心に残る一冊 その121「樅ノ木は残った」 その八 取潰しの全体像

原田甲斐は常着のまま、袴もはかず、編み笠をかぶった姿で長徳寺の門前で茂庭主水と逢います。主水は伊達家重臣で松山の館主、周防定元の子です。定元は甲斐や安芸と共に伊達兵部の陰謀を防ぐために奔走してきたのです。主水もまた単衣の着流しで、やはり編み笠をかぶり、片手に釣箱と餌箱をもっています。
「父は私に遺書をのこしました」と主水は云います。
「それで一度おめにかかりたいと思っていたのです」
「会えと書いてありましたか?」
主水はそこでちょっと口ごもります。
「あなたに悪評が立ち、不審と思えるようなことがあっても、あなたを信じておれ、そして、もしもあなたからなにか頼まれたら一命を賭してやれ、という意味でした」
「父の遺書はどういう意味なのでしょうか?」主水は訊きます。
「話しましょう」

「誰かおります」主水がそういって片方をさします。一人の老人がすっとたちあがります。
「誰だ、」と老人が呼びかけます。
「ここは無用の者がくるところでない、、」
視力は全く失っているようです。甲斐は近寄りながら、穏やかな声で云います。
「久方ぶりだな、十左衛門、わたしだ、」
「船岡どのか」その老人、里見十左衛門が云います。

十左衛門はかつての伊達家家臣です。兵部の専横が強まり、これを批判した奉行家老奥山大学を失脚させます。十左衛門は甲斐を通じて兵部に諫言したため、失脚させられます。伊東七十郎という重臣伊東新左衛門の義弟と友達でした。七十郎は文武両道の才人といわれ、伊達の家来ではありませんでしたが、義兄を助けて十左衛門と共に兵部に敵対してきた男です。

「松山の主水どのが一緒だ」
「ここで話したいことがあって案内を頼んだ、ちょうどいいおりりだ、十左衛門にも聞いてもらうこととしよう」
こうして、二人は甲斐から仙台藩取り潰しの全体像を教えられるのです。
「わたしにはそのまま信じられません」十左衛門が云います。
「ことに仙台藩という由緒ある大藩に幕府が手をつける、などということがあるでしょうか」

十左衛門が納得しかねるのもむりではない、だが、事の起こりから考えてみれればわかる」
「まず綱宗さまにたいする殆ど無根拠な譴責と、跡目をきめるについての難題だ」
「そして同時に、二方面に手がうたれた、一つは酒井候が一ノ関の兵部に与えた三十万石分与の密約であり、もう一つは幕府閣老の某候が、茂庭周防を呼んでひそかにその密約を告げてきたことだ」
「よもや風聞ではごあいますまいな」
「酒井候と一ノ関とで交わした証文があり、仔細あってその一通を私が持っている」
「紛れのないものですか?」
「紛れのないものでだ」甲斐が答えます。
「幕府閣老の某候がひそかに周防を呼んで、そういう密約があることを告げたのだ」
「某候とは誰びとです?」
「名は云えない」
「名は云えないが、将軍家お側衆で、当代十善人のひとりと評された人だ」
十左衛門は俯向くのですが、すぐに「久世大和守、、、」と口の中で呟き顔をあげます。

心に残る一冊 その120 「樅ノ木は残った」 その七 「くびじろ」(2)

「くびじろ」を追いながら甲斐はまず弓を取って弦を張ります。それから音のしないように、手早く食糧を片づけて寝袋に入れ、それをかたく背負いながら、いま鳴き声のしたほうをうかがいます。やはりなにも見えず、なにも聞こえません。
「しかし紛れはない」

甲斐はそう呟いて、雪帽子をかぶり、藪の蔭から、そっと伸び上がってくびじろの通路にあたる山つきの低地を見やります。くびじろは阿武隈川を渡ると、正覚寺山から甚次郎山へぬけるか、谷地をまわってやまにはいり、丘陵へ向かうかのどちらかの通路を通るのがいつもの例でした。こんどは谷地を川上のほうへいったというので、いま甲斐の見張っている場所なら決して見失う心配はありません。

