ノースカロライナと迫害されたキリスト教徒

注目

ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)というところの出身で、現在名古屋に住むRon Scronceという友人がいます。この郡にワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々が住む、人口4,689人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな街があるのを教えてくれました。なぜこの田舎街にワルドー派の人々が定住したかの経緯は興味深いので、リサーチすることを勧められました。Scronce氏はヴァルデイズの隣りのヒッコリー(Hickory)の出身です。以下はワルドー派の信徒がヴァルデイズにやって来るまでの歴史です。

ヴァルデイズ長老教会

バーク郡にあるヴァルデイズは、1893年にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域からの移民によってつくられます。今この街には、アメリカ最大のワルドー派のキリスト教会があります。その教会名は、ワルドー派長老教会(Waldensian Presbyterian Church)として知られています。ヴァルデイズには他に20もの教会があります。後述しますが、ワルドー派の信徒は最初の新教徒(protestant)とか最古の福音派運動(evangelical movement)を始めた人々といわれています。彼らは宗教改革の中心人者であったマルチン・ルター(Martin Luther)よりも以前に福音主義を掲げていたのです。

ワルドー派は、宗教改革以前に西方キリスト教内の禁欲運動(ascetic movement)として始まった教会伝統の信奉者です。元々は12世紀後半にフランスのリヨンの貧者(Poor of Lyon)として知られ、この運動は現在のフランスとイタリア国境付近にあるコッティ・アルプス地域に広がりました。ワルドー派の創立は、1173年頃に財産を手放した裕福な商人ピーター・ワルドー(Peter Waldo)で、彼は「使徒的貧困」(apostolic poverty)が完全なる生き方であると説いて信者を獲得していきます。

当時のカトリック教会の一派であるフランシスコ会(Franciscans)が「使徒的貧困」に異議を唱え、さらに地元の司教の特権を認めなかったのでワルドー派の会衆はフランシスコ会と衝突します。そのため1215年までにワルドー派は異端と宣言され破門されて迫害が始まります。

ピエモンテの復活祭の迫害

教皇インノケンティウス3世(Pope Innocent III)はワルドー派の人々に教会に戻る機会を与えると宣言します。ワルドー派の信徒は教会に戻りますが、「貧しいカトリック教徒」(Poor Catholics)と呼ばれるようになります。教徒の多くは使徒的貧困を信奉し続けたので、その後数世紀にわたって激しい迫害を受けていきます。

最も激しい迫害は1655年4月24日に起こります。この迫害と虐殺はピエモンテの復活祭(Piedmont Easter)として知られるようになります。推定約1,700人のワルドー派信徒や住民が虐殺され、この虐殺はあまりにも残忍であったため、ヨーロッパ全土で憤りを引き起こしたと記録されています。

ヘンリ・アルノー


初期の粛清でピエモンテから追放されたワルドー派の牧師にヘンリ・アルノー(Henri Arnaud)がいました。彼はオランダから帰国し、ロッカピアッタ(Roccapiatta)という街での集会で感動的な訴えを行い、武装抵抗を支持する多数派の支持を獲得します。迫害団体との休戦協定が切れる4月20日に備えワルドー派は戦闘の準備を整えます。

1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。

Waldesian Church in Italy

しかし、それでも抵抗するワルドー派の人々はヴォードワ人(Vaudois)と呼ばれ、約200人から300人のヴォードワ人が他の領土に逃亡します。翌年にかけてヴォードワ人は、占拠する土地にやって来たカトリック教徒の入植者とのゲリラ戦を開始します。これらのヴォードワ人は「無敵の人たち」(Invincibles)と呼ばれ、サヴォイア公がついに折れて交渉に同意するのです。「無敵の人たち」は、投獄されている仲間を釈放し、ジュネーブ(Geneva)へ安全に移動する権利を勝ちとります。

やがてサヴォイア公は ヴォードワ人に直ちに退去するかカトリックに改宗することを要求します。この布告により、約 2,800人のヴォードワ人がピエモンテからアルプスを越えてジュネーブに向けて出発しますが、そのうち生き残ったのは 2,490人といわれました。

その後、貧困や社会的差別、人種的な偏見によりヴォードワ人は季節労働者としてフランスのリヴィエラ(Riviera)とスイスに移住します。イタリアのワルデンシア渓谷の故郷の土地は、1690年の戦いの終結以来、増え続ける人口で混雑していました。家族の農場は世代を経て分割され、再分割されていたため、将来の世代に受け継ぐ土地はほとんどありませんでした。そこで南米やアメリカなど他の国に土地を求める決定がなされます。

1892年頃、ノースカロライナ州で土地を売り出すことを知ったワルドー派の2人の先遣隊が、入植が可能かを調べるためにやって来ます。土地の広さは10,000エーカーほどで、一人はこの土地は新しい入植地として適しているだろうと考えます。もう一人は、岩が多すぎて肥沃な土壌が不十分でひどい土地であると考えます。実は後者の見方が正しかったのですが、ワルドー派は集団で土地を購入することに決めるのです。

