ナンバープレートから見えるアメリカの州ニュージャージー州・Garden State

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ニュージャージー州(New Jersey)のナンバープレートには、自然豊かな地を示す「ガーデンステート」(Garden State)とあります。平等の州 (Equality State)とか、なぜかカウボーイ州 (Cowboy State)というニックネームを持っている州です。

License Plate of New Jersey

ニュージャージーは、ニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)の対岸、そしてデラウエア(Delaware)の北東、西はペンシルバニアに接しています。州都はトレントン(Trenton)となっています。ニューヨークの隣なので、多くの人が電車で通勤しています。フィラデルフィアもそうです。最大都市はニューアーク(Newark)でアトランティック・シティ(Atlantic City)は東海岸随一のカジノシティ(Casino City)として知られています。その向かいにはマンハッタン(Manhattan)が見えます。現在は最も都市化が進み、混雑した州の一つでもあります。しかし、北東部の都市の密度は、北西部の険しい丘陵地帯、南東部の広大な松林(pine forest)、および州南中央部の起伏に富んだ緑豊かな馬の国とははっきりと対照的です。ニュージャージー州は重要な産業の中心地ですが、環境汚染、汚れと騒音、渋滞した道路やスラム街という代償を払ってきました。ニュージャージー州は、都市と田舎、貧しいものと裕福な人、保守的なものと進歩的なもの、偏狭なところと国際的なものが奇妙に混ざり合っています。そのようなわけで、合衆国の中で最も多様性を示す州の一つといわれています。

独立戦争と南北戦争の間に、運河や後の鉄道建設に後押しされ、著しい工業化が進みます。18世紀に農業が盛んだったことからガーデンステートと呼ばれるようになりましたが、経済は主に製造業が中心で、多くの研究施設や研究所が位置しています。アトランティック・シティに代表される観光業も重要な経済となっています。

Map of New Jersey

ニュージャージー州の歴史です。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つでもあり、その歴史は古いです。ヨーロッパの植民地化以前、この地域にはデラウェア(Delaware)インディアンの部族が住んでいた。ジョヴァンニ・ヴェラッツァーノ(Giovanni Verrazzano)とヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)によって発見されたのですが、最初に入植したのはオランダとスウェーデンの商人たちでした。

やがてイギリスのジャージー島(Jersey Islands)からの移民が増加し、1649年に名前がNew Jerseyとなります。そこから長らくイギリスの植民地となります。独立戦争の頃、ニュージャージーは依然としてイギリスの支配下にありました。植民地軍とイギリス軍がこの州をまたいで大きな戦いが繰り広げられます。1776年、ジョージ・ワシントン将軍がデラウェア川を渡った後に率いた戦いを含め、アメリカ独立戦争ではトレントンとプリンストン(Princeton)の戦いなど数々の戦いの舞台となりました。そのため、州のニックネームはやがてThe Crossroads of the Revolution(革命への交差路)といわれます。

Capitol of New Jersey

ニュージャージー州の地域で最も特徴的なのは、200kmにも及ぶ長い海岸線です。その大部分は、浅瀬(lagoons)によって本土から隔てられ、また潮の入り江によって互いに隔てられている細長い防波島で構成されています。州の南端にあるケープ メイ(Cape May)は、国内で最初の避暑地の1つであり、そのコミュニティとモンマス郡(Monmouth)のロングブランチ(Long Branch)はどちらも19世紀には大統領の休養地として知られました。有名なザ・ショア(The Shore)と呼ばれるところは、アズベリー・パーク(Asbury Park)の都会的な派手さから、ディール(Deal)やマントロキング(Mantoloking)の豪華な地域として良く知られています。

State House

ワイルドウッド(Wildwood)やアトランティック・シティなどのリゾートでは、ナイトライフが楽しめますが、アバロン(Avalon)、オーシャンシティ(Ocean City)、ビーチヘブン(Beach Haven)などの他の海辺の町は家族向けのリゾートです。家族向けのジャージー・ショア(Jersey Shore)は、ゲートウェイ国立保養地(Gateway National Recreation Area)の一部であるサンディフック(Sandy Hook)と南の州立公園であるアイランドビーチ(Island Beach)の2つの公園で見ることができます。その辺りの砂丘は粗くてもろい草で覆われており、ミサゴ(osprey)がそこに巣を作っています。湿地には野生生物が生息し、木々は風や塩水しぶきによってねじれています。ニュージャージー州の5分の2以上が森林なのです。

State Bird, Goldfinch

ニューヨーク市都市圏の北東部5つの郡には、ニュージャージー州の人口のほぼ5分の2が含まれています。州の6つの最大都市のうち、ニューアーク、ジャージーシティ(Jersey City)、パターソン(Paterson)、エリザベス(Elizabeth)の4つがそこにあります。 ニューアーク、ハドソン郡、エリザベスの複合施設は、多くの旅行者にとっては商業生活で活気に満ちた、果てしなく続く工業都市のように見えます。

Thomas Edison

ニュージャージーが生んだ有名な人物としてトーマス・エディソン(Thomas Edison)が挙げられます。電球や蓄音機を発明し、生涯で1,093の特許登録をしたといわれます。学校教育はたったの3か月しか受けず、残りはホームスクールで学んだ人です。12歳までに聴力をすっかり失っています。余談ですが、私たちがジャージーと呼んでいる服は、ジャージー島で17世紀以来作られてきた漁夫のシャツに由来しています。
(投稿日時 2月29日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州デラウェア州・The First State

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デラウェア州(Delaware)の紹介です。合衆国の建国に関わった13植民地のうちで最初に憲法を批准したのがデラウェア州です。1787年のことです。ナンバープレートには「First State」とか「Centennial State」と誇るように記されています。デラウェア族が住んでいたことからこの州名がつけられます。

License Plate of Delaware


デラウェアですが東はニュージャージー州、北はペンシルバニア州、西はメリーランド州と接しています。東海岸のチェサピーク湾(Chesapeake Bay)とデラウェア湾に面し、ロードアイランド州(Rhode Island)に次いで2番目に面積が小さい州です。州都はドーバー(Dover)です。

デラウェア州における先住民の歴史に少し触れます。デラウェア州は、ヘンローペン岬(Cape Henlopen)からロングアイランド(Long Island)西部までの大西洋岸を占領したアルゴンキン語(Algonquian)を話す北米インディアンの連合でした。植民地化される前は、彼らは特にデラウェア川流域に集中しており、この流域にちなんで連合が名付けられました。しかし、デラウェア族は伝統的に自分たちを「本物の人々」(real people)を意味するレナペ(Lenape)とかレニ・レナペ(Lenni Lenape)と呼んでいました。

Map of Delaware

伝統的に、デラウェア州は主に農業に依存しており、狩猟と漁業も経済への重要な要素でした。夏の農村地域には数百人が住んでいて、冬には小さな家族の集団が僅かの領土を旅して狩りをしていした。デラウェア州の人々は、母系に基づく3つの氏族のいずれかのメンバーでした。ロングハウス(longhouse)と呼ばれるグループが自治コミュニティの中核を形成していました。

デラウェア族はウィリアム・ペン(William Penn)に最も友好的なアメリカ先住民でした。ペンは宗教家でクエーカー教徒であり後にペンシルベニア植民地総督を務めた人物です。デラウェア族は悪名高いウォーキング・パーチェス(Walking Purchase)という条約によって報酬を得ます。この条約の文書は署名がないか、承認していないが、あるいはあからさまな偽造であったといわれています。条約は、レナペ族の土地を収奪し、イロコイ族(Iroquois)に割り当てられた土地への定住を強制するものでした。やがてヨーロッパの植民者に侵略され、1690 年以降はイロコイ族に支配された彼らは段階的に西に流れ、オハイオ州のサスケハナ川(Susquehanna)、アレゲニー川(Allegheny)、マスキンガム川 (Muskingum)、インディアナ州のホワイト川(White River)に逗留します。

Fort Delaware

60年間の避難生活を経て、オハイオ川の向こうに住むデラウェア州の人々は部族同盟を再燃させ、イロコイ族からの独立を主張し、進入してくる入植者に抵抗していきます。彼らはフレンチ・インディアン戦争(Frenchi-Indian War)でイギリスの将軍エドワード・ブラドック(Edward Braddock)を破り、当初は独立戦争では北軍を支援するのです。1795年のグリーンビル条約(Treaty of Greenville) で、彼らはオハイオ州の土地を譲渡し種族の多くは散り散りになります。1835年までに一部はカンザスに再び集ますが、ほとんどは186 年にオクラホマ州に移されます。21世紀初頭のデラウェア州の子孫の数は16,900人以上でした。

