバー学長は強調しています。 そしてハーヴァード大学は月曜日、トランプ政権による90億ドル (1兆2,888億円) の研究資金供与を脅かす要求を拒否し、政府が推し進める改革は政府の法的権限を超えており、大学の独立性と憲法上の権利の両方を侵害していると主張しました。

 ガーバー学長はさらに「どの政党が政権を握っているかに関わらず、いかなる政府も私立大学が何を教育できるか、誰を入学・採用できるか、そしてどのような研究分野や調査研究を追求できるかを指示すべきではない」と付け加えています。

 ガーバー学長のメッセージは、トランプ政権が送付した書簡への抗議です。書簡には、 ハーヴァード大学が連邦政府との資金提供関係を維持するために満たさなければならない要求が含まれていました。これらの要求には、学術プログラムや学部の監査、学生、教職員の視点、大学のガバナンス構造と採用慣行の見直しなどが含まれています。

 政府が審査している90億ドル(1兆2,888億円) には、 ハーヴァード大学への研究支援2億5,600万ドル (371億4,552円)に加え、大学およびマサチューセッツ総合病院(Mass General Hospital)、ダナ・ファーバーがん研究所(Dana-Farber Cancer Institute)、ボストン小児病院(Boston Children’s. Late Monday)など、複数の著名な病院への将来の拠出金87億ドル (1兆2,428億円)が含まれています。トランプ政権は月曜日遅く、 ハーヴァード大学への22億ドル(3,142億円)の助成金と6,000万ドル (85億7,780万円)の契約を凍結すると発表しました。

 ガーバー学長は、 ハーヴァード大学が反ユダヤ主義との闘いに引き続き尽力していることを強調し、過去15ヶ月間に実施された一連のキャンパス対策についても詳細を説明しています。さらに、人種を考慮した入学選考を廃止した最高裁判決(Supreme Court decision) を大学は遵守し、 ハーヴァード大学における知的・視点の多様性を高める取り組みを行ってきたと述べてきました。

 反ユダヤ主義との闘いにおける大学の目標は、「法律に縛られない権力の行使は、 ハーヴァード大学の教育と学習を統制し、運営方法を指示することはできない」とガーバー学長は述べています。さらに「我々は欠点に対処し、我々はコミットメントを果たし、価値観を体現するという仕事は、我々がコミュニティとして定義し、取り組むべきものである」と反論するのです。

 ハーヴァード大学は、ここ数週間でトランプ政権が標的とした数10校の一つに過ぎません。先月、教育省はコロンビア大学、ノースウェスタン大学(Northwestern University)、ミシガン大学(University of Michigan)、タフツ大学(Tufts University)を含む60の大学に対し、1964年公民権法の差別禁止条項に違反したとして強制措置を取ると警告する書簡を送付しました。さらに、政権は複数の機関の研究資金を凍結するという措置も講じました。

 大学、連邦政府、民間企業の間で強固な研究・イノベーション・パートナーシップ(innovation partnerships) が築かれたのは、第二次世界大戦の時代まで遡ります。全国の学校で実施された政府支援の研究は、数え切れないほどの発見、機器、治療法、そして現代社会の形成に貢献してきました。コンピュータ、ロボット工学、人工知能、ワクチン、そして深刻な病気の治療法はすべて、政府資金による研究から生まれ、研究所や図書館から産業界へと波及し、新たな製品、企業、そして雇用を生み出してきました。

1906年頃のキャンパス

 20253月に医学研究機関(United for Medical Research)が発表した報告書によると、生物医学研究へのアメリカ最大の資金提供機関である国立衛生研究所(National Institutes of Health: NIH)が資金提供する研究費1ドルごとに、2.56ドルの経済活動が創出されていると発表しています。報告書によると、NIHは2024年だけで369億ドル (5兆2,695億円)の研究助成金を交付し、945億ドル (13兆4,898億円)の経済活動を生み出し、40万8,000人の雇用を支えているとも伝えています。

 2025年4月7日のインタビューで、デューク大学(Duke University) 経営学准教授で、アメリカ政府と高等教育機関の数十年にわたるパートナーシップに関するワーキングペーパーの共著者でもあるダニエル・グロス(Daniel P. Gross)准教授は、大学からの研究資金の撤退はアメリカのイノベーションにとって「壊滅的打撃」だと述べています。デューク大学に移る前は ハーヴァード・ビジネス・スクールで教鞭をとっていたグロス氏は、「大学は現代のアメリカのイノベーションシステムに不可欠な要素であり、大学なしでアメリカは成り立たない」と述べています。