オスジカ                   知床半島 ウトロ森林地帯

甲斐は雪払いの動作を止めて息を呑みます。視野の端になにか動くものの姿を認めたからです。二段ばかり先の枯れ木林の中からすっと一頭の鹿がでてきます。粉雪のとばりのかなたにそれはなんの物音もさせず、幻のようにあらわれ、そこでじっと立ち停っています。くびじろだ、、、、、

鹿がこっちへ動き出したのです。甲斐は弓を持ち直し矢をつがえます。風は北から吹いています。くじびろは風上からこっちへきます。用心深くときどき鼻を上に上げ、周囲をうかがいながら、静かにこっちへ近づいてきます。距離は三十尺、甲斐が立ち上がったとき、くびじろもぴたりと足を止めます。甲斐は弦をひきしぼり、矢の幹がききと爽やかにきしみ、弦はいっぱいにしぼられます。その瞬間くびじろが頭を右に振り、甲斐は矢を射放します。矢はくびじろの肩に当たります。くびじろはするどく叫び、頭を振り躍り上がります。

くびじろは逃げ去ることなく、甲斐のほうに跳躍しながら雪しぶきをあげなが甲斐に跳びかかってきます。甲斐はすぐはね起き、弓を拾い矢をぬいて弓につがえながら向こうを見ます。距離は約四間。呼吸が合って、まさに矢を射放そうとしたとき、弓弦が音をたてて切断してしまいます。くびじろは甲斐に突きかかり、その角で甲斐の軀をはねとばします。甲斐の軀はおおきく跳ね上がれ、雪を被った笹の斜面へ投げ出されます。

甲斐はじぶんの肋骨の折れる音をきき、二間あまり斜面を転げ落ちるとすくに腰の山刀を抜きます。くびじろは斜面を駆け下りてきました。甲斐は立とうとしますが、激痛のためにうめき声をあげ、雪の中に横倒しになります。斜面を駆け下りてくるくびじろのみごとな大角をみながら、甲斐は左の肱で半身を支え右手の山刀の切尖をあげます。視界が一瞬ぼうとかすみます。くびじろは大角をさげ、後肢で雪を蹴たてながらとびかったきます。

心に残る一冊 その119「樅ノ木は残った」 その六 「くびじろ」(1)

「樅ノ木は残った」の主人公、原田甲斐は人間関係の煩わしさを避け、人との距離を上手に置こうとしていたことが伺えます。黙っていると四十五、六に見える歳です。あまりものを云わず、話をするときも饒舌ではありません。稀にしか笑わないところもあります。花を愛で、自然を愛し孤独な時を大事にする性格としても描かれています。例えば、村の娘とともに山小屋にこもって鹿やいのししを狙い続けたり、小さいとき川で釣りをしていたとき大きな鯉に引っ張られておぼれ死にするような一面がありました。その時が最も自由で人間らしく幸せだったかのようです。

「くびじろ」とは地元の人々がつけてい大きな鹿の呼び名のことです。猟小屋に籠もっていたときです。弓や矢の手入れをしているととき、粉雪といっしょに三人の娘が入ってきます。三人はそれぞれ手籠や角樽、重箱の包みを並べます。会話とともに小屋の中での小さな宴を始めます。そうしているうちに、娘たちのなかで鹿の話になり、娘の一人、きよきが云います。
「くびじろをみつけただべが、」
「くびじろだって、、」甲斐が顔をあげます。
「おら、滝沢の瀬で見たです」

そのとき、この小屋の表で人の声がして、外から引き戸があけられます。粉雪が舞い込み片倉隼人と与五兵衛という甲斐の家臣が入ってきます。
「若い牝鹿がさきに渡り、あとからくびじろが、それを追って渡ったです」
「西からか東からか?」
「東からこっちへです」

与五兵衛は云います。「殿様、くびじろはなりませんぞ」
「おれにかまうな!」甲斐が云います。
「くびじろはだめです、」と与五兵衛は繰り返します。
「あれは十五歳にもなる豪のもので、これまで大猪を二頭殺し、熊を一頭傷つけ、どんなに老練な猟師でもあれにだけは手を出しません」とい云います。
「くびじろは谷地へはいったか」
「谷地を川上のほうへいったようです」きよきは云います。