Delaware Beach

デラウェア最初の白人定住地は、1638年にスウェーデン人がフォート・クリスティーナ(Fort Christina)、現在のウィルミントン(Wilmington)に築きます。1655年にニュー・スウェーデン(New Sweden)は、ニュー・アムステルダムのオランダ軍(Dutch of New Amsterdam)に、1664年にはイギリス軍に占領されてしまいます。その後、デラウェアは1682年にウィリアム・ペンに割譲されるまでニューヨークの一部でした。

1704年に独自の議会が認められたものの、1776年まではペンシルベニア州が統治していました。1787年に合衆国憲法を批准した最初の州であり、全米で2番目に小さいのですが、人口密度は最も高い州の一つとなっています。主要産業は化学製造業で、次いで食品加工業となっています。デラウェア州で最も重要な交通幹線はチェサピーク・デラウェア運河(Chesapeake Delaware Canal)で、外洋航路のために水深が深くなり、フィラデルフィア(Philadelphia)とボルチモア(Baltimore)間の水路が短縮されます。

State Park of Delaware

デラウェア州で有名なのは、大財閥企業デュポン・ド・ヌムール社(DePont de Nemours)であす。フランスの貴族ピエール・デュポン(Pierre DePont)が州最大の都市ウィルミントンに火薬工場を作り、やがてアメリカ有数の化学企業となります。ついでに「Pierre」とはギリシャ語で「石」という意味です。英語ではPeter、スペイン後ではPedroと発音されます。

この州には多くの法人が登録されています。法人税が安いため籍だけを置く会社が多いというのです。アメリカならではの話題です。
(投稿日時 2024年2月28日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州テネシー州・Volunteer State

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テネシー州(Tennessee)のナンバープレートには「Volunteer State」とあります。米英戦争の時代、1815年のニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)で志願兵が傑出した働きをしたと記録されています。この戦いでイギリス軍を破り、ルイジアナやテネシーが植民地から解放されていきます。「Volunteer State」のフレーズはそれに由来しています。

License Plate of Tennessee

16~17世紀にスペイン、フランス、イギリスの探検家たちがこの地を訪れたとき、チカソー族(Chickasaw)、チェロキー族(Cherokee)、ショーニー族(Shawnee)などの原住民が住んでいました。最初の定住は1770年頃で、1785年までノースカロライナ州の一部でしたが、入植者たちが分離独立し、自由州フランクリン(Franklin)が形成されます。ノースカロライナは1789年に領有権を放棄し、テネシーは1796年にアメリカ合衆国16番目の州となります。1861年に連邦(Union)から離脱し、南北戦争の激戦地となったシロー(Shiloh)、チャタヌーガ(Chattanooga)、ストーンズ・リバー(Stones River)、ナッシュビル(Nashville)の戦いがここで起こります。

テネシー州名の由来です。18世紀初頭、イギリス人交易業者がモンロー郡(Monroe)で「タナシ」(Tanasi)というチェロキー族の町に出くわしたことが原型のようです。州境でケンタッキー州、ミズーリ州、ヴァジニア州など8つの州と接しています。最大の都市はメンフィス(Memphis)ですが、州都はナッシュビル(Nashville)となっています。「チュチュトレイン」のチャタヌーガ(Chattanooga)もこの州にあります。産業では、タバコ、綿花、そして大豆などの農産物が有名です。

Map of Tennessee

18 世紀に多くの数のヨーロッパ人が現在のテネシー州に移住し始めました。この地域にはすでにさまざまな先住民族が住んでおり、注目すべきは西のチカソー族(Chickasaw)と東のチェロキー族(Cherokee)です。しかし1830年代、ほとんどの先住民は州を離れ、いわゆるインディアンカントリー(Indian Country)と呼ばれたオクラホマ州の居留地に移住することを余儀なくされます。そのような理由で今日、ネイティブアメリカンは人口のほんの一部にすぎません。

最初のヨーロッパ人入植者は主にスコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先でした。ドイツ人も多く含まれていました。ヨーロッパ人はアフリカ系黒人の奴隷を連れてきましたが、19 世紀のテネシー州中西部での綿花栽培の拡大により、黒人の人口は大幅に増加します。しかし、20世紀になると、多くのアフリカ系アメリカ人がテネシー州を離れ、相当数の白人アメリカ人がテネシー州に移住してきます。21 世紀初頭、テネシー州の人口の約5分の4は白人で、約6分の1はアフリカ系アメリカ人となりました。

テネシー州には、1770年代の白人入植時にこの地域に定住していたチェロキー族とチカソー族を中心としたネイティブ アメリカンの豊かな伝統が息づいています。スモーキー山脈(Smoky Mountains)地域に住んでいたチェロキーは、白人の侵入にもかかわらず、テネシー州東部に独特の遺産を残しました。辺境の課題に対応して、テネシー州の白人入植者は強い独立した姿勢を示し、それがしばしば州政や国政に現れていきます。1812年の南北戦争の英雄であり、第7代アメリカ合衆国大統領であるテネシー州のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)は、1830 年代の民主党を庶民の党へと導きます。1840年代にテネシー州出身で合衆国の大統領となったジェームス・ポーク(James K. Polk)も同様です。南北戦争と独自の再建によって大きく分断されたテネシー州は、強固な民主党南部の一部となりますが、多くの地域では豊かさや魅力の面で他の州より遅れていました。19 世紀後半の実業家の夢は、第二次世界大戦と中央政府の支出によって新たな種類の産業活動が促進され、20世紀後半に実現していきます。

Smoky Mountains

1929年10月24日、通称暗黒の木曜日(Black Thursday)にアメリカで起こった株式市場の暴落で始まった世界恐慌で、失業者の雇用を生み出す必要が起こります。そこで1933年にテネシー川流域開発公社(TVA)が設立されます。これがテネシー計画(Tennessee projects)です。TVAは理事会によって統治される公開企業でテネシー川の流域全体を管轄し、アラバマ(Alabama)、ジョージア(Georgia)、ケンタッキー(Kentucky)、ミシシッピ(Mississippi)、ノースカロライナ(North Carolina)、テネシー、バージニア(Virginia)の7つの州の一部をカバーしていきます。

ニューディール政策(New Deal)の主要な公共事業プロジェクトの1つとして議会によって設立されたTVAは、地域の慢性的な洪水を制御するためのダムシステムを構築し、航行を改善するために水路を深くし、川沿いの港湾施設の開発を進めていきます。このプロジェクトにより、川の交通量が大幅に増加し、安価な電力が供給され、慢性的に低迷していた地域経済の産業発展が促進されるのです。

TVA計画

テネシーはカントリーウエスタン(Country Western)の発祥の地です。エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)もここの出身。彼が主に音楽活動を行ったのがメンフィスです。ナッシュビルにも沢山の南部のライブを楽しめるところがあります。その響きはBluegrassと呼ばれるアコースティック音楽のジャンルです。演奏にはギター、マンドリン、フィドル(ヴァイオリン)、ギターなどの楽器が使われます。アパラチア南部に入植したスコッチ・アイリッシュといわれる北アイルランドやスコットランドから移住した人たちの伝承音楽をベースにしているようです。

Bluegrassはアップテンポの曲が多く、楽器には速弾きなどの即興演奏(インプロヴァイズ)もあります。もちろん、ブルース感を表現する弾き方やハーモニーにも特徴があります。ナッシュビルへ行ったら必ず本場のBluegrassを楽しむべきです。戦後大いに流行った恋の歌にテネシーワルツ(Tennessee Waltz)があります。歌っていたのはパティ・ページ(Patti Page)で、日本では江利チエミが歌っていました。懐かしいですね。

さらにTVAによってもたらされた豊富な電力を活かしたマンハッタン計画(Manhattan Project)が推進されます。東テネシーは核分裂中性物質の生産と分離を行う拠点となります。その場所としてオークリッジ(Oak Ridge)が選ばれ、オークリッジ国立研究所(Oak Ridge National Laboratory)が 建設されます。この研究所では、基礎研究から応用の研究開発まで、多方面にわたって活動が始まります。クリーンで豊富なエネルギーの研究、自然環境の保全の研究、安全保障に関する研究などです。そのお陰でオークリッジの町は経済や文化で重要な役割を果たしています。

