ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・マルティニーク島と小泉八雲

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小泉八雲は、ギリシャで生まれたアイルランド系のイギリス人です。アイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、そして日本にやってきます。ジャーナリストとして各地で出会った人々との交流や習慣を紀行文や随筆で記し、多くの小説も書き、後に日本では英語教師や英文学者として活躍したことで知られています。フランス語にも精通し1887年から2年間、カリブ海(Caribbean)に浮かぶ島でフランス領西インド諸島のマルティニーク島(Martinique)で過ごします。そこで執筆したのが「仏領西インドの2年間」(Two Years in French West Indice)です。本稿は、各国を放浪し異国情緒にあふれる人種、伝統、風俗・習慣に触れながら八雲がどのようにこの島の人々の生きざまを捉えていたか考えることとします。

小泉八雲の著作

これまでルイジアナ州に住むクレオール(Creole)の人々の文化や風俗をとりあげてきました。人種を問わず植民地で生まれた者はクレオールと呼ばれています。特にフランス人・スペイン人とアフリカ人・先住民を先祖に持ち、フランスからのルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫とその文化を指すともいわれます。付け加えるならば、クレオールとはもともとは、片方の親がヨーロッパ系で、もう片方の親がアフリカ系の子どものことを指していましたが、今日では、両方の系統が混じっている人々のことを指し、「黒人と白人の混血者」と説明されるようです。

マルティニーク島

八雲がなぜ、マルティニーク島に渡ったのかは分かりませんが、この島がフランスの植民地であり、多様な人種が混ざり合っていることに関心があったのかもしれません。西洋文明の社会に疑問をいだき、それに飽き足らず異国文化への関心を深めていったようです。八雲はマルティニークでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、その植民地体験を豊かな文章で書き残しています。事実、八雲も自分の出自が混血であったために、人種の多様性の豊かさに魅了されたことが「仏領西インドの2年間」の著作に表れています。

さて、西インド諸島の名は、1492年10月にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)が上陸したバハマ諸島(Bahamas Islands)のサン・サルバドル島(San Salvador Island)付近を、インドに到達したと誤解したことに由来しているといわれます。西インド諸島の主要部を構成する諸島の一つがフランスの海外県であるマルティニーク島です。マルティニーク島は、1502年のコロンブスの第四次航海により発見されます。意図していた金や銀を産出せず、さらにカリブ人が頑強な抵抗を続け、ヨーロッパ人の侵入を退けます。しかし、1635年にセント・キッツ島(Saint Kitts)を拠点にしたフランス人のピエール・デスナンビュック(Pierre dEsnambuc)が上陸し、これによってフランスが主導権を握り植民地化します。

クレオール人


フランスの植民地化が進むと、マルティニーク島はアフリカから奴隷貿易で連行された黒人奴隷によるサトウキビ・プランテーション農業で経済的に発展します。大西洋における三角貿易によって今のハイチ(Haiti)であるサン=ドマング(Saint-Domingue)やグアドループ(Guadeloupe)と共にフランス本国に多大な利益をもたらしていきます。かつてマルティニーク島にいた先住民は、ヨーロッパ人による虐殺やヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病により全滅し、現在は純粋な先住民は1人もいないといわれます。

マルティニーク島には、アフリカから奴隷として連れて来られた黒人とヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血のムラート(Mulatto)と呼ばれるクレオール人、華僑、インド人、レバノン(Lebanon)、シリア(Syria)、パレスチナ(Palestina)から移民したアラブ人(Arab)なども少数ながら存在します。住民の多くはフランス語とクレオール語を話しますが、クレオール語は少数言語となっています。

カトリック教会

八雲は「仏領西インドの2年間」という著作のなかで、マルティニーク島というのは、画趣に富むところだと記述しています。とりわけ有色人の女性の服飾、頭の飾りなどの珍しさや華やかさ、有色人の娘に見られる肉体的な変化が特徴的であるというのです。そして、こうした特徴は南フランスの南部や西南部の田舎の風俗に類似していると指摘します。最初に入植してきたフランスの農民と西アフリカの奴隷という先祖の人種が、両者ともに風土と環境という諸条件によってこうした特徴が形成されたのだという見立てです。

