アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 はじめに

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この記事は、アメリカ合衆国(アメリカ)建国の歴史を植民地時代を中心に153回にわたり民族、文化、宗教、芸術、科学、政治、経済などについて多角的に振り返るものです。アメリカは、創成期である植民地時代から独立に至る時代を通しての諸文化がその後にも大切に育まれてきた独自の原理をもっていたといわれます。それと同時に、異なる背景を有する人々から構成される国なるが故に、しばしば互いに矛盾した位相を示してきました。

 ヨーロッパ各地からの初期の移民により、18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立してきたといわれます。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値観や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカはこうした歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。興味ある仮説と思われます。

 初期移民の子孫で、かつてはアメリカ社会の主流といわれたホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。短い歴史のアメリカですが、多民族国家が有する多文化の発展は、世界史のなかで特異な存在といえると思われます。それが本著を考えるきっかけとなっています。

 1776年の独立宣言によってUnited States of America(USA)と称するようになりました。独立連邦連合体であって、まだ一つの国家ではありませんでした。1787年の合衆国憲法が制定されて一つの国家、アメリカ合衆国となります。この場合でも、アメリカは二重国家制、連邦制をとり、各州stateは一定の範囲で国家として機能することを認められ、その点では、アメリカ合州国と呼んでも差し支えないようです。

 アメリカは建国期より19世紀末までアメリカ大陸に発展することに邁進し、広く国際政治に介入することを控えてきました。その代表がモンロー主義(Monroe Doctrine)で、相互不干渉という孤立主義的でした。アメリカは大洋の向こうにある国々と軍事的なかかわりを持つ必要が薄かったからでした。 また、移民国家であるアメリカに不必要な内紛が起こらないようにするためでもあったからです。

 19世紀末に米西戦争(Spanish–American War)を契機に世界の列強となったアメリカは、第一次大戦、第二次大戦を経て超大国となり、政治、経済、軍事、文化の面で強い発言力を持つようになります。しかし、1960年、70年代に内は人種紛争、外にベトナム戦争と言う挫折を経験し、されに冷戦の終焉により、アメリカは世界の一国として、相対的な地位が下がるのです。その経過を以下の章で説明することにします。

この記事を書くために参考にした文献はEncyclopaedia Britannica、Wikipedia、世界大百科事典、世界史用語集、アメリカ黒人の歴史、などいろいろあります。人名、国名、地名、歴史的な出来事などの固有名詞は主にカタカナ表記とし、英語表記を添えています。中にはフランス語やドイツ語も使っています。各章の中では最初に出てくる固有名詞には英語表記を使い、その後に出てくる同じ名詞はカタカナ表記とします。ご理解ください。

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アメリカ共和党全国大会がミルウォーキーで

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現在、米共和党の全国大会がウィスコンシン州の最大都市であるミルウォーキーで開かれています。東部ペンシルベニア州で演説中に狙撃され負傷したD.トランプは予定通り大会に出席して、その存在意義を高めています。注目されていたのは、トランプが誰を副大統領候補として指名するかでした。そして7月15日の党大会初日に、オハイオ州選出の上院議員である39歳のJ.D.バンスを指名しました。

オハイオ州は、製造業などの衰退で「さびついた工業地帯(rust belt)」と呼ばれる地域で白人労働者層が多く、共和党も民主党も大統領選挙戦では、「オハイオは接戦州」として重要視しています。過去の大統領選挙でも両党とも中西部の「労働者と農家」に重点を置く選挙戦を展開してきました。オハイオ州は、産業分布や人種構成が全米平均に近く「アメリカの縮図」として知られ、歴史的には7人の大統領を産んだ州です。

共和党全国大会

オハイオ州は両党の支持率がきっ抗し、選挙の度に勝利者が変動(swing)するので、「スイングステート(Swing State)とも呼ばれています。トランプが2016年に、得票率の差わずか1ポイント未満で勝利した州です。1964年以降は、「オハイオ州で勝利した者が”必ず”大統領になる」というジンクスが出来上がったのです。トランプがオハイオ州選出の上院議員J.D.バンスを指名したのは、合点がいきます。

全国大会が開かれているウィスコンシン州は共和党の発祥の地といわれます。1854年3月に、同州リポンという小さな街のリトルホワイトスクールで、約30人が参加する最初のアメリカ共和党郡大会が開催されたのです。南北戦争の時代のウィスコンシン州は共和党を支持する州でした。ウィスコンシン州は「酪農の地」と呼ばれ、白人農家や酪農家が多く共和党の地盤でした。20世紀前半は上院院議員であったR.ラフォレットらが共和党を支配していましたが、後には民主党となる進歩党を復活させます。爾来、ウィスコンシンは共和党と民主党がしのぎを削る州の一つとなっています。

ラフォレットの貢献は、開かれた政府、最低保障賃金、党派に拠らない選挙、開かれた予備選挙のしくみ、上院議員の直接選挙、女性参政権および進歩的税制度などをウィスコンシンで広め、その思想は「Wisconsin Ideas」と呼ばれ、ウィスコンシン大学の発展にも影響を及ぼします。そして、1950年代には州選出のJ.マッカーシー上院議員による悪名高き「マッカーシズム」(McCarthyism)と呼ばれた反共産主義運動が起こります。

近年の大統領選挙におけるウィスコンシン州は接戦が続いています。2008年の場合はB.オバマが56%の支持を得て勝利しました。2012年もオバマが52%を獲得し、勝利を収めます。2016年には一転して、トランプ、H.クリントンともにウィスコンシンで勝利することが大統領選の勝利を意味するほどの接戦となります。選挙前の世論調査では一貫して民主党有利という下馬評でしたが、得票数で上回るも獲得選挙人数で敗北しトランプが大統領となります。しかし、2020年の大統領選挙では、バイデンが49.57%、トランプが48.95%という得票率で両者の差は1%前後の大接戦となりました。

ウィスコンシン州もオハイオ州も大統領選挙ではいつも全米の耳目を集める州です。その理由は以上のような地政学的、及び歴史的な経緯によって、政治に高い関心を持つ州だからです。

(投稿日時 2024年7月16日)  成田 滋

ナンバープレートから見えるアメリカの州ワシントン州・Evergreen State

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ワシントン州(Washington)は雨が多いところです。松などの常緑樹が多い見事な森林が発達しています。全米有数の林業の州です。ナンバープレートには「Evergreen State」とあります。Evergreenとは松の木のことで、別名クリスマスツリー(Christmas Tree)とも呼ばれます。最大都市はシアトル(Seattle)、州都はオリンピア(Olympia)です。このあたりは West Coast(西海岸)とも呼ばれています。日本人にはなじみのある州です。

License plate of Washington State

ワシントン州といえばシアトル。どこか神戸に似ています。入り江と呼ばれるフィヨルド群(Fjord)からなるピュージェット湾(Puget)の東部には、シアトル、タコマ(Tacoma)、エヴェレット(Everett)などの大都市が連なります。プロ野球のマリナーズ(Mariners)の本拠地、マイクロソフト(Microsoft)の本社も近くにあります。航空機会社のボーイング(Boeing)の本社と工場があります。

州都オリンピアは兵庫県の田舎町、加東市とも姉妹都市です。誠に不釣り合いです(^^) シアトルから生まれたのがStarbucks珈琲ですね。これを始めて飲んだときは、そのコクと香りに驚いたものです。ワシントン州は製材、製紙業のほか、アルミニウム、食品加工が盛んでもあります。大豆、トウモロコシ、ジャガイモなどの栽培でも知られています。

ワシントン州の歴史ですが、日本との関係が深いのをご存じですか。戦前、日本から沢山の移民がこの地にやってきたのです。戦前、戦後、日系アメリカ人は偏見により辛い生活を余儀なくさせられます。そのことを記した小説に「Snow Falling on Cedars–ヒマラヤ杉に降る雪」 というのがあります。この小説を書いたのはデイヴィッド・グターソン(David Guterson)です。舞台は戦前で、ワシントン州の島における日系アメリカ人に対する人種差別を題材としています。この小説は、1995年にウイリアム・フォークナー賞(Faulkner Awards)をもらいます。この賞はアメリカの主要な文学賞の一つで、毎年優れた小説作品に贈られます。フォークナー(William C. Faulkner)はアメリカを代表する小説家です。実は、この小説を紹介してくれたのは私の長男の嫁Kateです。彼女は今教師をしながら童話を書いています。。

ワシントン州内のベインブリッジ(Bainbridge Island)という島には、ここに住んでいた日系人276名が強制収容へ送られたこと記憶し、人種差別が今後「二度と起こらないように」と祈念した屋外展示があります。

この小説の荒筋です。1954年、ワシントン州のピュージェット湾(Puget Sound)の北、ファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶサンピエドロ島(San Piedro Island)に住んでいた日系アメリカ人のカブオ・ミヤモトが、島で親しまれていた漁師カール・ハイン(Carl Heine) を殺害したという容疑で第一級殺人罪に問われます。1954年9月16日、カールの死体は網にかかったまま海から引き上げられ、水没した彼の腕時計は1時47分で止まっていました。大戦後の根強い反日感情の中で裁判が行われます。

裁判を取材するのは、唯一の地元紙「サンピエドロ・レビュー」(San Piedro Review)の編集者イシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は元米海兵隊員で、太平洋のタラワの戦い(Battle of Tarawa)で日本軍と戦って片腕を失い、仲間の死に直面していました。彼は日本人への憎しみを抱き、カブオの妻ハツエへとの愛と、カブオが本当に無実なのかどうかという良心とで葛藤するのです。イシュメルがハツエと恋に落ちたのは、高校が一緒の時です。二人は密かに交際し、互いに情を通じ合っていました。

検察側には、町の保安官アート・モラン(Art Moran)と検事アルヴィン・フックス(Alvin Hooks)、弁護側は老練なネルス・グドモンドソン(Nels Gudmondsson)です。カールの母エッタ・ハイン(Etta Heine)を含む数人の証人は、カブオが人種的な理由でカールを殺害したと証言します。カブオはかつて日系人部隊第442連隊戦闘団で戦いますが、日本海軍による真珠湾攻撃後、祖先の血筋を理由に偏見を受けてきました。ヨーロッパ戦線で若いドイツ人を殺害したことへの因果応報を感じながら裁判に臨みます。

カブオ・ミヤモトに対する殺人容疑の裁判には、町の検死官ホレス・ウォーリー(Horace Whaley)や、カールにイチゴ畑を売っている老人オーレ・ジャーゲンセン(Ole Jurgensen)も加わります。裁判では、このイチゴ畑が争点となります。この土地はもともとハイン・シニア(Carl Heine Sr.)が所有していたもので、ミヤモト夫妻はハイン家の土地にある家に住み、ハイン・シニアのためにイチゴを摘んでいました。カブオとカールは子どもの頃、仲良しでした。カブオの父親は、やがてハイン・シニアに2.8ヘクタールの農地の購入を持ちかけます。妻のエッタは反対しますが、カールは賛成し支払いは10年払いとなります。

しかし、最後の支払いが終わる前に、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発し、日本人の血を引く島民はすべて強制収容所に移されることになります。ハツエとその家族であるイマダ夫妻は、カリフォルニア州のマンザナー収容所(Manzanar camp)に収容されることになります。母から反対でハツエはイシュマエルと別れ、マンザナーにいたカブオと結婚するのです。

1944年、ハイン・シニアが心臓発作で亡くなり、エッタ・ハインがジャーゲンセンに土地を売却します。戦争が終わって帰ってきたカブオは、土地の売買を反故にしたエッタを激しく憎みます。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れ、農場を売却することになったとき、カブオが到着する数時間前に、カールが土地を買い戻そうと声をかけてくるのです。裁判では、家族間での土地争いの確執がカブオのカール殺人の動機であると主張されるのです。

編集者のイシュメルはポイント・ホワイト灯台(Point White lighthouse)にあった海事記録を調べます。そこでカールが死んだ夜、カールが釣りをしていた海域を貨物船SSウエスト・コロナ号(SS West Corona)が、彼の時計が止まるわずか5分前の午前1時42分に通過していたことが判明します。イシュメルは、カールが貨物船の航跡の勢いで海に投げ出された可能性が高いことを知るのです。彼は、ハツエに振られた恋人としての苦い思いを抱えながらも、次ぎのような情報を得るのです。

それは、カールが船漁灯を切るために船のマストに登ったとき、貨物船の波によってマストから叩き落とされて頭を打ち、海に落ちたという結論を裏付ける証拠です。審議の結果、カブオの殺人容疑は晴れるのです。ハツエはカブオと結婚して以来避けていたイシュマエルに感謝し、イシュマエルはハツエへの愛にピリオドをうちます。そして彼の抱いていた不可知論という哲学は、やがて無神論へと変わっていくのです。

(投稿日時 2024年5月30日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・クレオールと小泉八雲とケージャン

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あらゆる文化の基礎となるのが言語です。クレオール語(creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の人々が、自然に作り上げられた言語(ピジン言語–pidgin)が、次の世代で母語として話されるようになった言語のことといわれます。英語でいえば、ユー・イェスタデイ・ノー・カム(You yesterday no come )といった塩梅の会話です。文法構造などが簡略化されて、単語をつなぐだけでも会話が成立します。ピジン語が、日常生活のあらゆる側面を使われると、やがてそれが人々の中で母国語化するのです。

前稿では、フランスの植民地であるカリブ(Caribbean)に浮かぶマルティニク島(Martinique Island)でのクレオール化に触れました。クレオールの人々は次第に少数派となりますが、排他的な努力をして彼らの文化的優越性を守ろうと努力してきました。今では社会的な勢力を失いましたが、風俗、食物、建築にその文化は生き残っています。宗主国フランスによる支配と同化に対抗するために、クレオールとしてのアイデンティティの確立を叫んだのは、前述のグリッサンの他にラファエル・コンフィアン(Raphael Confiant) といった作家です。コンフィアンは、クレオール文学を通して、文化的な同化に対して次のような警鐘を鳴らしています。
     「我々は西洋の価値のフィルターを通して世界を見てきた」
     「自身の世界、自身の日々の営み、固有の価値を「他者」のまなざしで見なければならないとは恐ろしいことである。」

クレオールと小泉八雲との関係についてです。彼は、日本に来る前にアイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島の仏領マルティニク島を放浪しています。西洋文明社会に疑問をいだき、それに飽き足らず異国文化への関心を深めていったようです。八雲はマルティニクでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、その植民地体験を豊かな文章で書き残しています。それが〈クレオール物語〉という著作です。「非西欧」への憧れが彼の中で育っていたことがわかる著作といわれています。八雲はいかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかったようです。それがクレオールの文化に傾倒した理由といえましょう。

ヘルン旧居

アメリカ少数文化集団の一つにケージャン(Cajun)があります。ルイジアナ南西部に住むフランス系の住民です。ケージャンの呼称は、アカディア人(Acardia)を意味するフランス語の〈Acadien〉がなまってカジャンとなったものを英語式にしたことから由来します。1604年、最初にカナダ南東部アカディア地方に入植したフランス人が、18世紀に英仏間の植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)のあおりで、各地を転々とし、ルイジアナの低地帯に住み着きます。同地域がアメリカに併合の後も周囲から孤立して独自の文化を保ってきました。

ケージャンはカトリックを信仰し、近年までフランス語なまりの〈ケージャンフレンチ-Cajun French〉と呼ばれた独特の言語を使用してきました。彼らの最も特徴的な文化が音楽で、独特のアコーディオンやヴァイオリンを使ったワルツ、ツーステップのダンス音楽です。料理も知られています。ケージャン文化はルイジアナ州のクレオール文化とははっきり区別されるものです。
(投稿日時 2024年5月20日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州モンタナ州・Big Sky