Patti Page


アパラチア山脈を中心とするグレート・スモーキー山脈国立公園(Great Smoky Mountains National Park)は、ハイカーが押し寄せるところです。公園の95%は森で、その1/4は原生林といわれます。生物相が極めて豊かで、112キロのアパラチア自然歩道やハイキングコースが整備され、年間900万の人々がここで休暇を楽しむようです。

私にとってのテネシーはナッシュビルにあるバンダービルト大学(Vanderbilt University)を数回訪れたことです。ここにあるピーボディ教育学部(Peabody School of Education)は研究と教員養成でアメリカ有数の大学として知られています。
(投稿日時 2024年2月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州テキサス州・The Lone Star State

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テキサス州(Texas)のナンバープレートには「The Lone Star State」とあります。メキシコからの独立という願いとして、テキサスの州旗に白い星を一つあしらったといわれています。これがLone Starの由来です。テキサスは面積、人口ともに全米で2番目に大きい州です。 北部のレッド川(Red River)はオクラホマ州との州境の3分の2を占め、東部はアーカンソー州と一部接しています。サビーン川(Sabine River)がルイジアナ州との州境の大部分を形成しています。

License Plate of Texas

テキサス(Texas)という名前は、カド(Caddo)族の言葉で「友人」または「同盟者」を意味します。「友人」や「同盟者」は「テイシャ(Teja=táysha)と呼ばれたようです。1500年代にスペインの探検家たちが到着した時、カド族はこの地域に住んでいた先住民の一つでした。探検家たちはtejasまたはtexasと綴り、この地域にこの名前をつけたといわれます。

1528年にスペイン人が到着した時、アパッチ族を含むネイティブ・アメリカンはこの地域に住んでいました。最初の入植は1685年にフランス人によって試みられ、フランス人はこの地域をルイジアナの一部と主張します。1803年、アメリカはルイジアナ購入でフランスの領有権を獲得しますが、1819年の条約でスペインに譲渡します。そして1821年のメキシコ独立によりメキシコの一部となります。

Map of Texas

1836年、テキサス人はメキシコからの独立を宣言すると、メキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テキサス反乱軍)の間で戦争が始まります。その最も激しかったのがアラモの戦い(Battle of the Alamo)といわれます。1836年2月23日から3月6日の13日間にテキサス側の拠点とされ戦闘の舞台は、アラモ伝道所(Fort Alamo)です。

大統領兼将軍であるサンタ・アナ(Antonio Santa Anna)の部下であったマルティン・デ・コス(Martín Perfecto de Cos)はサンアントニオ包囲を命じられます。テキサス反乱軍はアラモの任務を防衛の根拠地を強化していきます。テキサス正規軍の部隊はウィリアム・トラヴィス大佐(William Travis)が指揮し、ジェームズ・ボウイ大佐(James Bowie)が守備側の最大の分遣隊である民兵を指揮します。約150人の兵士と約20門の大砲からなる部隊がメキシコ軍の進軍を待っていました。

Fort Alamo

戦争初期の交戦に参加したテキサス人の多くは故郷に戻っていたため、守備の拠点であるゴリアド(Goliad)とサンアントニオの守備隊の大部分は、冒険を求めて北部から到着した志願兵で構成されていました。彼らは開拓者として土地を獲得するという期待から、アラモに惹かれた人々でした。その中には、伝説的な人物で、かつてはテネシー州議会議員でもあったデイビー・クロケット(Davy Crockett)もいました。

アラモ守備陣の援軍への要請は、トラビスが送ったテキサス人とアメリカ人に支援を求める手紙に強く反映されていました。しかし、戦闘前に追加部隊が到着したのはわずか約30名であったようです。アラモの守備兵の実際の数の推定はさまざまで、通常は183人から189人位だったといわれます。

サンタアナ軍は2月23日にアラモに到着し、メキシコ軍の包囲と攻撃が始まります。砲撃は3月6日のメキシコ軍の攻撃まで続き、アラモの守備兵は全員死亡します。非戦闘員の女性、子どもや奴隷数名は生き残り、撤退を許可されました。サンアントニオ(San Antonio)中心街の一角にアラモ伝道所の遺跡があります。1960年にジョン・ウエイン(John Wayne)が製作・監督した「The Alamo」という映画が作られました。

Davy Crockett

テキサス州は国内のどの州よりも農場が多いことで知られます。東テキサスの肥沃な土地は、南北戦争前に綿花農家を惹きつけ、南北戦争後の数年間、綿花は州の主要作物となります。機械化農業が発展するにつれ、綿花生産はテキサス州西部のハイプレインズ(High Plains) へと移り、灌漑と肥料が豊作をもたらし、綿花生産におけるテキサス州の全国的な地位を不動のものとします。ときには、干ばつによる不作が続き、作物の多様化が進んでいきます。灌漑の導入により、リオ・グランデ・バレー下流(Rio Grande Valley)では大規模な野菜と果物の生産が行われるようになります。20世紀半ば以降、テキサスはソルガム(sorghum)、ピーナッツ、トウモロコシの主要生産地ともなります。

Fall of the Alamo

牛、羊、ヤギの飼育では他州をリードしています。国内で生産されるモヘア(mohair)のほぼすべては、テキサスのアンゴラ山羊からとれます。19世紀の広大な内陸部の牧畜帝国は、沿岸部に移行する傾向となり20世紀には綿花の生産が盛んになります。商業漁業はテキサス州の経済に大きく貢献しており、メキシコ湾岸の60以上の港から小さな船団が出漁しています。ブラウンズビル(Brownsville)は国内最大級のエビトロール船団の中心地となっています。エビ漁は経済的にテキサス漁業の最大かつ最も重要な産業です。

テキサス州は、石油と天然ガスの生産量と石油精製能力では依然として他州をリードしています。メキシコ湾や内陸部に油田が多く、エクソンモービル(Exxon mobil)などの石油会社の本社があります。電子機器、航空宇宙部品、その他のハイテク製品の製造はますます重要性を増しています。アメリカン航空(American Airline)、コンチネンタル航空(Continental Airline)、AT&Aなど多くの企業の本拠地となっています。カリフォルニア、ニューヨークと並ぶ商業や経済の中心です。

Giant

現在の州都はオースチン(Austin)ですが、近年特に人気が高い町がリバー・ウォーク(River Walk)のあるサンアントニオ(San Antonio)です。リバー・ウォークは小さな河の両岸にレストランが並んでいます。散歩、船下りにも楽しいところです。今や年間1,000万人以上が訪れる全米有数の観光都市としても知られています。研究者を集める多くの学会もここで開かれています。

River Walk

オースチンの学校を見学したことがあります。引率の教師はピックアップトラックで案内してくれました。サンアントニオは学会発表で行ったのですが、発表を終えてからアラモ砦を見学し、夕食場所のリバー・ウォークへ向かいました。
(投稿日時 2024年2月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ジョージア州・Peach State

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ジョージア州(Georgia)のナンバープレートには桃(peach)がデザインされています。この州はスイカ、メロンなどの果物が多いのです。特に桃は有名なので「Peach State」、「桃の州」と呼ばれています。ここの桃は、日本の桃とは違い、少し堅めの肉感がします。甘みも結構ありますが、日本の桃とは比べられません。そのかわり安価で助かります。ナンバープレートのデザインは明るくのどかなものです。ジョージア州のモットーに「南部の帝国」(The Empire of the South)というのもあります。

ジョージア州名は、植民地設立の勅許をイギリスの軍人ジェームズ・オグルソープ(James Oglethorpe)に与えたイギリス国王ジョージ二世(George II)に由来します。悲劇もあります。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領(Andrew Jackson)がインディアン移民法に署名します。そして東部にいた多くのインディアンを現在のオクラホマ州にあった居留地に移住させる決定をします。これにはジョージアにいた全ての部族も含まれていました。1835年にチェロキー族(Cherokee)連合に対して行われた強制移住です。約15,000名のチェロキーのうち4,000から5,000名が途上で死亡したといわれます。この逃避行は「涙のトレイル」(Trail of Tear)と呼ばれました。その途中でインディアンは「Amazing Grace」という讃美歌を歌って気分を高めたともいわれます。