やがてマルティニーク島では、初期の入植者の子孫は父祖に似なくなり、クレオールの黒人は祖先を改善し、混血のムラートは植民地自体の平穏さを危うくするほどの肉体力と精神力を次第に発揮していきます。八雲は「白人と黒人との間に生まれた混血種は文明にはきわめて同化しやすい。肉体的なタイプとして、個人、特に一般女性のなかに、人類最高の美しい標本を提供している」とも断言するくらい、女性の美を観察しています。

しかし、八雲は植民地全般に古き良き社会の崩壊が始まることを指摘します。植民地支配下で民族意識が高まり、自主独立の機運が高まってきたからです。至る所に熱帯の廃墟や深い憂愁、かっては甘藷で黄金色をなしていた広大な段々畑が、雑草と蛇によって捨てられているというのです。人の住んでいない農場の家屋、雨によってえぐられ谷間のようになった草ぼうぼうの道、何百年にわたり育った森林の木々に代わって徐々にはえだしたバナナの樹が目立つというのです。砂糖が安価に売られていた時分の楽園をしのばせる美しさはかろうじて残ってはいるが、、、、

マルティニーク島の村

そして有色人の女の姿も変わったというのです。男に対して自分を卑下したり隷属的なところが大分薄れ、自分の立場の道義的に正しくないことを以前より理解していると観察します。彼女らの愛人や保護者であるクレオール白人が他へ移住し、同時に黒人の支配が強くなってきたからです。加えて生活の困難が不断に増してきます。彼女らは、次第に募る人口の増加によって社会の酷薄と憎悪も増してきているのを知ってくるのです。それにも関わらず彼女達の心根の良さ、外国人に対する寛容さについて「彼女達は生まれながらの慈善団体の尼だ」という指摘です。有色人女性達の道徳的資質を褒めているのです。

有色人女性に関するこうした賛辞は法外なものではないと八雲は確信します。ところがこれに反して、有色人男性に対するクレオールの意見はあまり好ましくないというのです。それは政治上の事件と情熱が有色人男性の性質を正当に評価することを困難にしているからだろうというのです。フランス領植民地全体の有色人の歴史は全部同じで、つまり彼らが社会的に平等になろうと躍起になろうとするのを恐れている白人からは信用されないし、黒人からもそれ以上に信用されないのです。混血のムラートは両方の人種に敵意をいだき、両方の人種から恐れられているらしいのです。

仏領西インドの2年間

マルティニーク島では、一定の期間義勇兵として軍隊に勤務した者には全部に自由を与えて彼らを操縦していくことを試み、その一部は成功します。ただし、どんな時にもムラートと黒人とを一緒に働かせることは不可能であることがわかります。ムラートは解放される一世紀も前から、すでに都市労働者及び職工の熟練者階級を形成していたからです。

有色人女性は人生に目的を持ち、自分の境遇を向上させること、子どもには高等教育を授けること、そしてわが子には、なんとかして偏見の呪いをかけさせたくないと願っています。白人には依然としてすがってはいますが、それは白人を通して、なんとか自分の立場を改善したいと願っているからです。彼らは両方の人種間の和解というようなことを達成する望みをもっているようだともいいます。

クレオール人全体の信念は「失われた国」という繰り返される叫びの中に集約されています。白人はだんだんと本国へと移住し、植民地は繁栄を失いつつあります。「それでもこの太陽の国の女性は、欺きのために死ぬようなことはない、苦しみがあれば、小鳥のように歌でその苦しみを吐きだしてしまうほど強い」と八雲は断言するのです。
(投稿日時 2024年5月22日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・クレオールと小泉八雲とケージャン

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あらゆる文化の基礎となるのが言語です。クレオール語(creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の人々が、自然に作り上げられた言語(ピジン言語–pidgin)が、次の世代で母語として話されるようになった言語のことといわれます。英語でいえば、ユー・イェスタデイ・ノー・カム(You yesterday no come )といった塩梅の会話です。文法構造などが簡略化されて、単語をつなぐだけでも会話が成立します。ピジン語が、日常生活のあらゆる側面を使われると、やがてそれが人々の中で母国語化するのです。