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モンタナ州(Montana)のナンバープレートには、「Big Sky Country」と印字されています。さしずめ「蒼穹の空の州」といったところです。「モンタナの空は他のどこよりも大きく感じる」と地元の人は自慢げに言うのは、このためかもしれません。「モンタナ」という名前はスペイン語で「山、あるいは「山の国」を意味する 「Montana」から由来しています。州都はヘレナ(Helena)となっています。カナダのブリティッシュコロンビア州(British Columbia)、アルバータ州(Alberta)及びサスカチュワン州(Saskatchewan)と接しています。モンタナ州のスローガンに「宝の州」(The Treasure State) があります。金、銀、銅、鉛、石油、石炭など地下資源に恵まれ鉱業が盛んなせいでしょう。

License Plate of Montana

ヨーロッパ人が入植した当時、この地域にはシャイアン族(Cheyenne)、ブラックフット族(Blackfoot)、クテナイ族(Kutenai)、クロウ族(Crow)など様々なアメリカ先住民が住んでいました。モンタナ州の大部分は、1803年のルイジアナ購入によってアメリカが手に入れます。西部は1846年にイギリスが領有権を放棄するまで紛争が続きました。1804-1806年にわたるルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)がモンタナを探検します。1841年にローマ・カトリックの宣教師によって設立されたセント・メアリーズ・ミッション(St. Mary’s Mission)は、スティーブンスビル(Stevensville)を選び、ここが最初の恒久的な町となります。

1860年代初頭に金が発見されます。その10年後には牛や羊の放牧が始まり、狩猟場を破壊されたアメリカ先住民との激しい戦いに発展していきます。1864年にモンタナ準州(Montana Territory)が成立します。この州は白人とインディアンの土地をめぐって幾多の戦いが繰り広げられたところです。1876年の (Little Bighorn)の戦いが起こります。この戦いで、スー族(Sioux)、シャイアン族、アラパホ族(Arapahoe)らは、ジョージ・カスター(George A. Custer)率いるアメリカ軍を撃破し殲滅します。しかし、先住民は1877年に戦いをやめ、居留地に移されていきます。リトルビッグホーンの戦跡は今は「リトルビッグホーン国立記念戦場」(Little Bighorn National Memorial Park)として保存されています。

今日、モンタナ州の住民のほとんどは、西ヨーロッパや北ヨーロッパ、主にイギリス(Great Britain)、アイルランド(Ireland)、ドイツ(Germany)、フランス(France)、オランダ(Netherlands)スカンジナビア諸国(Scandinavian)、北イタリア(northern Italy)、少ないですが、東ヨーロッパのクロアチア(Croatia) 、ポーランド(Poland)からの移民で構成されます。

他の州との大きな違いがあります。それはアメリカ先住民です。モンタナ州に7つのインディアン居留地があり、アメリカ先住民が州の総人口の10分の1以上を占めています。そのうちの3分の2近くが居留地に住んでおり、残りのほとんどは居留地近くの都市、特にミズーラ(Missoula)、グレート フォールズ(Great Falls)、ビリングス(Billings)に住んでいます。

アフリカ系アメリカ人はモンタナ州の人口のほんの一部を占めています。アジア人はモンタナ州、特にビュート(Butte)周辺の鉱山地区に長く存在していましたが、現在ではその数は少数となりました。ヒスパニック系人口は、かつては主に季節限定でしたが、20世紀後半から21世紀初頭にかけて大幅に増加しましたが、州人口に占める割合は依然としてわずかです。

モンタナ州の住民の約半数はいろいろな宗教団体に所属しています。ローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)は単一宗派としては最大です。プロテスタントは、全体としては最も多くの信者を擁しています。少数ですが、モルモン教徒(Mormons)、仏教徒、アメリカ先住民の伝統的な信仰の信者、イスラム教徒、ユダヤ教徒などもいます。アメリカ先住民の多くは宣教師によって名目上ローマ・カトリックに改宗した経緯があります。

カナダ国境沿いの北層にはドイツのフッター派(Hutterites)が定住しました。 数十のコミュニティが残り、その中でドイツ語が広く話されています。フッター派とは再洗礼派の「アナバプテスト」の流れを汲むキリスト教徒です。農業生産者としての技術力は非常に高度であり、自給自足以上に農産物を生産し、外部社会に販売しています。隔絶的な生活態度で世俗の文化に同化せず、投票など政治活動にも参加しないことからアーミッシュ(Amish)に似ています。

1889年、モンタナは41番目の州となります。1890年代に銅の膨大な鉱床が発見され、鉱業はほぼ1世紀にわたって経済の主軸となります。現在は観光業が州経済の中心となっています。「大陸の王冠」(Continental Crown)と呼ばれ、氷河が残したグレイシャー国立公園(Glacier National Park)及びイエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)の一部を含み、大いなる西部にふさわしい大自然が一杯の州です。イエローストーン国立公園の入り口は5か所あって、そのうち3か所がモンタナ州内にあります。西部開拓時代の歴史、アメリカ先住民の文化が多くの観光客を惹き付けています。

モンタナ州は昔から二大政党が競合するところです。選挙で選ばれる議員や知事も両党から選ばれます。元上院議員で駐日大使を努めたマイク・マンスフィールド(Mike Mansfield)は民主党の出身です。

University of Montana

私のウィスコンシン大学での指導教授 Dr. LeRoy Aserlind氏はこの地に眠っています。研究と指導がてら、重量級で空冷の700cc以上のエンジンを搭載したクルーザー型オートバイのハーレーダビドソン(Harley-Davidson)で遠出をしたり、またスキーを楽しんでいた暖かい人柄の先生でした。私の最初の孫もこの7月からモンタナ州南西部にある都市、人口は5万あまりのボーズマン(Bozeman)で就職します。


(2024年5月5日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州メリーランド州・Old Line State

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メリーランド州(Maryland)のナンバープレートです。州のニックネームである「憲法に署名した由緒ある州」という意味の「Old Line State」とか「自由を求める州)」(Free State) 「チェサピーク湾を護れ」(Protect the Chesapeake)などが記されています。デザインもさまざまでカラフルなプレートです。州名の発音が心地良い響きもっています。

License Plate of Maryland

メリーランド州は、首都ワシントンD.C.(Washington D.C.)のすぐ北隣りにあります。ペンシルバニア州(Pennsylvania)やデラウエア州(Delaware)とも境をなしている大西洋岸の州です。州都はアナポリス(Annapolis)、最も大きな町はボルチモア(Baltimore)です。

紀元前10,000年頃、氷河期後期の狩猟民族が最初に居住します、その後ナンチオケ族(Nanticoke)とピスカタウェイ族(Piscataway)が居住しました。1608年、イギリスのジョン・スミス少佐(Capt. John Smith)がチェサピーク湾(Chesapeake Bay)の海図を作成します。ヴァジニア州(Virginia)の北に隣接するメリーランド州は、株式会社ではなく個人経営者によって管理された最初の英国植民地でした。

最初メリーランドにやってきたのはイギリス諸島(British Isles)出身の白人でした。1700 年代にドイツ人(German)の農民や職人がペンシルベニア州からメリーランド州西部に移住し始めました。こうした人々の流入は、1840年代のアイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)によって加速し、続いてドイツ人やドイツ系ユダヤ人(Russian Jews)が徴兵から逃れ、その後、ポーランド人(Poles)、チェコ人(Czechs)、イタリア人(Italians)、ギリシャ人(Greeks)などが、19世紀の主要な移民センターであるボルチモア(Baltimore)に流入し田園地帯に広がっていきます。

Map of Maryland

こうしたメリーランド州の民族の多様性は、ポトマック川(Potomac River)以南の地域には見られない特徴の1つでした。南北戦争直後、この多様性は、敗北し荒廃した祖国での生活に絶望した南部人の流入によって様変わりしていきます。多くの元奴隷は北のボルチモアに移住し、数世代にわたって自由で確立されていたアフリカ系アメリカ人のコミュニティに加わっていきます。

メリーランド州のアメリカ先住民の人口動態です。1700年頃までに先住民のほとんどは絶滅するか西に押しやられてしまいます。何世紀にもわたって先住民が住んでいた場所として残っているのは、今でも発掘されるキャンプ場の遺物や湾岸にある有名な湾岸のカキ塚、そして理解力のない白人によって改名されチェサピーク(Chesapeake)、パタプスコ(Patapsco)、ポトマック(Potomac)、ウィコミコ(Wicomico)、パタクセント(Patuxent)、ピスカタウェイ(Piscataway)、サスケハナ(Susquehanna)などの地名だけです。

ボルチモア卿(Lord Baltimore)であるジョージ・カルバート(George Calvert) は、1632 年に国王から土地の補助金を与えられるまで、数多くの植民地化計画の投資家でした。彼はイングランドの法律から逸脱しない限り、植民地の貿易と政治システムを支配することができました。

ボルチモアの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死によりこのプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)沿いのセント・メアリーズ(St. Mary’s)での入植地を推進します。メリーランド州の入植者たちは、ヴァジニア州からも一部供給を受けて、当初から控えめなやり方で入植地を維持していました。しかし、ヴァジニア州と同様、メリーランド州でも 17世紀初頭の入植地は不安定で洗練されていないことが多かったといわれます。入植地は極めて若い独身男性で構成されており、その多くは期間限定の契約で雇われ、荒野での生活の厳しさを和らげる安定した家族を持つことがありませんでした。

アフリカ人奴隷は、投資家であったカルバート家の時代からメリーランド州で働いていました。多くのメリーランド州民、特にクエーカー教徒の良心は奴隷の存在や扱いに対し疑問を抱いていました。1783年から誘拐されてきたアフリカ人の輸入には重税が課されていました。メリーランド州は1864年まで奴隷制を正式に非合法化しなかったのですが、奴隷制が終わりに近づくとともに、他のどの州よりも多くの自由黒人の自由を保護していきました。こうして南北戦争後、黒人はメリーランド州が旧南部連合の州よりも居心地が良いと捉え、1900年までに、白人による黒人を生涯にわたり所有する権利が剥奪されていきます。

メリーランド大学(University of Maryland)の法学部への黒人学生の入学が認められるには、1934年の連邦最高裁判所の判決が必要でした。メリーランド州がバルチモアを含む区域から黒人代表を連邦議会に送るのは1970年のことです。この理由は、バルチモアの人口の半数以上がアフリカ系アメリカ人となった事情を反映しています。

University of Maryland

21世紀初頭、州の総人口の約3分の2を白人が占め、約3分の1をアフリカ系アメリカ人が占めていました。残りの大部分はアジア系アメリカ人で、少数のネイティブ・アメリカンもいました。現在同州にはヒスパニック系人口も少ないのですが増加の傾向にあります。

メリーランド州は、宗教の自由を確立した最初のアメリカ植民地となります。ペンシルベニアとの境界紛争は、1760年代にメイソン・ディクソン線(Mason-Dixon Line)が引かれたことで決着します。1788年、メリーランド州は合衆国憲法を批准した7番目の州となります。

メリーランドは、1791年に連邦首都の建設地としてコロンビア特別区(District of Columbia:D.C.)を割譲します。さらに1812年戦争(War of 1812)といわれた米英戦争に参戦します。この戦争は、イギリスがアメリカとフランスの貿易を妨害したことなどに対して、アメリカの反発から起こったといわれる戦です。この戦の勝敗はつかず。1814年に講和します。

1845年にアナポリス(Annapolis)に海軍士官学校(海軍大学)(Naval Academy)が設立されます。南北戦争中もメリーランド州は連邦に残りますが、南部からの強い影響によって戒厳令(martial law)が敷かれたりします。戦後は南部と中西部への消費財の重要な中継地として栄えていきます。20世紀には首都ワシントンDCに近く、人口増加に拍車がかかります。

メリーランド州の経済は主に政府サービスと製造業に基づいています。人々の一人当たりの平均収入は2007年から連続全米一となっています。これは、ワシントンD.C.に通う人々が多いこと、ハイテクの産業が多いことなどが理由となっています。350余りのバイオテクの企業が多いのも特徴です。そしてメリーランド大学が科学者や研究者などの専門家を輩出する中心となっています。

農業が盛んなのがアメリカのどの州にも共通する特徴です。メリーランド州もそうです。キュウリ、スイカ、スイートコーン、トマト、マスクメロン、カボチャ、梨などが採れます。

アナポリスの海軍士官学校は、ほれぼれするほど綺麗なキャンパスと街並です。ニューヨーク州のウェストポイント(West Point)にある陸軍士官学校(陸軍大学)(US Military Academy)と並び、合衆国の幹部将兵を育てるこの海軍士官学校は、長い歴史を有しています。1976年からは女性の入学も認められています。私と院生がここを訪れたのは2003年でした。D.C.での学会のついでに立ち寄って麦酒を片手に生牡蠣(oyster)を楽しみました。大西洋に抱かれるチェスピーク湾は人々の憩いの場となっています。

2024年3月26日にボルチモア郊外にかかる全長およそ2.5キロのフランシス・スコット・キー橋(Francis Scott Key Bridge)の支柱に、シンガポール船籍の大型コンテナ船が衝突し橋の大部分が崩れ落ち、複数の車が川に落ちて死者がでました。コンテナ船の電源が切れ操縦がきかなくなり、SOS信号を発信しますがすでに遅しという状態だったようです。1977年開通の橋で半世紀近く経つ橋の老朽化や補強不足の可能性もあると指摘されています。
(2024年4月30日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州メイン州・Vacation Land

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メイン州(Maine)のナンバープレートには「Vacation Land」とあります。「The Pine Tree State」とも呼ばれ観光と森林の州を謳っています。多くの州立公園があり、キャンピングなどアウトドアでも盛んなところです。豊富な海産物を背景に観光客には、必ず立ち寄るのが海産物を提供しているレストランとなります。

License Plate of Maine


メイン州は合衆国本土の最東北部に位置する小さな州です。北、東、西側はカナダと長く国境線を有し、南は大西洋がひろがる州です。州の内部には森林が広がり、海岸線は観光地として知られています。メインはニューイングランドの一部です。州都はオーガスタ市(Augusta)です。州の海産物はなんといってもロブスター(lobster)そして貝類(clam)。その他、家禽及び卵、乳製品、牛、ブルーベリー(blueberry)、リンゴ、そしてメイプルシロップ(maple syrup)です。他にも産業生産で高いのは材木及び製紙です。合衆国の海軍基地を控え造船も盛んな地です。

現在メイン州となっている領域には、アルゴン族Algonquian)インディアンがこの地域の最古の住民だったいわれています。ヨーロッパからの入植者たちは、ペノブスコット族(Penobscot)とパッサマクオディ族(Passamaquoddy)が川沿いと海岸に住んでいるのを発見します。最初の開拓地は、1604年にフランス人ピエール・デュギュア・シュール・ド・モン(Pierre Duguy Sur de Monts)がサンクロワ島(Saint-Croix Island)に設立したものでした。フランスは1603年にメイン州をアカディア州(Acadia)の一部とし、イギリスは1606年にプリマス社(Plymouth Co)に領有権を与えます。プリマス社はポパム植民地(Popham Colonyをつくりますが、短命に終わります。17世紀にはイギリスが散在する入植地を築きますが、1763年にイギリスがカナダ東部でフランスを征服するまで、この地域は常に地元インディアンとの抗争の地となります。

Map of Maine

メイン州は1652年から1820年のミズーリ妥協により連邦の23番目の州として承認されるまで、マサチューセッツ州の一地区として統治されます。カナダとの境界は1842年に定められました。19世紀には南北戦争と産業革命によって労働者と資本がメイン州から流出しますが、20世紀には南西部の沿岸地域を中心に緩やかながら着実に経済成長を遂げていきます。経済は農業と天然資源に基づいています。

アメリカ独立戦争(War of Independence)や米英戦争(War of America)のとき、アメリカの愛国者とイギリス軍がメインの領土を巡って争います。これはアルーストック戦争(Aroostook War)と呼ばれます。メイン州と英国系カナダ人のニューブランズウィック州(New Brunswick)の間で係争中であった境界線を巡る無血紛争です。