会話が終わると三人の娘は帰り支度をします。甲斐は夜の明けるまえに細谷という部落の山の中で横になります。甲斐は藪蔭を選んで斜面のほうを頭にし、寝袋のなかにすっぽりと軀をいれ、食料の包みを枕にしてじっと眼をつむっています。

甲斐は心の中で呟きます。けものを狩り、樹を伐り、雪に埋もれた山の中で、寝袋にもぐって眠り、一人でこういう食事をする、そして欲しくなれば、ふじとやなおこをこのようなむすめたちを掠って馬草のなかで思うままにねる、それがおれの望みだ、四千石の館も要らない、伊達藩の家格も要らない、自分には弓と手斧と三刀と、寝袋があれば充分だ、それがいちばんおれに似合っている、と呟くのです。

心に残る一冊 その118 「樅ノ木は残った」 その五  毒殺計画と分割

大老酒井雅楽頭と組んで仙台藩分割を目論む伊達兵部宗勝は、仙台藩四代目藩主幼君の亀千代の毒殺を図るが失敗します。かつて甲斐の家臣であった塩沢丹三郎が亀千代の「鬼役」といわれる毒見役を買って出て毒にあたり殉死します。

事件のあった夜、兵部の江戸屋敷に駆けつけた甲斐は告げます。「きょう、亀千代ぎみのところで食中毒があったと聞き及びました」すると兵部は我が耳を疑いながらこう云います。
「今なんと申した、食中毒と申したか?」

亀千代毒殺計画は主君亡き後の仙台藩を乗っ取ろうとする兵部の仕組んだ陰謀でした。既に口封じも兼ね毒をもった医者を切腹に処した後だけに、このような思いもよらぬ甲斐の言葉を聞き、この男は信用に価する男だと思ったのです。もちろんこれも甲斐の芝居で、自分は兵部の味方であると思わせるゆえの策略でした。

実は甲斐は酒井雅楽頭邸に間者を送り込もうとします。中黒達弥です。甲斐はあることで切腹しようとしていた家臣の達弥にこう云います。
「人間死ぬのは簡単だ。生きることのほうがずっと大変だ」
「…」
「そちの命を私にくれぬか?」
主君のこの問いに達弥は武士らしく一言「承知しました」とだけ答えます。

酒井雅樂頭と伊達兵部が取り交わした仙台藩分割の証文を奪取すると言うのは極めて危険な仕事でありました。その証文さえあれば伊達騒動の内幕を総て白日に晒す事ができます。達弥は原田甲斐の命令で、名を中黒達弥から黒田玄四郎に変えて酒井雅樂頭の家臣となり酒井邸で勤務することになります。雅樂頭の家臣になったとはいえ、邸内の隅から隅まで歩き回れる自由はありませんでした。

幸い、滝尾という奥女中が雅樂頭と兵部が取り交わした証文が存在する事を教えてくれるのです。玄四郎は滝尾を使って雅楽頭と兵部の密約書、すなわち仙台藩内紛不祥事を理由に伊達六十二万石を召し上げ、兵部に半分の三十万石を与えるとの書状を盗み出すことに成功します。書状の内容は明らかに雅楽頭と兵部の著名が確認できるものでした。滝尾は玄四郎を私かに心を寄せていました。これで流れが甲斐の側に優位に傾くことになります。

老中の久世大和守と大老の酒井雅楽頭が密談します。この密談の前に久世大和守の屋敷を訪ねた甲斐はこの密約書を久世候に見せ、雅樂頭と兵部の企みを暴いていました。格上の大老に「このような私利が絡んだ場合、そこもとの大義が立たなくなる」と久世大和守は雅樂頭に詰め寄ります。その厳しい表情には、例え誰だろうが筋の通らないことはまかりならぬという不動の信念と毅然たる態度があらわれていました。