Outdoor Drama, From This Day Forward

1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な土地での生活を期待します。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。

そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズとなっています。ヴァルデイズでは毎年夏に「今日ここから前進するのだ」(From This Day Forward)という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活、苦難の開拓の歴史を演じる内容です。

ジョン・カルビン

今日の宗教学者は、中世のワルドー派はプロテスタントの原型と見なすことができると説明します。ワルドー派はプロテスタントと歩調を合わせるようになり、やがてカルビン主義(Calvinism)の伝統の一部となります。ヨーロッパでのワルドー派は17世紀にはほぼ消滅して長老派教会(Presbyterian)に吸収されていきます。
(投稿日時 2024年3月7日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ノースカロライナ州・First in Flight

注目

ノースカロライナ州(North Carolina)といえばライト兄弟(Orville and Wilbur Wright) です。1903年、世界で初の有人動力飛行に成功したのがノースカロライナです。ナンバープレートには「First in Flight」と記されています。

License Plate of North Carolina

大西洋岸にあるノースカロライナ州は、周りをヴァジニア州、テネシー州、ジョージア州、そしてサウスカロライナ州に囲まれています。首都はラレイ(Raleigh)、最大の都市はシャーロット(Charlotte)です。チャペルヒル(Chapel Hill)という町には、実に綺麗なノースカロライナ大学(University of North Carolina-Chapel Hill)のキャンパスがあります。どの町も樫の木の緑が豊かです。

Map of North Carolina

ノースカロライナ州には、16世紀半ばに最初のヨーロッパ人探検家が到着するまでに、すでに 35,000人から50,000人の先住民族がいました。主に海岸平野のタカロラ族(Tuscarora)とカトーバ族(Catawba)、アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のチェロキー族(Cherokee)が住んでいたと推定されています。1524年にジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)によって探検され、1585年には新大陸で最初のイギリス人入植地がロアノーク島(Roanoke Island)に設立されます。ロアノーク島は、1663年にカロライナ州の一部となります。

1650年代にヴァジニア州ジェームスタウン(Jamestown, Varginia)のイギリス植民地からヨーロッパの永住者がノースカロライナ州にやって来ます。また、ペンシルバニア州(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)を通ってピードモント州(Piedmont)に大きな荷馬車道を通ってやって来た人、ヨーロッパから船で来た人もいました。誰もが土地と厳格な階級や宗教的制限からの自由を切望していました。初期のノースカロライナ人は、さまざまな宗教、国籍、経済的および社会的階級を代表する異質な集団でした。

Black Mountains

イギリス国教会(Anglican Church)は18世紀初頭に法律によって設立され、聖職者や典礼の権威を強調しました。それに抵抗した信徒、例えば長老派(Presbyterians)、クエーカー教徒(Quakers)、モラヴィア派(Moravians)、ルーテル派(Lutherans)、改革派(Reformed)、バプテスト派(Baptists)、メソジスト派(Methodists)、そして少数のユダヤ人らが新大陸にやって来ます。こうした人々の国籍は、イギリス、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、スイス、フランス、ドイツに及びます。こうして白人のヨーロッパ系アメリカ人コミュニティは何世紀にもわたって拡大し、21世紀初頭までにノースカロライナ州の人口の4分の3近くに達します。

1830年代後半、現存する最大の原住民集団であるチェロキー族のほとんどがミシシッピ川(Mississippi River)西方の土地に強制移住させられます。この追放は1838年から1839年にかけて起こり、「涙の道」(Trail of Tears)として記録されています。しかし、チェロキー族やその他の先住民族の一部はノースカロライナ州に残り、21世紀初頭までに約10万人のネイティブ・アメリカンが州に住み、ミシシッピ川以東の州では最大の先住民族人口を構成します。

North Carolina Beach

アフリカ系の奴隷は、初期のノースカロライナ州の人口の重要な部分を占めていました。米、藍、タバコ、綿といった労働集約的な作物は、特に1790年代に綿織機が登場してからは、州内での奴隷制度の拡大を促しました。21世紀初頭、アフリカ系アメリカ人は人口の約5分の1を占めていました。

ノースカロライナ州のヒスパニック系(Hispanic)人口は、いまだ少数派ではあるのですが、急速に増加しています。ヒスパニック系コミュニティの規模は、1990年から2000年の間に2 倍以上に増加します。同州に新たに住むヒスパニック系住民の多くは、主に農業や製造業、あるいは州の軍事施設での職を求めてメキシコからやって来た人々です。

1903年12月に,自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、弟のオービルが動力機によって12秒間,約37mを飛行しノースカロライナ州沿岸の砂地に突込みます。ただ兄弟が世界初の本当に操縦可能な飛行機を作って飛行に成功したのは,これからさらに2年後のことです。