アメリカ独立戦争に締結された1783年の平和条約では、2つの地域を分ける「高地」(highlands)、つまり分水嶺の位置が不明瞭なままになっていたのです。その後数年間、イギリスとアメリカの交渉は合意に至らず、この問題はなぜかオランダ国王(Netherlands)に付託され、1831年にオランダ国王が決定を下しますが、メイン州国民はそれに激しく反対し合衆国上院(Senate)も否決をすることになります。さらに、ニューイングランドからの入植者とカナダからの製材業者が係争地域アルーストック地域に移住し、1838年から1839年にかけて紛争は激化します。双方の役人や集団が「不法侵入者」を逮捕して捕虜にします。

1839年3月、ケベック州(Quebec)のイギリス軍がアルーストックのアメリカ地区であるマダワスカ(Madawaska)に到着すると、メイン州議会は直ちに80万ドルを計上し、1万人のボランティア民兵を招集しアルーストックに派遣します。アメリカ議会も5万人の兵士と1,000万ドルの拠出を可決し、ウィンフィールド・スコット(Winfield Scott)将軍はマーティン・ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren)大統領によってメイン州オーガスタ行きを命じられます。1839年3月、彼とイギリスの交渉官ジョン・ハーヴェイ卿(Sir John Harvey)とスコットは、満足のいく解決が得られるまで停戦することと、係争中の領土を共同で占拠することに合意します。後の1842年にメイン州とイギリスの植民地であったカナダ・ニューブランズウィック州の境界線の位置を巡る紛争は、ウェブスターアッシュバートン条約(Webster-Ashburton Treaty)によって解決されます。

1820年まではメイン地区としてマサチューセッツ州(Massachusetts)に属していましたが、1820年の住民投票でマサチューセッツ州からの分離を決め同年の3月15日にアメリカ合衆国23番目の州に昇格します。

メイン州は19世紀の緩やかな成長を経て、20世紀後半に25万人近くという前例のない人口増加を経験します。この成長の大部分は、特に州の沿岸部と南西部への移民の結果でした。しかし、アルーストック郡(Aroostook)は実際に人口の10分の1近くを失い、人口は減少し続けています。

メイン州の人口は均等に分布していません。住民のほぼ4分の3が、メイン回廊(Maine Corridor)として知られる州の南西5分の1に住んでいます。州の北西部と東部内陸部にはメイン州の人口の1% 未満が含まれていますが、面積の5分の2を占めています。

メイン州の住民の約半数は都市中心部に分類される地域に住んでいますが、人口が25,000人を超える都市は3つだけです。都市中心部のほとんどはメイン回廊内にあります。メイン州最大の都市圏は、ポートランド(Portland), サウス ポートランド(South Portland),ビデフォード(Biddeford)などです。ポートランドは、キャスコ湾(Casco Bay)とその周辺の内陸に広がる大都市圏の中心です。州の商業と交通の中心地であり、その経済は成長し多様化した産業基盤を持っています。ポートランドの南にあるビデフォードは、かつては繊維の中心地でした。繊維と靴の重要な製造の中心地であったルイストン(Lewiston)とオーバーン(Auburn)の双子の都市は、州内で2番目に大きな都市圏を形成しています。

現在、この地域は多様な製造業に依存しており、アンドロスコッギン(Androscoggin)渓谷とオックスフォード(Oxford)郡東部の両方にサービスを提供する重要な商業拠点となっています。バンゴー(Bangor)は、ペノブスコット川(Penobscot River)の航行の始点にある古い製材業の町で、メイン州の北部と東部を含む広大な後背地の商業の中心地です。

州都オーガスタはケネベック川(Kennebec River)の航路の先端にあります。州政府が主な雇用源でオーガスタはメイン州中西部の重要な貿易の中心地でもあります。オーガスタの北、ケネベック川沿いにあるウォータービル(Waterville)は、隣接するコミュニティとともに、20世紀後半に製造業へと転換し、小規模で多様な産業が集積し、オーガスタと同様に地域貿易の中心地となっています。


(2024年4月27日)

ミネソタの伝説的人物・ポール・バニヤン

注目

ポール・バニヤン(Paul Bunyan)は、巨大な木こり(lumberjack)で、アメリカの森林キャンプでの神話上の英雄であり、大きさや強さ、みなぎる活力を象徴する架空の人物です。 ポール・バニヤンの伝説を形成する物語や逸話は、辺境のほら話(folk tale)の伝統であり、その典型とされて子ども達から大人まで親しまれています。

バニヤンには二人の仲間がいます。ベイブ・ザ・ブルー・オックス(Babe the Blue Ox)という巨大な雄牛とジョニー・インクスリンガー(Johnny Inkslinger)です。インクスリンガーは聡明な記者で詩人でもあり、彼は材木キャンプの食事を美味し作る料理人ですが、落ち着きがなく、自分にとってキャンプよりも人生の方が重要であると考える人物です。

三人は何ヶ月も続く雨、巨大な蚊、悪天候にも動じません。この物語は、湖や川を思いのままに造るバニヤンがどのようにしてワシントン州(Washington)のピュージェット湾(Puget Sound)、コロラド州(Colorado)のグランドキャニオン(Grand Canyon)、ノースダコタ州(North Dakota)のブラックヒルズ(Black Hills)を創造したかを語っています。

彼らは製材業者の驚異的な食欲に驚きます。そのためバニヤンの森林キャンプ用ストーブは4047平方メートルですから、サッカーグラウンド1つ分の大きさで、ホットケーキの鉄板は非常に大きいため、スケート靴の側面を使用して油を塗るという按配です。そうして製材業者の食欲を満たすのです。といったように奇想天外なストーリーが展開します。

口頭伝承から記録されたポール・バニヤンのいくつかの逸話は、最初のバニヤンの物語がジェームズ・マクギリヴレー(James MacGillivray)によってデトロイト・ニュース・トリビューン(Detroit News-Tribun)上での「ザ・ラウンド・リバー・ドライブ」(The Round River Drive)で紹介されます。マクギリヴレーは、ポール・バニヤンはすでにペンシルベニア(Pennsylvania)、ウィスコンシン(Wisconsin)、および北西部の製材業者に知られていたことを書いています。

プロの作家によって、バニヤンは職業上の人物という描写から国民的な伝説に変わっていきます。バニヤンは、ウイリアム・ローギード (William.Laughead)というミネソタ州の広告マンよって初めて一般聴衆に紹介されます。彼は、1914年頃に材木会社の製品を宣伝するために使用した一連のパンフレットにバニヤンを登場させるのです。

やがて作家のエスター・シェパード(Esther Shephard)に影響を与え、シェパードは1924年にポール・バニヤンの神話上の英雄についての本を書きます。こうした本は幅広い大衆向けにバニヤンのイメージを一新していきます。こうした作家によるバニヤンにまつわるユーモアは、製材技術の知識ではなく、バニヤンの巨大さに焦点を当てて読者を魅了します。

やがて バニヤンの伝説は、数多くの児童書や観光客を誘致するために1950年にミネソタのブライナード(Brainerd)造られた「バニヤンランド」とか、同州北部にあるベミジ(Bemidji) にあるバニヤンと雄牛の像が、1988年以来国家歴史登録財(National Register of Historic Places)に登録されて、市民フェスティバルなどによってさらに有名になります。
(2024年4月18日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミネソタ州・10,000 Lakes

注目

ミネソタ州(Minnesota)のナンバープレートには「10,000 Lakes」と印字されています。無数の湖があることでも知られています。昔、氷河がミネソタ全体を覆っていたようです。氷河はゆっくり移動しますが、そのとき大地を削っていきます。それが基で湖が出来たというわけです。あまりに沢山の湖があるので、目的地に着くには大分迂回しなければならないということを友人から聞いたことがあります。ホリネズミ(Gopher)が生息することから「Gopher State」というニックネームもあります。

License Plate of Minnesota


カナダと国境を接し、ウィスコンシン州の西隣に位置する州です。州都はセントポール(St. Paul)。その隣は最も大きな都市、ミネアポリス(Minneapolis)です。この二つは隣合わせなので「双子の都市」(Twin Cities)と呼ばれています。

19世紀初頭に最初にミネソタに定住したのはイギリス人(English)、スコットランド人(Scottish)、スコットランド系アイルランド人(Scotch-Irish)の子孫であるカナダ人やニューイングランド人(New Englanders)でした。やがてこうした人々のほとんどが起業家(entrepreneurs)となり、ミネソタ歴史協会(Minnesota Historical Society)、ミネソタ大学(University of Minnesota)、立法問題を議論するためのコミュニティの集まりのための討論会やタウンミーティング(Town meetings)のための公開フォーラムの利用など、ミネソタ州で今も重要な機関や多くの伝統の確立に貢献しました。1858 年にミネソタ州が州となる前から、いくつかのコミュニティでタウンミーティングが開催されていました。

19世紀後半の最初の主要な移民グループは、伐採、鉄道建設、農業、貿易を行ったドイツ人(Germans)、スウェーデン人(Swedes)、ノルウェー人(Norwegians)でした。 ドイツ人入植者がミシシッピ川の沿岸部を支配し、州の中央部と中南部まで続きます。ノルウェー人入植者は郡の南層を越えて西に移動し、ミネソタ州中西部とレッド川(Red River)渓谷に主要な民族グループを形成します。 スウェーデン人入植地の主な地域は、ツインシティのすぐ北にあるいくつかの郡と、ミネソタ州中西部および北西部に点在していきました。

ヨーロッパ人が入植する以前、この地域にはオジブワ族(Ojibwa)とダコタ族(Dakota)が住んでいました。17世紀半ば、フランス人探検家たちが北西航路(Northwest Passage)を探しにやってきます。ミネソタ準州(Minnesota Territory)となった北東部は、フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にフランスからイギリスへ、そして独立戦争後の1783年にアメリカへ渡り、1787年に北西準州の一部となります。

かなりの数のフィンランド人(Finns)がミネソタ州北東部に定住し、ポーランド人(Poles)がミネソタ州南東部と中央部に定住します。ツインシティズ地域の南にボヘミアン人(Bohemians)が、南部全域にアイルランド人、ツインシティズのすぐ北とミネソタ州北西部にフランス人およびフランス系カナダ人(French Canadians)も定住します。一部にオランダ人(Dutch)およびフランドル人(Flemish)が住んでいます。ミネソタ州南西部にはアイスランド人、ミネソタ州北西部にはアイスランド人、そして州内に点在するデンマーク人(Danes)、ウェールズ人(Welsh)、スイス人(Swiss)が住んでいます。

1890年までに、ミネソタ州の生産的な農地のほとんどが所有権を主張されていました。したがって、その後数十年間に到着した移民のほとんどは、雇用の機会が拡大していたツインシティ地域または鉄山地帯で生計を立てようとしました。これらの後の移民グループには、イタリア人(Italians)、スロバキア人(Slovakians)、クロアチア人(Croatians)、セルビア人(Serbs)、ギリシャ人(Greeks)、ウクライナ人(Ukrainians)、ロシア人(Russians)が含まれ、さらに北ヨーロッパ人(northern Europeans)も引き続き流入しました。特にツインシティ地域は急速に成長し、州の主要なるつぼとなりました。しかし、元の民族クラスターの多くは、特に移民がほとんど定住していない農村部では、ある程度の均質性を保っています。

Map of Minnesota

1970 年代半ば以来、ヒスパニック系(Hispanic)、アジア系(Asians)、アフリカ系の移民が州の都市部や地域の中心部に到着しています。ミネソタ州のヒスパニック系人口は1990年代初頭から2004年頃までに 3倍に増加し、現在では総人口の約4パーセントを占めています。ベトナム人(Vietnamese)、ラオス人(Laotians)、カンボジア人(Cambodians)、モン族(Hmong)の難民は、1970年代後半からツインシティ地域に移住しました。実際、ミネソタ州にはアメリカで最大のモン族人が住んでいます。

南西部は1803年にルイジアナ購入(Louisiana Purchase)の一部としてアメリカが獲得し、北西部は1818年に条約により英国からアメリカに割譲されます。1819年にフォート・スネリング(Fort Snelling)に合衆国最初の永住地が建設されます。1849年に設立されたミネソタ準州には、現在のミネソタ州とノースダコタ州およびサウスダコタ州の東部が含まれていました。

ミネソタ州は1858年にアメリカ合衆国32番目の州となります。1862年にミネソタ州南部でスー族の反乱が起こり、500人以上の市民、兵士、ダコタ族が死亡する事件が発生します。1884年に商業的な鉄鉱石生産が始まり、1890年に州北部のメサビ山脈(Mesabi Range)の巨大な埋蔵鉄が発見されると、ダルース(Duluth)の人口は急速に増加します。

ミネソタ州は政治的に活発な市民が多いことで知られています。人々が政治に関わるという意識が高いのです。そのせいか、ミネソタ州の投票率は常に高いことで知られています。2008年の米大統領選挙では、投票権を持つミネソタ州民の78.2%が投票しています。これは全米平均の61.2%に対して全米で最も高い割合となりました。現在も民主党の牙城となっている州の一つです。

ミネソタ州からは二人の民主党員の副大統領がでています。1964年、合衆国大統領選挙で第38代副大統領となったハンフリー(Hubert Humphrey)で大統領はリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)でした。1977年、大統領選挙で第42代副大統領になったのはモンデール(Walter Mondale)で、大統領になったのはジミー・カーター(James Carter)でした。

現代のミネソタ州ではサービス業が主な経済活動です。農業、特に穀物、肉、乳製品は依然として重要であります。鉄鉱石のほか、花崗岩や石灰岩などの鉱物資源にも恵まれています。

双子の都市ではプロ野球球団のMinnesota Twinsがあります。フットボールではMinnesota Vikingsが知られています。精密機器などの産業でも有名です。穀物の集散地であります。穀物メジャーで穀物市場を支配するカーギル(Cargill)がります。穀物のみならず精肉・製塩など食品全般及び金融商品や工業品に営業範囲を広げています。ミネソタ州には、3Mという世界的化学・電気素材メーカーの本社もあります。この会社には経営手法として「15パーセントカルチャー」(15% Culture) というのがあります。従業員が勤務時間の15%を日々の仕事にとらわれない研究活動にあてることを許すという興味ある不文律です。その他、合衆国内で最大のショッピングモール「Mall of America」は日本人の観光客も立ち寄るところです。

私事ですが、ミネソタ大学の友人が多く住んでいて何度もミネアポリスを訪問しました。私に洗礼を授けてくれたルーテル教会の牧師先生のご家族もここに住んでおられます。北米やカナダに伝わるおとぎ話に登場するのが巨人ポールバニヤン(Paul Banyan)です。西部開拓時代にミネソタ州でも活躍した怪力無双の木こりの物語です。次回ではこの人物を取り上げます。
(投稿日時 2024年4月月13日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミズーリ州・Show Me State

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ミズーリ州(Missouri)のニックネームは「Show Me State」となっています。これは、「俺は疑い深いのだ、証拠を見せてくれ。」という意味です。少々のことでは納得しない、という気概が感じられます。このフレーズがナンバープレートにプリントされています。

License Plate of Missouri

ヨーロッパ人が征服する前、ミズーリ州となる土地は多様な先住民族の本拠地でした。古代クローヴィス(Clovis)やフォルサム(Folsom)の文化複合施設の多くの遺跡から、人類は紀元前 9000 年頃からこの地域に居住したことが明らかになりました。最も著名な古代社会は「ミシシッピ文化」(Mississippian culture)と呼ばれ、現在の最大の先史時代の都市であるカホキア(Cahokia)の彫像(effigy)と古墳(burial mounds)で知られていました。

Map of Missouri

「ミシシッピ文化」とは、住居や墳墓などを建設するために、人工のマウンドを構築したインディアン文化です。およそ800年から1500年まで、現在のミズリー州などの中西部、東部および南東部に広まりました。墳墓の技術からみてヨーロッパの銅器時代にあたるされています。ミシシッピ文化の生活様式はミシシッピ川渓谷で発展し始めます。これらの遺跡からはヨーロッパ白人による遺物がほとんど見つかっていないので、白人との接触以前のものとされています。

