スターリンの「活躍」は共産党政権の権力争いはもちろん、科学や芸術の論争にも介入するという特異さがある。その活動は天才ともいうべき稀有のペルソナを示している。国民を隷従的境遇に押しつけながら、連合国からは超国家主義などと漠然的に呼ばれるが、その実体は定かではない。たが他方、彼がいなかったならソビエトの近代化はなかったといわれる。
メドヴェージェフ兄弟は著書「知られざるスターリン」の中で次ように結論づける。
「学者の弾圧、貴重な学派の壊滅、出世主義者やファナティックな教条主義者の台頭、無学者の抜擢、、、、スターリンが学問上の論争に介入すると、ほとんどがこのような結果で決着した。スターリンの介入によってソ連における広い分野での学問や科学の進歩が遅れた。」
トロフィム・ルイセンコ(Trofim Lysenko)という生物学者は、スターリンによって庇護された学者の一人である。彼は、生物の遺伝子の存在を否定し、個体が得た形質である獲得形質がその子孫に遺伝するという「獲得形質の遺伝」、すなわち後天的な特徴を継承するという立場である。遺伝学の祖はオーストリアのメンデル(Gregor Mendel)といわれる。メンデルは、遺伝形質は遺伝粒子によって受け継がれるということを提唱した。粒子とは遺伝子のことである。メンデルの学説に異を唱えたのがルイセンコであった。
環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質が遺伝するというのがルイセンコの立場であった。この学説に伴いソ連における反遺伝学キャンペーンが始める。この学説は、ミチューリン(Ivan Michurin)という育種家が先鞭をつけたといわれる。ミチューリンの名を冠したのでミチューリン主義農法とも呼ばれ、これがソ連農業の中心となっていく。その後わが国にでも一時であるがミチューリン農法が導入されていく。
1945年に遺伝学における論争が始まる。ルイセンコ論争とも呼ばれている。ところがアメリカなどで生物学研究や品種改良が進む。そこからルイセンコやダーウィンの種形成の思想と矛盾する新たな理論が提起される。進化と種の起源の問題を論議すれば、必然的に遺伝のメカニズムにも触れざるを得なくなる。これが遺伝に関わる論争である。ルイセンコの学説を批判する者は、ルイセンコの方向性が現実的に不毛であることに注目したのである。