ジョージア州の居住パターンは、物理的な地理と同じくらい多様性に富んでいます。州の先住民族は、1500年代初頭のヨーロッパ人との接触の時点で、すでに豊かで複雑な村ベースの文明を確立していました。1700 年代にイギリス人入植地はマスコギー(Muskogee)と呼ばれていた先住する先住民部族との文化的対立を引き起こし、その世紀後半から1800年代初頭にかけて白人入植者が着実に西に移動するにつれて激化しました。元々の英国植民地の1つであり、最初に合併した州の1つであるジョージア州は、アメリカ独立戦争後に、米と綿花を栽培し、増加する黒人奴隷人口に大きく依存するプランテーション社会として台頭しました。

Map of Georgia

20世紀になると、ジョージア州の主要都市が拡大し、ジョージア州の人口は徐々に田舎の性格を失います。1980年代から90年代にかけて、州の南西部と中央部にある古い綿花地帯の多くは人口が減少していきます。しかし、これらの損失は、80kmも離れたアトランタ郊外での大幅な利益によって大幅に相殺されていきます。大西洋岸のサバンナ(Savannah)とブランズウィック(Brunswick)周辺の地域も急速な成長を遂げています。南部諸州の中で、ジョージア州は1970年代以降、フロリダに次ぐ人口増加が一般的となり、1990年代にはその増加はフロリダを上回りました。

Rev. King Center


ジョージア州等の南部の諸州は「バイブル・ベルト」(Bible Belt)という名称で呼ばれます。「福音派プロテスタント」というキリスト教の宗派が社会と政治において特に強い役割を担っている地域のことを指します、住民も一般的に社会に対して保守的であり、他の地域の人々よりも教会への出席率が高いのです。主にプロテスタントであり、アフリカ系アメリカ人コミュニティでは特にバプテスト教会とメソジスト教会が強い州となっています。

南部のアトランタ(Atlanta)はジョージア州最大の都市であり州都です。21世紀初頭には、州の繁栄は主にサービス業を基盤とするようになります。その中心は、アトランタとその周辺がその大部分を占めます。特にアトランタは、州の主要な公益企業、銀行、食品・飲料、情報技術産業の本拠地であり、企業本社の立地としてはまさに国内有数の都会となっています。アトランタの先進的なイメージと急速な経済・人口成長に後押しされ、ジョージア州は20世紀後半には、全体的な繁栄と全国的な社会経済規範の浸透で、深南部(Deep South)の他の州を大きく引き離していきます。コカコーラやCNN、保険会社アフラック(Aflac)の本社などがあることでも知られています。

ジョージア州は映画の舞台でもあります。「風と共に去りぬ」(Gone with the Wind)を書いたマーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)の記念館-The Margaret Mitchell House-がダウンタウンにあります。マーチン・ルーサー・キング(Martine Luther King Jr.)牧師が説教していたエベネゼル・バプティスト教会(Ebenezer Baptist Church)、そして師の功績を称えるThe King Center博物館は必ず立ち寄るべきところです。政治では第39代大統領となったジミー・カーター(Jimmy Carter)がでたところです。

Margaret Mitchell

大西洋側に前述したサバンナの港町があります。植民地時代は、サバンナは綿花のヨーロッパへの輸出港でした。今も貯蔵倉庫が建ち並び、多くのレストランなどに改装されています。マスターズ・トーナメント(Masters Tournament) のゴルフ大会が開かれるのがオーガスタ(Augasta)です。メンバーは世界中に約300名、会員になるためには数10年程待たなければならないそうです。

Peach State

ちょっと寄り道ですが、コーカサス山脈(Caucasus Mountains)に囲まれ、黒海に面する国に「ジョージア」があります。もともとはソ連邦の一部で「グルジア」(Gruziya)と呼ばれていました。合衆国のジョージア州とは全く関係がありません。一度、ネブラスカ大学の友人からメールが来て、「今、ジョージアにいて学生に特別講義をしている」というものでした。てっきり南部のジョージア州だと思いましたが、首都のトビリシ(Tbilisi)にいるとのことで了解しました。

グルジアは1783年にロシアの保護を求め、1801年にロシア帝国に併合されます。1917年のロシア革命(Russian Revolution)の後、この地域は短期間独立します。1921年にソビエト政権が樹立され、1936年にグルジアはソビエト連邦の正式加盟国となります。1990年、ソビエト・グルジアで史上初めて行われた自由選挙で非共産主義連合が政権を獲得し、1991年にグルジアは独立を宣言し、海外からは「ジョージア」と呼ばれるようになります。2003年にジョージアのエドゥアルド・シェワルナゼを大統領辞任に追い込んだ暴力を伴わない革命が起こります。これは通称「バラ革命」と呼ばれます。現在はロシアとの対立路線をとることが多いといわれます。独裁者ヨセフ・スターリン(Joseph Stalin)は「グルジア」の出身でした。

ジョージアは黒海(Black Sea)の南東海岸、コーカサス山脈内に位置している共和国です。グルジアは1783年にロシアの保護を求め、1801年にロシア帝国に併合されました。1917年のロシア革命(Russian Revolution)の後、この地域は短期間独立しました。1921年にソビエト政権が樹立され、1936年にグルジアはソビエト連邦の正式加盟国となりました。1990年、ソビエト・グルジアで史上初めて行われた自由選挙で非共産主義連合が政権を獲得し、1991年にグルジアは独立を宣言します。

私は、アメリカ留学のために英語の研修を2か月受けました。その場所はジョージア州のステイトボロ(Stateboro)という小さな町にあるカレッジです。家族を引き連れての2か月の滞在でした。国際ロータリー財団(Rotary International Foundation)からの50名くらいの奨学生と一緒に、短期間でしたが南部の人々の親切さ(Southern Hospitality)と温暖な気候を満喫しました。

Southern Drawl

ジョージアに来て始めていろいろなことを知りました。コンビニもそうで、セブンイレブン(Seven-eleven)が大きなスーパー店の側にあるのです。タバコの競り市に行ったときです。人々がしゃべっていることが全く分かりません。南部訛り(Southern Drawl)というのを体験しました。いわば南部アクセントです。南部訛りは、ゆっくりとした話し方で、母音を引き伸ばすように話します。アクセントの配置にも特徴があります。例えば「police」の発音は、「ポ・リース」と、リースの部分を伸ばして発音するのが一般的です。イギリス英語と少し似ていて、carやfarの最後のrをはっきりと発音しない特徴もあります。そのせいもあってか、私の英語には南部訛り(Southern Drawl)があるようです。

毎日3時頃になると決まってスコールが通り過ぎます。市営ブールで遊ぶ子ども達はプールから出なければなりません。それと、午後にはスイカやメロン、ピーチを積んだトラックがきます。スイカはラクビーボールのような形です。滞在していたアパートの前にピーカン(peacon)の木がありました。くるみに似ているナッツで、始めて賞味しました。実に美味しかったのを覚えています。
(投稿日時 2024年2月25日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州サウスカロライナ州・Smiling Faces, Beautiful Places

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サウスカロライナ州(South Carolina)のナンバープレートには「Smiling Faces, Beautiful Places」とあります。このモットーは他には見られないほど輝いて珍しいです。北部でノースカロライナ州、南部と西部でサバンナ川(Savannah River)を境に位置するジョージア州、及び東部で大西洋と接している、いわば南部の州です。州都で最大の都市はコロンビア(Columbia)です。サウスカロライナ州は温暖な気候に恵まれています。イギリスの植民地下の影響が、建物などにもその面影があちこちに残っています。ウスカロライナ州は広い海岸平野と、内陸のなだらかな山麓地帯(piedmont)から成ります。

License Plate of South Carolina

17世紀後半に白人ヨーロッパ人がこの地域に定住するまで、先住民は現在のサウスカロライナ州に何千年も住んでいました。ヨーロッパとの接触後、人口は急速に減少しましたが、数千人のアメリカ先住民が今でも州内に住んでいます。カトーバ族(Catawba)とピーディー族(Pee Dee)は、サウスカロライナ州のアメリカ先住民グループの中で最大ではありませんが、連邦と州の両方から認められています。カトーバ族は、サウスカロライナ州の北中部に居留地を有する唯一のネイティブ・アメリカン・グループです。