ミズーリ州の先住民は一般に、北東インディアン文化(Northeast Indian)と平原インディアン文化(Plains Indian)として知られる2つの大きなカテゴリーに分類されます。北東インディアンの人々は、州の森林の多い東部全域に分散して集落や村に住んでいました。彼らはトウモロコシ農業、野生植物食物の採集、狩猟、漁業を組み合わせて生計を立てていました。州名は、このグループの最も著名な地元部族であるミズーリ族(Missouri)の名前から由来しています。平原インディアンは州の西部に住んでいました。オーセージ族(Osage)やクアポー族(Quapaw)などの人々のことで、この地域の川の谷に住み、東部の人々と非常によく似た生活をしていました。

この地域にはもともとさまざまなインディアンが居住していて、そのうちの1つであるミズーリ族(Missouri)が州名の由来となっています。1735年、フランス人猟師と鉛鉱夫によってセント・ジュヌビエーブ(Ste. Genevieve)に最初のヨーロッパ人定住地が作られます。やがてセントルイス(St. Louis)が1764年に設立されます。もともとの開拓には、フランスから移民としてやってきて、カナダでフランス植民地をつくった人々がミズーリにやってきたとあります。そのせいか、フランスの名前が目立ちます。

それから約30年後、ニューオーリンズ(New Orleans)出身のフランスの毛皮商人ピエール ラクレード リゲスト(Pierre Laclède Liguest)がセントルイス(St. Louis)を設立します。1803年のルイジアナ(Lousiana)買収当時、この地域の約10,000人の住民のほとんどはイリノイ州からのフランス人入植者でした。この地域の白人人口のごく一部はケンタッキー州 (Kentucky)とテネシー州(Tennessee)からやって来ており、ヴァジニア州(Virginia)とともに19世紀前半を通じて直接の入植者の主要な供給源となりました。

他方、特に18世紀前半に、新たな先住民集団がミズーリ州に流入してきます。これらのグループには南東部インディアンの小さなコミュニティが含まれており、彼らは北アメリカ南東部でヨーロッパの植民者との紛争を避けようとして、現在のミズーリ州東部に移住し始めました。ミズーリ州西部では、平原の人々の多くが馬を利用できるようになり、スー族(Sioux)などの騎馬遊牧民が存在するようになりました。

アメリカは1803年にルイジアナ購入の一部としてこの地域の支配権を得ます。1805年にはルイジアナ準州の一部となり、1812年にはミズーリ準州となります。1812年の戦争後、アメリカ人入植者の流入が起こります。ミズーリ州は1821年にアメリカ24番目の州となりますが、ミズーリ妥協案(Missouri Compromise)によって奴隷州として認められた後でした。1857年のドレッド・スコット(Dred Scott)判決に見られるように、ミズーリ州は奴隷所有者と奴隷廃止論者の間で多くの緊張に見舞われます。南北戦争中もミズーリ州は連邦に属し、市民は両陣営で戦うという有様でした。

ドレッド・スコット判決とは、合衆国における黒人奴隷制をめぐる賛成派と反対派の激しい論争で起こった裁判です。1857年、合衆国の連邦最高裁判所がミズーリ協定を憲法違反とし、自由州での奴隷所有を認めた判決です。カンザス・ネブラスカ法とともに奴隷制拡大派の民主党の主張に沿ったものでした。その結果、奴隷制度に反対するリンカーンらの勢力が反発し、共和党に結集し南北戦争の引き金となります。

戦後、ミズーリ州の経済成長は拡大し、1904年のセントルイス博覧会で賞賛されます。第二次世界大戦後、経済は農業から製造業に移行していきます。主にオザーク(Ozarks)地方を拠点とする鉛の生産では全米トップとなっています。

ミズーリは、合衆国中西部のミシシッピ川沿いの内陸にあります。8つの州にまたがるところでもあります。州都はジェファーソン・シティ(Jefferson City)。同州を代表する都市はなんといってもセントルイス(St. Louis)です。ミシシッピ川に面するこの町は、開拓時代より西部への玄関口として発展し、現在では中西部きっての観光地となっています。ミズーリ州出身の小説家にマーク・トウェイン(Mark Twain)がいます。『トム・ソーヤーの冒険』(The Adventures of Tom Sawyer)の著者として知られ、数多くの小説やエッセーを発表します。当時最も人気のある著名人の一人で、ユーモアと社会風刺に富んだ作品で知られています。

ミズーリ州の発展は人や物の流通、電力の供給をささえているミズーリ川(Missouri River)にあります。その流域面積はアメリカ合衆国本土のおよそ6分の1に達する規模です。20世紀には上流に洪水防止、灌漑、水力発電用のダムがいくつもつくられます。フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)大統領が1944年洪水調整法(Flood Control Act of 1944)に署名した後、ミズーリ川を北アメリカ最大の貯水システムに変えたのです。

ミズーリ州は、大理石の生産で知られています。その他、鉛、石炭、採石が生産されています。ミズーリ川とミシシッピ川(Mississippi River)がこうした資源を運ぶ大動脈となっています。川には大小多くのバージ(barge)と呼ばれる運搬船が往来しています。ミズーリ川はミシシッピ川の最長の支流であり、北米で2番目に長い川です。この川は、モンタナ州南西部のロッキー山脈(Rocky Mountains)地域にある、海抜約1,200メートルのジェファソン川(Jefferson)、マディソン川(Madison)、ガラティン川(Gallatin)の合流点によって形成されています。ミズーリ州本土の総コースは3,726kmです。ミズーリ州とレッドロック川 (Red Rock River)水系の全長は約 4,090 kmで、アメリカで3番目に長い水系です。この川は カンザス州カンザスシティ(Kansas City)で川は再び東に向きを変え、ミズーリ州中西部を東に蛇行してセントルイスの北約16kmでミシシッピ川に合流します。

セントルイス市内には「Gateway Arch」アーチがそびえています。頂上からの眺めは、ミシシッピ川をはさんで360度の景色が楽しめます。ここには、Gateway Archが建設される様子の資料が展示されています。あの壮麗なアーチが出来上がる様をつぶさに映像で説明しています。ミズーリの主要産業は、航空宇宙産業、輸送設備、食品加工、化学工業、印刷/出版、電気設備、製造業など多彩です。農業生産品は、牛肉、大豆、豚肉、乳製品、干し草、トウモロコシ、ニワトリなどの家禽、及び 鶏卵です。特に豚や牛の生産が盛んです。近年はワイン産業の育成にも州は力を入れています。

第33代大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)はミズーリ出身です。民主党ではめだたない政治家でしたが、党内のニューディール派と保守派の妥協によってフランクリン・ルーズヴェルト大統領(Franklin Roosevelt)の副大統領に選出されます。ルーズヴェルトの死去により大統領になります。トルーマンは、ポツダム宣言発表前の7月25日に既に原爆投下を命令し、戦後は共産主義者摘発の「赤狩り」と呼ばれたマッカーシズム(McCarthyism)を黙認します。

面白い話題がミズーリ州にはあります。それはアルコールやタバコの生産にまつわることです。ミズーリは他の州に比べて、アルコールやタバコの規制が緩やかなことです。例えば、未成年の子どもに保護者が酒をのませることを認めたり、21歳以上であれば道端でプラスチックのカップなどで酒を飲むことができるなどです。禁煙運動が盛んな国としては、大変珍しいことです。バドワイザー(Budweiser)を製造するアンハウザー・ブッシュ(Anheuser-Busch)の本社もここにあります。

ミズーリの高等教育機関といえば、セントルイスにあるワシントン大学(Washington University in St. Louis)を挙げなければなりません。ワシントン大学というと、ワシントンD.C.にある大学とかシアトルにあるワシントン大学(University of Washington)だと誤解されがちですが違います。セントルイスにあるのです。特に医科大学院は業績において世界的な知名度を誇り、中規模な大学にもかかわらず22名のノーベル賞受賞者を輩出しています。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミシガン州・Great Lake State

注目

ミシガン州(Michigan)のナンバープレートには「Great Lake State」と印字されています。自然豊かなという意味の「Pure Michigan」もあります。五大湖を指しています。その名の由来は、オジブエ語(Ojibwe)のガリシア語化(gallicized variant)した変化形から由来し「大きな水」または「大きな湖」を意味するようです。「水と冬の驚きの地」(Water-Winter Wonderland)とか「 五大湖の素晴らしさ」(Great Lake Splendor)というフレーズもナンバープレートに見受けられます。

License Plate of Michigan

ミシガンは北はカナダと国境を接しスペリオル湖(Lake Superior)、ヒューロン湖(Lake Huron)を抱え、西はウィスコンシン州、南はインディアナ州とオハイオ州に接しています。州都はランシング(Lansing)で最大の都市はご存じデトロイト(Detroit)です。デトロイト国際空港は6本の滑走路を有し、デルタ航空(Delta Airlines)及びスピリット航空(Spirit Airlines)などの一大ハブ空港となっています。

Map of Michigan

ヨーロッパ人入植者が到着する前、ミシガン州にはいくつかの先住民族が住んでいて、そのほとんどがアルゴンキン語族(Algonquian)でした。先住民の大多数は湖岸近くに住み、水路を利用して移動していました。南部のポタワトミ族(Potawatomi)とオタワ族(Ottawa)は主に農民で、トウモロコシ、タバコ、ヒマワリ、カボチャを栽培し、周囲の森林から農産物も収穫していました。これらの南部の人々は比較的定住していました。対照的に、寒冷な北部に広く点在するオジブワ族は、狩猟と漁業の生計を立てて季節ごとに移動しました。1622年にエティネ・ブルーレ(Etienne Brule)というフランス人探検家がやってきて、その後宣教師や毛皮商人らが入植し、1668年にスーサント・マリー(Sault Sainte Marie)、1701年にデトロイトを建設します。

ヨーロッパ系ミシガン州の初期入植者のほとんどは、1830年代に一般に「ミシガン熱」(Michigan Fever)と呼ばれる移民の波の一環として、この地域にやって来ます。入植者の多くはエリー運河(Erie Canal)を経由してニューヨーク州(New York)からやって来ました。1850年までに、ニューヨークからの移民がミシガン州の人口の約3分の1を占めるようになります。1820年から1834年の間に、ミシガン準州の人口は10倍に増加しました。

初期の非英語圏移民の中で最も多かったのはドイツ人(Germans)です。デトロイトには1830年代半ばまでにかなりのドイツ人コミュニティが形成され、1850年までにいくつかの農村地域も形成されました。アイルランド人(Irish)の農民はミシガン州南部に見られ、1860年までにはアッパー半島(Upper Peninsula)にも見られましたが、大規模なアイルランド人人口は基本的に都市部で占めていました。オランダ(Holland)の影響は、1847年にオランダ人(Dutch)入植者が開拓に成功したオランダとゼーラント(Zeeland)周辺の西部の郡に今もはっきりと残っているといわれます。

フィンランド人(Finnish)、アイルランド人(Irish)、コーンウォール人(Cornish)はアッパー半島の経済的および文化的生活において重要な存在であり、そこでは多くが鉱山労働者として働いていました。初期のポーランド人(Polish)移民は1890年代まで農村部に定住し、1890年代には多数のポーランド人がデトロイトに集中しました。現在、この都市の人口にはポーランド系の人々が多く含まれています。最近では、ヒスパニック、アジア人、中東からの移民がミシガン州の民族混合に貢献しています。この州にはシリア人(Syrians)、レバノン人(Lebanese)、イラク人(Iraqis)、パレスチナ人(Palestinians)、ヨルダン人(Jordanians)、イエメン人(Yemenis)などが含まれる中東系の人々が住む国内最大規模の州の一つとなっています。彼らはディアボーン(Dearborn)付近に集中しています。

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にイギリスがミシガン州を支配し、1783年にアメリカに返還されます。1787年にはノースウエスト準州(Northwest Territory)に、1800年にはインディアナ準州(Indiana Territory)に含まれていきます。1805年にロウアー半島(Lower Peninsula)にミシガン準州が編成されます。1812年の戦争でイギリスに降伏したのですが、1813年にオリバー・ペリー(Oliver Perry)がエリー湖の戦い(Battle of Lake Erie)で勝利したことによりアメリカの支配が回復します。

20世紀初頭以降の最も重要な人口現象は、アフリカ系アメリカ人コミュニティの成長で、これは主に南部のアフリカ系アメリカ人の田舎から北部の都市部への大移動の結果です。1900年には16,000人未満でしたが、 21世紀初頭までに100万人をはるかに超えていきます。ミシガン州のアフリカ系アメリカ人住民のおよそ半数がデトロイトに住んでおり、人口の5分の4以上を占めています。また、フリント(Flint)やサギノー(Saginaw)の古い地区や中心市街地には、大規模なアフリカ系アメリカ人コミュニティがあります。

ミシガン州の宗教の歴史は、初期にローマ・カトリックが優勢であったという点で、中西部の他の多くの州とは多少異なります。デトロイトへの最初のヨーロッパ人入植者はフランス人のローマ・カトリック教徒であったため、19世紀にアイルランド人、イタリア人、ポーランド人が大規模に移民する前から、その信仰を持つ多くの移民がこの街に惹き付けられました。デトロイトは1833年に教区となり、1937 年に大司教区となりました。その他の教区はマーケット(Marquette)、グランドラピッズ(Grand Rapids)、ランシング(Lansing)、サギノー(Saginaw)、ゲイロード(Gaylord)、カラマズー(Kalamazoo)にも設立されました。

プロテスタントの宗派のうち、ルーテル派にはドイツ人やスカンジナビア人の信者が多く、メソジスト派はミシガン州の地方と都市部の両方で定住します。最初のオランダ人入植者は、オランダ国教会に反対するキリスト教改革派教会の会員でした。ミシガン州の改革派の会衆は、分離元のオランダ教会からはっきりと独立し、その状態は今も続けています。長老派教会、バプテスト派、聖公会教会員も多数います。ミシガン州には全体としては数多くのプロテスタント宗派があり、中には信徒数が少ない宗派もあります。

ミシガン州への最初のユダヤ人(Jewish)移民はドイツ系でした。1851年にデトロイトのユダヤ人がシナゴーグ(synagogue)と呼ばれる会堂を設立しました。 州内のシナゴーグにはあらゆる形態のユダヤ教が反映されています。州のアラブ人(Arab)人口の一部はイスラム教徒(Muslim)であり、そのほとんどがイスラム教シーア派(Shiite)を信奉しています。しかし、デトロイト地域では大部分がアラブ系カトリック教徒の数がアラブ系イスラム教徒(Arab Muslims)の数を上回っています。

話題はミシガン州の領土に関わることです。トレド戦争(Toledo War)として知られるオハイオ州との境界紛争は、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)大統領によって解決され、ミシガン州はアッパー半島(Upper Peninsula)を獲得し、その補償として州としての地位を得ます。そして1837年には合衆国26番目の州となります。南北戦争では北軍(Union)に大きく貢献します。

20世紀には自動車産業が州の経済を支配していきます。ミシガンは自動車工業発祥の州として知られています。その中心はなんといってもデトロイトでしょう。「自動車の街」とも呼ばれています。デトロイトとは、フランス語で「水道」を意味する「ル・デトロワ(Le Detroit)」に由来します。五大湖のうちの4つに囲まれるという地の利が自動車産業を支えてきました。ゼネラルモーターズ(GM)、フォード(Ford)、クライスラー(Chrysler)のビッグスリーの本社がデトロイトとその近郊にあります。

その他の産業も盛んです。アムウェイ(Amway)、穀物のケロッグ(Kellogg)、ダウケミカル(Dow Chemical)、ワールプール(Whirlpool)などの本社もここにあります。しかし、デトロイトのダウンタウン周辺の空洞化は続いていて、駐車場や空地、全くテナントのいない高層ビルも存在しています。富裕層は郊外に移住して貧賤な層が取り残され、治安の改善もあまり進んでいないのが今のデトロイトです。

