心に残る一冊 その54 「登と赤ひげ」

「赤ひげ診療譚」の続きです。小石川養生所の医師、新出去定は赤ひげ先生とあだ名されています。治療は手荒く、言葉もきわめて辛辣で乱暴です。見習いでやってきた保本登はその言動をじっと見ています。去定は徹底した合理主義者です。「医術がもっとすすめば事態は変わるだろう。だがそれでもその個体の持っている生命力を凌ぐことはできないだろう。」このように生きることの畏敬の念が去定の行動を支えていることを登は感じていきます。

あるとき、狂女といわれた住人の精神障害の原因究明を去定は登に命じます。それは生い立ちから今に至るまでの生活歴を徹底的に調べるということです。登は患者と面談をしながら、狂いがいじめやいやがらせを避けるための見せかけの振る舞いであることに行きつきます。そうした行為には貧しさと無知があることに気がつき、去定の医術に対する姿勢に私淑していくのです。

またあるとき、登は五郎吉とおふみという夫婦の一家心中に出会います。4人の子どもとともに鼠いらずを飲むのです。この家族は息つく暇もないほどの貧乏暮らしをしています。長屋では隣近所で兄弟以上の付き合いをしながらも死ななければならないほどだったのです。おふみは枕の上でゆらゆらとかぶりを振りながら登にいいます。

「子ども達も人並みに育てることは出来ない。育てるどころか、長次には盗みを教えてきたようなものだ。親たちからあたしたち夫婦、そしてこのままいけば子どもまで同じ苦しみを背負わなければならない。もうたくさん、もうこれ以上本当にたくさんだ、、」

「もし、あたしたちが助かったとして、そのあとはどうなるんでしょうか。これまでの苦労がいくらかでも軽くなるんでしょうか。そういう望が少しでもあったんでしょうか。」

登は不幸や貧困や病苦の姿から、そこに現れる庶民の赤裸々な生き様を見ます。そして養生所に残る決意をします。赤ひげは登の延長上にいるようです。何十年かの後の登は、まさに赤ひげであるかのような予感がしてくるのです。