山本周五郎は三年間関西へ転居し仕事もしています。神戸で小さな雑誌社に勤めました。旧友の姉が須磨区に嫁いでいたのを頼って下宿します。彼女の夫は海外勤務です。山本は彼女を「須磨寺夫人」と呼んでいます。そのときの「危険な恋」が「須磨寺附近」という小説だといわれます。
「須磨寺附近」は大正十五年に文藝春秋に山本周五郎のペンネームで発表したのが文壇出世作といわれます。清三という男が主人公です。青木の兄がアメリカに赴任しているため、友人の青木、青木の兄嫁である康子、そして清三という奇妙な3人暮らしです。浜辺、須磨寺、六甲山などに遊ぶうち、清三は康子に心惹かれていきます。神戸松竹座での待ち合わせを機に2人の仲は俄かに接近するのですが、康子は夫に呼ばれアメリカに去っていきます。主人公の清三というのは山本の本名、清水三十六からとったようです。山本自身の青春のアヴァンチュールだったのかもしれません。
山本が「小説日本婦道記」を書いたのが昭和十七年といわれます。昭和は小林多喜二や徳永直、宮本百合子らプロレタリア文学の全盛期といわれました。その間、山本は少年少女雑誌小説や推理小説書きに没頭します。さらに大人向け娯楽小説雑誌、キングなどを主な執筆舞台としていたといわれます。純文学作家と大衆作家とは異人種とみられるような時代です。
山本は云います。「文学には純も不純もない、より文学を最大多数の人々へというおれひとりの旗印を掲げる」とうっ積したような思いで主張するのです。ここでの最大多数の人々とは、恵まれた一部の権力者やエリートたちのことではなく、社会から見放されたような日陰に身を寄せる多数の人々のことです。反権力の姿勢で庶民の側に立ち、弱い人々がこの世を暮らしていくためには、お互いが同世代に生きる人間であるという絆や連帯感が大事だと云うのです。こうして純文学と大衆文学の垣根を取り除こうとします。
「大衆小説を書くが、やがてその中で自分のやりたいことをやる、同じ小説で講談雑誌へ出しても”改造”や”中央公論”へ出してもおかしくないものを仕上げる」と云っています。雑誌改造は主に労働問題、社会問題の記事が中心で、中央公論は自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした雑誌です。
山本さらに云います。「自分の書くものは、よく古風な義理人情といわれる、私が自分が見たもの、現実に感じることができるもの以外は殆ど書かないし、英雄、豪傑、権力者の類には全く関心がない。人間の人間らしさ、人間同志の共感といったものを満足や喜びの中よりも貧困や病苦や失意、絶望の中により強く感じる。」