ミシガンは一大レクリエーションの州でもあるのをご存じでしょうか。2005年の統計によるとミシガンはカリフォルニア、フロリダに続き全米で第三番目の観光客を集めた州といわれるほど自然に恵まれたところです。6,500の湖や沼が広がるというのですから、レクリエーション客を惹き付ける理由もうなずけます。4つの湖の側はどこも州立公園や観光地といってよいほどです。いくつかを紹介しましょう。

カナダの国境近くにはマキナック島(Mackinac Island)があります。夏はキャンプ、リゾート、なんでも楽しめます。この島は車禁止。移動手段は「リムジン馬車」か自転車となっています。コロニアルスタイルの建物が並びます。生ガキとキャビア、魚料理の食事もいいです。のんびりと時間が流れるようなところです。ムーリイ岬(Pointe Mouillee )はエリー湖に突き出す砂州のようなところで、世界最大の干潟プロジェクトによる自然保護地区となっています。ミシガンはどこを走っても州立公園でキャンプを楽しめます。広さと清潔さ、そして安全さは多くのリクリエーション客を呼び寄せています。この州にきましたら是非テント持参の野外旅行をお勧めします。ミシガンといえば五大湖といってよいでしょう。

University of Michigan

高等教育機関ですが、研究開発はミシガン大学(University of Michigan)、ミシガン州立大学(Michigan State University)、ウエイン州立大学(Wayne State University)、セントラル・ミシガン大学(Central Michigan University)、ウエスタン・ミシガン大学(Western Michigan University)が担っています。
(投稿日時 2024年4月8日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ワイオミング州・Cowboy State

ワイオミング(Wyoming)という言葉は、「広大な平原の土地」(land of vast plains)を意味するデラウェア語(Delaware)に由来し、この州の広々とした自然環境を適切に表現しています。ワイオミングは、小さな牧場や農業の町、鉱山の集落があり、比類のないアウトドア・レクリエーションの場所が大地に広がっています。

License Plate of Wyoming

ワイオミング州のナンバープレートには「平等の州 (Equality State)」とか「カウボーイ州」 (Cowboy State)「Centennial 」と印字されています。牧場は歴史的に州にとって経済的にも文化的にも重要でした。山と荒馬とカウボーイの図柄はいいです。北にモンタナ州、東にサウスダコタ州とネブラスカ州、南にコロラド州、西にユタ州とアイダホ州と境をなしています。州都はシャイアン市(Cheyenne)です。全米で最も人口が少な州です。州の東側3分の1はハイプレーンズ(High Plaines)と西側3分の2はロッキー山脈(Rocky Mountains)、東部の山岳地帯と丘陵の牧草地帯が広がります。州の放牧地は家畜の生産に適しており、州の土地面積の3分の2以上が家畜の放牧に当てられています。畜産業が支配的です。ワイオミング州の農業経済の3分の2以上を占めています。 豚や羊の生産も重要です。

ワイオミング州の主な作物生産地域は南東部とビッグホーン川(Bighorn River)流域とウィンドリバー流域(Wind River)にあります。州西部の年間降水量が少ないため、州内の農場は10,000 未満となっています。家畜が消費する干し草は、州の農地の大部分を占めています。ワイオミング州の最も価値のある輸出穀物は小麦です。他の重要な作物にはオート麦、大麦、トウモロコシがあります。ワイオミング州は、テンサイ(sugar beets)、乾燥豆、ジャガイモの主要な生産地でもあります。ワイオミング州の総農地の約4分の3が灌漑されています。

ワイオミングに最初に居住したのは、おそらく2万年以上前にシベリア(Siberia)からアラスカ(Alaska)を経由してやってきた先史時代の狩猟採集民でした。彼らは地元の狩猟動物の個体数に大きく依存していたため、これらの民族の総数は決して多くありませんでした。白人の探検家がワイオミングを初めて訪れたことが記録に残っています。その頃には、ワイオミング州の人口は10,000人を超えていなかったと思われます。

19世紀の初めには、ショショーネ族(Shoshone)がワイオミング州最大のグループでしたが、アラパホ族(Arapaho)、クロウ族(Crow)、シャイアン族(Cheyenne)、アティナ族(Atsina)、アリカラ族(Arikara)、ネズパーセ族(Nez Perce)、ユート族(Ute)、オグララ族(Oglala)、そしてブルレダコタ族(Brule Dakota)と呼ばれていたスー族(Sioux)も少数いました。

ワイオミング州に入った最初の探検家として知られるのは、フランス系カナダ人のフランソワ(François)とルイ・ジョセフ(Louis-Joseph)の兄弟でした。この兄弟は1743年、太平洋へのルートを探して失敗しながらも、州の北東端を訪れました。ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)は、ワイオミング州を97kmほど外れましたが、一行の一人、ジョン・コルター(John Colter)は本隊から離脱し、しばらくワイオミング州北部を探索し続けます。探検隊の公式日誌には、コルターのルートとジャクソンホール(Jackson Hole)とイエローストーン公園(Yellowstone Park)地域の記述が載っています。

ワイオミング州住民の10分の9以上はヨーロッパ系住民となっています。ヒスパニック系はワイオミング州人口の最大の少数派です。アフリカ系アメリカ人は全人口の1パーセント未満で、そのほとんどがシャイアン地域に居住しています。中国系移民はユニオン・パシフィック鉄道(Union Pacific Railroad)の建設に貢献しますが、現在はワイオミング州にはアジア系人口は少少数となっています。ほとんどのアジア人は州南部の郡、シャイアン、ララミー(Laramie)、ロックスプリングス(Rock Springs)の都市に住んでいます。ワイオミング州の人口の2パーセント以上がアメリカ先住民で、そのほとんどがアラパホ族とショショーネ族となっています。

ワイオミングは1868年にワイオミング準州(Wyoming Territory)が設立されるまで、アメリカのいくつかの準州に分かれていました。やがて1868年にワイオミングは準州となります。1869年に女性参政権を採用し、1889年には憲法に女性参政権を盛り込んだ最初の州となりました。州のニックネームは平等の州「Equality State」と少々地味なフレーズです。それには次のような事実があります。すなわち1870年、ララミーという街では女性が初めて陪審員を務め、同年ララミーではメアリー・アトキンソン(Mary Atkinson)が女性初の廷吏となり、同年サウスパスシティ(South Pass City)ではエスター・モリス(Esther Morris)が女性初の治安判事になります。1925年に全米で最初の女性知事としてネリー・ロス(Nellie T. Ross)が就任します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」と呼ばれるようになりました。

一体、どうしてワイオミング州では女性が活躍するようになったかは不明です。通常、ワイオミングのような田舎の州は農業や酪農に従事する人々が多く、考え方は伝統的で保守的なのです。しかし、女性参政権を主張していたモリスを指導者に選ぶという大らかさが州民にあったからだろうと察します。「ワイオミングというアメリカ合衆国で最も若くまた最も裕福な準州の1つが、言葉だけでなく行動で女性に平等な権利を与えた」というのは、エスター・モリスの才能によったことも事実のようです。

ワイオミングには、アメリカでも特に有名な2つの国立公園、イエローストーン国立公園とグランドティトン国立公園(Grand Teton National Park)があります。この2つの国立公園は、アウトドア愛好家や冒険家に大人気です。ワイオミング州では広大な美しい大地を熊、バイソン(bison)、エルク(elk)、コヨーテ(coyote)などの野生動物が生息して大事に保護されています。グランドティトン国立公園は、1953年に制作された西部劇映画「シェーン」(Shane)のロケ地となったところです。流れ者シェーンと開拓者一家の交流や悪徳牧場主との戦いを描いた世紀の名作です。

イエローストーンには熱湯を噴出する間欠泉や、カラフルな熱水泉が点在しています。間欠泉ではオールドフェイスフル(Old Faithful Geyser)が世界的に有名です。「faithful」とは「忠実に」を意味し、一定間隔で忠実に噴出することを指します。熱水泉ではグランド・プリズマティック・スプリング(Grand Prismatic Spring)が特に人気があります。

近代の経済では家畜が依然として重要ですが、観光業も重要となっています。州の主要な産業は鉱業と農業。鉱業ではウラニウム、天然ガス、メタンガス等を産出し鉱業の影響力もますます大きくなっています。農業では小麦や大麦、馬草、サトウキビが主たる生産物です。
(投稿日時 2024年4月月日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ロードアイランド州・The Ocean State

ロードアイランド州(Rhode Island)のナンバープレートには「海洋の州」(The Ocean State)とあります。その名のように多くのオーシャンフロント・ビーチ(Oceanfront Beach)があります。州内の陸地の奥深くまでナラガンセット湾(Narragansett Bay)が入り込んでいることから、観光用パンフレットでよく使われるフレーズとなっています。

License Plate of Rhode Island

この州は合衆国東北部、ニューイングランド地方にある小さな州です。独立時の13州の1つで、ニューイングランド(New England)6州の1つでもあります。全米50州の中で面積が最小の州です。広さは滋賀県と同程度の面積です。州都および最大都市は港湾や学術都市であるプロビデンス(Providence)です。「Providence」とは、キリスト教における、“すべては神の配慮によって起こる”という概念を意味し、「摂理」や「神の意思」と訳されます。

ロードアイランドの北と東はマサチューセッツ州(Massachusetts)に接し、南は大西洋のロードアイランド海峡とブロックアイランド(Block Island)海峡に面し、西はコネチカット州(Connecticut)に接しています。長さはわずか約77km、幅は60kmで最も小さい州ですが、人口密度が最も高い州の1つです。極めてコンパクトな面積、それに比例した人口の多さ、経済活動により、近隣の州と密接に結びついています。さらに640km以上の海岸線を含むロードアイランド州と海との密接なつながりが、その愛称「オーシャン ステート」の基となっています。

Map of Rhode Island

ロードアイランドという名前の由来ははっきりしません。元々は、先住民族がアクィドネック島(Aquidneck Island)と呼んでいたナラガンセット湾(Narragansett Bay)の島のことだったようです。1644年にイギリス人によって使われていたアクィドネック(Aquidneck)が、植民地全体の略称としてロードアイランドと改名されたのは、イギリス人入植者が2つの外国の情報源を混同したことが部分的な原因だといわれます。つまり、最初に大西洋岸を点検したジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)がブロック島(Block Island)という島をギリシャのロードス島(island of Rhodes)と比較したことと、オランダ人がアキドネック島にその赤い土からつけたルッド・アイランド(Roodt Eyland)という名前をつけたのではないかという説です。

Rev. Roger Williams

この地域の原住民はナラガンセットインディアンです。1636年、マサチューセッツから追放されたロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)とその信奉者たちによってヨーロッパ人が最初に入植します。彼らが設立したプロビデンス・プランテーション(Providence Plantation)は由緒のある開拓部落です。ロードアイランド州の起源となった植民地集落の名前です。1663年、チャールズ2世(King Charles II )がウィリアムズに勅許を与えます。フィリップ王戦争(Philip’s War)でニューイングランド植民地に正式に加わることはありませんでしたが、多くの入植地が焼き払われ、大きな被害を受けることになります。

フィリップ王戦争とは、1675年6月から翌年8月まで、ニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争のことです。 フィリップ王とはワンパノアグ族(Wampanoag)酋長メタコメット(Metacomet)のことで、白人入植者は酋長をそのように呼んでいました。興味あることです。

植民地時代には、ほとんどの入植者はイギリスからのプロテスタントでした。当時、アイルランドのプロテスタント(Irish Protestants)、フランスのユグノー(French Huguenots)、そしてユダヤ人もやってきました。ユグノーとはフランスにおけるカルヴァン主義と呼ばれる改革派教会の信徒のことです。さらに17世紀に到着し始めた奴隷のアフリカ人がいました。1820年代になると大量のアイルランド人のローマ・カトリック教徒が流入し始め、1840 年代のアイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)を機に、その数はさらに増加しました。1865年の州勢調査の時点では、外国生まれのアイルランド人は州人口の約10分の1を占めていました。

フランス系カナダ人 (French Canadian)の移民は、南北戦争前に少しずつ流入した後、1870年代に大量に流入し始めました。移民は他の西ヨーロッパ人だけでなく、アルメニア人(Armenians)、ロシア人(Russians)、東ヨーロッパのユダヤ人、シリア人(Syrians)、そしてポルトガル人(Portugues)とアフリカ人の混血であるカーボベルデ人(Cape Verdeans)もやってきました。1890年代にイタリアから大量の移民も到着し始めました。1911年にプロビデンスは移民の公式入国地として認められ、1920 年までにロードアイランド州住民の約10分の3が外国生まれとなります。これにより他のどの州よりも最も高い割合となりました。その後、州ではローマ・カトリック教徒が過半数を占めるようになります。

アメリカ独立戦争のきっかけとなったイギリスの関税法との戦いでは、ロードアイランドは最前線に立ちます。連邦の原初州であり、1790年に憲法を批准した13番目の州でありましたが、権利章典(Bill of Rights)が含まれて初めて批准に同意することになります。1842年のドールの反乱(Dorr’s Rebellion)が起こります。地元の少数のエリートが、政府を支配していたロードアイランド州から広範な選挙権を剥奪し、型破りな民主主義を押し付けようとする試みでありました 。トーマス・ドール(Thomas Door)が主導し、選挙権を剥奪された人々を動員して州選挙規則の変更を要求したのがこの反乱です。土地を所有しない白人男性にも参政権が拡大されるまで、州独自の憲章が有効でありました。

1790年にサミュエル・スレイター(Samuel Slater)がポータケット(Pawtucket)に建設した綿織物工場は、合衆国の産業革命を引き起こします。製造業は現在も経済にとって重要であり、製品には宝石や銀製品、織物や衣類、電気機械や電子機器などがあります。ロードアイランド州の農業生産は野菜、酪農製品及び卵などです。ここの産業は機械、造船及びボート製造、ファッション装身具、加工金属製品、電気設備、並びに観光業となっています。

Campus of Brown University


第二次世界大戦後の数10年間は、東アジア、東南アジア、アフリカ、ラテンアメリカからの新参者が最も多くの移民グループとなりました。こうしてヒスパニック系住民の数がアフリカ系アメリカ人を上回るようになります。それでも、今日ロードアイランド州民の大多数はヨーロッパに祖先を持つ人々です。そのうち人口の約3分の2はローマ・カトリック教徒です。聖公会(Episcopalians)とバプテストであるプロテスタントの数は少ないですが、ユダヤ教徒、イスラム教徒(Muslims)、仏教徒(Buddhists)、ヒンズー教徒(Hindus)もいます。


州都プロビデンスにはアイヴィーリーグ(Ivy League)の一つブラウン大学(Brown University)があります。創立は1764年でアメリカ独立以前です。創立当初はバプテスト教会の教育機関でした。アイヴィーリーグの大学創立にはどれも宗教的な背景があります。Brown大学は人種や性別に関わらず、またバプテスト以外の教徒の子弟も受け入れることが伝統となっています。第18代の大学総長として始めて黒人であるルース・シモンズ(Ruth Simmons)が選ばれます。アイヴィーリーグの大学では非常に珍しいことです。

アイヴィーリーグでは、コロンビア大学(Columbia University)がニューヨーク市にあるだけで、他の有名な大学はボストンを除いてロードアイランドなどの地方にあるのは興味あることです。優れた大学の教育研究はどこででもできるということを意味しています。
(投稿日時 2024年4月)

ナンバープレートから見えるアメリカの州フロリダ州・Sunshine State

注目

日本人にもフロリダ州(Florida)はよく知られています。フロリダ州のナンバープレートには「Sunshine State」とあります。文字通り太陽の降り注ぐ温暖な州です。特に冬は、各地から避寒客がやってきます。極寒の中西部では、「フロリダに行ってくる」というフレーズは周りの人からは羨ましがられるのです。

