昔も今も人々は塩と非常に深い関係を持って生活しています。ドキュメンタリービデオで観たのですが、チベットやブータンに住む人々は、大事な塩を背中にしょってヒマラヤ越えをしています。地殻変動は海水をヒマラヤの大地に閉じ込めたようです。中国では前漢時代より塩の専売が行われ、2000年にわたる皇帝支配の財政基盤となったといわれます。日本でも1997年にようやく塩の専売制が廃止になったというのですから、塩の重要性がわかろうというものです。
古代ローマ時代には兵士への給料として、塩を買うための銀貨が手渡されたいわれます。ラテン語で塩とは 「sal」、塩(salt)の原型です。そこからサラリー(salary)がうまれました。 「sal」に由来する単語として、塩漬けされたサラミ(salami)、塩の効いたサラダ(salad)、健康的な(salutary)などがあります。サラリーマン(salaryman)とはローマ時代の兵士のなごりということです。
わたしたちが生きていく中で塩のない食べ物はありません。醤油と味噌はその代表ですね。味のない漬物なんて考えられません。戦国時代、上杉謙信が、敵将武田信玄の領国の甲斐が塩の不足に苦しんでいるのを知り、塩を送らせたという故事があります。敵の弱みにつけこまず、逆にその苦境に手を差し伸べる美談です。
味を調整をすることを「手塩に掛ける」といいます。「手塩」とは、もともとは食膳に置いて不浄を払うために小皿に盛った少量の塩のことです。そして、手塩で料理の味加減を自分の好みで調えるようになりました。やがてこのフレーズは、「自分で気を配って大切に世話をすること」に使われるようになりました。「青菜に塩」とか「傷口に塩」といった言葉もあります。塩の強烈な作用を表現しています。
自分自身を生かし、同時に他者を生かすことができるとき、わたしたちは初めて地の塩となります。多くの日本人が上杉謙信に好感を持つのは塩の大切さを彼が知っていたからです。少々違和感があるかもしれませんが、私たちもまた、塩だということです。わたしたちは、知らず知らず、それぞれの小さな役割を果たしています。お互いに、どこかで誰かの「地の塩」となっていることを思い起こしたいのです。「地の塩」とは人の模範や鏡としての喩えです。(マタイ福音書5章13節)