ナンバープレートから見えるアメリカの州ペンシルベニア州・Keystone State

注目

ペンシルベニア州(Pennsylvania)は合衆国の北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステート(Keystone State)「礎石の州」とも呼ばれます。これがナンバープレートに印字されています。その他、「自然を護れ」(Conserve Wild Resources) 、「友達がいる」(You’ve got a Friend in)というフレーズのもあります。

License Plate of Pennsylvania

ペンシルベニア州の名前の由来から始めます。17世紀にヨーロッパ人がやってきたとき、この地域にはショーニー族(Shawnee)やデラウェア族(Delaware)などのインディアンが住んでいました。ペンシルベニア州は険しい地形のため、ヨーロッパ人の入植はゆっくりと進みました。

最初に人々はフィラデルフィア(Philadelphia)から西へ北へ移動していきます。入植地が西のペンシルベニア州中央部のリッジ・アンド・バレー(Ridge and Valley)地域に広がるまでには約80年かかったといわれます。州西部では、最初の入植者がヴァジニア州(Virginia)から到着し、ポトマック川(Potomac River)を経由して西に進み、モノンガヒラ川(Monongahela River)に沿って北上し、1750年代にピッツバーグ(Pittsburgh)に到着します。1840年頃に入植者は最後に残った未開発地域、つまり州の北中部の険しい地域に到達しました。こうして最初の開拓地が開発されるまでには、最初の入植から160年位かかります。

Amish in Piedmont

1664年にイギリス人がこの地域を掌握し、1681年にイギリス国王がウィリアム・ペン(William Penn)に勅許を与え、1682年に宗教的寛容に基づくクエーカー教徒(Quaker)がコロニー(colony)を設立します。コロニーとは植民地という意味です。ペンがアメリカに到着する前、ペンシルベニアには数人のスウェーデン人(Swedish)、オランダ人(Dutch)、フィンランド人(Finnish)が入植していました。ペンは宗教的寛容を説き、その実践と民主的な統治の在り方によって、他のグループがペンシルベニアに定住することを奨励します。ペンはクエーカーで、やがてペンシルベニア植民地総督を務め、後にフィラデルフィアを建設した政治家でもあります。フィラデルフィアという単語は、「philos」(愛する)と「adelphos」(兄弟)から生まれています。

William Penn

ドイツ人はペンシルベニア州に移住した最初の主要集団でありました。彼らのほとんどはプロテスタントであり、主流のルター派や(Lutheranism)、カルヴァン派(Calvinism)から、アーミッシュ(Amish)、メノナイト(Mennonite)、モラヴィア派(Moravians)、シュヴェンクフェルダー派 (Schwenkfelders)、ダンカー派(Dunkers)などのさまざまな敬虔な宗派に属していました。アメリカ独立戦争の頃までに、ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)、より正確にはペンシルベニア・ドイツ人(Pennsylvania Germans)として知られていたドイツ系グループが人口の3分の1を占めていました。

ペンシルベニアに定住した次に主要なグループは、北アイルランド(Northern Ireland)出身のスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)などの人々です。彼らは農地を探して西のピードモント州 (Piedmont)西部やリッジ・アンド・バレー(Ridge and Valley)地域にやってきました。革命の時点では、彼らは植民地の総人口の4分の1を占めていました。4番目の主要な移民グループであるアイルランド人(Irish)は、1840年代と50年代にアイルランドのジャガイモ飢饉 (Potato Famine)のために祖国からアメリカに渡ってきます。

Declaration of Independence

当初、イギリスのクエーカー教徒は、デラウェア渓谷(Delaware valley)を占拠する最も重要なグループでした。 フィラデルフィアは、近隣のチェスター郡(Chester)やバックス郡(Bucks)とともに、最初に繁栄した農業商業地域となります。フレンチ・インディアン戦争の戦いの多くはこの地で起こりました。第1回と第2回の大陸会議(Continental Congresses) はフィラデルフィアで開催され、1776年に独立宣言が署名されます。

ペンシルベニアは連邦の原初州の一つであり、1787年に合衆国憲法を批准した2番目の州でもあります。南北戦争中は軍事活動の中心地となりました。ペンシルベニアには豊かな森が広がります。ラテン語で森を意味する「sylvania」にPennをつけたというわけです。その後、ペンシルベニアは開拓されて植民地化されてはいましたが、ペンらはその地の自治を求めて自由憲章の草稿を書きいています。そしてイギリスからの独立を目指していきます。信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立などの精神を訴えます。こうした考えは、その後のアメリカ合衆国憲法の基本となります。

産業革命は、ペンシルベニア州のダイナミックな経済の発展を促します。国内人口が必要な労働力を供給するのに不十分だったため、ペンシルベニア州にはイタリア人(Italian)、ポーランド人(Polish)、ロシア人(Russian)、ウクライナ人(Ukraine)、そしてバルカン地域(Balkan)から大規模な人々が定住していきます。こうして1890年から1900年にかけて州の人口は100万人以上に膨れあがります。この現象は主に鉱山地域や新しい産業の中心地へ人々が移住したことにもよります。20世紀になると、アフリカ系アメリカ人が南部から州に移住し始めます。彼らは現在、州の総人口の約10分の1を占めています。