 ハーヴァード大学医学部( Harvard Medical School)のジョージ・デイリー(George Q. Daley)学部長は、バイオ医学は長きにわたり連邦政府との強力なパートナーシップに依存しており、そのパートナーシップはアメリカ国民の命を救う進歩という形で実を結んできたと述べました。デイリー学部長は今月、同医学部のジョエル・ハベナー(Joel Habener)教授が、糖尿病治療薬や抗肥満薬の開発につながったGLP-1に関する研究でブレイクスルー賞(Breakthrough Prize)を受賞したことを指摘しました。デイリー学部長はまた、心血管疾患、がん免疫療法、その他多くの疾患における革新的な研究にも言及し、連邦政府の補助金の重要性を指摘しています。

 「70年にわたるパートナーシップを振り返ると、政府の投資は見事に成果を上げてきた」とデイリー学部長は述べます。「 ハーヴァード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、そして数々の優れた病院がベンチャーキャピタル投資を引きつけ、今や製薬研究インフラが地域社会にもたらされています。これらはすべて、アメリカのバイオサイエンスの至宝です。」

 中国との競争が激化する現代において、バイオサイエンス(bio science)への脅威はさらに大きな問題となっているとデイリー学部長は付け加えます。「研究費の削減は自滅的で、経済、そしてバイオテクノロジーと医薬品分野におけるアメリカのリーダーシップにとって有害だ」とデイリー学部長は述べています。「研究費のカットは、アメリカのリーダーシップの本質を脅かすような、そして最終的にはバイオテクノロジーに巨額の投資を行っている中国のような国々との経済競争力を脅かすような形で、鉄槌が下されたように感じる」とも述べています。

 ガーバー学長は地域社会へのメッセージの中で、大学の研究が科学と医学の進歩に貢献していることを強調するとともに、独立した思考と学問の重要性を次のように強調しています。
 「思考と探究の自由、そしてそれを尊重し保護するという政府の長年のコミットメントにより、大学は自由な社会、そして世界中の人々のより健康で豊かな生活に不可欠な形で貢献することができました。私たち全員が、その自由を守ることに責任を負っているのです。

 私の印象ですが、 ハーヴァード大学などへの研究費補助の凍結という方針は、明らかに間違いであると考えます。科学研究は膨大な費用と時間と人的な資源を要する分野です。アメリカがこのような政策を続けるとすれば、世界的な競争の時代に遅れをとるばかりでなく、人類の発展にもマイナスになるはずです。

 アメリカは何十年もの間、モノづくりよりも高付加価値のソフトウエア開発にシフトしてきました。これも多くの大学機関における科学研究の果実です。ただ、多くの識者は、来年秋の中間選挙をにらみながら、トランプ関税をはじめとする通商政策の不透明感を懸念し、トランプ政権の持続性や一貫性に疑問を持っています。ハーヴァード大学の学長のコメントからうかがえることは、トランプ政権の大学への介入や研究費補助の凍結はしばらくの辛抱であると考えているふしがあることです。

参考: https://news.harvard.edu/gazette/

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ハンナ・アーレントと全体主義の理解

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はにめに

『Hannah Arendt』という映画を観たことがありますか?この映画は、1951年に出版された「全体主義の起原」(The Origin of Totalitarianism)という著作を基にした作品です。この名著を執筆したのは、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)で、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人の政治哲学者です。ナチスの全体主義(totalitarianism)はいかにして起こり、なぜ誰にも止められなかったのか、アーレントはそれを、歴史的考察により究明しようとしました。この本は、歴史をさかのぼって探求する内容で、中々理解するのが難しい作品です。

アーレントが大学を卒業して間もない頃にドイツに台頭したヒトラーを党首とするナチス党(Nazi)は、ドイツが疲弊した原因がユダヤ人にあるとし、ユダヤ人が資本主義を牛耳り、経済領域で不公平な競争を行っていると主張するのです。そしてユダヤ人を絶滅させる「最終解決」(final solution) を掲げ反ユダヤ主義政策(antisemitism)をとります。ユダヤ人はユダヤ教で結びついており、階級社会からも独立していました。こうした状況から、ヒトラー政権下ではユダヤ人は目の敵にされてしまいます。

