ヴァモント州(Vermont)の愛称は「Green Mountain State」で、これがナンバープレートに書かれています。プレートも緑色で、こだわりを感じます。この州は、合衆国北東部のニューイングランド(New England)地方の内陸にあります。北はカナダのケベック州(Quebec)に、東はニューハンプシャー州(New Hampshire)、南はマサチューセッツ州(Massachusetts)、西はニューヨーク州に隣接しています(New York)。州都モントピーリエ(Montpelier)は全米で最も小さい州都といわれています。最大の都市はバーリントン(Burlington)なのですが、この町も全州の中での最大の都市に比べで最も小さい都市といわれています。少々可笑味があります。それだけ小さい州というわけです。2024年3月12日のスーパーチューズデイ(Super Tuesday)で、共和党大統領候補者選びの選挙においてニッキー・ヘイリー(Nikki Haley)が唯一勝利した州がヴァモントです。しかし、ヘイリーは選挙戦から離脱することを宣言しました。
ヴァモントには当初はアベナキ(Abenaki)族が定住していましたが、1609年にサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlai)がこの地を探検し、湖を発見し自分の名を冠します。1666年、フランス人がアイル・ラ・モット(Isle La Motte)にヨーロッパ人初の定住地を築きます。18世紀にはオランダ人とイギリス人が入植しますが、1763年にこの地域はイギリス人の手に渡ります。ニューヨークとニューハンプシャーの間では、この地域の管轄権をめぐって紛争が起こります。1770年、イーサン・アレン(Ethan Allen) はグリーン・マウンテン・ボーイズ(Green Mountain Boys) を組織し、ニューヨーク西部からのイギリス軍侵入者を撃退します。Green Mountain Boysがナンバープレートにあるフレーズの由来となっています。
1775年にアメリカ独立戦争が始まると、アレンと彼のグループは植民地のために戦い、イギリス軍からタイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を占領します。ヴァモント州民は1777年に独立共和制を樹立し、1791年にはアメリカ第14番目の州となります。南北戦争中の1864年、南軍の一団がカナダからセント・アルバンズ(St. Albans) を襲撃し、ペンシルベニア州以北で唯一の戦場となります。
ヴァモント州は、政治や経済、社会面でアメリカの初期より素朴な時代を着実にに形成してきた地域といわれています。今日、毎年何百万人もの人々が州を訪れ、何千人もの州外居住者がヴァモント州に別荘を構えています。こうした裕福な人々は主に、ヴァモント州の山々や狭い渓谷の美しさと静けさ、そして州全体に広がるこの国の過去の雰囲気を求めているからです。緑豊かな山に囲まれた小さな町の上にそびえる白い木造の教会の尖塔、傾斜した山の牧草地に佇む乳牛の群れ、そして紅葉の並木道の赤金色の葉は、絵画の中で描かれている風光明媚なヴァモント州の側面です。ヴァモント州のさまざまな写真はアメリカの田舎の象徴となっています。
開拓初期の時代には、多くの人が生まれ故郷のヴァモント州を離れ、開拓された西部や北東部の都市部での機会を求めました。その後多くの進歩的な考えの人々が、精神的なよりどころを求めて定住してきました。ヴァモント州は国の歴史の表舞台に立ったことがありませんが、ヴァモントは、国の過去の伝統と現在の発展という連続性を穏健に伝えてきたところとなっています。
州の人口の大多数はヨーロッパ系です。アフリカ系アメリカ人、ネイティブ・アメリカン、その他のグループは、人口のほんの一部を占めています。フランス系(French)またはフランス系カナダ人(French Canadian)は全体の約3分の1を占め、イギリス系(English)とアイルランド系(Irish)はそれぞれ約4分の1と5分の1を占めます。
さまざまなグループの到来は、多くの場合、ヴァモント州の経済発展の段階にみられます。1848年にヴァモント州に初めて鉄道が建設されたとき、多数のアイルランド移民が労働者として雇用されました。彼らの子孫の多くは現在、ラトランド(Rutland)、バーリントン、セントアルバンズ(St. Albans)、その他の大きな町に住んでいます。1900年代初頭、ケベック州(Quebec)出身のフランス系カナダ人がケベック州に定住し、その多くは毛織物の町ウィヌースキー(Winooski)に定住し、その他は北部国境沿いの農場に定住しました。今日、ヴァモント州の少数の住民が今でもフランス語を第一言語として使っています。
イタリア北部からの移民は、何世紀にもわたる採石や石の彫刻の伝統をバーレ(Barre)や他の花崗岩の産地で継承していきました。そのためバーレやってくる観光客は、ヴァモント州の町々で期待する長閑な風景とは全く異なる印象を受けたはずです。スペイン北部からの他の採石場労働者はバール・モンテピーリエ(Barre-Montpelier)地域に定住します。多くのウェールズ人(Welshmen)はヴァモント州西部のスレート鉱山で働きました。彼らは故郷で鉱山での仕事に精通していたからです。ポーランドからの移民はブラトルボロ(Brattleboro)、スプリングフィールド(Springfield)、その他の製造業の町に職を求めました。産業労働力のわずかなニーズと州の田舎という特性で、合衆国南部からアフリカ系アメリカ人がほとんど集まりませんでした。
プロテスタントの背景とイギリスの血統を持つ初期アメリカ人の子孫であるヴァモント州民は歴史的に多数を占めており、州民はほぼ典型的なヤンキー(Yankees)です。ヤンキーとは、ニュー イングランドなど合衆国北部の人々の呼称です。ヴァモント州では、村の緑やメインストリートに白枠の教会がない町はほとんどありません。事実上、プロテスタントのすべての宗派がヴァモント州に見られます。ヴァモント州北東部のカレドニア郡(Caledonia)地域には長老派教会(Presbyterian Church)が集中しています。
カレドニアという名前は、ローマ時代のイギリス北部の呼称であり、1770年代にこの地域に初めて定住したスコットランド人(Scottish)移民によってもたらされました。もともとスコットランドの主要な宗教は、宗教改革以前のスコットランド伝統のキリスト教会であるカトリックで、特にスコットランド中西部とハイランドにおいて盛んです。バーリントンのローマ・カトリック教区にはヴァモント州全域が含まれており、ローマ カトリック教徒はヴァモント州の総人口の約3分の1を占めています。
1930年代には最初のスキー場が建設され、1960年代には冬の観光産業が発展します。というわけで、ヴァモント州最大の産業は観光です。観光客の多くはインターステート(高速道路)で数時間の距離にあるニューヨークやボストンからやってきます。豊かな自然を売りにしてスキー、サイクリング、キャンプ、フィッシングの鱒釣りなどが盛んです。秋はりんご狩りなどに大勢の観光客が訪れます。この州で忘れられないのはメープル・シロップ(maple sylup)の生産です。全米で最大の生産量を誇っています。サトウカエデの樹液を集めて精製します。シロップの琥珀色は薄いほど高級となります。メープル・シロップは熱いパンケーキなどにかけてバターと一緒にいただくと最高です。
州の多くは山岳と森林で占められています。気候は内陸性ですから夏は暑く、冬は相当「しばれ」ます。ニューイングランドの紅葉は格別です。現在は畜産業と花崗岩と大理石の採掘が経済に貢献しています。
かつて、家族と一緒にカナダを旅してからモンテピーリエを通りました。小さな州議事堂のロタンダ(rotunda)といわれる中央のドーム内は州の博物館となっています。小さな州のヴァモントの歴史は、イギリスからの独立をヴァモントが宣言した1777年以来の州つくりと大自然との共存の歩みとなっています。
(投稿日時 2024年3月9日)