大陸西方への拡大が続くと、当然ながらアメリカ先住民はさらに犠牲を強いられることになります。若きアメリカの社会文化的環境は、アメリカ先住民を追い出すための新たな根拠を提供し、連邦政府の権限の拡大によって、それを実行するための行政機構を作り上げていきます。好景気は、まだ先住民の手にある「処女地」を「文明」という軌道に乗せるという期待に拍車をかけたのです。
1815年以降、先住民問題の管理は国務省から陸軍省、その後は1849年に創設された内務省へ移管されます。先住民はもはや独立した国家の民としてではなく、アメリカの被後見人とみなされ、必要に応じて政府の都合で移住させられるようになりました。1803年のルイジアナ準州、1819年のフロリダ州の獲得は、先住民に対するフランスやスペインからの最後の援助の可能性を閉ざし、さらに同化できない先住民へは「再定住」のための新しい地域を提供することとなります。
ミシガン、インディアナ、イリノイ、ウィスコンシン州内で従属した先住民たちは、ヨーロッパ系のアメリカ人によって、まだ価値を知らなかった地域にある州内の保留地に次々と強制移住させられていきます。1832年にブラックホーク(Black Hawk)が率いるソーク・アンド・フォックスの反乱 (Sauk and Fox uprising)というブラックホーク戦争(Black Hawk War)が起こり、若き日のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)を含む地元の民兵によって鎮圧された以外は、ほとんど抵抗がなくなりました。南東部では状況が少し異なり、いわゆる五文明部族といわれるチカソー族(Chickasaw)、チェロキー族(Cherokee)、クリーク族 (Creek)、チョクトー族(Choctaw)、セミノール族(Seminole)が同化に向かって進んでいきました。これらの部族の多くは、土地所有者となり、奴隷にならなかった者もいました。チェロキー族は、優れた政治家セコイヤ(Sequoyah)の指導の下で、文字も判読でき、条約で割譲されたジョージア北部の土地で、アメリカ式の共同体を形成していきました。
1832年、チェロキー族(Cherokees)は、戦ではなく裁判所に訴え、ウースター対ジョージア(Worcester v. Georgia)という訴訟で最高裁判所で勝訴します。この裁判で、州は、アメリカ先住民の土地に規制を加える権利はないとされますが、ジャクソン大統領は、ジョージアを支持して、この判決を軽んじ無視します。国はミシシッピ川以南のインディアン準州、後のオクラホマ州への定住政策を強引に進め、1830年にこの政策が法制化されると、南東部の先住民たちは「涙の道(Trail of Tears)」に沿って西へと追いやられることになります。しかし、セミノール族は抵抗し、フロリダの湿地帯で7年にわたる第二次セミノール戦争(Second Seminole War)を戦い、1842年に予想通り降伏します。