Saina Manotte, singer

前稿では、フランスの植民地であるカリブ(Caribbean)に浮かぶマルティニク島(Martinique Island)でのクレオール化に触れました。クレオールの人々は次第に少数派となりますが、排他的な努力をして彼らの文化的優越性を守ろうと努力してきました。今では社会的な勢力を失いましたが、風俗、食物、建築にその文化は生き残っています。宗主国フランスによる支配と同化に対抗するために、クレオールとしてのアイデンティティの確立を叫んだのは、前述のグリッサンの他にラファエル・コンフィアン(Raphael Confiant) といった作家です。コンフィアンは、クレオール文学を通して、文化的な同化に対して次のような警鐘を鳴らしています。
     「我々は西洋の価値のフィルターを通して世界を見てきた」
     「自身の世界、自身の日々の営み、固有の価値を「他者」のまなざしで見なければならないとは恐ろしいことである。」

Raphael Confiant

クレオールと小泉八雲との関係についてです。彼は、日本に来る前にアイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島の仏領マルティニク島を放浪しています。西洋文明社会に疑問をいだき、それに飽き足らず異国文化への関心を深めていったようです。八雲はマルティニクでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、その植民地体験を豊かな文章で書き残しています。それが〈クレオール物語〉という著作です。「非西欧」への憧れが彼の中で育っていたことがわかる著作といわれています。八雲はいかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかったようです。それがクレオールの文化に傾倒した理由といえましょう。

ヘルン旧居

アメリカ少数文化集団の一つにケージャン(Cajun)があります。ルイジアナ南西部に住むフランス系の住民です。ケージャンの呼称は、アカディア人(Acardia)を意味するフランス語の〈Acadien〉がなまってカジャンとなったものを英語式にしたことから由来します。1604年、最初にカナダ南東部アカディア地方に入植したフランス人が、18世紀に英仏間の植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)のあおりで、各地を転々とし、ルイジアナの低地帯に住み着きます。同地域がアメリカに併合の後も周囲から孤立して独自の文化を保ってきました。

Cajun Seafood

ケージャンはカトリックを信仰し、近年までフランス語なまりの〈ケージャンフレンチ-Cajun French〉と呼ばれた独特の言語を使用してきました。彼らの最も特徴的な文化が音楽で、独特のアコーディオンやヴァイオリンを使ったワルツ、ツーステップのダンス音楽です。料理も知られています。ケージャン文化はルイジアナ州のクレオール文化とははっきり区別されるものです。
(投稿日時 2024年5月20日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ケンタッキー州・Bluegrass State

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ケンタッキー州(Kentucky)のナンバープレートには「Bluegrass State」とあります。草原を遠くから眺めると青紫色のつぼみが一面広がり、「青い草」に見えたので名付けられたとあります。ブルーグラス・ミュージック(Bluegrass Music)です。スコットランドやアイルランドの音楽を基にしています。アップテンポの曲が時代と共に多くなり、速弾きなどのインプロヴァイズ(即興演奏)もあります。お隣テネシー州でもこの音楽は盛んです。

License Plate of Kentucky

ケンタッキー州は、1769年にダニエル・ブーン(Daniel Boone)や他のヨーロッパの開拓者が到着するまで、長い間、さまざまなネイティブ・アメリカンの人々の本拠地でした。その名前の由来ですが、一説は、チェロキー族(Cherokie)が狩猟を行っていたこの地域を「カトブ」と呼び、先祖伝来のこの狩り場を売却することに反対し、「暗い血にまみれた大地」を買おうとしていることを警告してそう呼んだという説です。他の説にはイロコイ語(Iroquois)で「草原(prairie)」を意味する言葉に由来しているというものです。

