私は「空海の風景」など司馬遼太郎氏の作品を読んだ一人です。その中で印象に残るのが「街道をゆく」という43冊のシリーズものです。「街道」とか「みち」という交通の視点から歴史や文化、風俗を考察しているのが特徴です。司馬遼太郎は「もしも後に、私の仕事で残るものがあるとするならば、それは『街道をゆく』かも知れない」といわしめるほど、思い入れの多い内容となっています。国内はもとより、アメリカ、アイルランド、モンゴル、オランダ、スペイン、中国、台湾、韓国などを紀行しながら「日本人とは何か」「国家、文明、文化、民族とは何か」を思索しています。
上は国家から下は町内会まで人は多くの集団の中で暮らし、秩序づけられ安らげて生きています。それを支えるのが文明とか文化であるというのが司馬史観といえる考え方です。文明といえば世界四大文明とか、文明開化といったように否定できないような「普遍的」なものとか合理的なものという意味合いで使われます。「普遍的」とは国境とか民族の垣根を超えて通用する価値ということです。
他方、文化ではこちらはむしろ不合理なものであり、特定の集団、たとえばある民族においてのみ通用する特殊なもの、他に及ぼし難いものといえそうです。例えば箸と茶碗をもって食するのは、アジア人に見られる食生活です。あるいは婦人が襖をあけるとき、両ひざをついて両手で開けるのも日本独特の所作です。結婚式は教会で行い、子供ができると神社で七五三を祝い、病気になるとお寺のお百度参りをするのも文化。忠臣蔵の忠義心も文化です。独特ですが普遍性はありません。以上の脈絡からすれば、キリスト教も仏教も神道もイスラム教もいろいろな民族がいろいろな様式で信仰している文化の様式ということになります。
文化に合理主義は成立しにくい、というテーゼに対して反論したくなりそうなのですが、そうした問いはさておいて説明しにくいほど美しさとか雅さとか、安堵したり落ち着いた気分になれるのが文化です。司馬遼太郎は「不合理さこそ文化の発光物質なのである」といっています。永遠に光り輝くものではないという意味にもとれます。
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