License Plate of Florida

子どもや親にとってはフロリダ州はわくわくするところです。ディズニー・ワールド(Disney World)やアメリカ航空宇宙局 (NASA) のジョン・F・ケネディ宇宙センター(John F. Kennedy Space Center)があります。数々のロケットやスペースシャトルが打ち上げられてきたところです。軍事用の偵察衛星や通信衛星、気象衛星、そして惑星探査機の打ち上げにセンターが使われています。

フロリダの歴史です。1513年頃にフアン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de Leon)によって探検され、「La Florida」と名付けます。1565年にスペイン人がセント・オーガスティン(St. Augustine)を建設します。フロリダはフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にイギリス領となります。1783年のアメリカ独立戦争後、この地域はスペインの支配下に戻りますが、1812年戦争(War of 1812)中はイギリスが作戦の拠点として使用しました。第一次セミノール戦争(First Seminole War)でアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)がペンサコーラ(Pensacola)を占領したことにより、1819年にフロリダがアメリカに割譲され、その後フロリダは1845年に州となります。

Map of Florida

セミノール戦争とは、フロリダ地方に住むセミノール部族(Seminole)と合衆国との間で1816年から1858年まで続いた長い戦争のことです。子孫の大部分を占める約2,500人のセミノール人が抵抗したのが、アメリカ史上でいわれるインディアンとの戦いといわれます。3次の戦争を経て武力にまさるアメリカが勝利を収め,セミノール族の土地を領土としたのです。という経緯でフロリダの元々の住民であるネイティブ・アメリカンは、現在では人口のほんの一部にすぎません。1861年に連邦(Union)から脱退し南部連合(Confederate)に加盟します。南北戦争後は1868年に連邦に再加盟します。

1822年にアメリカが有効な市民の受け入れ制度を確立すると、ヨーロッパ系のかなりの人口が増加し始めます。第一次世界大戦の頃にスペイン北部からの移民がタンパ(Tampa)にやって来て、特に葉巻産業を拡大しその将来の発展に惹かれていきます。スペイン語を話すコミュニティも設立され、さらに第一次世界大戦後はイタリア人も大勢フロリダやって来ます。

メキシコ湾(Gulf of Mexico)のウォーターフロントにある小さな町で、ギリシャ系(Greek)アメリカ人が多く住むのがターポン・スプリングス(Tarpon Springs)です。この町はグリークタウン(Greektown)と天然スポンジ産業で有名になりました。1880年頃にギリシャ人が定住し、1905年までに祖国の伝統を活かしてスポンジ産業を開始して有名にしたのです。マイアミ – マイアミビーチ(Miami–Miami Beach)の大規模なユダヤ人コミュニティからマサリクタウン(Masaryktown)のスロバキア人(Slovak)居住地に至るまで、州全体が特徴となるような多様な民族の貢献がみられていきます。こうして非ヒスパニック系白人が州人口の最大部分を占めるようになっていきました。

フロリダは20世紀後半には全米で最も急成長した州のひとつとなります。観光業が主要産業で、ディズニー・ワールドはその代表的なアトラクションです。州、特にキューバ人(Cuban)が多く住むマイアミ市(Miami)は、カリブ海(Caribbean)地域で主要な経済的役割を果たしています。多くのレクリエーション・エリアにはエバーグレーズ国立公園 (Everglades National Park)があります。

オーランド(Orland)から車で約一時間ほどの所にあるのが、ジョン・F・ケネディ宇宙センターです。フロリダ州の東海岸メリット島(Merritt Island)にあるこのセンターはフロリダ州の主要な観光地の一つとなっています。ケネディセンターでは、同センター及びケープカナベラル(Cape Canaveral)空軍基地の公開ツアーが組まれています。州経済の推進力はアメリカ軍にもあります。州内に24の基地があり多額のドルを落としています。電子機器製造も重要で航空宇宙産業では数千人を雇用しています。

オーランドにあるディズニーワールド(Disney World)は世界一の娯楽施設です。その広さはJR山手線内の約1.5倍というのですから、まさに桁外れのものです。その敷地内には、タイフーン・ラグーン(Typhoon Lagoon) 、マジック・キングダム(Magic Kingdom)などの4つのテーマパークを中心に、ウォーター・パーク(Walter Park)、エンターテイメントエリア(Entertainment Area)、マリーナ、ゴルフ場、牧場、キャンプ場などが配置されています。

どれをとっても娯楽の粋を集めてそのアイディアを競っています。レストランにはミッキーマウスや小熊のプーさんがテーブルを回って写真を一緒に撮ってくれます。子どもたちはもう大喜びです。夢を子ども達に与えるのがこうしたテーマパークの「テーマ」といえましょう。オーランドにはユニバーサルスタジオ(Universal Studio)もあります。ディズニーワールドとあわせて毎年6,000万以上の人々がオーランドを訪れるというのです。

あまりにもフロリダの観光業は知られ過ぎているので、目立たないのですが、フロリダの主要な産業は農業となっています。フロリダ州の面積の約半分は、商業森林、国有林、州立森林、州立公園および連邦公園、湖、ビーチ、軍事保留地で構成されています。森林活動は主に州の北部で盛んです。州の中央部と南部の広大な草原では家畜の飼育が行われています。州の約5分の2は農地であり、その多くは牧草地または森林にあります。フロリダの全土地のうち、作物の収穫で利用されるのは一部だけとなっています。

オケフェノキー沼(Okefenokee Swamp)という広大な湿地帯があります。広さは1773平方キロの黒い水の沼で、サウスジョージア(South Georgia)とフロリダにまたがっています。多くの人はこの名前を「震える大地」(land of the trembling earth)のような意味に翻訳していますが、ヒッチティ(Hitchiti)というジョージア州南部の先住民族の言葉で「泡立つ水」(bubbling water)を意味するようです。沼地の固い土地のように見えるもののほとんどは、実際には浮遊植物または泥炭の塊であり、触れると揺れ始めるのです。それで「震える大地」と呼ばれるようです。ここは国内最大の国立野生動物保護区 National Wildlife Refugesの1つであり、合衆国東部では最大の国立野生動物保護区となっています。

畑作物が重要なフロリダ北部では農場が一般的ですが、そこでも広大な森林地域が広がっています。柑橘類の果樹園はフロリダ中央部と東海岸の大部分を占めています。特にオレンジで有名なフロリダは、国内の柑橘類の大部分を生産しており、野菜の生産量ではカリフォルニアに次ぐ第2位です。

柑橘系の果物は農場の収入のかなりの部分を占めており、フロリダ州のグレープフルーツの生産量は国内最高であるだけでなく、世界全体の大きな部分を占めています。グレープフルーツの主な輸出先は日本などとなっています。トマトも主要な野菜作物です。サトウキビはフロリダ州の主要な畑作物であり、全米の約半分を生産しています。

西海岸と柑橘類地帯の南北には広大な牛の牧場が広がっています。州南部では、オキチョビー湖(Lake Okeechobee)周辺でサトウキビと野菜の栽培が行われ、現在のプランテーション農業に相当するものが生み出されています。小規模な私有農場は、機械化と出稼ぎ労働者の参入に取って代わられています。移民労働者の低所得などの厳しい状況は大きな社会的な話題となっています。企業農業の台頭により、農場の規模は必然的に増大し、結果として農場数は減少しています。

商業漁業(commercial fishing)は長い間州経済の重要な要素でありましたが、1990年代に生産性が低下し始めました。それでも水産養殖(aquaculture)も重要であり、水族館用の水生植物や熱帯魚の飼育、および食用のさまざまな貝類やひれ魚(finfish)の飼育が今も盛んです。映画「フォレストガンプ」(Forrest Gump)の終わりのところで、ベトナムの戦友と再開しエビ捕りにでかけるシーンがあります。

フロリダ人を指す単語に「フロリダ・クラッカー」(Florida Cracker)があります。この言葉は、植民地時代に今のフロリダに定住したスコットランド(Scotland)やアイルランド(Ireland)らの入植者のことで「White Southerners」とも呼ばれています。この用語は今に至るまでの彼らの子孫、および南部白人のサブカルチャーに適用されます。Crackerとは「楽しみ」または「娯楽」といった意味のようです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ナンバープレートから見えるアメリカの州ハワイ州・Aloha State

注目

ハワイ州(Hawaii)のナンバープレートには「Aloha State」と印字されています。「いらっしゃい」、「こんにちは」、「お元気ですか」、というのがAlohaですね。外国旅行をしたことがない人でも一度は行ってみるところがハワイです。言葉が通じ、食べ物が豊富で美味しく、景色がエキゾチックで、気候が温暖なのですから人気が高いのもうなずけます。誠に手頃な観光地です。ですが文化や歴史の多様な姿もまたハワイの魅力です。

License Plate of Hawaii

ほとんどの人類学者(anthropologists)は、ハワイへの最初の定住は、西暦4世紀から7世紀にかけてマルケサス諸島(Marquesas Islands)から北西に移住したポリネシア人(Polynesians)によるもので、その後、9世紀または10世紀にタヒチ(Tahiti)から移民の第2波がやって来たと考えています。1970年代に始まったハワイでの航海用カヌー(voyaging canoe)と伝統的な航行方法(navigation methods)の使用の復活によって実証された知恵と技能から、島々が最初の植民地化の後、かつて考えられていたほど孤立していなかった可能性があることを示しています。実際、ハワイと遠く離れたポリネシアの島々との間には、かなりの意図による航海があったと思われています。それでも、ハワイ人とその親戚であるポリネシア人との間には、言語や文化において依然としてかなりの類似点があるにもかかわらず、ハワイは独自の文化を発展させていきます。

Map of Hawaii

元々のハワイ人は漁業と農業に高度な技術を持っていました。18紀後半までに、彼らの社会は、首長と司祭(chiefs and priests)によって定められた厳格な法体系を持つ複雑なものになりました。人々は、神通力でも古代ギリシャのオリンポス山(Mount Olympus)の神々とは違った神々を崇拝し恐れていました。

ジェームズ・クック船長(Captain James Cook)は1778年にこの島々を訪れ、サンドウィッチ諸島(Sandwich Islands)と呼びます。その後40年間、ヨーロッパとアメリカの探検家、冒険家、猟師、捕鯨者が新鮮な物資を求めてハワイ諸島に立ち寄り島民に大きな影響を与えます。これらの影響の中でも特に重要なのは、東洋と西洋の両方からの病気の侵入です。島民はそれまで事実上病気にならず、自然免疫を持っていませんでした。性病(venereal disease)、コレラ(cholera)、麻疹(measles)、結核(tuberculosis)はすべて先住民の人口の減少をもたらし、その人口は1世紀ほど後の1890年代までに約30万人から4万人未満に減少します。

19世紀初頭、カメハメハ大王(King Kamehameha)がハワイ諸島を統一します。1820年にはニューイングランドの宣教師が続き、西洋の影響が島々を変えていきます。1851年、カメハメハ三世はハワイをアメリカの保護下に置くこととします。ですがアメリカの砂糖利権を巡って起こされたクーデターにより王政は倒され、1893年にハワイ共和国(Republic of Hawaii)が樹立されます。

その間、日本から多くの人々が移民しました。主としてオアフ島やハワイ島(Big Island)でのサトウキビ、パイナップル、珈琲栽培のためです。琉球からの移民が目立ちました。ハワイに到着すると、早速土地を開墾しサトウキビ栽培に従事していきます。今も琉球の名前を持つ人々がハワイの各地に大勢住んでいます。

1898年に新共和国とアメリカは併合に合意し、1900年にハワイはアメリカ領となります。1941年の日本軍による真珠湾(Pearl Harbor)爆撃をきっかけに、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、ハワイは主要な海軍基地となります。1959年8月21日にハワイはアメリカ50番目の州となります。最大の産業は観光業です。マウナケア山頂(Mauna Kea)には望遠鏡があり、世界の天文学研究(World Astronomy Center)の中心地となっています。

ハワイ州は、大小100位の島々から成ります。これらは海底火山によってつくられました。州都ホノルルのあるオアフ島は最も知られていますが、是非訪ねたいのはハワイ島(Hawaii)やカウアイ島(Kauai)、後述するモロカイ島(Molokai)などです。ハワイ島には日系移民によって開発された一番大きな町、ヒロ(Hilo)があります。そこに日系移民博物館があります。驚くことに、館内の展示物には神武天皇をはじめ、代々の天皇の写真が飾ってあります。日系移民の日本に対する郷愁と深い想いがこめられているのを感じます。

先住のハワイ人やポリネシア系が約10%なのに比べ、日系人は17%を占めます。政治、経済、社会における活躍は目覚ましいものがあります。日系人の活躍としては、戦時中の志願兵の活躍が特筆されます。ハワイで生まれの若い日系アメリカ人の多くは、志願兵として祖国に対する忠誠心を示し合衆国陸軍の大隊に入ります。この部隊は第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)と呼ばれ、真珠湾攻撃後、日系アメリカ人の兵役が禁止されていた時期に結成されます。この部隊は日系人だけで組織され、やがてイタリアやフランスなどのヨーロッパ戦線にて戦果を上げます。この戦闘団のモットーは「Go for Broke」といって「当たって砕けろ!」でした。オアフ島の真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナ記念館(Arizona Memorial)や戦艦ミズーリ号(Missouri)などを訪れると太平洋戦争の歴史が身近なものとなります。

The 442nd RCT

マウナケア山頂付近は、国立天文台が設置したすばる望遠鏡があります。周りには世界各国の天文台も並んでいます。ここに兵教大の院生とで天文台内部を見学する許可を得て訪ねました。ついでに山頂へも登ったのですが、酸素が薄くて息が苦しかったのを覚えています。ハワイ島のキラウエア(Kilauea)火山からの熔岩流は今も蒸気を上げています。そして虹が地平線から地平線まで見事なアーチを描きます。一行の中にいた中学理科の教師にはたまらない見学ツアーとなったようです。

ハワイの高校には二つの有名な私立学校があります。カメハメハ・スクール(Kamehameha Schools)とプナホウ・スクール(Punahou School)です。カメハメハ・スクールは1887年に、カメハメハ家のバーニス・パウアヒ・ビショップ(Bernice Pauahi Bishop)の遺産によって設置されました。カメハメハ・スクールではプリスクール、1~12年生までの教育を行っており、英語で教えて大学への入学へ備えます。ハワイ語とハワイ文化も十分教えて、ハワイ人としての教育にも重点を置いています。バラク・オバマ元大統領の母校でもあるプナホウ・スクールは1841年の創立で、幼稚園から高校までの生徒3750名が通うアメリカ国内でも最大規模の学校です。プナホウ・スクール卒業生の大学進学率はほぼ100%という名門校となっています。
(投稿日時 2024年3月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州マサチューセッツ州・Spirit of America

注目

マサチューセッツ州(Massachusetts)のナンバープレートには「Spirit of America」というキャッチフレーズが印字されています。これは、建国の精神を意味します。州都はボストン(Boston)です。

License Plate of Massachusetts

イギリス人探検家でジェームスタウン・コロニー(Jamestown Colony)にいたジョン・スミス(John Smith)は、マサチューセッツ族(Massachusetts)にちなんでこの州を命名したとされます。「Massachusetts」とは、もともと「大きな丘の近く」(near the great hill)という意味だったといわれます。マサチューセッツ州といえば、ボストンを第一に挙げなければならないでしょう。その名前の由来です。チャールスタウン・コミュニティ(Charlestown Community)は「聖ボトルフの町」(St. Botolph’s town)として知られていたようですが、後に「ボストン」に改名されたといわれます。

1602年に最初のイギリス人入植者バーソロミュー・ゴスノルド(Bartholomew Gosnold)が到着したとき、この地域にはアルゴン族(Algonquian)が住んでいました。プリマス(Plymouth)は、1620年にメイフラワー号(Mayflower)で到着したピルグリム(Pilgrims)やピューリタン(Puritans)によって開拓されます。マサチューセッツ湾(Massachusetts Bay)植民地はマサチューセッツ・ベイ社によって設立・統治され、ピューリタン(Puritan)の入植に拍車をかけていきます。1643年にニューイングランド連合に加盟し、1652年にメイン州を獲得します。

