どうも気になる その8 琉球処分から本土復帰へ

辺野古の海は碧く澄んでいる。筆者が家族と一緒に琉球に赴いたのは1970年。本土復帰の2年前である。全員パスポートを持参し予防注射を受けた。琉球での仕事は那覇において幼児教育を始めるためだった。1970年の琉球の教育は、施設設備、教師の養成、親の教育への意識などにおいて本土より5年以上は遅れているといわれていた頃だ。

驚いたのは教育の課題だけでない。基地の規模とそれが沖縄人に与える影響である。どこへ行っても基地があるのである。ドルで物を買いドルで支払う。不思議なところであった。本土復帰がいよいよ目前になると、本土復帰とはなにか、琉球の独立ということが叫ばれ始めた。だが時既に遅し。復帰の準備は「粛々」と進んだ。そして1972年5月15日の復帰の日を迎える。この日は雨であった。式典には佐藤総理大臣がやってきた。初代の沖縄県知事には屋良朝苗氏が就任した。

沖縄は日本政府と長い対立の歴史があった。そもそもの始まりは、1872年の琉球王国から琉球藩設置という経緯である。そして1879年の「琉球処分」により450年間続いた琉球王国は文字どおり消滅する過程、これが「琉球処分」であった。その後、琉球では皇民化・同化政策が推し進められた。戦時中は、沖縄戦の悲劇があった。敗戦後の米国統治下で「銃剣とブルドーザー」による強制的な基地建設が続いた。そして1972年5月の復帰後も基地の重圧に苦しみ続ける。こうした歴史にはその源流として「琉球処分」があると沖縄人は考えている。

ryubu  琉球舞踊と紅型ryukyu 明からの使者