心に残る一冊 その117 「樅ノ木は残った」 その四  宇乃と甲斐

「樅ノ木は残った」には二人の特徴的な女性が登場します。一人は「おくみ」であり、もう一人は「宇乃」です。伊達家の家臣の一人、畑与右衛門の娘が宇乃です。与右衛門は汚名を着せられて上意討ちとなります。宇乃は、かつては甲斐の母であった慶月院の側に仕えました。甲斐は宇乃の後見人のようになり、成長を見守っています。「おじさま」と呼びながら甲斐に心を通いあわせています。

甲斐の屋敷は東新橋の芝口などにあります。上屋敷とか浜屋敷とよばれていたようです。藩主や家臣が住み政務をとるところです。愛宕下付近にあったのが中屋敷で藩主の妻や嫡子らが住むところです。下屋敷とか蔵屋敷もあったようです。妻の律は国許である宮城は柴田の船岡にいますが、甲斐とは不仲になっています。後に離縁されます。

甲斐と宇乃が樅ノ木について語ります。
「私はあの木が好きだ」
「船岡にはあの木がたくさんある」
「樅だけで林になっている処もある」
「静かなしんとした、なにもものを云わない木だ」
「木がものを云いますの?」 宇乃が訊ねます。
「宇乃はしらないのか」
「木はものを云うさ、木でも石でも、、みんな古くなるとものを云う」
「いまに宇乃が船岡へいったら木がどんなにものを云うか、わたしが教えてあげよう」

中屋敷では麻疹で苦しむ息子虎之助が寝ています。二人はしばし昔話などをしています。甲斐は障子をあけて廊下にでます。そこに宇乃が佇んでいます。両袖を胸に重ねて身動きもせず、雪の舞しきる庭のひとところをみています。
「なにを見ている」
「ああの樅ノ木に雪が積もっています」
「わたしは明日、船岡に帰る」

すると宇乃が彼のほうへくるりとむきなおり、大きく見開いた眼でまっすぐに彼を見上げます。その眼は見開いたままで、たちまち涙でいっぱいになりります。
「おじさま、、」宇乃はそう云って衝動的に両手で甲斐を抱きしめるのです。

心に残る一冊 その116 「樅ノ木は残った」 その三  おくみと甲斐

甲斐の江戸の別宅は上野の近くの湯島にありました。江戸の海産問屋である雁屋信助が原田家の回米を受け持つこととなり、信助は日本橋の石町の家に甲斐を招待します。米の回送で雁屋は繁昌します。そのとき給仕をしたのが信助の妹おくみです。一目で甲斐にひきつけられ、信助はまた妹が甲斐に気に入られたと思い込みます。信助は甲斐に心服していました。

「保養のために控え家を持ってはどうか」と信助は甲斐にすすめ、自分の費用で湯島の家を手に入れます。そして「お側の用をさせてくださるよう」と云っておくみをつけたのです。

この別宅を大老酒井雅楽頭が訪れたときです。甲斐はこの時身分を偽り浪人の身であると雅楽頭に告げるのですが、この嘘は見え見えでした。雅楽頭は八十島なる人物が原田甲斐であるのを見抜いていたのです。しかしあくまでも甲斐は偽名を使い「それがしは浪人八十島で御座います」と述べるのみでした。
この時、甲斐は時の最大権力者酒井から直につかわされた盃を受けようとしません。
「ここはそれがしの屋敷です。例えどなた様のお勧めでも盃はお受けできません」

甲斐のこの振る舞いは、酒井や兵部一味に取りこまれることを避けたうえでのものでした。甲斐のこの言葉に雅楽頭の顔がぱっと赤くなります。この場で無礼討ちにしても不思議ではありません。その時、二人の間に酌をしていたおくみが割って入ります。
「その盃、わたしがお受け致します」

おくみの器量の良さと良妻ぶりのような仕草に、さすがの雅楽頭もかろうじて冷静さを取り戻すのです。そして云います。
「そちたちはいい夫婦だ」

雅楽頭が帰ると、甲斐とおくみは次のような会話を交わします。
「どうしてあんなに強情をお張りになさいましたの」
「強情だって、、」
「お盃ですわ、どうしてあの盃をお受けにならなかったのですか、」
「候は怒りはしない」
「あたしあの盃をお投げになるかと思いました」
「えらいな」
「ですからあたしいそいで頂戴したんですわ」
「いい呼吸であった」

