近代的な法律学を輸入した人物に穂積陳重がいます。彼はイギリスとドイツに留学し、日本の民法起草に携わりました。医学面では北里柴三郎がいます。ドイツ留学にしコッホ(Heinrich Robert Koch)に師事して、細菌学や血清療法を導入します。ペスト菌の発見や血清療法の確立など、日本の近代医学や公衆衛生を世界レベルに引き上げるのです。建築の分野に辰野金吾がいます。イギリスに留学しジョサイア・コンドル(Josiah Conder)に学び、後に赤レンガの東京駅などを設計した建築家です。科学の分野では高峰譲吉がイギリスに留学し化学工業の基礎を築き、アドレナリンを発見するのです。芸術の分野に黒田清輝がいます。フランスに留学し印象派の明るい作風を日本画壇に持ち込み、後に「洋画の父」と呼ばれるのです。
小泉八雲は、ギリシャで生まれたアイルランド系のイギリス人です。アイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、そして日本にやってきます。ジャーナリストとして各地で出会った人々との交流や習慣を紀行文や随筆で記し、多くの小説も書き、後に日本では英語教師や英文学者として活躍したことで知られています。フランス語にも精通し1887年から2年間、カリブ海(Caribbean)に浮かぶ島でフランス領西インド諸島のマルティニーク島(Martinique)で過ごします。そこで執筆したのが「仏領西インドの2年間」(Two Years in French West Indice)です。本稿は、各国を放浪し異国情緒にあふれる人種、伝統、風俗・習慣に触れながら八雲がどのようにこの島の人々の生きざまを捉えていたか考えることとします。
あらゆる文化の基礎となるのが言語です。クレオール語(creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の人々が、自然に作り上げられた言語(ピジン言語–pidgin)が、次の世代で母語として話されるようになった言語のことといわれます。英語でいえば、ユー・イェスタデイ・ノー・カム(You yesterday no come )といった塩梅の会話です。文法構造などが簡略化されて、単語をつなぐだけでも会話が成立します。ピジン語が、日常生活のあらゆる側面を使われると、やがてそれが人々の中で母国語化するのです。
アメリカ少数文化集団の一つにケージャン(Cajun)があります。ルイジアナ南西部に住むフランス系の住民です。ケージャンの呼称は、アカディア人(Acardia)を意味するフランス語の〈Acadien〉がなまってカジャンとなったものを英語式にしたことから由来します。1604年、最初にカナダ南東部アカディア地方に入植したフランス人が、18世紀に英仏間の植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)のあおりで、各地を転々とし、ルイジアナの低地帯に住み着きます。同地域がアメリカに併合の後も周囲から孤立して独自の文化を保ってきました。
彼は生前に約200曲を残しています。ほとんどの曲は、自分で歌詞と音楽の両方を書いています。最も人気のある曲の中には、「Old Black Joe」、「Jeanie with the Light Brown Hair」、「Come Where My Love Lies Dreaming」、「Beautiful Dreamer」などがあります。さらに賛美歌も作曲しています。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。
「My Old Kentucky Home」の一節です。 Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home ’Tis summer, the darkies are gay The corn top’s ripe and the meadows in the bloom While the birds make music all the day
ケンタッキー州政府は、南部の心の温かさという概念に基づいて、他から州内により多くの人々を惹き付けようと考え、「こんなに友好的だ」(”It’s that friendly”)というスローガンを提唱したこともあるようです。州境地域にある「ケンタッキー州にようこそ」(Welcome to Kentucky)という看板に、(Unbridled Spirit)「自由奔放な精神」というフレーズも印字されています。
さて、リンカーンのことです。アメリカ第16代の大統領です。その功績は人種差別運動の先駆者ともいうべき人と言われています。その運度の伏線には、ハリエット・ストウ(Harriet E. Stowe)という小説家が書いたUncle Tom’s Cabinがあります。この作品で、当時の黒人の生活と差別の実態が全米の人々に知れ渡ることになります。差別への関心がやがて、アメリカを二分する南北戦争へ突入していきます。
1860年の大統領選挙は非常に緊張した雰囲気の中で行われました。南部の人々は、自分たちの権利が法律によって保証されるべきだと判断し、領土内の奴隷制を保護する意志のある民主党候補を主張しました。そして彼らはスティーブン・ダグラス(Stephen A. Douglas)を拒絶し、その国民主権の教義が問題を疑問視し、ジョン・ブレッキンリッジ(John C. Breckinridge)を支持します。