1792年にケンタッキー州がアパラチア山脈以西では初で15番目の州としてとして認められるまでに、73,000 人近くの入植者が集まりました。1800年までにこの数は約22万人に増加し、その中には約4万人の奴隷も含まれていました。

Map of Kentucky

ケンタッキーはイリノイ州、インディアナ州、オハイオ州、ミズーリ州に囲まれ、オハイオ川とミシシッピ川で州境をなしています。東側にはアパラチア山脈が聳えていて、豊かな自然に恵まれています。この州はなんといっても「ブルーグラスの州」と呼ばれ、肥沃な土壌からの多くの農産物がとれます。州都はフランクフォート(Frankfort)。最大の都市はルイビル(Louisville)となっています。

ケンタッキー州というと、炭鉱、バーボン郡(bourbon) にちなんで命名されたといわれるバーボン・ウイスキー、登山家、違法酒の蒸留業者、夏のベランダでミント・ジュレップ(mint juleps)をすすりながら白衣を着た大佐や女性、ケンタッキーダービー(Kentucky Derby)などで知られています。肥沃なブルーグラスは馬の飼料として栄養価が高いので、馬の生産が盛んになったと言われます。

バーボン・ウイスキーの主原料は51パーセント以上のトウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などで、これらを麦芽で糖化させ、さらに酵母を加えてアルコール発酵させるのです。バーボンという名前はフランスの「ブルボン朝」(Bourbon dynasty) に由来するという説もあります。その他タバコの生産も盛んです。

Kentucky Derby

ケンタッキー州には、興味深いことに独特の地域と特徴が混在しています。レキシントン(Lexington)周辺のなだらかなブルーグラス(Bluegrass)地域にある、白いフェンス、パドック(paddocks)、タバコ畑、牧草地がどこまでも続く風景は、ケンタッキー州の立場を反映しながら、南北戦争前の南部とのつながりを彷彿とさせるような、ゆったりとして上品な生活様式を示唆しているといわれます。その反面、タバコや麻が名産だったので、奴隷制度の中心ともなりました。奴隷市場が置かれ、川を下って運ばれる奴隷の出発地がルイビルだったのです。

対照的に、ケンタッキー州の最北端は、主にドイツの伝統があり、郊外の開拓への傾向があり、オハイオ州シンシナティの大都市へ向いていることことから、州と北部の都市部とのつながりが特徴的となっています。ケンタッキーは自動車産業も盛んです。フォード、GM、トヨタの工場があります。トヨタはアメリカで最もポピュラーな車「カムリ」をジョージアタウン(Georgetown)という街で組み立てています。

ケンタッキー州は、過去と未来を見つめる州として、西部への拡大の岐路として、そして1861年から1865年までの南北戦争中に忠誠心が分かれたことがあげられます。南北戦争の大統領である北軍のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)と反対側の南軍の大統領となったジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)は両方ともケンタッキー州生まれです。

Country Road

ケンタッキーといえば、スティーブン・フォスター(Stephen Foster)がいます。1848年に、アンクル・ネッド(Uncle Ned)やオー・スザンナ(Oh! Susanna)などのバラードのいくつかが出版されます。曲が知られるようになると、彼は作曲活動に従事します。さらにクリスティ・ミンストレルズ(Christy Minstrels)のために曲を書くよう依頼されます。その中で最もよく知られているのが「オールド・フォークス・アット・ホーム」(Old Folks at Home)とか「スワニー・リバー」(Swanee River)で、1851年にエドウィン・クリスティ(Edwin P. Christy)の名前で発表し、彼は1879年までクリスティの名前で活動を続けます。

1852年にニューオーリンズ(New Orleans)への旅行中に、フォスターはケンタッキー州に立ち寄り、バーズタウン(Bardstown)という街の近くにあるフェデラル・ヒル(Federal Hill)に住むいとこの家を訪れます。そこで彼は「My Old Kentucky Home」を書いたと言われています。この曲はケンタッキー州の州歌になりました。フェデラル・ヒルには州のフォスター記念碑があります。