甲斐は頷いて、おかげで酒井候は命びろいをしたよ、と云います。
「どういうわけですの?」
「舎人と丹三郎がいるのを忘れたのか」
「わたしが辱められれば二人は黙っていない、必ず候に斬りかかる」
「もっとも、わたしはそれを待ってはいないがね」

甲斐は頭巾をかぶり立ち上がります。おくみはにわかに別れが惜しくなり、袖や袴の裾などを直しながら、また逢うことの約束をせがむのです。

心に残る一冊 その115 「樅ノ木は残った」 その二 伊達家分断の密約

やがて原田甲斐は、伊達兵部宗勝の推挙で国家老につきます。陸前にある金鉱山が、藩内の権力を欲しいままにする兵部宗勝に加えられます。その領分の中に伊達家の金山も含まれていました。その鉱山から産する金は兵部に属するか伊達本藩に属するかという問題が生じます。甲斐は、「その所領にあるものは領主に帰属する」と兵部に有利な評定をします。

甲斐の判断は安芸宗重、柴田外記といった伊達家重臣には不利なものでした。彼がこうした裁定を下したのは、藩内の紛争を表立てしたくないという意図がありました。もし係争が幕府に持ち込まれれば内政紊乱の口実により、伊達家の存立を危うきものとすると考えたのです。周りには甲斐の態度は煮え切らないもどかしい人物に映り、不満や疑心が高まり側近は去っていきます。甲斐は四面楚歌のような状態に置かれていきます。

甲斐はやがて、幕府の大藩お取り潰しという基本政策があることを知ります。手始めに伊達藩が目をつけら、しかも御家内のゴタゴタと見せかけての謀略であることを察知します。それゆえ、家中のいかなる紛争も幕府に提訴させることはあってはならないと考えます。甲斐は外様大名であった加賀藩や薩摩藩との連衡の可能性を探るのですが首尾良く運びません。

伊達兵部宗勝が藩体制を良からぬ方向に持っていこうとしているのを知り、甲斐は兵部の懐に潜り込んで兵部派になりすまし、取潰しの計画を食い止めようと考えます。甲斐はたまたま兵部と彼の両方に情報を売り込みにくる野心家の浪人柿崎六郎兵衛より、幕府老中酒井雅楽頭忠清と兵部との間に交わされた六十万石分断の密約証文があることをききます。柿崎六郎兵衛は兵部から金銭をもらい道場を開いていました。

伊達家の家臣、里見十左衛門が兵部弾劾九カ条をあげて国老を詰問するという事態も起こります。しかし、兵部暗殺計画ということが密告され、同家臣の伊東七十郎とともに捕縛され刑死します。甲斐の意向をうけ、原田家を出奔して雅楽頭邸に勤めていた家従の中黒達也が、雅楽頭と兵部が密契していた三十万石分与の証文を得ます。

伊達安芸宗重と伊達式部宗倫との間で領地の境界で紛争がおこります。安芸重は、「式部の領地侵入は「堪忍なり難く」と幕府に訴える所存であるから、老中評定の場で酒井と兵部の密約証文をつきつけて欲しい」との書状を甲斐に書きます。甲斐は安芸をなだめますが、安芸は決死の覚悟で供を揃えて出府します。甲斐は、伊達家分断の密約が取り交わされたことを家老首席の茂庭周防に洩らします。甲斐はさらに将軍側衆の久世大和守を訪ね、密約証文を見せて伊達藩の安堵を頼むのです。

心に残る一冊 その114 「樅ノ木は残った」 その一 原田甲斐

山本周五郎の傑作といわれる「樅ノ木は残った」のつかみ所などを、僭越とは承知で私なりに数回にわたって解説させていただきます。六十万石という大大名で外様藩である仙台藩、別名伊達藩が江戸幕府のお取り潰しの策謀とで、生き残りをかける歴史小説といってもよい内容です。

