旅のエピソード その37 「ドルの話 その二 100ドル札」

那覇東ローターリークラブの国吉昇氏は、私をロータリーインターナショナルの奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。1977年頃ですから200万円くらいです。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブからも1,700ドルの奨学金が提供されました。これにはルーテル教会の宣教師が仲立ちしてくれました。勉強してから沖縄の幼児教育に寄与することが期待されたようです。お陰で1978年に家族を連れてアメリカに向かうことになりました。

この頃になると、為替レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ(Filet Mignon) の部厚いステーキが4〜5ドルくらいで、1,300円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに2,000円、3,000円へ値上がりしていきました。沖縄の人は長い間ドルで生活していたので、所持していた相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍に上がりました。

沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。復帰によって本土からさまざまな人と物、法律や組織が入ってきました。中央省庁から役人がやってきて、沖縄は完全に本土並となりました。国家権力がいかに凄いか、恐ろしいかを思い知ったといわれました。

ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。100ドル札を見たことがないのか、偽札を心配したのかです。通常買い物で100ドル札を出す人は全くいません。皆小切手を使います。大学の授業料を支払うときも現金は受け付けません。わたしの現金と小切手の見方が変わった出来事といえます。