1521年にサウスカロライナ州を最初に訪れたヨーロッパ人は、イスパニョーラ島(Hispaniola)出身のスペイン人探検家サント・ドミンゴ(Santo Domingo)でした。1526年、ルーカス・バスケス・デ・アイヨン(Lucas Vásquez de Ayllo)は、1526年にサウスカロライナ州に最初の白人ヨーロッパ人入植地と考えられる拠点を定めますが、このスペイン植民地は数カ月以内に崩壊します。ジャン・リボー(Jean Ribaut)率いるフランスのプロテスタントは、1562年にポート・ロイヤル(Port Royal)の地域を占領しようと試みましたが失敗します。数年後の1566年にスペイン人が戻り、近くのパリス島(Parris Island)にチャールズフォート-サンタエレナ(CharlesFort-Santa Elena)を建設しました。ここは1587年まではスペインの重要な拠点でした。チャールズ・フォート-サンタエレナ遺跡は、フランス人の入植地の考古学的遺跡が含まれていて、1562年に定住し、翌年に放棄されます。後のスペインの遺跡には、放棄されたチャールズ要塞の遺跡の上に直接建てられた砦が含まれています。この砦と他の近くの建造物非常に良い保存状態なので、初期のフランスとスペインの植民地生活を理解する上での重要性から、2001年に国定歴史建造物に指定されます。

Charlesfort SantaElena

1665年、初代クラレンドン伯爵(Clarendon)のエドワード・ハイド(Edward Hyde) と他の7人のイギリス貴族は、チャールズ2世(Charles II)から緯度29度から36度30分の広大な領土にカロライナ植民地を設立するという勅許状を受け取ります。これら8人の譲受人はカロライナの領主所有者として知られ、土地を自由に処分することができました。イギリス人は1670年にこの地域で最初の定住地をアルベマール ポイント(Albemarle Point)地域のアシュリー川(Ashley River)西岸に作りました。10年後、政府とほとんどの住民はチャールズ・タウン(Charles Town)に建設され、それが今日のチャールストン(Charleston)となります。

植民地は次第に成長し、1720年までに人口は約19,000人になり、ほぼ海岸沿いに定住しました。先住民との貿易と鹿皮の輸出が主な収入源であり、1710年以降は海軍の物資であるテレビン油、タール、その他の松製品が盛んに輸出されました。

Map of South Carolina

1729年、植民地は北と南の2つの州に分割されました。ジョージア州は1731年に南部から切り離されて設立されます。王室統治下でサウスカロライナ州は繁栄し、アメリカと藍色の染料であるインディゴ(indigo)の輸出がその富の増大に貢献しました。この貿易の成功に基づいて、チャールストンは黄金時代を迎えます。次第に洗練された文化的な都市として認識されるようになりました。

ペンシルベニア州から陸路に流入したスコッチ系アイルランド人(Scotish Irelander)の入植者が1760年以降に内陸部で急増し、その後の政治的代表の要求により、海岸側のローカントリー(Low Country)のプランテーション所有者と内陸側のアップカントリー(Up Country)の小規模農民との間で紛争が発生しました。アメリカ独立戦争中にイギリス軍がチャールストンを占領しますが、サウスカロライナ州では、主にイギリスからの自由を要求する愛国者と王室を支持する忠誠派の間の内戦が起こりました。アメリカの2つの大きな勝利は、キングス・マウンテン(Kings Mountain)とカウペンズ(Cowpens)での戦いです。

18世紀後半から19世紀初頭にかけて綿花プランテーションが拡大したため、数万人のアフリカ人が奴隷としてこの若い地に運ばれてきます。南北戦争の後、特定の地域の解放された奴隷は自分たちが働いていた土地を所有することができました。それによって何世代にもわたって自分たちの伝統とコミュニティを定着させることができました。

Brookgreen Gardens

サウスカロライナ州の海の島々(Sea Islands)の大部分は20世紀になっても地元のアフリカ系アメリカ人の手に残り、21世紀初頭になっても黒海の島民(Black Sea Islanders)の中には英語から派生したガラ語(Gullah)を話すことができる人もいました。ガラ語とは、プランテーション時代にまで遡る西アフリカの言語です。19 世紀後半には、サウスカロライナ州の総人口の約5分の3が黒人でしたが、特に20世紀の大移住の間、大部分が都市化された州への北方への大量の移住により、この割合は大幅に減少しました。20世紀後半以来、アフリカ系アメリカ人はサウスカロライナ州の人口の約10分の3を占めています。

Fort Sumter

アメリカ独立戦争の間、いくつかの軍事作戦がサウスカロライナで戦われました。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つがこのサウスカロライナ州となっています。1788年にサウスカロライナは合衆国憲法を批准した8番目の州となり、1860年には連邦から離脱した最初の州となりました。1860年に共和党のリンカーンが大統領となります。そして黒人差別の撤廃政策などを訴えます。それに反対したサウスカロライナ州は連邦から離脱し、アメリカ連合国(Confederate States of America: CSA)を結成します。これに賛同した州はミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州です。そして南北戦争(Civil War)が始まります。

南北戦争の最初の行動は、CSA軍によるサムター要塞(Fort Sumter)攻撃で起こりました。4年間続いた戦争は合衆国の北軍の勝利となります。この戦争では、両軍合わせて50万人近くの戦死者を出し、民間人死者を合わせると70~90万人に上るとされています。これは今日に至るまで、戦争における合衆国史上最大の死者数といわれます。連合国は1868年に連邦に再加盟します。しかし、1895年の憲法改正で州のほぼすべての黒人の権利が剥奪され、人種隔離の厳格な政策が1960年代半ばまで続きました。サウスカロライナは合衆国の繊維製造業のリーダーであり、大規模な産業基盤を持っています。観光業は第2位の産業となっています。農業も経済に貢献しており、主な作物はタバコ、大豆、綿花などです。

Charleston


南部の人種差別の強い州ではありましたが、最近は海外企業の招致に積極的で経済発展に著しい面をみせ、人口の増加が著しい州となっています。チャールストンは聖なる市(The Holy City)としても知られています。当初の13植民地の中で、信教に対する寛容さを認めていた数少ない都市という歴史があります。そのためでしょうか、合衆国南部で最古のユダヤ教正統派のシナゴーグ(synagogue)(会堂)があります。チャールストンには一大海軍基地もあります。

「Smiling Faces, Beautiful Places」というライセンスプレートのフレーズは珍しいです。この言葉だけでどの州の車かはわからないですね。椰子の木が真ん中にあるので、南部の州だろうとは想像できます。
(投稿日時 2024年2月24日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州コロラド州・Centennial State

注目

コロラド州(Colorado) のどのナンバープレートにも、背景にロッキー山脈(Rocky Mountains) が描かれています。「生命を尊重しよう」(Respect Life)というフレーズをあしらったものもあります。森羅万象、自然が豊かな州だからこその言葉です。独立して100年後の1876年に合衆国に州として認められたので「Centennial State」というニックネームがついています。コロラドは山岳地帯の州です。南北にロッキー山脈が貫き、州全体の平均標高が合衆国で一番高いところです。州の東側は大平原(グレートプレーンズ)が広がります。州都であり最大の都市は、デンバー(Denver)です。

License Plate of Colorado

スペイン語はコロラド州の地理に深く刻み込まれています。州名はスペイン語のコロラド、「赤」または「血色の良い」(red or ruddy)に由来しています。コロラド州の20の大きな川はリオス(ríos)と呼ばれ、多くの都市、村、山脈や山頂にはスペイン語の名前が付いています。

コロラド州の開発は16世紀半ばからのスペインの探検と入植から始まり、やがてリオ・グランデ(Rio Grande)上流沿いに恒久的な入植地がふえてきます。南北戦争以前、測量技師たちは踏破路、峠、領土境界を決めていきます。技師たちはインディアンの先導によって、川とその主な支流を地図化していきました。モルモン教徒も1847年にユタ州の大盆地に入植し、ユタ州とアリゾナ州のコロラド川の支流渓谷に移動し、後の科学的調査に参加していったという歴史があります。

Map of Colorado

コロラド州におけるネイティブ・アメリカン(Native American)文化の影響は強いです。アメリカ先住民の地名は英語の語彙を豊かにしました。ネイティブ・アメリカンの民話、音楽、ダンスはアメリカ文化の一側面として認められています。さらにネイティブ・アメリカンの食べ物や芸術作品は、コロラド州の一体性という感覚に貴重で、かつユニークな貢献をしてきたといわれます。メサ・ベルデ国立公園(Mesa Verde National Park)にある先祖代々のプエブロ文化(Pueblo culture)別名アナサジ(Anasazi)の崖の住居は、初期のネイティブ・アメリカン・コミュニティの重要な遺跡の1つです。