原田甲斐は、仙台藩家臣で宮城県柴田郡柴田町の館主四千二百石でした。国老に就任できる筋目の家柄で四十二歳にてようやく評定役の一員にすぎませんでした。甲斐は、原田家の当主として伊達藩家臣団に組み込まれていますが、権勢を求めず、奥羽山脈に抱かれた船岡の居館において「朝餉の会」という気の合う仲間との懇談を楽しみとし、穏やかな日々を過ごしていました。舘において保護をしている宇乃は、甲斐の母親であった慶月院の側に仕えます。慶月院はかつては甲斐を厳しく育て女丈夫といわれました。

万治三年というと1660年です。仙台藩第三代藩主である伊達綱宗は、幕府より与えられていた浜屋敷にいました。現在の港区東新橋のあたりです。綱宗は幕府からかねがね不作法の儀不届との理由で、突然閉塞蟄居を命じられます。江戸の吉原での放蕩三昧が理由とされますが、非難されるほどの遊興の覚えではなく、藩内の権力争いによるでっち上げでありました。

国家老首席の茂庭周防は幕府に対して、綱宗の長子亀千代を世継にと願いでます。そしてようやく、僅か二歳の亀千代が藩主となります。幼君の後見役として一門の大名で、伊達政宗の末子であった伊達兵部宗勝が任命されます。その夜、坂本八郎左右衛門、渡辺九郎左右衛門、畑与右衛門、宮本又吉のもとへ訪問客があり、上意討ちとの名で誅殺されます。吉原に同行したという畑与右衛門らの口封じのためです。ところが、伊達当主は不在であって、上意討ちを命じるものはいなかったのです。これを幕裏で指示したのは、兵部宗勝でありました。畑与右衛門の妻も暗殺されますが、かろうじて逃げ延びたのは娘の宇乃でした。

甲斐は庭にある樅の巨木の孤高を語ります。「私はこの木が好きだ。この木は何も語らない。だから私はこの木が好きだ」。宇乃は甲斐が、樅ノ木に己の生き様を重ね合わせているように思えます。

上意討ちという暗殺事件で開かれた評定役会議で、予告なしに出席した兵部は、暗殺者たちを不問にすべきと強引に弁護します。世間では、この一件の裏に大名家の取り潰しや弱体化を画策する幕府の思惑が働いていると噂が流れます。

事態は紛糾していきます。国家老の一人、奥山大学が首席の茂庭に代わろうとする策動、新たに兵部に加えられた領分に陸前の金山があり、産金は兵部に属するか、伊達本藩に所属するかの紛争もでてきます。さらに兵部に亀千代毒殺の謀略があるとも噂されます。

心に残る一冊 その113 「小説日本婦道記」 その十一 「二十三年」(2)

怪我で運ばれてきたおかやを治療した医者は云います。
「崖から落ちたときに頭をうったのが原因でござろう」
「口が利けなくなったのもそのためで、悪くするとこれは生涯治らぬかもしれん」

医者が去るとまもなくおかやは起き出します。そしてしきりに靭負の息子の牧二郎を背負いたがるのです。四国松山に発つための支度のできている荷物を持ち出して「ああ、、ああ、、」と外を指さします。すぐに旅立っていこうという仕草です。思いがけない奇禍で白痴になってさえ、松山へ供をしてゆく積もりです。

  「おかや、、」靭負は側に立って呼びかけます。
「、、、いっしょに松山へ行こう、おまえにはずいぶん苦労をかけるが、松山へ行って治ったら新沼から嫁に遣ろう」
「もし治らなかったら一生新沼の人間になれ、わかるか?」
おかやはけらけらと笑います。

おかやの兄、多助は云います。
「ただ、こんなお役に立たぬ者になり、また遠国のことでなにかあってもお伺いすることができません」
「どうか呉々も宜しくお頼みします」

松山への旅の途中、おかやは考えたより足手まといにはなりません。却って役に立つのです。口が利けないのと、物事の理解が遅鈍なだけです。靭負の身の回りや牧二郎の世話には欠けるところがありません。「もしおかやを伴れてこなかったら、、、」靭負はしばしばそう思うのです。

