アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その94 奴隷制をめぐる二極化

注目

ダグラスの中央政府よりむしろ地元の人々が奴隷制度についての決定をすることができる、という法案に対して北部の人々は激昂します。奴隷制を嫌ってはいましたが、共和制が緩やかなものである限り、南部の「特異な制度」を変えようとする努力はほとんどしていませんでした。実際、ウィリアム・ギャリソン(William Garrison)が1831年に『リベレーター』を創刊し、すべての奴隷の即時無条件解放を訴えた時には、彼の支持者はごくわずかで、その数年後にはボストンで実際に暴徒化したことがありました。しかし、南部と奴隷制度に無関心であることを、北部の人々はもはや公言することはできなくなり、政治の派閥は密接に結びついていきます。

 奴隷制の問題を中心に、アメリカのあらゆる制度に政党間の違いが現れ始めたのです。1840年代には、メソジスト(Methodists)や長老派(Presbyterians)といった国内の主要な宗教宗派が、奴隷制の問題をめぐって分裂します。北部や西部の保守的な実業家と南部の農場主を結びつけていたホイッグ人民共和党は、1852年の選挙の後、分裂し事実上消滅します。ダグラスの法案によりカンザス州とネブラスカ州で奴隷制が認められると、北部住民は反奴隷制政党を結成し始め、ある州では反ネブラスカ・民主党、他の州では人民党(People’s Party)となり、どの地域ではその党は共和党と呼ばれるようになりました。

 1855年と1856年の間に、カンザス州で奴隷制擁護派と反対派が入植してきて対立し、結果的に奴隷制反対派側が勝ちを収めることになりました。この出来事は、各州の関係をさらに悪化させ、共和党は強化されていきます。カンザス州は、かつて議会によって組織されていましたが、自由州と奴隷州の戦いの場となり、奴隷制に対する懸念と土地投機や職探しが混在する争いとなっていきます。

 自由州と奴隷州の対立する議会が正当性を主張し、事実上の内戦が起こります。入植者間の争いが暴力に発展することもありました。1856年5月、反奴隷制の拠点であったローレンス(Lawrence)の町を、奴隷制支持派の暴徒が略奪します。5月24日、25日には、自由州党派のジョン・ブラウン(John Brown)が小隊を率いてポタワトミー・クリーク(Pottawatomie Creek)に住む奴隷制推進派の入植者を襲撃し(Pottawatomie massacre)、5人を冷酷に殺害し、奴隷制推進派への警告として遺体を残して引き揚げました。

 合衆国議会も、こうした暴力行為を無視できませんでした。5月22日、サウスカロライナ州の下院議員プレストン・ブルックス(Preston Brooks)は、マサチューセッツ州の上院議員チャールズ・サムナー (Charles Sumner) がカンザス州の廃止論者を支持する演説をしたとき、自分の「名誉」が侮辱されたとして、上院議場で机を叩いて抗議します。1856年の大統領選挙で、投票が政党間で二極化することが明らかになります。民主党のジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)第15代大統領に当選したものの、共和党候補のジョン・フレモント(John Fremont)が自由主義州の過半数の票を獲得します。

 現在、人種差別に関する学校教育が一つの論争となり、「白人の子どもに罪悪感を抱かせる教育を教師がしている」という声が保守派の間で高まっているといわれます。選挙が近くなると必ず争点になります。「批判的人種理論」という言葉も生まれています。

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アメリカ合衆国建国の歴史 その86 いろいろな撤廃運動 

制度上での廃止で最も大事だったことは、奴隷制撤廃論です。この運動は、熱烈に主張される一方で、激しく抵抗され、1850年代には、政治的に失敗したようにみえました。しかし、1865年に、内戦という犠牲を払いながらも、憲法改正によってその目的を憲法に挿入するこに成功します。その核心は、3世紀以上にわたってアメリカ人が最善と最悪の顔を持つ「人種」の問題でありました。それがこの時代、アメリカの地域間の対立という力学と絡み合ったとき、その爆発的な潜在力が最大限に浮き彫りになる現象が起こりました。19世紀半ば、改革への衝動がアメリカ国民を団結させる共通のものであったのですが、その衝動が奴隷制度に現れたことで、4年間にわたる南北戦争という血塗られ遂にアメリカ国民は二つに分かれるのです。

William L. Garrison


撤廃運動そのものも多様ではありました。その一端を担っていたのが、ウィリアム・ギャリソン(William L. Garrison)という人物です。彼は「即時主義者(immediatist)」として、奴隷制だけでなく、それを容認する合衆国憲法をも糾弾します。彼の新聞「リベレーター(The Liberator)」は、奴隷制に反対する戦争では妥協しないという約束を宣言していました。ギャリソンの妥協のない論調は、南部だけでなく多くの北部の人々をも激怒させ、あたかもそれが奴隷制撤廃論全般の典型であるかのように扱われた時代が長く続いたのです。しかし、実際はそうではありませんでした。

Frederick Douglass

撤廃論者の反対側には、セオドア・ウェルド(Theodore Weld)、ジェームズ・バーニー(James G. Birney)、ジェリット・スミス(Gerrit Smith)、セオドア・パーカー(Theodore Parker)、ジュリア・ハウ(Julia W. Howe)、ルイス・タッパン(Lewis Tappan)、サーモン・P・チェイス(Salmon P. Chase)、リディア・チャイルド(Lydia M. Child)などがいて、彼らはさまざまな立場で反対論を主張しましたが、ギャリソンよりは融和的な立場にたっていました。ジェームズ・ローウェル(James R. Lowell)は、伝記作家として奴隷撤廃論者の主張は、固定した感情に走るべきではないといいます。そして、ギャリソンとは対照的に「世界は緩やかに癒されていかなければならない」と訴えます。また、デヴィッド・ウォーカー(David Walker)やロバート・フォーテン(Robert Forten)などの自由黒人やフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)などの元奴隷の活動も重要でありました。彼らは、この運動に取り組む明確な理由を持ちながら、白人の同僚たちとより広い人道的動機を共有しようとしました。