Stephen Foster

フォスターは、生涯経済的にはあまり恵まれなかったようです。1857年に曲のすべての権利を1,900ドルで出版社に売却します。利益は主に出版社と出演者に支払われたようです。1860年に彼はニューヨーク市に移ります。やがて妻と別居し、貧しく気ままに暮らします。そして1864 年1月13日にニューヨークで亡くなります。

彼は生前に約200曲を残しています。ほとんどの曲は、自分で歌詞と音楽の両方を書いています。最も人気のある曲の中には、「Old Black Joe」、「Jeanie with the Light Brown Hair」、「Come Where My Love Lies Dreaming」、「Beautiful Dreamer」などがあります。さらに賛美歌も作曲しています。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。

「My Old Kentucky Home」の一節です。
  Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home
 ’Tis summer, the darkies are gay
The corn top’s ripe and the meadows in the bloom
While the birds make music all the day

ケンタッキー州政府は、南部の心の温かさという概念に基づいて、他から州内により多くの人々を惹き付けようと考え、「こんなに友好的だ」(”It’s that friendly”)というスローガンを提唱したこともあるようです。州境地域にある「ケンタッキー州にようこそ」(Welcome to Kentucky)という看板に、(Unbridled Spirit)「自由奔放な精神」というフレーズも印字されています。

ケンタッキー州は、民主党は19世紀半ば以来、州政と連邦政界の両方をほぼ支配してきました。実際、2002年にアーニー・フレッチャー(Ernie Fletcher)がケンタッキー州知事に選出されたとき、彼は36年ぶりに共和党員として当選しました。大統領選挙では、1896年、1924年、1928年の例外を除いて、州は南北戦争後、ほぼ1世紀にわたって民主党に投票してきました。しかしながら、1950年代以降、同州は連邦レベルで共和党を支持する傾向にあり、現在も共和党支持州の一つとなっています。

私と家族はかつてジョージアからウィスコンシンへ向かう途中、ケンタッキーをとおりました。「ケンタッキーの我が家」のメロディが浮かんだのはいうまでもありません。ですが公式な州歌であることを知ったのは、ずっと後のことではあります。
(投稿日時 2024年2月21日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州イリノイ州・Land of Lincoln

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イリノイ州(Illinois)のナンバープレートには「Land of Lincoln」と記されています。リンカーンが残した遺産の重要さを強調しています。州都スプリングフィールド(Springfield)です。シカゴ(Chicago)ではありません。エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が生まれ育った町がスプリングフィールドです。アメリカは一番大きな街が州都になるとは限りません。例えばカリフォルニアは州都がサクラメント(Sacramento)です。サンフランシスコ(San Francisco)やロスアンジェルス(Los Angels)は遥かに大きな都市です。

Map of Illinois

イリノイ州には900もの川が流れ、そのほとんどがミシシッピ川(Mississippi)水系に注ぎ込んでいます。シカゴ川とカルメット川(Calumet)は、もともとはミシガン湖を通ってセント・ローレンス川(St. Lawrenc)に注いでいましたが、運河の建設により、州北部を北東から南西にほぼ二分するイリノイ川を通ってミシシッピ川に注ぐようになりました。オハイオ川は州南端のカイロ(Cairo)付近でミシシッピ川に合流しています。そのような訳で、この付近は「小さなエジプト」(Little Egypt)と呼ばれています。

イリノイの最大の天然資源は、その豊かな黒土です。州の面積の約4分の3を農場が占めています。イリノイ州は例年、大豆とトウモロコシの生産量で上位に入ります。豚肉や乳製品、穀物、家畜の生産でも有名で、家族経営の農場が最も多いが特徴です。州南部3分の1の土壌は、農業にはあまり適していません。

Storm in Illinois

イリノイ州は、石炭の埋蔵量で全米トップクラスです。国内の瀝青炭(bituminous coal)埋蔵量の4分の1を占めています。イリノイ州の瀝青炭埋蔵量は、サウジアラビア(Saudi Arabia)の石油埋蔵量を上回るエネルギーを含んでいるといわれます。石油生産のピークは1940年に達し、それ以降は減少していますが、イリノイ州は石油精製において地域のリーダーであり、エタノール(ethanol)の生産量も全米トップクラスとなっています。

