誠に根拠が稀薄なのだが、なぜかユダヤ人はずる賢いとか守銭奴といわれてきた。ユダヤ人は周りからそのように仕立てられてきたと、哲学者、サルトルは云う。だがユダヤ人の商取引における傾向とは、銅貨や金貨や紙幣に対する愛着からではない。貨幣のような手にとって確かめられるものは、実は危ういものだということを知っていたのである。このあたりの感覚はユダヤ人の特徴のようだが、なにがそのように敏感にするのかが、筆者にとって驚きなのである。
彼らにとって大事なものは、債券とか小切手とか、銀行預金とかの抽象的なものである。ユダヤ人が執着するのは、金の感覚的なものというよりはむしろ抽象的な形象である。それは誰もが持つ購買力という普遍的なものとされる。購買において、買い手はどのような人種であってもよい。買い手の特質によって商取引が変化することもない。
例えば武器は敵も味方も欲しがる。購買力とはそのようなものである。ユダヤ系のアメリカ人銀行家であったジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)がかつて日露戦争の戦費調達のために、日本の国債を引き受けたり、ロシア革命政府に資金援助したことはそういうことである。物品の値段はどのような買い手にも向けられている。ただ、シフの行動は反ユダヤ主義への抵抗や日本軍の士気の高さがその動機であった点が通常の取引とは異なるようだ。シフのことは後日触れることになっている。
やがて金融資本というのがひろまる。資本主義が帝国主義の段階に入った段階に出現したといわれる。ユダヤ人は、世の中の動きを情報網から正確に集めてきた人種といわれる。19世紀末から20世紀にかけ、資本の蓄積が進行する一方において、ヨーロッパの諸銀行が競争によって淘汰され、少数の巨大銀行が多額の貨幣資本を有する状態となった。株式会社制度の発展とも重なり、産業資本家の持つ産業資本は銀行資本と重なる。銀行資本も産業資本へと転じるようになる。
銀行と企業のつながりは、筆者には複雑だとは思われない。それはそうだろう。銀行はその業務として企業の実態を把握し、人を送り込んで産業を支配する。産業もまた銀行株を所有して銀行経営に携わる。かくて銀行資本は産業資本に転化し、産業資本は銀行資本の担い手となるという構図である。日本でもどこでもこのような現象はみられる。だが、ウェルズ・ファーゴ(Wells Fargo)、ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)、ソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)といった世界規模の企業にいかにしてユダヤ人は発展させたのか、そこが知りたいのである。