Mesa Verde National Park

この国立公園で、著名な先史時代の崖の住居を保存するために1906年に設立されました。1978年に世界遺産(World Heritage)に指定されました。210平方キロメートルの高台地帯を占め、最大13世紀までの数百のインディアンの村遺跡が含まれています。最も印象的なのは、張り出した崖の下に建てられた高層アパート(multistoried apartments)です。遺跡以外にも、この公園には壮観で険しい景色がいくつかあります。

公園は、海抜2,600メートル以上の大きな砂岩台地の一部を占めており、南に緩やかに傾斜しています。過去 200万年にわたる河川の浸食により、台地に深い峡谷が削り取られ、峡谷の間に細長い高台地(high tableland)、つまりメサが残されました。水の浸食により、崖の住居が位置するの峡谷の壁の砂岩に、さまざまなサイズの隙間や床の間が形成されました。これらのメサの頂上には、風に吹かれて肥沃で赤みを帯びた黄土が堆積しています。気候は半乾燥で、年輪の調査によれば、過去 600 年間ほとんど変化がありません。この地域の植物は半乾燥気候に適応しています。公園内にはクマやピューマmountain lionsが数頭、小型哺乳類が多数生息しています。

Village in Colorado

平原インディアンの主であるアラパホ族(Arapaho)とシャイアン族(Cheyenne)は、探検家、貿易商、罠猟師を平原全体に案内しました。彼らは、小川、自然の道、淡水と薪の水源、自然保護地域、水牛の餌場を知っていました。グレートベースン(Great Basin)のグループであるユート族(Ute)もロッキー山脈(Rocky Mountains)の知識に詳しく、それを広めるのに貢献しました。

しかし、アメリカ先住民は、メキシコから金銀の求めてやってきたスペイン人探検家によって追われます。メキシコ人はアメリカによる攻撃を恐れ、1840年代に北のアーカンソー川(Arkansas River)にまで及ぶ巨額の土地補助金(land grants)を発行してスペイン国境を強化します。これらの助成金に基づいて、コロラド州に非先住民族の最初の定住地が設立され、1851年には記録に残る最初の灌漑(irrigation)が行われました。

デンバーは標高が約1マイル(約1600メートル)なので、マイル・ハイ・シティー(Mile High City)の愛称で呼ばれています。デンバー市内には多くの日系人が住んでいます。その数、約1万4千人といわれ、 「ロッキー時報」(Rocky Times)という日本語の新聞が発行されているのもうなずけます。

コロラド州の商業や経済は多様です。金融センターであるデンバーを中心に、科学研究及びハイテク産業が集中しています。他の産業は食品加工、輸送設備、機械、化学製品、稀少資源の開発そして観光業となっています。

View of Colorado

州都デンバーから車で一時間ほど南に下ると、ロッキーでも一段と高く聳える「パイクスピーク」(Pikes Peak)がみえます。その山麓には炭酸泉が多数あり、飲泉が結核に効くとされたことから、19世紀にはマニトウ・スプリングス(Manitou Springs)などの保養地がつくられます。その山麓の台地には、アスペン(Aspen)などの綺麗な街並みが広がります。コロラド・スプリングス(Colorado Springs)も全米で知られる町です。ここは都市の規模に比べて物価が安く、アメリカでも最も住みやすい町の一つといわれています。

この住み心地の良さを支えるのは、巨大な国防総省の施設によってもたらされる経済効果です。ロッキーの山中には、北米航空宇宙防衛軍(North American Aerospace Defense Command: NORAD)や軍事衛星による監視や弾道ミサイル防衛を担う戦略基地が掘られています。北米航空宇宙防衛司令部とアメリカ宇宙コマンド(US Space Command) は、ピーターソン空軍基地(Peterson Air Force Base)に本部を置いています。近くのシャイアンマウンテン(Cheyenne Mountain)の空洞化した内部には、NORADや他の機関の指揮統制施設があります。1966年以来、ここは航空宇宙防衛と軌道天体の追跡のための主要基地となっています。ランパート山脈(Rampart Range)を背景に米空軍士官学校(U.S. Air Force Academy)もあります。

US Air Force Academy

私は小さいとき、「コロラドの月」というアメリカ民謡をしばしば聞いたことがあります。進駐軍の放送から聞こえてきたものです。ネット上で歌詞を調べると次のようにあります。
 「コロラドの月の夜に
  想い出は いやます
  恋の日の しのばれて
  さびしさに 涙す
 むすびし 恋も
  あだに 君はいずこぞ
  コロラドの 月の夜に
  なれも 我をば待てる」
という恋歌です。当時はそんなことを知るべくもありませんでした。そしてデンバーを訪ねたのは学会発表の1987年です。その時、コロラド大学(University of Colorado)の看護学科の准教授の案内で市内の学校を見学しました。
(投稿日時 2024年2月23日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州コネチカット州・Constitution State

注目

コネチカット(Connecticut)とはなんとも響きの良い地名です。ナンバープレートには「Constitution State」(憲法の州)とあります。最初の憲法の基を作った州です。合衆国の北東部、北大西洋岸は、前にも紹介したように、ニュー・イングランド(New England)と呼ばれていますね。ここに小さな州がいくつかあります。その内の一つがコネチカット州です。首都はハートフォード(Hartford)となっています。東にはロードアイランド州(Rhode Island)、北にはマサチューセッツ州、西にはニューヨーク州と隣接しています。

License Plate of Connecticut

コネチカット州はイギリスの統治時代、13の植民地の一つでした。1639年に植民地としては最初の「基本法規」(Fundamental Orders)というのを制定します。これはやがてコネチカットで最初の憲法となります。この憲法は合衆国の初代憲法に大きな影響を与えます。その後コネチカットはイギリスから独立を宣言する最初の13州の一つとなります。

1840年代に始まったアイルランド人の移民と南北戦争後のフランス系カナダ人(French Canadians)の移民は19世紀を通して続きました。19世紀後半、外国人移民の主な流入源は南ヨーロッパと東ヨーロッパ、つまりイタリア、ポーランド、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)、ロシアでした。各移民グループは州の特定の地域に集まる傾向がありました。ニューヘブン(New Haven)とその郊外にはイタリア系移民の子孫が多数住み、ノーガタック渓谷(Naugatuck valley)にはポーランド人(Poles)が集中しており、北東部にはフランス系カナダ人が住んでいます。

Map of Connecticut

第二次世界大戦後のコネチカット州へのアフリカ系アメリカ人の移民も同様の傾向を示し、ほとんどが五大都市に住んでおり、ニューヘブンとハートフォードの住民のほぼ5分の2を占めています。プエルトリコ人(Puerto Ricans)は自分たちの島や近くのニューヨーク市からコネチカット州の都市中心部に移住しています。

Lighthouse in Connecticut

現在、ヨーロッパ系の人々はコネチカット州の総人口の約4分の3を占めており、アフリカ系アメリカ人とヒスパニック系(Hispanic)の人々はそれぞれほぼ 10分の1を占めています。残りの大部分を占めるのは、アジア人と少数のアメリカ先住民および太平洋諸島人(Pacific Islanders)です。州人口の半分以上がローマ・カトリック教徒です。プロテスタント、正教会(Orthodox)、その他のキリスト教徒と少数のユダヤ人が残りの半分を占めるといわれます。

コネチカット州の産業ですが、農業はもとより酪農、製造業、漁業も盛んな州です。ロブスターや貝も知られています。ジェット機エンジン、ヘリコプターや航空機の部品、素材産業、原子力潜水艦の建造と関連の軍事産業、精密機械、化学薬品の製造が盛んです。企業ではスポーツ放送のESPN、ボーイング(Boeing)とエアバスのエンジンを開発するゼネラル・エレクトリック(GE)、シコルスキーヘリコプター(Sikorsky Aircraft)の本社などがあります。

州や民間の団体は、コネチカット州の歴史的に重要な所や著名な人物に関連した施設を多数管理しています。これらの中で注目に値するのは、グロトン(Groton)のフォート グリスウォルド州立公園(Fort Griswold State Park)、イースト・グランビー(East Granby)にあるオールド・ニューゲート刑務所(Old New-Gate Prison)と銅山(Copper Mine)、ハートフォードのハリエット・ビーチャー ストウ(Harriet Beecher Stowe) とマーク・トウェイン (Mark Twain)の家などです。