マサチューセッツ州は、その歴史と文化が合衆国全体のものよりも古いという点が特徴的といえます。ピューリタンらが大英帝国(British Empire)の統治から逃れて新世界に定住し、最終的に信仰の自由を得ようとしました。1620年にメイフラワー協定(Mayflower Compact)や初期の法典である1641年の「自由の基盤」(Body of Liberties)などの文書により、政府は個人の表現や同意を保護する保証に基づいて統治すべきであるという概念が定められます。

こうした個人の自由の概念は、大英帝国の一部であった植民地の地位と衝突するようになります。アメリカ独立戦争はマサチューセッツ州で始まり、イギリスの植民地支配に対する最初の抵抗が始まりました。ボストン茶会事件(Boston Tea Party)に代表されるように、入植者たちが代表権のない課税に反対の声を上げ、叫んだのはマサチューセッツ州民であります。マサチューセッツ入植者の活動は他の人々に影響を与え、1775年のレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)で「世界中で聞こえた銃声」“shot heard round the world”で最高潮に達します。

州の南東部と中央部の入植地は1675年にフィリップ王の戦争 (King Philip’s War)を経験します。1684年に最初の勅許を失った後、1686年にニューイングランド自治領(Dominion of New England)の一部となります。1691年の2度目の勅許により、メイン州とプリマスを管轄することになります。1680年頃から、マサチューセッツはイギリスの植民地となります。1760年代になると、マサチューセッツ憲法として権利の宣言と政府の樹立を叫び、イギリスの支配に反旗を翻します。やがて独立戦争が始まるのです。この自治と独立の精神が「Spirit of America」というものです。

18世紀、マサチューセッツはイギリスの植民地政策に対する抵抗の中心地となります。独立後の1788年には合衆国憲法を批准した6番目の州となります。19世紀になると産業革命の最前線となり、織物工業で知られるようになります。

今日の州の主要産業はエレクトロニクス、ハイテク、通信技術です。多くの高等教育機関があることでも知られています。観光業は、特にケープコッド(Cape Cod)地方とバークシャー地方(Berkshires)が知られています。マサチューセッツ州は、この新しい国が農業経済から工業経済への転換を始めた先駆的な州であります。貿易によって富を得たフランシス・ローウェル (Francis C. Lowell)のような州の商人は、1812年の米英戦争で深刻な損失を被りますが、より安全な投資を模索していきます。その結果、繊維、ブーツ、機械の製造はマサチューセッツ州やロードアイランド州(Rhode Island)で始まり、やがて繁栄の基礎を築いていきます。北東部の州で工業化や都市化が進みます。1870 年代半ばまでに、マサチューセッツ州は合衆国で初めて、地方よりも町や都市に住む人の方が多い州となります。

19世紀を通じて、マサチューセッツ州は主要な製造業の中心地となりました。20世紀前半の南部との競争は大規模な経済衰退をもたらし、その結果、州全体の工場が閉鎖されていきました。しかし、第二次世界大戦と冷戦は、国防支出という連邦政府の巨額に依存する新たなハイテク産業を生み出します。他方、金融、教育、医療などのサービス活動も拡大し、ボストンを中心とした新たな経済が発展します。2004年、マサチューセッツ州は同性結婚を合法化(same-sex marriage)した最初の州となります。この法律は、個人が所属する重要な組織から特定の国民を排除することは個人の自治と法的平等の原則に反すると規定します。地域社会のニーズに配慮しながら、個人の自由を尊重しようとするマサチューセッツ州の長い闘いの結果、アメリカの特徴である民主主義の原則と資本主義の推進の連携が生まれるのです。

1840年代、均等となったヤンキー(Yankee)社会に、アイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)の惨状から逃れてきたローマ・カトリック教徒のアイルランド人の波が押し寄せます。同様に1860年代、カナダの農業貧困のため、ヤンキー起業家(Yankee entrepreneurs)が開拓した新しい工場システムの労働者として大量のフランス系カナダ人(French Canadians)がマサチューセッツ州に流れてきます。ヤンキーと移民の間で深刻な対立と敵意が生じましたが、19世紀の産業の繁栄はこれらの対立を改善するのに役立ちます。

17世紀には、土地に飢えたイギリス人入植者がアメリカ先住民を強制的に追い出し始め、また非常に多くの先住民がヨーロッパの病気で亡くなります。こうしたプロテスタントのイギリス人入植者、またはヤンキーといわれる人々は、200年以上にわたり支配的な人口となりました。1890年代までに、20世紀の最初の数十年間に至るまで、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、東ヨーロッパから新たな移民がやって来て、繁栄していた州の工場で働くようになりました。1920年までに人口の3分の2が移民か移民の子どもとなり、ヤンキースは明らかに少数派となっていきます。そういう状況で1924年に連邦移民法(Immigration National Act)が可決され、移民は大幅に削減されていきます。

プリマス(Plymouth)は州都ボストンから車で一時間のところにある港町です。ここにメイフラワー号(Mayflower II)のレプリカが停泊しています。メイフラワー号は1620年頃にヨーロッパからこのあたりに着いたことが記されています。長くてつらい大西洋の航海だったようです。

最初の移民の多くは聖教徒でした。船から下りた聖教徒が開拓したところが今も大切に保存されています。この居留地はプリマス開拓地(Plimoth Patuxet)と呼ばれて州の歴史的な公園となっています。開拓地は高い木の柵が巡らされてインディアンからの襲撃に備えたことを伺わせます。プリマス開拓地に入りますと、そこは1600年代という設定です。タイムスリップするのです。そこで働く人は百姓、鍛冶屋、洋服屋、パン屋さんなどいろいろです。当時の服装、言葉、動作で観光客に対応します。観光客はそのことを知らされません。次ぎのような会話が交わされます。

  観光客:当時は電気はありましたか?
  働く人:電気ってなんですか?
  働く人:どこから来ましたか?
  観光客:日本からきました。
  働く人:日本ってなんですか?どこにありますか?
  観光客:アジアです。
  働く人:どうやってここまで来ましたか?
  観光客:飛行機と車できました。
  働く人:飛行機とか車ってなんですか?
  観光客:飛行機も車も知らないんですか、、、、。

このあたりまで会話が進むと、ちんぷんかんぷんの観光客もようやく「ここは1620年頃なのだな、、、」と合点がいきます。舞台が昔の開拓地であるという発想と働く人々の演技にえらく感心します。

ボストンはアメリカ独立戦争で大きな役割を果たしたことから、この時期の史跡の一部は、ボストン国立歴史公園(Boston National History Park)の一部として保存されています。その多くは、「フリーダムトレイル」(Freedom Trail)というルートに沿って歩いて見て回ることができます。フリーダムトレイルは、地面に赤い線が引かれた約4kmのウォーキングコースです。ボストンコモン(Boston Common)から始まり、州議事堂(State Capitol)、パークストリート教会(Parksteet Church)、オールドサウス集会所(Old State House)、旧州議事堂(Old State Capitol)、ボストン虐殺事件跡地(Boston Massacre)、オールドノース教会(Old North Church)、チャールズタウン(Charlestown)のバンカーヒル記念塔(Bankerhill Monument)など、16の公式スポットを巡るのです。ファニエル・ホール(Faneuil Hall)という商店街や会議場や、近くのクインシー・マーケット(Quincy Market)は、ショッピング、食事、各種イベントが楽しめ、観光客や市民が集まる場所となっていて年間1800万人以上がここを訪れます。

ボストンには、著名な美術館もいくつかあります。ボストン美術館(Museum of Fine Arts)がその代表です。エジプト美術から現代美術まで45万点以上の収蔵作品を誇ります。特に浮世絵をはじめとする日本美術、中国美術は、西洋でも屈指のコレクションとして知られています。ボストン公共図書館(Boston Public Library)は、1848年創設の歴史をもち、アメリカ最古の公立図書館であり、人々に無料で公開されています。かつて小澤征爾が音楽監督をしていたボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra)もここにあります。

ボストンはその文化的風土が高く評価されて、「アメリカのアテネ」(Athens of America)との名声を得ています。その理由の一つは学問的な名声にあります。ボストンの文化は大学から発している部分が大きいといわれます。ボストン都市圏内に50を超える単科・総合大学があり、教育・研究活動行っています。ボストンとケンブリッジ(Cambridge)だけでも、大学に通う学生は25万人を超えるといわれます。その中心はなんといってもハーヴァード大学(Harvard University)でありマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)といえましょう。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ヴァジニア州・Mother of Presidents

注目

ヴァジニア州(Virginia)のナンバープレートにもいろいろなデザインがあります。うっそうとした豊かな森や清流など自然の生態系を反映してデザインには野鳥などを配置しています。ヴァジニアは、「アメリカ大統領の母なる地」「Mother of Presidents」の名にふさわしい風格のある州です。

License Plate of Virginia

 ヴァジニア州東部の大部分に最初に定住したヨーロッパ人はイングランド人(English)で、イングランドの中部および南部の郡、特にロンドンとその周辺地域からやって来ました。1700年代には、ウェールズ人(Welsh)とフランスのユグノー人(Huguenots)が移民の中で目立っていて、スコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)とドイツ系(German)の人々がペンシルベニア(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)に移住してきました。特に西部と南西部の郡では、スコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先を持つ人々が今でも多数派を占めています。

Map of Virginia

 ヴァジニア州は、清教徒連邦(Puritan Commonwealth)と1653年から1659年の間に保護領(Protectorate)亡命したイングランド王チャールズ二世(Charles II)への忠誠心からオールド・ドミニオン(Old Dominion)と呼ばれました。17世紀初頭のジェームスタウン(Jamestoewn)入植以来、アメリカの州の中で最も長く続いている歴史の1つです。処女女王エリザベス一世(Elizabeth I)にちなんで名付けられ、当初の憲章では、大西洋岸の入植地からミシシッピ川、さらにその先まで西に広がる土地のほとんどが与えられましたが、ヨーロッパ人には未踏の領域でした。ジョージ ワシントン(George Washington)、トーマス ジェファソン(Thomas Jefferson)、ジェームズ マディソン(James Madison)などのヴァジニア人の貢献はアメリカ合衆国の建国に極めて重要であり、共和国の初期の数十年間、この州は大統領誕生の地として知られていました。

 1607年にイギリス初のアメリカ植民地がジェームズタウン(Jamestown)に設立された時、ヴァジニア州にもネイティブ・アメリカンが住んでいました。ヴァジニアからはアメリカ独立革命の指導者を生み、後にアメリカ最初の大統領5人のうち4人を輩出していきます。1788年には合衆国憲法を批准した10番目の州となります。

 奴隷制度はヴァジニア州経済の重要な部分を占めていました。1831年にナット・ターナー(Nat Turner)の奴隷反乱がここで起こりました。奴隷であり反乱の指導者ナットは数人の信頼する仲間の奴隷と決起します。反乱は家から家へと伝わり、奴隷を解放し、見付けた白人全てを殺したといわれます。最終的に反乱に加わった奴隷は自由黒人を含めて50名以上になります。ナットとその反乱部隊が白人民兵の抵抗に遭った時、既に57名の白人男女や子どもが殺されていました。

 南北戦争が始まってすぐの1861年に、ヴァジニア州は連邦(Union)から離脱します。リッチモンド(Richmond)は南部連合(Confederacy)の首都となります。そしてヴァジニアは戦争を通じて主な戦場となります。ただヴァジニア州西部は連邦からの離脱を拒否します。1863年に分離してウェストヴァジニア州ができました。ヴァジニア州は1870年に連邦への再加盟を認められました。その後数10年間、州の債務をめぐる争いが政治生活を引き継ぎましたが、第一次世界大戦後、州の繁栄は増大していきます。

 第二次世界大戦により、数千人の捕虜がヴァジニア州の軍事キャンプに収容され、港町のノーフォーク(Norfolk)地域は急速な成長を遂げます。ヴァジニア州にとっては、連邦政府は州最大の雇用主であり、製造業は二番目に大きい規模となっています。州南東部の海域およびそれを取り囲む陸域であるハンプトン ローズ(Hampton Roads)は、国内有数の港の1つであり一大観光地域でもあります。

 ヴァジニア州は正式には「Commonwealth of Virginia」と呼ばれます。植民地時代から地域がそれぞれに共通した目標である独立に向けて共に発展するという意思を表しています。歴代4名の大統領とは、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンらです。それゆえに「アメリカ大統領の母なる地」とも言われるほどです。ワシントンDCの対岸の州内にはアメリカ国防総省(Pentagon)やCIA本部もあります。

 観光は州の重要な産業です。ヴァジニア州には、植民地時代のウィリアムズバーグ(Williamsburg)、ジョージ ワシントンの邸宅であるマウント・バーノン(Mount Vernon)、トマス・ジェファソンのモンティチェロ(Monticello)、南北戦争の戦場、現在のアーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)の敷地内にあるロバート・リー(Robert E. Lee)将軍の家など、多くの史跡があります。特に、ウィリアムズバーグは是非訪れたいところです。1690年代には植民地時代の首都でありました。2.25キロ平方の地域に入植当時の建物はすっかり復元されて、植民地時代の面影を感じることができます。

 1693年設立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary)は、この国で2番目に古い大学です。この大学は、イングランド国教会によって設立され、イギリス国王の勅許状を持つ最初のアメリカの大学となりました。ハーヴァード大学に続いてアメリカで最も由緒のある、また優れた学部教育のカレッジとして知られています。研究機関の中心はなんといってもヴァジニア大学です。創立は1819年、ジェファソンらによって創建されました。学内のすべての建物がコロニアルスタイル(colonial style)で統一され、全米で最も美しい大学キャンパスと称されています。これらの大学は、「最も入学が難しい大学」 (Most Selective)となっています。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ネブラスカ州・The Good Life

注目

ネブラスカ州(Nebraska) のナンバープレートには「The Good Life」とあります。「楽しく住めるところ」といった感じですね。「Give a good life」「Beef State」「Cornhusker State」というフレーズのもあります。。「Cornhusker」 とは「トウモロコシの皮をむく人とか機械」という意味です。ネブラスカ州人の俗称です。プレートには、小麦や鳥、大平原と煙突のような岩山が描かれていて素敵なデザインです。

License Plate of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国のほぼ真ん中に位置しています。北はサウスダコタ(South Dakota)に、東はアイオワ(Iowa)とミズーリ(Missouri)に、西はワイオミング(Wyoming)とコロラドに、南はカンザス州に囲まれています。州都はオマハ(Omaha)。州の大部分は平坦な大平原が広がります。トウモロコシを中心とする穀物地帯です。牛肉や豚肉の生産でも知られています。

Map of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国中西部の州の一つであり、第一次世界大戦中、主に北部と西部の豊かな罠猟の国、および山岳地帯と太平洋地域の入植地と鉱山の辺境に移住する人々の中継地でした。19世紀の半ば、南北戦争(1861~1865年)後の鉄道の発展とそれに伴う移民により、ネブラスカ州の肥沃な土壌が耕され、その草原では牧畜産業が生まれました。その結果、同州は発足以来主要な食料生産国となります。

紀元前8000年頃には先史時代のさまざまな民族がこの地域に居住していたといわれます。この地域に住むネイティブ・アメリカンの部族には、東部と中央部にポーニー族(Pawnee)、オト族(Otho)、オマハ族(Omaha)、西部にオグララ族(Oglala)、スー族(Sioux)、アラパホ族(Arapaho)、コマンチ族(Comanche)が住んでいました。アメリカは1803年にルイジアナ購入の一部としてフランスからこの領土を買い取ります。