ダグラスは、北部および国境州の民主党員のほとんどに支持されており、民主党候補で出馬しました。年配の保守派は、党派的な問題のあらゆる扇動を嘆き、解決策を提案しませんでしたが、ジョン・ベル(John Bell)を立憲連合党(Constitutional Union Party)の候補者として提案します。成功に自信を持っていた共和党員は、長い公務であまりにも多くの責任を負っていたスワード(Seward)の主張を無視し、代わりにリンカーン(Lincoln)を指名します。その後の選挙での投票は著しく党派的なパターンに沿っており、共和党の勢力はほぼ完全に北部と西部に限定されていました。リンカーンは一般投票では多数しか得られませんでしたが、選挙人団では大勝します。
Fort Sumter
南部では、リンカーンの大統領当選が脱退の合図となり、12月20 日にサウスカロライナ州は合衆国から脱退した最初の州となります。すぐに南部の他の州がサウスカロライナに続きます。ブキャナン政権(Buchanan’s administration)側の脱退を阻止しようとする努力は失敗に終わり、南部諸州の連邦要塞のほとんどが次々と脱退主義者に占領されていきます。他方、別の妥協点を探るワシントンでの精力的な努力は失敗に終わります。その最も期待された計画は、ジョン・クリッテンデン(John J. Crittenden)による、奴隷州から自由に分割するミズーリ妥協線を太平洋まで延長するという提案でした。
脱退を目指している極端な南部人も、苦労して勝ち取った選挙での勝利の報酬を手にすることを目指している共和党員も、妥協には本当に関心がありませんでした。1861年2月4日、リンカーンがワシントンで就任する1か月前に、南部の 6 つの州 (サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、フロリダ、ミシシッピ、ルイジアナ) がアラバマ州モンゴメリーに代表を派遣し、新しい独立政府を樹立しました。テキサスからの代表者がすぐに彼らに加わりました。ミシシッピ州のジェファーソン・デイビス(Jefferson Davis)を首長に、ここにアメリカ連合国(Confederate States of America)が誕生し、独自の本部と部局を設置し、独自の通貨を発行し、独自の税金を上げ、独自の旗を掲げました。いろいろな敵対行為が勃発し、ヴァジニア州が連邦政府を脱退した後の1861年5月に新政府は首都をリッチモンド(Richmond)に移しました。アメリカ連合国の軍隊は南軍と呼ばれます。
American Civil War
こうした南部の既成事実に直面したリンカーンは、就任時にあらゆる方法で南部を和解させる準備をしていましたが、1 つの条件を除いて、合衆国が分裂する可能性があるとは考えていませんでした。彼の決意が試されたのは、次のことでした。すなわち、ロバート アンダーソン少佐(Maj. Robert Anderson)の指揮下にある連邦軍のサウスカロライナ州のサムター要塞(Fort Sumter)の存在のことです。要塞は、当時まだ連邦政府の管理下にあった南部で数少ない軍事施設の 1 つでした。この要塞に迅速に補給するか、撤退させるかの決定が必要でした。閣僚内部での苦悩に満ちた協議の後、リンカーンは南軍が最初に発砲をするとしても物資を送る必要があると判断します。1861年4月12 日、北軍の補給船が窮地に立たされているサムター要塞に到着する直前に、チャールストン(Charleston)の南軍の大砲がサムター要塞に発砲し、戦争が始まりました。
イリノイ大学(University of Illinois)は全米屈指の大学です。日本からも多くの留学生が学んでいます。日本から直行便で12時間、オヘア国際空港(O’Hare International Airport)に着くとそこはシカゴ、イリノイ州(Illinois)です。シカゴ(Chicago)は誰でもが聞いたことのある大都会です。
南北戦争を主題にした小説がマーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)の「風と友に去りぬ(Gone with the Wind)」です。アメリカ南部は綿花栽培が中心。畑には多くのが黒人労働者が使われていました。メイド役の黒人女性マミー(Mammy)が、一人娘の死で打ちひしがれる農場主レット・バトラー(Rhett Butler)を慰めるシーンがありました。帰還する兵士アシュレー(Ashley Wilkes)を見て、スカーレット・オハラ(Scarlett O’Hara)がかけ寄ろうとするのを押しとどめるのはこのメイドでした。
南北戦争が終わり、リンカーンは二分しかかったアメリカを一つにしようと呼びかけた有名な演説をします。後にゲティスバーグ演説(Gettysburg Address)と呼ばれる奴隷解放宣言です。イリノイ州のナンバープレートには「Land of Lincoln」と記されています。
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