やがて愛国主義者の間で対立が始まります。アントノビッチは、専制ロシアと貴族制ポーランドに挟まれたウクライナは真の民主政治を代表しているとし、クリッシュは、コサックは民主的というよりは、無政府的であると主張します。1876年、ロシアは再び学校教育、新聞、書物の印刷にウクライナ語を用いることを禁止します。1876年以降、リビュはウクライナ民族運動の中心となります。リビュはウクライナ南西部ガリツィア地方の中心地です。東ガリツィアは、農村の住民の多くはルーシ人、別名ルテニア人でした。アントノビッチの弟子、ミハイル・グルシェスキー(Mikhail Gruchesky)は「ウクライナ・ルーシの歴史」という書物を出版し、その中でキーウ・ルーシこそがウクライナ・ルーシであると主張します。さらにモスクワの周辺は、ロシア諸国家の中心に過ぎないとも叫びます。
1881年頃、オデーサ(Odessa)などユダヤ人入植者への不当な待遇が起きてきます。この不満が拡大し、ウクライナとロシア南部で広範囲に反ユダヤ暴動が始まります。やがて集団的な略奪や虐殺行為に発展し、この行為はポグロム(Pogrom)といわれます。ポグロムとはロシア語で「破滅させる、暴力的に破壊する」という意味です。ポグロムは、1881年のロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺の衝撃が直接の契機とされますが、農奴解放後の農民の土地不足や貧困、激化する階級対立、ロシア人の宗教的偏見が土台となり、ユダヤ人がスケープゴートとされた悲劇ともいわれます。