松山に着きます。然し伊世松山藩、蒲生家の老職からは、予想外の冷ややかなあしらいを受け仕官の道が絶たれます。靭負は道後村に居を定め収入の途として、道後名物の土焼きの人形づくりを始めます。それからひどい暮らしが何年も続きます。

蒲生氏のあとに隠岐守松平定行が松山に封ぜられてきます。彼は靭負が会津蒲生の旧臣であり、松山にきた目的など仔細に知っていました。そして松平家に仕官する気がないかを尋ねてきます。食録も会津の旧扶持だけは約束するというものです。靭負は仕官を決意します。牧二郎は十六歳になり学問や武芸に励み二十歳で召し出されて父とは別に百石の役料をもらいます。

やがて靭負は五十三歳で亡くなり、牧二郎が跡目を継ぎます。そして菅原いねという娘を娶ります。祝言の夜、四十三歳となったおかやを呼んで対座します。
「おかや、牧二郎もこれで一人前になった、今日まで二十三年、新沼家のためにおまえの尽くして呉れたことは大きい、、」
「明日からは妻がお前に代わる」
「おまえは牧二郎にとって母以上の者だ、」
「妻のいねにも、お前を姑と思って仕えるように云ってある」
「明日からおまえは新沼家の隠居であるぞ、、、」

牧二郎はじっとおかやの眼を見つめます。そして云うのです。
「だから、おかや、おれはお前に白痴の真似をやめて貰いたいのだ、」
おかやは顔色を変えます。
「おまえは白痴でも唖者でもない、おれはそれを知っているんだ、、」
牧二郎は激してくる感情を抑えながら云います。おかやは驚愕の余り身を震わせて大きく眼を見張り、坐りなおしてうつ伏します。

心に残る一冊 その112 「小説日本婦道記」 その十 「二十三年」(1)

小説日本婦道記にある最後の作品「二十三年」は1945年10月の「婦人倶楽部」に掲載された作品といわれます。この雑誌は講談社から創刊され、「主婦の友」や「婦人公論」と並んで読まれたといわれた月刊誌です。

主人公は、新沼靭負という会津蒲生家の武士です。”靭負”は”ゆきえ”と呼ばれます。靭負は御蔵奉行に属し、食録は二百石余りでした。まじめで謹直なところが上からも下からも買われて、平凡ながら極めて安穏な暮らしをしてきます。しかし、主家の改易があり、下野守忠郷が病没すると嗣子がないことが原因で会津蒲生家は改易となります。多くの者は寄る辺を頼り、また他家へ仕官して、思い思いに城下から離散していきます。1611年に起こった会津地震も藩内を大きく揺さぶります。

   下野守の弟にあたる蒲生忠知が伊予の国松山藩で、二十万石で蒲生の家系をたてているというので、会津藩の人々は松山藩に召し抱えられたいと希望します。靭負もその中の一人です。靭負は妻のみぎを亡くし乳飲み子を抱えています。貯えも多くはないので、家士や召使いには皆暇を遣りますが、「おかや」という婢は独りどうしても出て行きません。おかやには両親はいませんが、兄の多助はおかやに度々、良縁があるからお暇を頂くようにと云ってきます。おかやはまだ早すぎると答えるばかりです。

仲間が欠けていくのを見送りながら靭負は独りで松山に行くことに決めます。
「松山にお供させて頂きます」 とおかやは云います。

仕官の見通しもなく、浪人の身で給金さえ遣りかねるときがくるといって靭負はおかやへ家へ帰るように云います。
「ではせめて坊さまが立ち歩きをなさるようになるまで、、、」
靭負は多助に家に戻るよう申し訓えてくれるように頼みます。多助の訓が功を奏したのか、おかやは案外すなおに云うことをききます。靭負は牧二郎を抱いておかやと多助が出て行くのを見届けます。しかし、おかやは八幡様の崖の下で倒れているのが見つかり、戸板に乗せられて靭負の家に運び込まれます。医者は「脳の傷みがひどく、ひと口でいえば白痴のようになっている」と云います。