この州は合衆国での有数の工業地帯であり、非電機機器のトップメーカーで、保険業の中心地でもあります。イリノイ州は国内における商工業、交通、政治や財政の中枢的存在となっています。ともあれ、製造業、農業、金融、鉱業、運輸、政府、テクノロジー、観光業を含むサービス業など、州経済は多様性に富んでおり、全米経済の縮図といわれています。このような多様性は、他州にはない特徴です。

イリノイ州や民間の経済団体は、バランスの取れた経済を拡大することに多大な注意を払っているといわれます。例えば、イリノイ州産品の輸出を促進するため、外国の都市、例えば東京などに事務所を置いています。さらに女性や少数民族による事業開発のためのサービスを提供し、新しい技術開発に関する情報を民間企業に広めているのも特筆されます。

Town of Galena, Ill

さて、リンカーンのことです。アメリカ第16代の大統領です。その功績は人種差別運動の先駆者ともいうべき人と言われています。その運度の伏線には、ハリエット・ストウ(Harriet E. Stowe)という小説家が書いたUncle Tom’s Cabinがあります。この作品で、当時の黒人の生活と差別の実態が全米の人々に知れ渡ることになります。差別への関心がやがて、アメリカを二分する南北戦争へ突入していきます。

南北戦争(Civil War)中は政治的に分裂しますが、イリノイ州は連邦(Union)の一部でした。南北戦争は、黒人の解放に大いに関係する出来事です。アメリカ南部は綿花を栽培することが中心。畑には多くの黒人労働者が使われていました。映画「風と友に去りぬ」は、南部が舞台でした。メイド役の黒人女性が、一人娘の死で打ちひしがれる農場主レッド・バトラー(Rhett Butler)を慰めるシーンがありました。帰還する兵士アシュレー(Ashley)を見て、スカーレット・オハラ(Scarlett O’Hara)がかけ寄ろうとするのを押しとどめるのはこのメイドでした。

南北戦争が終わり、リンカーンは二分しかかったアメリカを一つにしようと呼びかけた有名な演説をします。それがゲティスバーグ演説(Gettysburg Address)と呼ばれる奴隷解放宣言です。20世紀になると共和党と民主党が激しく対立し、選挙人票も多かったので、大統領選挙の主要な戦場となっています。

私にとってのイリノイは友人との交わりです。イリノイ大学の教授だったDelwyne Harnisch氏とは長い長いつき合いをしました。
(投稿日時 2024年2月9日)

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その53 『Creole State』とルイジアナ州

ルイジアナ州(Louisiana)は、アフリカ、フランス、ネイティブアメリカ、カナダ、ハイチ(Haiti)、ヨーロッパ(Europe)など、いくつもの文化が絶妙に混ざり合い、それらが結合して南部のこの州でしか見られない特別な風土や文化を生み出しています。州全体がメキシコ湾大平原の一角を占め、州北部の東境は北米最大のミシシッピ川(Mississippi River)が流れています。ミシシッピ河口部の三角地帯-デルタを中心とした低平な州で湿地帯が多いところです。ルイジアナ州を3回にわたり紹介することにします。

Map of Louisiana

スペインの探検家エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)がこの地に入ったのが1541年。その後1682年にフランス人ラ・サール(La Salle)がフランス領と宣言し、1714年にフランス人集落を作ります。1803年に1500万ドルでアメリカがフランスより購入します。ルイジアナという地名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV)に由来します。この州では、他州で用いられるカウンティ(郡–county)ではなく、キリスト教会の小教区を意味するパリッシュ(parish)を使うという珍しい州です。ルイジアナの州都はバトンルージュ(Baton Rouge)、最大都市はニューオーリンズ(New Orleans)です。