Pittsburgh

戦後は経済、産業、人口が大きく成長し、商業大国としての地位を固めます。農業、鉱業、製造業、ハイテクを基盤とする経済で、最も繁栄した州のひとつです。州の特産品である鉄鋼の多くを生産し続け、石炭も豊富です。自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィアと重要な河港を持つピッツバーグは主要港であり、優れた教育、文化、音楽機関が存在しています。州都はハリスバーグ(Harrisburg)。エリー湖(Erie)やオンタリオ湖(Ontario)に面し、北はカナダとニューヨーク州に接し、東はニュージャージーにつながっています。形が横長の州です。

教育研究の中心は、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)やペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University)、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania)などです。日本でも人気のあるフィラデルフィア管弦楽団(Philadelphia Orchestra)はこの州にあります。

州のランカスター郡(Lancaster)には、アメリカ最大のアーミッシュ(Amish)の人々が暮らしています。アーミッシュは、スイス系ドイツ人およびアルザス人 (Alsatian)を起源とする伝統主義的なアナバプテスト派(Anabaptist Christian)キリスト教会のグループです。彼らは、質素な生活、平服、キリスト教平和主義、現代技術の多くの便利さを取り入れることを返上することで知られています。アーミッシュは田舎暮らし、倹約、肉体労働、謙遜、ゲラッセンハイト(Gelassenheit)という神の意志への服従を重んじるのです。

ほとんどのアーミッシュはペンシルベニア・ダッチ語を話します。「Dutch」とは古いドイツ語のことです。インディアナ州のスイス・アーミッシュはアレマン語の方言(Alemannic dialects)も話すといわれます。2023年現在、377,000人以上のオールド・アーミッシュ(Old Order Amish)がアメリカに、約6,000人がカナダに住んでいます。アーミッシュの教会グループは、非アーミッシュの世界からある程度分離された状態を維持しようとしています。一般的にアーミッシュから、アーミッシュ以外の人々は「英国人」と呼ばれ、外部からの影響はしばしば「世俗的」(worldly)として忌避しています。アーミッシュとペンシルベニアとの関わりは次回に紹介することとします。
(投稿日時 2024年4月2日)

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十三 ペンシルベニア州–その1 Amishとは

ペンシルベニア州といえば、キリスト教との一派であるアーミッシュ(Amish)と呼ばれる人々の文化と生活で知られる州です。これから3回に渡ってアーミッシュの文化や生き方の特徴を考えていきます。

Amish Family

アーミッシュとは、キリスト教の再洗礼派(アナバプテスト–Anabaptist)と呼ばれる人々です。成人してから自らの意志で洗礼を受けることを特徴とする一派です。こうしたキリスト教徒はメノナイト(Mennonite)とも呼ばれています。政教分離を唱え、政治的な宣誓や戦争を拒否します。良心的兵役拒否という姿勢です。

ヨーロッパの再洗礼派の教徒は、カトリック教会はルーテル教会などのプロテスタント教会から、異端とか熱狂主義者と呼ばれ非難され、反宗教改革的な存在として迫害を受けます。再洗礼派が次第に教会本来の純粋さを失ってゆくとともに、17世紀後半にスイス人のヤコブ・アマン(Jakob Ammann)がメノナイトを離れアーミッシュと称していきます。アマンは当時の正統的なキリスト教会やその教えに対して異議を唱え、迫害を受けます。彼とその信奉者は、フランス北部のアルザス(Alsace) やドイツ、オランダなどで布教活動を始めます。教会から異端視され迫害を受けていきます。

Amish quilts

迫害が止まないために、18世紀の前半に信徒達はアメリカ大陸に移住を開始します。最初に植民地として選んだのが東部ペンシルバニア州です。その後オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、ウィスコンシン州、ネブラスカ州などの中西部に移動し入植します。アーミッシュは、ドイツ系移民で、ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)とも呼ばれています。ダッチ(Dutch)は、オランダ語のことではなく、ドイツ語の”Deutsch”に由来し、古くはドイツ人のことを指しました。

ナーンバープレート その四十二 ペンシルベニア州–Keystone State

ペンシルベニア州(Pennsylvania)の名前の由来から始めます。この地にイギリスからやってきた商人でクエーカー教徒(Quaker)であったWilliam Pennという人がいました。やがて貿易などで成功したPennにイギリスは領地を分け与えます。そして植民地とします。ペンシルベニアには豊かな森が広がります。ラテン語で森を意味する「Sylvania」にPennをつけたというわけです。

