留学の奨め その1 ノーベル賞受賞に関する報道の違和感

これから暫く、外国の大学での学びや研究を奨める文をシリーズで掲載する。特にアメリカの大学に関する話題である。

今年のノーベル賞受賞者中村修二氏の言動がいろいろと取り沙汰された。報道ではどれも耳目をひくような見出しがついた。例えば、「日本を捨てた青色の職人」とか、「中村修二教授は日本人かアメリカ人か」、「怒りが私の研究の原怒りだ。それがすべてのモチベーションを生み出すと思っている」、「米国は研究者にとって自由がある。アメリカン・ドリームを追いかけるチャンスがある。日本だとそういうチャンスはない」、「大学入試を全廃しろ」、「社員は会社の奴隷ではない」など、読者を大言壮語で扇動するような取り扱いであった。筆者はこうした発言に大きな違和感を抱いた。

各社の社説では「日本の技術開発の底力が世界に示された」とか「着想から実用化まで、すべての過程が日本人研究者によって成し遂げられたことが誇らしい」などと書かれてある。ノーベル賞報道はオリンピック報道ではない。こうしたノーベル賞のニュースに興奮する報道からくる違和感は、中村氏がアメリカ国籍を持っているからなおさらなのである。

中村氏の言動が話題になるのは、日本社会とか企業の断面を映しているからである。中村氏は自由な研究環境を求めて2000年にアメリカへ拠点を移した。学歴、就活、年功序列、賃金制度、企業体質を、日本を飛び出た人が少々過激な表現で指摘するから取り上げられる。こうした状況を国内の人間がいくら叫んでも誰も振り向かない。我々には「どうしようもない」という一種の虚脱感があるからだ。他方で、「日本的システム批判」や「教育制度批判」は的外れで専門外の幼稚な発言だという者もいる。

中村氏はアメリカの大学研究の厳しさを知っているはずである。終身雇用資格(Tenure)もそうだ。研究費の獲得もそうである。それを踏まえながら、彼は日本の大学や企業の研究状況を振り返っている。果たして、日本の集団主義的研究生活よりも、アメリカの大学の個人主義的研究生活の方がより豊かな研究成果をもたらすのかは興味ある点である。忘れてはならないのは、競争が激しいのは企業や研究機関であり、この状況は各国共通だということである。

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