ヨーロッパの探検家がネブラスカ州に到着する何世紀も前に、ネイティブ・アメリカンがこの地域に住んでいました。1854年の入植地開放に伴い、連邦政府はネブラスカ州北東部にオマハ族(Omaha)の保留地を設け、その後その一部はウィスコンシン州から避難してきたホーチャンク族(Ho-Chunk)の保留地となります。ミネソタ州のサンティー・スー族(Santee Sioux)の一部はネブラスカ州北東部の居留地への移住を余儀なくされます。オマハ・ホーチャンクおよびサンティー・スーの居留地は今も存在しています。さらに、アイオワ族(Iowa)、ソーク族(Sauk)およびフォックス族(Fox)のそれぞれの居留地が州の最南東の隅にあります。21 世紀初頭までに、州人口の約1パーセントがネイティブ アメリカンで構成され、オマハ(Omaha)とリンカーン(Lincoln)に住んでいました。

1804年、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)がミズーリ川(Missouri River)のネブラスカ側を訪れます。1854年のカンザス・ネブラスカ法によりネブラスカ準州の一部となります。ネブラスカ州は1867年に37番目の州として連邦に加盟します。その後まもなく人口が増加し、開拓時代のインディアンの抵抗がなくなると、入植地はネブラスカ州の細長く伸びたパンハンドル(panhandle)にまで広がります。

ネブラスカ州には国東部からの白人入植者に加えて、19 世紀後半に多数のヨーロッパ人移民がネブラスカ州に定住しました。最大の移民グループはドイツ人で、1890年には72,000人を数えました。スカンジナビア諸国(Scandinavia)、特にスウェーデン、ボヘミア(Bohemia)、ブリテン諸島(British Isles)からの移民、そしてアメリカに移住する前に最初にロシアに移住した別の異なるドイツ人グループもネブラスカ州に定住しました。

ボヘミア、ドイツ、アイルランドからの多数の人々はローマカトリック教徒(Roman Catholics)でした。ドイツとスカンジナビア出身のルーテル派の教徒、そしてドイツ系ロシア人移民の中のメノナイト(Mennonites)は、ネブラスカ州の宗教的や世俗的な生活に多様性をもたらしていきます。非英語を話すグループの言語的アイデンティティは世代ごとに薄れてきましたが、彼らの多様な文化遺産は今も生き残っています。

川はネブラスカ州の地理と居住地にとって重要でした。ネブラスカ州人の大多数はミズーリ川とプラット川(Platte River)の近くに住んでおり、州の大部分は人口が少ないです。ミズーリ川は、19世紀初頭、ミシシッピ州西部へ向かう主要幹線道路であり、プラット川はネブラスカ州の歴史においても重要な役割を果たしてきました。実際、州の名前はオトインディアンOto Indianの言葉で「平らな水」(Flat Water)という意味のネブラスカ(Nebrathka)(に由来しています。

20世紀に入ると、短期間ではありましたがポピュリスト運動という政治変革が起こります。改革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民による政治を目指す運動のことです。1937年には国内唯一の一院制議会を設置したのもネブラスカ州です。州の大部分は農業で、食品加工や機械産業が盛んです。主な鉱物資源は石油で、リンカーン(Lincoln) のほか、オマハが州の文化・産業の中心地となっています。

ネブラスカに関するエピソードがあります。学校の教師らとでネブラスカへ行ったとき、入国手続きをしたデトロイト空港でのことです。家内の番になりまして審査官との間で次のような会話が交わされました。

 審査官 「入国の目的は?」
 家内 「観光です」
 審査官 「これからどこへ行くのか?」
 家内 「ネブラスカです」
 審査官(けげんな表情で)「ネブラスカのどこで観光するのか?」
 家内 「リンカーンです」
 審査官 「観光でネブラスカへ行く日本人に会ったのはあんたが初めてだ、、、」

デトロイト経由の乗客の中で、観光でやってくる日本人の99%はニューヨークとかボストンとかフロリダへ行くのです。審査官も驚いたのでしょう。「ネブラスカに観光へ」には審査官は苦笑いしていましたね。

ネブラスカの西部にはチムニー・ロック(Chimney Rock)など巨大な岩で知られています。このあたりはでは沢山の恐竜が発掘されています。きわめて保存状態が良く恐竜の骨格がはっきりしています。それを展示しているのがネブラスカ大学リンカーン校(University of Nebraska-Lincoln)です。ここの恐竜博物館(Dinosaur Museum)は圧巻ものです。大勢の児童生徒が社会勉強であるフィールドトリップにあの黄色い車体のスクールバスでやってきます。

ネブラスカ大学にDlwyne Harnischという教授がいました。兵庫教育大学にも客員教授として6か月間招いたことがあります。教育統計学の専門で多くの日本人研究者を暖かく招いてくれました。。ネブラスカ大学のフットボールチームはBig Ten Conferenceで何度も優勝した強豪です。そのときのコーチはのちにレジェンドと呼ばれたトム・オズボーン(Tom Osborne)で255勝49敗という戦績を残します。後にネブラスカ州からの共和党の連邦下院議員となります。
(2024年3月14日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューハンプシャー州・Live Free or Die

注目

ニューハンプシャー州(New Hampshire)のナンバープレートには「Live Free or Die」と描かれています。「自由を与えよ、さらば死を」という意味です。いわゆるニューイングランド地域の一部で、北部及び北西部でカナダのケベック州(Quebec)、東部はメイン州(Maine)、南部はマサチューセッツ州(Massachusetts)、そして西部はヴァモント州(Vermont)と隣り合っています。

License Plate of New Hampshire


1623年に最初のイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近郊に定住したとき、この地域にはアルゴンキ語(Algonquian)を話す人々が住んでいました。この地域は1641年にマサチューセッツ州の管轄下に入り、1679年に独立した王家の植民地となります。ニューハンプシャーは最初にイギリスの統治を離脱し独立への歩みを踏み出します。1776年にイギリスからの独立を宣言した最初の植民地です。独立宣言後、最初の13州の一つともなります。合衆国の州として最初に憲法を制定した州となります。

Map of New Hampshire

花崗岩の州(Granite State)として知られるニューハンプシャー州は、さまざまな多様性の研究対象の州としても知られています。19世紀後半以来、連合内で最も工業化が進んだ6州の1つでありながら、農業と牧畜が盛んな州として描かれることがよくあります。ニューハンプシャー州は、ヴァモント州と同様に、白人でアングロサクソン系プロテスタント(White-Anglo-Saxon Protestants: WASP)が多数を占める「ヤンキー王国」(Yankee Kingdom)を構成しているといわれます。同州にはフランス系カナダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、その他非英国人を祖先に持つ住民が多数住んでいます。

その政治的評価ですが、ビジネス寄りで保守的ですが、唯一最大の州の資金源は企業利益税となっています。さらに、同州は同性カップル(same-sex couples)のシビル・ユニオン(civil unions)を合法化した最初の州の一つとなっています。 ニューハンプシャー州の地域区分は非常に複雑なので、メイン州(Maine)、ヴァモント州、マサチューセッツ州をほぼ同じ割合で加えて3分の1に分割することを多くの人が提案しているのは興味深いことです。

こうした議論はありますが、この州ははっきりとした特徴とかアイデンティティ(identity)を発展させてきました。そのアイデンティティの中心となるのは州政府の倹約のイメージです。ニューハンプシャー州には一般消費税や個人所得税がありません。州レベルでの倹約は町への責任の分散を強調した。市政府はニューイングランドのすべての州に存在しますが、ニューハンプシャーほど独自のサービスを提供する権限や責任を負っている州はありません。

そのアイデンティティのさらにもう1つの要素は、伝統への強いこだわりです。これは、「山の老人」(Old Man of the Mountain)として知られるフランコニア・ノッチ(Franconia Notch)の岩の輪郭によって長い間力強く象徴されているといわれます。 倹約、地方分権、伝統主義、工業化、民族性、地理的多様性の組み合わせにより、ニューハンプシャー州は多くのアメリカ人にとって非常に魅力的な都市となっています。ところでフランコニア・ノッチとは、州立公園のことで、キャノン山(Cannon Mountain)の州営スキー場が起点となっています。キャノン山は頂上の岩の形が山の老人に似ていたそうです。

建国後、ニューハンプシャー州は急速に発展します。農業が栄え、河川沿いで製造業が発展します。ポーツマスは造船の中心地となります。現在は主に製造業と観光業が経済の基盤となっていますが、酪農と花崗岩の採石も重要です。合衆国で最も早く大統領予備選挙が行われるので、多くの候補者の最初の試練の場となっています。その後の各州での大統領選挙を予測するうえで重要な選挙となっています。

ニューハンプシャーの州都はコンコード(Concord)という小さな街です。コロニアルスタイルといわれる町並です。植民地時代の木造家屋のデザインを示します。この州で忘れられないところがポーツマスという街です。日露戦争が終わり、当時の大統領ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介でポーツマス条約(Portsmouth Peace Treaty)が締結された街、それがポーツマスです。実に小さな港町です。こんなところで条約が結ばれたのか、と頭をかしげたくなるようなのんびりとした所です。街全体がコロニアルスタイルです。

Treaty of Portsmouth

日露戦争後、講和条約締結交渉の日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアは元大蔵大臣のセルゲイ・ウイッテ(Sergei Witte)です。ポーツマスの博物館に当時の交渉の様子を報道した写真や新聞記事が飾られています。大男のウイッテが小男の小村を威圧するイラストがあります。当時ロシアはヨーロッパの大国、日本はアジアの小国でした。アメリカは太平洋の利権があって日本に同情的な姿勢であったことを伺わせます。

当時日本は戦争のために財政が逼迫して、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。交渉にあたり困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったようでした。こうした中で、小村寿太郎らは戦争終結のため、困難な外交努力を重ねて条約をまとめ上げていったといわれます。

日本への風刺画

ポーツマス条約では、ロシアは北緯50度以南の樺太(サハリン)を日本に譲渡する、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認し、日本が韓国に指導・保護・監理の措置をとるのを妨げない、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲る、ロシアはロシア沿岸の漁業権を日本に譲る、などが定められました。

講和前と講和後の日本地図

交渉の会場となったポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Arsenal)では、1994年3月に会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されます。

アメリカにはNewが付く州や町がたくさんあります。州ではNew Mexico, New Jersey, ご存じNew York, New London, New Berlin, New Heavenという街もあります。イギリスやヨーロッパ各地からの移民が開拓したことを伺わせます。1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)とニューハンプシャー大学(University of New Hampshire)は州の2大教育機関となっています。

私にとってのニューハンプシャーとの繋がりは、長男の嫁の両親がポーツマスの隣町に住んでいることです。ポーツマスは実に長閑とした綺麗な港町です。条約交渉を伝える博物館は興味ありました。
(投稿日時 2024年3月11日)

ノースカロライナと迫害されたキリスト教徒

注目

ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)というところの出身で、現在名古屋に住むRon Scronceという友人がいます。この郡にワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々が住む、人口4,689人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな街があるのを教えてくれました。なぜこの田舎街にワルドー派の人々が定住したかの経緯は興味深いので、リサーチすることを勧められました。Scronce氏はヴァルデイズの隣りのヒッコリー(Hickory)の出身です。以下はワルドー派の信徒がヴァルデイズにやって来るまでの歴史です。

バーク郡にあるヴァルデイズは、1893年にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域からの移民によってつくられます。今この街には、アメリカ最大のワルドー派のキリスト教会があります。その教会名は、ワルドー派長老教会(Waldensian Presbyterian Church)として知られています。ヴァルデイズには他に20もの教会があります。後述しますが、ワルドー派の信徒は最初の新教徒(protestant)とか最古の福音派運動(evangelical movement)を始めた人々といわれています。彼らは宗教改革の中心人者であったマルチン・ルター(Martin Luther)よりも以前に福音主義を掲げていたのです。

ワルドー派は、宗教改革以前に西方キリスト教内の禁欲運動(ascetic movement)として始まった教会伝統の信奉者です。元々は12世紀後半にフランスのリヨンの貧者(Poor of Lyon)として知られ、この運動は現在のフランスとイタリア国境付近にあるコッティ・アルプス地域に広がりました。ワルドー派の創立は、1173年頃に財産を手放した裕福な商人ピーター・ワルドー(Peter Waldo)で、彼は「使徒的貧困」(apostolic poverty)が完全なる生き方であると説いて信者を獲得していきます。

当時のカトリック教会の一派であるフランシスコ会(Franciscans)が「使徒的貧困」に異議を唱え、さらに地元の司教の特権を認めなかったのでワルドー派の会衆はフランシスコ会と衝突します。そのため1215年までにワルドー派は異端と宣言され破門されて迫害が始まります。

ピエモンテの復活祭の迫害

教皇インノケンティウス3世(Pope Innocent III)はワルドー派の人々に教会に戻る機会を与えると宣言します。ワルドー派の信徒は教会に戻りますが、「貧しいカトリック教徒」(Poor Catholics)と呼ばれるようになります。教徒の多くは使徒的貧困を信奉し続けたので、その後数世紀にわたって激しい迫害を受けていきます。

最も激しい迫害は1655年4月24日に起こります。この迫害と虐殺はピエモンテの復活祭(Piedmont Easter)として知られるようになります。推定約1,700人のワルドー派信徒や住民が虐殺され、この虐殺はあまりにも残忍であったため、ヨーロッパ全土で憤りを引き起こしたと記録されています。

初期の粛清でピエモンテから追放されたワルドー派の牧師にヘンリ・アルノー(Henri Arnaud)がいました。彼はオランダから帰国し、ロッカピアッタ(Roccapiatta)という街での集会で感動的な訴えを行い、武装抵抗を支持する多数派の支持を獲得します。迫害団体との休戦協定が切れる4月20日に備えワルドー派は戦闘の準備を整えます。

1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。

しかし、それでも抵抗するワルドー派の人々はヴォードワ人(Vaudois)と呼ばれ、約200人から300人のヴォードワ人が他の領土に逃亡します。翌年にかけてヴォードワ人は、占拠する土地にやって来たカトリック教徒の入植者とのゲリラ戦を開始します。これらのヴォードワ人は「無敵の人たち」(Invincibles)と呼ばれ、サヴォイア公がついに折れて交渉に同意するのです。「無敵の人たち」は、投獄されている仲間を釈放し、ジュネーブ(Geneva)へ安全に移動する権利を勝ちとります。

やがてサヴォイア公は ヴォードワ人に直ちに退去するかカトリックに改宗することを要求します。この布告により、約 2,800人のヴォードワ人がピエモンテからアルプスを越えてジュネーブに向けて出発しますが、そのうち生き残ったのは 2,490人といわれました。

その後、貧困や社会的差別、人種的な偏見によりヴォードワ人は季節労働者としてフランスのリヴィエラ(Riviera)とスイスに移住します。イタリアのワルデンシア渓谷の故郷の土地は、1690年の戦いの終結以来、増え続ける人口で混雑していました。家族の農場は世代を経て分割され、再分割されていたため、将来の世代に受け継ぐ土地はほとんどありませんでした。そこで南米やアメリカなど他の国に土地を求める決定がなされます。

1892年頃、ノースカロライナ州で土地を売り出すことを知ったワルドー派の2人の先遣隊が、入植が可能かを調べるためにやって来ます。土地の広さは10,000エーカーほどで、一人はこの土地は新しい入植地として適しているだろうと考えます。もう一人は、岩が多すぎて肥沃な土壌が不十分でひどい土地であると考えます。実は後者の見方が正しかったのですが、ワルドー派は集団で土地を購入することに決めるのです。

Outdoor Drama, From This Day Forward

1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な土地での生活を期待します。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。

そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズとなっています。ヴァルデイズでは毎年夏に「今日ここから前進するのだ」(From This Day Forward)という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活、苦難の開拓の歴史を演じる内容です。

ジョン・カルビン

今日の宗教学者は、中世のワルドー派はプロテスタントの原型と見なすことができると説明します。ワルドー派はプロテスタントと歩調を合わせるようになり、やがてカルビン主義(Calvinism)の伝統の一部となります。ヨーロッパでのワルドー派は17世紀にはほぼ消滅して長老派教会(Presbyterian)に吸収されていきます。
(投稿日時 2024年3月7日)