ワイマール共和政の経済状態に触れる前に、インフレーションのおさらいをしておきます。現在、長い間デフレといわれている日本では、身近な日用品や食品、料理品、サービス、ガソリン、電気やガスなどが値上がりしています。この主たる理由は、円安による輸入価格の値上がりや賃金の上昇が原因といわれます。このような円という通貨が安くなるために起こる物価上昇を「コスト・プッシュ・インフレーション」(cost push inflation)と呼ばれています。インフレーションは、国民の総需要が総供給量を上回り物価が上昇すること現象です。しかし、原材料や仕入れ価格、輸送費の上昇を販売価格に上乗せせざるを得ない供給側の問題が現在の「コスト・プッシュ・インフレ」なのです。
前述のように国民の需要が供給を上回り物価が上昇するがインフレーションです。このことを「ディマンド・プル・インフレーション」(demand pull inflation)といいます。需要(ディマンド)が物価の上昇を誘因するインフレという意味です。この「ディマンド・プル・インフレ」は、賃金の上昇などによって消費者の懐が温かくなり、商品が少々価格が高くても手に入れたい状況のことです。景気が好調な時に起こる現象です。2%位の物価上昇は健全な状態といわれています。
一般的にコスト・プッシュ・インフレは「望ましくないインフレ」、ディマンド・プル・インフレは「健全なインフレ」と認識されています。現在の原材料や仕入れ価格、輸送費の上昇によって起こっている物価上昇は、「望ましくないインフレ」なのです。
これまで世界には、いろいろな経済的な危機に見舞われています。その例を二つ紹介します。第一は、1918 年から1933年までのドイツ国家、ワイマール(Weimar)共和政のハイパーインフレーション(hyper inflation)です。ドイツは第一次世界大戦に敗れ、1919年6月に、戦勝国であるフランス、アメリカ、イギリスと、連合国が被った損失と損害に対する責任を実質的に認めるベルサイユ条約(Treaty of Versaillesに署名します。この条約による戦争費用の請求書である賠償金額は、今日の換算で約4,400億ドル、65兆円という額に達しました。この巨額の負担は、ドイツが敗戦後の再建を図る際の大きな経済問題になります。全海外領土と本国の13%を失い、ラインラント(Rhineland)の占領と非軍事化が実施されます。ドイツは賠償の支払いに滞ると、1923年1月にフランスが賠償不払い問題を口実にベルギーとともにルール地方(Ruhr area)の占領に踏み切ります。この占領は、ルール地方は石炭の産出で知られ、工業も盛んな地帯であったからです。
1923年に、ワイマール共和政の通貨パピエルマルク(Papiermark)の価値の暴落が起こります。パピエルマルクとは、「紙のマルク」という意味で、1万マルク紙幣のことです。第一次世界大戦の戦費の負担と、敗戦により課された巨額の賠償により、通貨が乱発されて価値が大幅に下落したのです。マルクの購買力が半日で半分から3分の1になり、賃金や給与は支給直後に物に替えなければならなくなりました。
小売業や農民は価格上昇を見越して売り惜しみ、物々交換のみに応じるようになります。田舎では豊作にも関わらず、農家がどんな代価を払っても紙幣を受け取ることを断固、拒否したため、収穫は田畑に残ります。食料を手に入れられず、町は飢えて子どもの栄養失調や餓死が続出したといわれます。店舗にはものすごい行列ができ、人々はお金を手に入れるとすぐに、物価が再び上昇する前に、狂ったようにお金を使い始めす。食事をしに行くと、注文してから会計までの間に費用がかさんでしまうことも珍しくなかったといわれます。一般庶民は貯蓄を失なう状態となります。
アダム・ファーガソン(Adam Ferguson)という経済学者は、ワイマール・ドイツにおけるハイパーインフレの原因と現実の姿を次のように記述しています。
「昼夜を問わず、国内の30の製紙工場、150の印刷会社、2,000台の印刷機が働き、紙幣の猛吹雪を絶え間なく増大させ、その下で国の経済は消滅した。」
「カフェーでビールを一杯注文するにも、慎重な人は初めから二杯目を注文しておく。多少なまぬくくなるかもしれないが、その間に値段が上がってしまうといけないからである。」
ハイパーインフレとなれば、こうした状態になるという例え話です。1922年中には1ドルが162マルクから700マルクまで暴落し、1923年10月のハイパーインフレのピーク時には、1ドルで4兆2,000億マルクが買えるという天文学的数字を記録します。商品の価格は1日あたり21%上昇し、政府は100兆マルク紙幣を導入しました。給料をもらったり、お金を運んだりするのは事実上不可能で、手押し車、かご、スーツケースが必要だったようです。価格を計算して紙幣を数えるのに数分かかる有様になったといわれます。
1923年10月にザクセン(Saxony)に左翼政府が誕生し、共産党が革命計画を進め、11月にヒットラーによるミュンヘン(Munich)一揆が起こります。同年10月に政府はようやく発行限度を持ち、全産業である農業や商工業の保有資産を担保として、レンテンマルク(Rentenmark)という銀行券を発行します。1レンテンマルク=1兆マルクの比率で回収し、以降は紙幣発行による赤字財政を中止します。これによりインフレは沈静化し、レンテンマルクは安定した通貨価値を持つことに成功するのです。当時この現象は「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれます。
その間、国防軍の力で各地の反乱を鎮めるとともに、経済復興を望むアメリカと革命化を恐れるイギリスの助けを借りて、1924年8月にドーズ案(Dawes Plan)を締結して、賠償問題を暫定的に解決し、ドイツはようやくハイパーインフレを乗り切るのです。ドーズ案とは、アメリカ人の銀行家であるドーズ(C. G. Dawes)が提案したドイツの賠償の支払金額減額による解決案です。賠償不履行による賠償問題は、大戦後の平和にとって不安定材料として懸念されていたのです。ドーズ案は1924年に成立し、アメリカからドイツに多額の資本が流入します。その後、1925年7月にフランスはルール地方から撤退します。
(投稿日時 2024年10月31日)