First in Flight

奴隷労働に基づく18世紀の農業経済は19世紀まで続きました。1861年に連邦から脱退。南北戦争後、脱退命令を破棄して奴隷制を廃止し、1868年に連邦に再加盟します。1940年代にはフォート・ブラッグ(Fort Bragg)を含む全米最大級の軍事施設が置かれ、経済が発展します。農村部の人口が多いのですが、ラレイ・ダーラム(Raleigh-Durham)地域ではハイテク産業が拡大しています。生産物はタバコ、トウモロコシ、そして家具などの製造業が盛んです。ノースカロライナ州の白人と黒人の生活条件の格差は依然として存在しますが、同州ではますます多くのアフリカ系アメリカ人が教育、芸術、スポーツ、ビジネス、政治の分野で重要な地位を獲得しています。

ノースカロライナ州は科学技術の研究開発が非常に盛んなところです。その中心は研究の三角地帯(Research Triangle)と呼ばれるラレイ、ダーラム、チャペルヒル(Chapel Hill)の三つの町です。三つはちょうど三角形のように点在しています。この地域は東部きっての学術や研究エリアで、150もの企業が集中し「東のシリコンバレー」と呼ばれるほど発展しています。

Cape Fear River

農業生産品は鶏卵、豚、牛、牛乳の他にタバコ、大豆が主要なものです。他にも織物、化学工業、電子機器、製紙も知られています。意外なことですが、ノースカロライナ州はカリフォルニア州以外で最大の映画制作を行っている州の1つでもあります。

スポーツも盛んな地です。特に大学バスケットボールとフットボールは全米でも有数です。大学間での競争が激しいことにもよります。デューク大学(Duke University)、ウェイクフォレスト大学(Wake Forest University)、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)、ノースカロライナ大学が競っています。ノースカロライナ大学は、アメリカで最初に生まれた公立大学としても知られています。

Bald Head Island

ノースカロライナには、「タールのついた踵の州」(Tar Heel State)といって「粘り強い、苦境にもまけない州と人々」という意味のニックネームがついています。1987年に私はチャペルヒルにあるノースカロライナ大学でLDの研究者を訪ねたことがあります。その名前と町並みが印象に残っています。
(投稿日時 2024年3月6日)

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その34 The Tar Heel State

ビジネス以外の日本人には少々馴染みの少ない州かもれしません。しかし、アメリカで非常に活気ある州がノースカロライナ州(The State of North Carolina)です。州都はラレイ(Raleig)、最大都市はシャーロット(Charlotte)です。1584年エリザベス1世が探検家ウォルター・ラレイ卿(Sir Walter Raleig)に現在のノースカロライナの土地の特許を与えます。州都名の由来となります。

1663年に国王チャールズ2世(Charles II)が、植民してきたイギリス人に北アメリカ大陸における新しい植民地を始めるための土地勅許を与えたことが、ノースカロライナの領域を定めた出来事です。チャールズ2世はその地を父のチャールズ1世の栄誉を称えて「カロライナ」と命名したとあります。

ノースカロライナ州は、過去50年間で農林業からバイオテクノロジーや金融分野など多様な経済に転換してきました。科学技術、研究調査、及び銀行業は特に合衆国でニューヨークに続き2番目に大きな金融センターとして地位を築いたのがシャーロットです。さらにラレイ、ダーム(Durham)、チャペルヒル(Chapel Hill)の三都市を中心にリサーチ・トライアングル(Research Triangle)地区を形成し、経済的に大躍進を遂げます。デューク大学(Duke University)、ノースカロライナ大学(University of North Carolina at Chapel Hill)、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)の三つの大学と数十の民間や公営の研究機関からなる研究学園都市を形成しています。

ノースカロライナ州の農業生産品は家禽及び鶏卵、牛、タバコ、豚、牛乳、苗床、葡萄、並びに大豆などです。タバコの生産量は全米一となっています。ノースカロライナ州で忘れてはならないのがライセンスプレートに記される「First in Flight」のいわれです。1903年12月にノースカロライナ州のキルデビルヒルズ (Kill Devil Hills)でライト兄弟(Wilbur Wright and Orville Wright)が最初の飛行機を飛ばしたのです。

終わりになりましたがノースカロライナ州のニックネーム「Tar Heel State」について触れることにします。「Tar」とはタール、 「Heel」はかかとという単語です。ノースカロライナ州は松の木が豊富に獲れるところです。タールやテレピン油といったネバネバした液がでます。これがかつて大量に輸出された経緯があります。特に海軍からの発注が多かったといわれます。南北戦争の際、南軍兵士は連邦軍に対峙してかかとにタールが塗ってあるように、一歩も引くことがなかったという伝説です。これが「Tar Heel」を広めることになったようです。