Connecticut River

多分最もよく知られているのは、ミスティック(Mystic)にあるミスティック・シーポート博物館(Mystic Seaport Museum)でしょう。この博物館は、ミスティック川(Mystic River)沿いにある19エーカーの敷地にあり、再現されたニューイングランドの海岸沿いの村、稼働中の造船所、展示ホール、最先端の工芸品保管施設が含まれています。博物館には、国定歴史建造物(National Historic Landmark)に指定されている4隻の船舶を含む500隻以上の歴史的な船舶が収蔵されており、特に現存するアメリカ最古の商船である1841年の捕鯨船チャールズ W. モーガン号(Charles W. Morgan)がその代表です。ここには、ニューイングランドの小さな港が、すべての船や店舗とともに再現されています。

コネチカット州はアウトドア愛好家にはたまらない地です。何マイルにもわたるトレイルをハイキングしたり、合計約650平方キロメートルにわたる30か所の州立森林または90か所の州立公園でキャンプをしたりできます。色鮮やかな紅葉は、コネチカット州とその他のニューイングランド地方に多くの観光客を惹きつけます。ロングアイランド湾(Long Island Sound)ではスポーツフィッシング、特に青魚釣(bluefish)りが人気です。

ニューヨーク州やマサチューセッツ州はコネチカット州より税率が高いので、他州で働く州民はコネチカット州の所得税を払わなくて済む仕組みとなっています。

Yale University

1701年の植民地時代にイェールカレッジ(College of Yale)が創設されます。コネチカット州ニューヘイブン(New Heaven)に本部があります。もともとは教会の牧師や公務員を養成するのが目的でした。現在のイェール大学(Yale University)です。合衆国で植民地議会に認可を受けた大学としては、ハーヴァード大学、ウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)に次いで3番目に長い歴史を持ちます。私にとってのコネチカットは、ハートフォードに出掛けて教育とテクノロジーの学会で研究発表したことです。
(2024年2月22日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ケンタッキー州・Bluegrass State

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ケンタッキー州(Kentucky)のナンバープレートには「Bluegrass State」とあります。草原を遠くから眺めると青紫色のつぼみが一面広がり、「青い草」に見えたので名付けられたとあります。ブルーグラス・ミュージック(Bluegrass Music)です。スコットランドやアイルランドの音楽を基にしています。アップテンポの曲が時代と共に多くなり、速弾きなどのインプロヴァイズ(即興演奏)もあります。お隣テネシー州でもこの音楽は盛んです。

License Plate of Kentucky

ケンタッキー州は、1769年にダニエル・ブーン(Daniel Boone)や他のヨーロッパの開拓者が到着するまで、長い間、さまざまなネイティブ・アメリカンの人々の本拠地でした。その名前の由来ですが、一説は、チェロキー族(Cherokie)が狩猟を行っていたこの地域を「カトブ」と呼び、先祖伝来のこの狩り場を売却することに反対し、「暗い血にまみれた大地」を買おうとしていることを警告してそう呼んだという説です。他の説にはイロコイ語(Iroquois)で「草原(prairie)」を意味する言葉に由来しているというものです。

1792年にケンタッキー州がアパラチア山脈以西では初で15番目の州としてとして認められるまでに、73,000 人近くの入植者が集まりました。1800年までにこの数は約22万人に増加し、その中には約4万人の奴隷も含まれていました。

Map of Kentucky

ケンタッキーはイリノイ州、インディアナ州、オハイオ州、ミズーリ州に囲まれ、オハイオ川とミシシッピ川で州境をなしています。東側にはアパラチア山脈が聳えていて、豊かな自然に恵まれています。この州はなんといっても「ブルーグラスの州」と呼ばれ、肥沃な土壌からの多くの農産物がとれます。州都はフランクフォート(Frankfort)。最大の都市はルイビル(Louisville)となっています。

ケンタッキー州というと、炭鉱、バーボン郡(bourbon) にちなんで命名されたといわれるバーボン・ウイスキー、登山家、違法酒の蒸留業者、夏のベランダでミント・ジュレップ(mint juleps)をすすりながら白衣を着た大佐や女性、ケンタッキーダービー(Kentucky Derby)などで知られています。肥沃なブルーグラスは馬の飼料として栄養価が高いので、馬の生産が盛んになったと言われます。

バーボン・ウイスキーの主原料は51パーセント以上のトウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などで、これらを麦芽で糖化させ、さらに酵母を加えてアルコール発酵させるのです。バーボンという名前はフランスの「ブルボン朝」(Bourbon dynasty) に由来するという説もあります。その他タバコの生産も盛んです。

Kentucky Derby

ケンタッキー州には、興味深いことに独特の地域と特徴が混在しています。レキシントン(Lexington)周辺のなだらかなブルーグラス(Bluegrass)地域にある、白いフェンス、パドック(paddocks)、タバコ畑、牧草地がどこまでも続く風景は、ケンタッキー州の立場を反映しながら、南北戦争前の南部とのつながりを彷彿とさせるような、ゆったりとして上品な生活様式を示唆しているといわれます。その反面、タバコや麻が名産だったので、奴隷制度の中心ともなりました。奴隷市場が置かれ、川を下って運ばれる奴隷の出発地がルイビルだったのです。

対照的に、ケンタッキー州の最北端は、主にドイツの伝統があり、郊外の開拓への傾向があり、オハイオ州シンシナティの大都市へ向いていることことから、州と北部の都市部とのつながりが特徴的となっています。ケンタッキーは自動車産業も盛んです。フォード、GM、トヨタの工場があります。トヨタはアメリカで最もポピュラーな車「カムリ」をジョージアタウン(Georgetown)という街で組み立てています。

ケンタッキー州は、過去と未来を見つめる州として、西部への拡大の岐路として、そして1861年から1865年までの南北戦争中に忠誠心が分かれたことがあげられます。南北戦争の大統領である北軍のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)と反対側の南軍の大統領となったジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)は両方ともケンタッキー州生まれです。

Country Road

ケンタッキーといえば、スティーブン・フォスター(Stephen Foster)がいます。1848年に、アンクル・ネッド(Uncle Ned)やオー・スザンナ(Oh! Susanna)などのバラードのいくつかが出版されます。曲が知られるようになると、彼は作曲活動に従事します。さらにクリスティ・ミンストレルズ(Christy Minstrels)のために曲を書くよう依頼されます。その中で最もよく知られているのが「オールド・フォークス・アット・ホーム」(Old Folks at Home)とか「スワニー・リバー」(Swanee River)で、1851年にエドウィン・クリスティ(Edwin P. Christy)の名前で発表し、彼は1879年までクリスティの名前で活動を続けます。

1852年にニューオーリンズ(New Orleans)への旅行中に、フォスターはケンタッキー州に立ち寄り、バーズタウン(Bardstown)という街の近くにあるフェデラル・ヒル(Federal Hill)に住むいとこの家を訪れます。そこで彼は「My Old Kentucky Home」を書いたと言われています。この曲はケンタッキー州の州歌になりました。フェデラル・ヒルには州のフォスター記念碑があります。

Stephen Foster

フォスターは、生涯経済的にはあまり恵まれなかったようです。1857年に曲のすべての権利を1,900ドルで出版社に売却します。利益は主に出版社と出演者に支払われたようです。1860年に彼はニューヨーク市に移ります。やがて妻と別居し、貧しく気ままに暮らします。そして1864 年1月13日にニューヨークで亡くなります。

彼は生前に約200曲を残しています。ほとんどの曲は、自分で歌詞と音楽の両方を書いています。最も人気のある曲の中には、「Old Black Joe」、「Jeanie with the Light Brown Hair」、「Come Where My Love Lies Dreaming」、「Beautiful Dreamer」などがあります。さらに賛美歌も作曲しています。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。

「My Old Kentucky Home」の一節です。
  Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home
 ’Tis summer, the darkies are gay
The corn top’s ripe and the meadows in the bloom
While the birds make music all the day

ケンタッキー州政府は、南部の心の温かさという概念に基づいて、他から州内により多くの人々を惹き付けようと考え、「こんなに友好的だ」(”It’s that friendly”)というスローガンを提唱したこともあるようです。州境地域にある「ケンタッキー州にようこそ」(Welcome to Kentucky)という看板に、(Unbridled Spirit)「自由奔放な精神」というフレーズも印字されています。