ルイジアナ州の特徴として、クレオール文化(Creolization)に触れなければなりません。この文化は、フランス、スペイン、アフリカおよび先住民文化から色々な要素を取り入れた融合文化であるとされます。クレオール文化は白人クレオールと黒人クレオール両方に属しています。当初クレオールという言葉はフランスまたはスペイン人の子孫で、現地で生まれた白人を指していました。それが後には白人男性が黒人女性との子孫も指すようになり現在に至っています。植民地社会では、ヨーロッパの諸語が正統言語であり、クレオール語は奴隷の「粗野で崩れた方言」とみなされたののもうなずけます。しかし、1970年代以降の地域ナショナリズムの高まりによって、フランス語系クレオール語を中心にクレオール語・クレオール文化復権運動が起こってきます。クレオール語を認知することで多重言語状況を肯定し、それを将来への遺産へつなげようとする運動です。

Southern Cuisine

クレオール文化に並んで、ルイジアナ州の南西部地方に見られるのがケイジャン(Cajun)文化です。ケイジャン文化は、もともとフランス系移民、アメリカ先住民のアタカパス族(Atakapa)、カナダのアカディア(Arcadia)から逃れてきた人々によって形成されます。ラファイエット(Lafayette)という田舎街などに、ケイジャン文化のコミュニティーを見ることができます。人々は湿地の沿岸地帯での漁業や大草原での牧畜で生計を立てています。ケイジャン文化は、素朴な料理とフランス語を話す歴史を特徴としています。

世界的に名が知られるニューオーリンズのことです。「ビッグイージー(Big Easy)」とも呼ばれるこの街は、歴史が豊かで魅力に溢れています。ジャズ、クレオール料理、南部なまり、多文化のルーツ、そしてもちろん世界的に知られたマーディ・グラ・フェスティバル(Mardi Gras Festival)で有名です。カーニバルのお祭りにおいては、マーディ・グラの右に出るものはないといわれます。ところで、なぜこの街が「ビッグイージー」と呼ばれたかです。20世紀初めには、演奏会場の数が多かったたために、ジャズやブルースのミュージシャンのための開催場所として全国的に認められたからであるという説です。 公園での演奏やストリートでのパーティなどで、ビッグイージーは、常に演奏のための憧れのミュージシャンの渇きを受け入れたオープンで支持的な都市、それがニューオーリンズであるというのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その97 1860年の大統領選挙と内戦の勃発

1860年の大統領選挙は非常に緊張した雰囲気の中で行われました。南部の人々は、自分たちの権利が法律によって保証されるべきだと判断し、領土内の奴隷制を保護する意志のある民主党候補を主張しました。そして彼らはスティーブン・ダグラス(Stephen A. Douglas)を拒絶し、その国民主権の教義が問題を疑問視し、ジョン・ブレッキンリッジ(John C. Breckinridge)を支持します。

ダグラスは、北部および国境州の民主党員のほとんどに支持されており、民主党候補で出馬しました。年配の保守派は、党派的な問題のあらゆる扇動を嘆き、解決策を提案しませんでしたが、ジョン・ベル(John Bell)を立憲連合党(Constitutional Union Party)の候補者として提案します。成功に自信を持っていた共和党員は、長い公務であまりにも多くの責任を負っていたスワード(Seward)の主張を無視し、代わりにリンカーン(Lincoln)を指名します。その後の選挙での投票は著しく党派的なパターンに沿っており、共和党の勢力はほぼ完全に北部と西部に限定されていました。リンカーンは一般投票では多数しか得られませんでしたが、選挙人団では大勝します。

Fort Sumter

南部では、リンカーンの大統領当選が脱退の合図となり、12月20 日にサウスカロライナ州は合衆国から脱退した最初の州となります。すぐに南部の他の州がサウスカロライナに続きます。ブキャナン政権(Buchanan’s administration)側の脱退を阻止しようとする努力は失敗に終わり、南部諸州の連邦要塞のほとんどが次々と脱退主義者に占領されていきます。他方、別の妥協点を探るワシントンでの精力的な努力は失敗に終わります。その最も期待された計画は、ジョン・クリッテンデン(John J. Crittenden)による、奴隷州から自由に分割するミズーリ妥協線を太平洋まで延長するという提案でした。

