「幸せとはなにか」を考える その5 「Blessed are , , , 」

新約聖書、マタイによる福音書5章1節〜12節(Gospel of Matthew)の中には興味ある言葉が登場する。それは「幸い」とか「貧しい」という言葉である。そこから話を進めていきたい。

この箇所は「山上の垂訓」(The Sermon on the Mount)と呼ばれ、キリストが弟子と群衆に教えを伝える場面である。

“Blessed are the poor in spirit,
for theirs is the kingdom of heaven.
Blessed are those who mourn,
for they will be comforted.”

日本語聖書の翻訳は次のようになっている。

心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものだからである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められるからである。

「貧しい」ということだが、基本的には「困窮している」という意味合いである。誰もが富んでいるほうがよいと考える。だがここで使われている”Spirit”というのは心というよりはむしろ「霊」とか「精神」、といった意味としておく。「霊において貧しい」、「霊に関して貧しい」という状態と考えのである。

「貧しい」という単語のギリシャ語(Greek)は「プトーコス」(ptochos)という。辞書で調べると、絶望している(helpless) 、無力な(powerless to accomplish)、貧窮した(destitute)などとある。神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿、それが貧しい人ということになる。

しかし、喜ぶべきことは、「霊において貧しい者」は救いの対象となるということである。これが”Blessed”という言葉である。「祝福されている」「恵まれている」ということをあらわす。自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いな存在だというのである。それをギリシャ語ではマカリオス(Makarios)といい、「至高の幸い」とか「至福の」(supremely blessed)という意味で使われる。1970年代後半にキプロス共和国大統領で宗教家であったマカリオス大主教という人がいた。

ついでだがヘブル語(Hebrew)ではアシュレイ(ashrei )とか、それが変化したエシェル(esher)が、幸いなるかな、という意味で使われる。詩篇40章4節(Psalm 40:4, 41:1)などで見られる言葉である。

言葉の語源を調べると昔の人の知恵や英知が伝承されていて、今にその意味を問いかけているようだ。

00085701  山上の垂訓Arxiepiskopos_Makarios マカリオス大主教