Map of Pennsylvania


その後、ペンシルベニアは開拓されて植民地化されていきますが、Pennらはその地の自治を求めて自由憲章の草稿を書き、イギリスからの独立を目指していきます。信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立などの精神を訴えます。こうした考えは、後にアメリカ合衆国憲法の基本になる考えとなります。

ペンシルベニア州は北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステート(Keystone State)「礎石の州」とも呼ばれます。エリーやオンタリオ湖に面し、北はカナダとニューヨーク州に接し、東はニュージャージーにつながっています。形は横長の州です。

州都はハリスバーグ(Harrisburg)。州の西には重要な河港を持つピッツバーグ市(Pittsburgh)、東には自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィア市(Philadelphia)があります。フィラデルフィアは独立後、1790年から1800年まで連邦政府の首都となります。南北戦争の激戦地でリンカーン大統領(Abraham Lincoln)の演説で有名はゲティスバーグ(Gettysburg)など史跡が多い州でもあります。ピッツバーグ一帯や東部のベツレヘム(Bethlehem)一帯には多くの製鉄都市があり、鉄鋼、機械、化学、繊維、食品などの製造業が発達しています。製鉄を支えるのはアパラチア(Appalachia)炭田で、全米の無煙炭の大部分を産出しています。

National Independence Park

教育研究の中心は、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、ペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University)、アイビーリーグ(Ivy League) の一つペンシルベニア大学などです。ペンシルベニア大学は1765年にアメリカで最初の医学部を設置します。今も医学や公衆衛生の分野でアメリカの開拓者的存在として知られています。日本でも人気のあるフィラデルフィア管弦楽団(Philadelphia Orchestra) はこの州にあります。

留学を考える その10 アーミッシュ その1 プレーン・ピープル

留学というのは、専攻分野だけを学ぶのではない。他文化とか多文化に親しむ絶好の機会でもある。人々と直に対話したり生活様式に触れるには、中小都市のリベラルアーツの大学で学ぶことを勧める。

2014年の夏、久しぶりでウィスコンシンの田舎をドライブした。マディソンから北へ100マイル、160キロにあるスティーブンスポイント(Steavens Point)という町に行くときであった。途中は見渡すばかりのトウモロコシと馬草畑。雨が少なく穀物の価格が高騰していた。巨大な散水機がトウモロコシ畑に水を撒いている。ウィスコンシン川(Wisconsin River)は満々と水が流れていり。だが、それを汲み上げて畑に散布するには足りなく、農家は地下水を汲み上げている。都市部でも地下水に頼っている。そのため地盤の沈下が懸念されているとか。

北上するにつれて、ネイティブアメリカンの地名が標識に現れてくる。彼らの多くは、特別な居留地に住んでいる。民族は棲み分けるのが常。例えば、ノルウエイ系(Norway)、ユダヤ系(Jewish)、アーミッシュ系()、ベトナム系、中国系という具合である。もちろん大多数は混ざり合って住んではいる。大きな街では、少数民族、特にアジア系の人々が棲み分けるのが普通である。司馬遼太郎は、「街道をゆく」というエッセイで、この状態をモザイク状と呼んでいる。民族の融合には何百年という時間がかかるようである。

棲み分けの特徴は、少数民族の文化が継承されることである。言語、習慣、宗教、生活様式がそこに残ることである。マディソンの動物園で孫達と遊んでいるとき、アーミッシュかメノナイト派(Mennonite)と思われる家族の一行に出会った。家族全員が麦わら帽子をかぶり、黒と白の質素な服装をしている。父親は髭をはやし、母親は白いキャップをかぶっている。子どもは5〜6名という構成。キリスト教と共同体に忠実な信条に生きる人々とされ、清貧な生活を旨とするのでプレーン・ピープル(plain people)とも呼ばれている。

夏の週末、野菜の露天マーケットへ行くと、バギー(buggy)と呼ばれる馬車をひいたアーミッシュが野菜やパンを売りに来る。車を使わない習慣を今も続けている。畑仕事は馬が中心である。子どもたちも農作業を手伝う。そういえば動物園で会った家族も全員日焼けしていた。

棲み分けで気になること。それは孤立とか目に見えない偏見を生むのではないかということである。しかし、アーミッシュらしき一行を見ながら家族の強い絆のようなものが伝わってくる。決して孤立しているのではないのだろうと思われる。彼らは孤立を苦とせず、むしろそれを大切にしているようである。なにか、孤高の生活を誇りにしているようにも見受けられる。

アーミッシュは幾分保守的な服装を続け、テレビやラジオを遠ざけ、他の技術は慎重に受け入れるメノナイトと考えられている。アーミッシュは単一の集団ではない。「質素」な生活様式には、伝統的な信仰と習慣に対する批判が起こるにつれて時代遅れだ、といわれることもある。しかし、奴隷制度に対する反対、公的教育に対する抵抗、国家と宗教の分離、良心的兵役拒否など毅然とした信条は実に革新的な姿勢だと思うのである。

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