ケンタッキー州は、民主党は19世紀半ば以来、州政と連邦政界の両方をほぼ支配してきました。実際、2002年にアーニー・フレッチャー(Ernie Fletcher)がケンタッキー州知事に選出されたとき、彼は36年ぶりに共和党員として当選しました。大統領選挙では、1896年、1924年、1928年の例外を除いて、州は南北戦争後、ほぼ1世紀にわたって民主党に投票してきました。しかしながら、1950年代以降、同州は連邦レベルで共和党を支持する傾向にあり、現在も共和党支持州の一つとなっています。

私と家族はかつてジョージアからウィスコンシンへ向かう途中、ケンタッキーをとおりました。「ケンタッキーの我が家」のメロディが浮かんだのはいうまでもありません。ですが公式な州歌であることを知ったのは、ずっと後のことではあります。
(投稿日時 2024年2月21日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州カンザス州・Great Plains

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カンザス州のナンバープレートのデザインはその州を表します。プレートには小麦の穂が配置されています。カンザス州は地図を見ますと合衆国の「真ん中」にあります。そのためでしょうか「America’s Heartland」と印字されています。北側はネブラスカ州、東側はミズーリ州、南側はオクラホマ州、そして西側はコロラド州となっています。州都はトピカ市 (Topeka)、州最大の町はウィチタ市 (Wichita)です。カンザス・シティ(Kansas City)もミズーリ川沿いにある活気のある町です。

License Plate of Kansas

カンザス州は「大平原」(Great Plains)に位置し、東部の大草原から西部の高原まで915m以上の標高がある州です。アメリカの「大平原というのは、この州がもっとも当てはまるのではないかと思えるくらいの景色が広がります。平原をさす単語に「prairies」というのもあります。大平原はまさに一大穀倉地帯です

ヨーロッパ人が入植する以前は、カンザ(Kansa) 、オセージ(Osage)、ポーニー(Pawnee)、ウィチタ(Wichita)といったインディアンが居住していました。最初のヨーロッパ人探検家はフランシスコ・バスケス・デ・コロナド(Francisco Vázquez de Coronado)で、1541年にメキシコから金鉱を求めてやってきました。ラ・サール(La Salle)は1682年にこの地域をフランス領とします。

Cattles in Summer

カンザス州は1803年にフランスからのルイジアナ購入の一部としてアメリカが獲得します。19世紀初頭、連邦政府は東部インディアンをカンザスに移住させます。1854年のカンザス・ネブラスカ法(Kansas-Nebraska Act)によりカンザス準州が創設され、白人入植地として開放されます。カンザス準州は、ジョン・ブラウン(John Brown)が引き起こした奴隷制をめぐる「カンザスの流血」(Bleeding Kansas)という紛争の舞台となります。1861年、カンザス州は34番目の州として連邦に加盟します。南北戦争後、鉄道の開通により牛の町が発展し、テキサスの牛飼いたちはウィチタやアビリーン(Abilene)まで牛の群れを率いて、鉄道の起点に到達します。大平原で農作業をする農民が増え農業が重要になります。

カンザス州(Kansas)の初期入植者は主に奴隷制度に反対するイギリス人の血を引くニューイングランド人(New Englander)でした。南北戦争後、鉄道が建設されると、多くの中央ヨーロッパ人は、線路を敷設する仕事と、仕事が終わったら自由に土地をもらえるという約束に惹かれます。現在も主にロシア人(Russian)、ボヘミア人(Bohemian)、ドイツ人(German)、またはスカンジナビア人(Scandinavian)を祖先とする人々が住む小さなコミュニティが州内に点在しています。元の言語はほとんど消滅しましたが、教会の礼拝は依然としてドイツ語またはスウェーデン語で行われており、いくつかのコミュニティでは毎年、古い民俗、食べ物、言語を取り上げた祭りが開催されています。1870 年代には主に深南部出身のアフリカ系アメリカ人が多数到着し、州北西部にニコデモ(Nicodemus)と呼ばれる農業集落を設立しました。

Great PLains

現在、ヒスパニック系少数派は少数ですが増加しており、人口の10 分の1以下であり、アフリカ系アメリカ人の割合はわずかに減少しています。この州は主にプロテスタントであり、メソジスト(Methogist)、バプテスト(Baptest)、ルーテル派(Lutheran)の大規模なコミュニティがあります。事実上、アーミッシュ(Amish)やダンカード同胞団(Dunkard Brethren)などの稀なグループを含む、ほぼすべての宗派が州内にあります。ダンカード同胞団とは、再洗礼主義(Anabaptism)のキリスト教宗派です。この宗派は新約聖書を唯一の信条として信奉しています。キリスト教の平和主義に強い立場をとっており、メノナイト(Mennonite)やクエーカー教徒(Quaker)と並ぶ歴史的な3つの平和教会の1つといわれます。

農業と製造業はどちらもカンザス州の経済に大きく貢献しています。前者はカンザス州に多くの原材料を供給しています。農場と牧場の生産により、カンザス州は米国の州の中で小麦とソルガム穀物で第 1 位となっています。野生の干し草、牛肉、豚でも上位にランクされています。カンザス州は、小麦製粉において国内のリーダーを続けており、加工牛肉のトップ生産者の一つです。

製造および加工工場では、さまざまな品物が生産されます。ウィチタはキャンプ用品の大手メーカーです。また、暖房および空調機器、スノーモービル、その他多くの製品も製造しています。ウィチタは一般航空機の生産において世界第 1 位であることに加えて、軍用機の重要な製造拠点でもあります。州内の他の工場では、ベビーフード、ペットフード、プレハブ住宅 (prefabricated houses)、トレーラーハウス、タイヤ、塗料、食器洗浄機などを生産しています

カンザス州はかつて国内で最も共和党的(Republican)な州として知られていました。1861年に最初の議会が女性に学校選挙で投票する権利を与えたのもカンザス州です。カンザス州では1912年に普通選挙が認められました。カンザス州は、公職に就いている女性の割合が各州の中で上位にランクされています。州の著名な共和党員には大統領も含まれています。ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)や、かつて大統領候補だったアルフ・ランドン(Alf Landon)知事とボブ・ドール(Bob Dole)上院議員がいました。同州には現在、かなりの数の民主党支持者が存在し、無所属票も増加しています。

Dust_Bowl

カンザス州は、アルコール飲料の禁止を憲法で採択した最初の州です。この禁止条項は1880年に州憲法に追加され、1948 年まで廃止されませんでした。1986 年に有権者は、事業の少なくとも 30 パーセントを食品販売で行う施設での酒類の販売を許可する憲法改正案を承認しました。同じ選挙でパリミューチュエル賭博(pari-mutuel wagering)と州宝くじが承認されます。パリミューチュエル賭博とは、賭け金を一旦プールして、そのうち一部を開催者等が経費分として取り、残りの金額を当選者に賭け金に応じて配分するやり方です。

1950年代には、アメリカの15の州で学校の隔離が義務付けられていました。しかし、カンザス州はこれらの州の一つではなかったのです。その代わりに、学校の隔離は地域の裁量で小学校のみで許可されていていました。こうした事情で、差別反対の裁判が起こります。1896年のプレッシー対ファーガソン裁判(Plesy v. Ferguson)です。この裁判では隔離は認められますが、黒人と白人は平等に施設が利用できるようにすべきだと裁決されました。

Linda Brown

さらに裁判が続きます。リンダ・ブラウンとその家族は、カンザス州トピカの教育委員会を訴えます。ブラウン対トピカ教育委員会裁判(Linda Brown v. Board of Education of Topeka)という裁判です。この裁判でブラウンは勝訴し、判決はプレッシー対ファーガソン判決を覆すものでした。この事件は、公民権運動における画期的な事件として多くの人から賛同を得ます。

その後、黒人と白人の学生を分離した公立学校の設立を定めたカンザス州の州法は、黒人及び有色人種の子どもの平等な教育の機会を否定していると宣言し、「人種で分離した教育機関は本来不平等である」という歴史的な判決が合衆国最高裁判所によって下されます。

カンザス・シティーに一度学会で行ったことがあります。地元の人から「必ずBBQやステーキを食べないと、、」と言われました。ステーキの分厚さや分量はご想像にお任せしますが、「たまげる」はずです。ご当地グルメというやつです。
(投稿日時 2024年2月20日)