Hanna Arendt

全体主義とは

全体主義とは何かという定義ですが、平凡社の世界大百科事典によりますと、〈個〉に対する〈全体〉の優位を徹底的に追求しようとする思想・運動とあります。その用例として、イタリアのファシズム(Fascism)、ドイツのナチズム(Nazism)、ソビエトのスターリン(Joseph Stalin)体制、中国の一党独裁体制の基本的な特質を表現する概念とされています。アーレントによれば、全体主義とは、単なる主義でも思想でもなく,それに基づく運動/体制/社会現象を含むといわれています。全体主義はその内容は問われなく、どんなものでも任意に選ばれるというのです。

様々な「社会的な俗情」例えば、嫉妬,貪欲,恐怖心等に基づいて選定されます。その後,その俗情を隠蔽するために、ご都合主義的な理屈が無意識的にねつ造されたり,ご都合主義的なイデオロギーとなります。やがて理論が無意識的に選ばれ,テロをちらつかせ、プロパガンダに利用されていきます。当然ながら論理的,倫理的な一貫性が不在となり、必然的に人々は思考停止になり、体制側は様々な工夫を重ねながら,より効率的に全体主義を敷衍していくというのです。

アーレントは、全体主義は、専制や独裁制の変形でもなければ、野蛮への回帰でもないと主張します。20世紀に初めて姿を現した全く新しい政治体制だというのです。その形成は、国民国家の成立と没落、崩壊の歴史と軌を一にしています。国民国家成立時に、同質性や求心性を高めるために働く異分子排除のメカニズムである「反ユダヤ主義」と、絶えざる膨張を続ける帝国主義の下で生み出される「人種主義」(racism)の二つの潮流が、19世紀後半のヨーロッパで大きく広がっていきます。

Movie,Hanna Arendt

反ユダヤ主義とは

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する憎悪や敵意、偏見や迫害のことで、ユダヤ人を差別し排斥しようとする思想といわれます。人種主義とは、人種間に根本的な優劣の差異があり、優等人種が劣等人種を支配するのは当たり前であるという思想です。その起源としては、近代以降、人種が不平等なのは自明であり、社会構造の問題は人種によって決定づけられるとしたことです。フランスにおける貴族という特権階級を正当化する目的が、最初期の人種主義とされます。

国民国家の誕生と帝国主義

歴史のおさらいですが、絶対王政が崩壊しフランス革命が起き、アメリカ独立革命という「市民革命」が起ききます。こうして国家主権は国民が持つという意識が生まれたのです。また、国民は、言語・文化・人種・宗教などを共有する一体のものと意識され、国民としての一体感が形成されます。そして国民が憲法などによって主権者であると規定され国民主権が確立したのが「国民国家」(nation state)なのです。単一民族で成り立っている国民国家はほとんど無く、アメリカのように多くは民族的特質の多様な人びとが国民国家を形成しているので「多民族国民国家」とも呼ばれます。

アーレントによると、19世紀のヨーロッパは文化的な連帯によって結びついた国民国家となっていきます。国民国家とは、国民主義と民族主義の原理のもとに形成された国家です。国民主義では、国民が互いに等しい権利をもち、民主的に国家を形成することを目指しました。また民族主義は、同じ言語や文化をもつ人々が、自らの政治的な自由を求めて、国境による分断を乗り越え一つにまとまることを目指す考え方です。

同時に19世紀末のヨーロッパでは原材料と市場を求めて植民地を争奪する「帝国主義」が広がります。さらに、自分たちとは全く異なる現地人を未開の野蛮人とみなし差別する新たな人種主義が生まれます。他方、植民地争奪戦に乗り遅れたドイツやロシアは、自民族の究極的な優位性を唱える「汎民族運動」(pan-ethnic movement)を展開します。 汎民族運動とは、民族的な優越と膨脹を主張するイデオロギーのことです。中欧・東欧の民族的少数者たちの支配を正当化する「民族的ナショナリズム」を生み出します。そして国民国家を解体へと向かわせ、やがて全体主義にも継承されていくのです。