脱退を目指している極端な南部人も、苦労して勝ち取った選挙での勝利の報酬を手にすることを目指している共和党員も、妥協には本当に関心がありませんでした。1861年2月4日、リンカーンがワシントンで就任する1か月前に、南部の 6 つの州 (サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、フロリダ、ミシシッピ、ルイジアナ) がアラバマ州モンゴメリーに代表を派遣し、新しい独立政府を樹立しました。テキサスからの代表者がすぐに彼らに加わりました。ミシシッピ州のジェファーソン・デイビス(Jefferson Davis)を首長に、ここにアメリカ連合国(Confederate States of America)が誕生し、独自の本部と部局を設置し、独自の通貨を発行し、独自の税金を上げ、独自の旗を掲げました。いろいろな敵対行為が勃発し、ヴァジニア州が連邦政府を脱退した後の1861年5月に新政府は首都をリッチモンド(Richmond)に移しました。アメリカ連合国の軍隊は南軍と呼ばれます。

American Civil War

こうした南部の既成事実に直面したリンカーンは、就任時にあらゆる方法で南部を和解させる準備をしていましたが、1 つの条件を除いて、合衆国が分裂する可能性があるとは考えていませんでした。彼の決意が試されたのは、次のことでした。すなわち、ロバート アンダーソン少佐(Maj. Robert Anderson)の指揮下にある連邦軍のサウスカロライナ州のサムター要塞(Fort Sumter)の存在のことです。要塞は、当時まだ連邦政府の管理下にあった南部で数少ない軍事施設の 1 つでした。この要塞に迅速に補給するか、撤退させるかの決定が必要でした。閣僚内部での苦悩に満ちた協議の後、リンカーンは南軍が最初に発砲をするとしても物資を送る必要があると判断します。1861年4月12 日、北軍の補給船が窮地に立たされているサムター要塞に到着する直前に、チャールストン(Charleston)の南軍の大砲がサムター要塞に発砲し、戦争が始まりました。

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その八 イリノイ州–Land of Lincoln

イリノイ大学(University of Illinois)は全米屈指の大学です。日本からも多くの留学生が学んでいます。日本から直行便で12時間、オヘア国際空港(O’Hare International Airport)に着くとそこはシカゴ、イリノイ州(Illinois)です。シカゴ(Chicago)は誰でもが聞いたことのある大都会です。

イリノイの州都はシカゴではなくスプリングフィールド(Springfield)です。エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が生まれ育った町で知られています。アメリカは一番大きな街が州都になるとは限りません。例えばカリフォルニアは州都がサクラメント(Sacramento)です。サンフランシスコ(San Francisco)やロスアンジェルス(Los Angels)は遥かに大きな都市ですが州都ではありません。

Map of Illinois

さて、リンカーンのことです。アメリカ第16代の大統領です。その功績は人種差別運動の先駆者ともいうべき人とされています。その運度の伏線には、ハリエット・ストウ(Harriet Stowe)という小説家が書いた「Uncle Tom’s Cabin」があります。この作品で、当時の黒人の生活と差別の実態が全米の人々に知れ渡ることになります。差別への関心がやがて、アメリカを二分する南北戦争(Civil War)へ突入していきます。

Corn Field


南北戦争を主題にした小説がマーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)の「風と友に去りぬ(Gone with the Wind)」です。アメリカ南部は綿花栽培が中心。畑には多くのが黒人労働者が使われていました。メイド役の黒人女性マミー(Mammy)が、一人娘の死で打ちひしがれる農場主レット・バトラー(Rhett Butler)を慰めるシーンがありました。帰還する兵士アシュレー(Ashley Wilkes)を見て、スカーレット・オハラ(Scarlett O’Hara)がかけ寄ろうとするのを押しとどめるのはこのメイドでした。

南北戦争が終わり、リンカーンは二分しかかったアメリカを一つにしようと呼びかけた有名な演説をします。後にゲティスバーグ演説(Gettysburg Address)と呼ばれる奴隷解放宣言です。イリノイ州のナンバープレートには「Land of Lincoln」と記されています。