心に残る一冊 その122「樅ノ木は残った」 その九 甲斐と久世大和守

江戸幕府老中、久世大和守を甲斐は八十島主計という名前で訪ねます。ギヤマンに入った透明な赤い色合いの酒を差し出します。甲斐は自分が毒見をするといって一杯注いで飲みます。大和守は自分も飲んでみようかと云います。葡萄酒そのものはさして珍しくはいのですが、その酒のやわらかくこなれた甘みとこもったような香りとは、大和守の舌を陶酔させたようでした。
「この酒の味と香りは珍重だ、これをあじわいながら話を聞こう」
と大和守が云います。

「まずはご覧を願いたいものがございます」甲斐は懐から奉書に包んだ書状を取り出します。
「これはどいうものだ」
「まずは御披見を願います」
読み込んでいくうちに大和守の顔はゆっくりと硬ばってゆき、下唇がさがっていきます。その表情は激しい驚きと、怯えたような色があらわれます。

「この証文の主であるある一人は、おのれの職権を悪用して、人を扇動し無法にことを起こし、ついには公儀のご裁決をうけなければならぬ、という状態にまでたち至りました」
「証文は三十万石分与ということが目的ではなく、さる大名の家中を紛争におとしいれて公儀のご評定にかけ、仕置きが不取締まりというご裁決で、六十万石改易にもってゆくということなのです」

「待て、原田、待て、」と大和守が云います。
「さる候は三十万石分与という密約のあることを知って、忠告をなされた、もちろんその証文の他のお一人は、天下に並ぶものなきご威勢のある方です、しかし、、、、、いかにご威勢並ぶものなき方でも、六十万石を分割し、ご自身の縁弁にあたる者に三十万石を分与する、などということができるものでしょうか」

大和守は唾をのみます。
「仙台六十万石の取り潰しが成功すれば、加賀、薩摩にも手を付けることができるでしょう」 甲斐はそこで叫ぶように囁きます。
「その証文は六十万石改易にかけられた罠です」
「私どもはこういう事態ならぬよう、忍耐のうえにも忍耐してまいりました」
「罪無くして罰せられる者、無法に刑殺される者、闇討ち、置毒、、、幾十人となく血を流し斃れていくさまを、ただ主家大切という一義のため、堪え忍んでまいったのです」

「しかしそのかいもなく、老中ご評定ということになりました」
「ご評定の裁決によっては、一門一家あわせて八千余に及ぶ人数が郷土を追われ家を失い、生きる方途を迷わなければなりません」
甲斐は殆ど眠たそうな眼つきで大和守を見つめます。