やがて20世紀初頭、国民国家が衰退してゆく中、大衆らを民族的ナショナリズムの潮流を母胎にし、反ユダヤ主義的のような擬似宗教的な「世界観」を掲げることで大衆を動員していくのが「全体主義」であるとアーレントは分析します。全体主義は、成熟し文明化した西欧社会を外から脅かす「野蛮」などではなく、もともと西欧近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけだというのです。

アイヒマン裁判と悪の陳腐さ

何百万人単位のユダヤ人を計画的・組織的に虐殺したことがどうして可能だったのか?アーレントはその問いに答えを出すために、雑誌「ニューヨーカー」(New Yorker) の特派員としてイスラエル(Israel)に赴き「アイヒマン裁判」を傍聴します。アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)はユダヤ人移送局長官として、収容所へのユダヤ人移送計画の責任者といわれました。アーレントは、実際のアイヒマンは、組織の論理に従い与えられた命令を淡々とこなす陳腐な小役人だったのを目の当たりにし驚愕します。自分の行為を他者の視点から見る想像力に欠けた凡庸な人間だったというのです。「悪の権化」のような存在と目された彼の姿に接し、「誰もがアイヒマンになりうる」という可能性をアーレントに思い起こさせるのです。

Adolf Eichmann

映画の中で、学生たちを前にして、毅然とした反論を行うアーレントが見られます。誰もが悪をなしうるというのです。「悪」をみつめるとき、「それは自分には一切関係のないことだ」、「悪をなしている人間はそもそもが極悪非道な人間だ。糾弾してやろう」と思い込み、一方的につるし上げることで、実は、安心しようとしているのではないか? アーレントはさらに言います。『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…

こうしてアーレントは「エルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告」(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)というニューヨーカー誌への寄稿のなかで「誰もがアイヒマンになりうる」という恐ろしい事実を指摘します。「Banality」とは、考え・話題・言葉などが退屈で陳腐なこと、という意味です。彼女は言います。『彼は愚かではなかった。完全に平凡で全く思想がない――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした要因だったのだ。』

アーレントへの批判

ニューヨーカー誌でこの報告が発表されると、アーレントは痛烈に批判されます。つまり『エルサレムのアイヒマン』は、ユダヤ人やイスラエルのシオニスト(Zionist)たちから「自分がユダヤ人であることを嫌うユダヤ人がアイヒマン寄りの本を出した」というのです。このような非難に、アーレントは、裏切り者扱いするユダヤ人やシオニストたちに対して、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人であることに自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論するのです。

アーレントは、「全体主義」とは、外側にある脅威ではなく、どこにでもいる平凡な大衆たちが全体主義を支えてきたということです。私たちは、複雑極まりない世界にレッテル貼りをして、敵と味方に明確に分割し、自分自身を高揚させるようなわかりやすい「世界観」に、たやすくとりこまれてしまいがちです。そして、アイヒマンのように、何の罪の意識をもつこともなく恐るべき犯罪に手をそめていく可能性を誰もがもって全体主義の芽は、人間一人ひとりの内側に潜んでいるのがアーレントの主張です。全体主義は、人間関係を成り立たせる共通世界、共通感覚を破壊して、人々からまとま判断力を奪う、人々はイデオロギーによる論理の専制に支配されるというのです。

おわりに

アーレントの研究は、現代社会を省察する上で次のような示唆を与えています。経済格差が拡大し、雇用・年金・医療・福祉・教育などの基本インフラが不安視される現代社会は、「擬似宗教的な世界観」が浸透しやすい状況にあり、たやすく「全体主義」にとりこまれていく可能性があるというのです。擬似宗教的な世界観とは、前述したように反ユダヤ主義のような人種差別思想です。世の中が不安になると、人々は物事を他人任せにし、全体主義が登場する要因になるのです。アーレントは、「大衆が独裁者に任せきることは、大衆自らが悪を犯していることである」と唱えました。こうした過ちを再び犯さないためにも、私たちは政治に関心をもち、積極的に参加していくことが必要だとアーレントは示唆するのです。

参考書
 『全体主義の起原』 みすず書、1972年
 『人間の条件』 中央公論社、1973年
 『精読 アレント全体主義の起源』 講談社、2023年

投稿日時 2024年7月7日        成田 滋