子どもの学習の機会は学校と塾である、というのが日本では定着しています。ですが先進国といわれるところでは、教育の機会が多様であることをご存じでしょうか。それに比べて、我が国の教育は単線的であるのが気になります。これは、教育というものは行政が中心となって、同じ教科書を使い、同じような学力をつけるという伝統的な教育のあり方が根強いせいです。
全国どこにいても学習の機会を得られる制度はすばらしいことではあります。国民の誰もが読み書きをできるのは、こうした中央政府主導の教育が浸透したからです。ですが行政主導の教育には、教育内容の均一化、その成果?として現れる子どもの等質化ということが問われます。
教育というのは、学校という所で行われるべきものという観念がいつのまにか定着しています。子どもの学力や社会性は、学校で培われるという「神話」に似たこともいわれて久しいです。登校拒否や不登校の子どもが発生すると、適応指導教室などを開設して、やがて子どもが学校に戻ってくるように懸命に努力します。学校に生徒が登校し始めると「よかった、よかった」となります。これも学校中心の教育だからです。
教師の多くは、学校至上主義の意識を持って保護者に対応するのです。ここに教師と保護者の緊張が生じる一つの原因があります。残念ながら、教師は先進国にみられる学習機会の多様性を知らない者が多いのです。この多様性に関する理解不足は、特別支援教育の実践にもみられることです。
もし、保護者が学校を選ばないで家庭やフリースクールなどで子どもを養育するとします。教育委員会や学校は、時に脅しをかけたりして学校への復帰を保護者に求めます。こうした事例を私は何度も見てきました。一度フリースクールで学ぶ子どもを抱える議員さんから相談を受けました。そして、その方が議会で質問するのを傍聴しました。この方は宗教的な信念に基づいて子どもを自分たちが運営する塾で教育していたのです。教育委員会はそれを認めず、塾の閉鎖を求めたり、中学の卒業証書を発行しないと脅したのです。ですが学校長は事の重大さを理解したようで、卒業証書を数ヶ月遅れで渡しました。この事例はたった6年前のことです。今も、時折保護者からホームスクールの相談がきます。
特別支援教育は、支援学校や支援教室でするものだ、と考える教師が多いのも事実です。全日制、定時制を含む工業高校や商業高校にも学習で苦闘する生徒が沢山います。通信制・単位制の高等学校にも、発達障がいの診断を受けた生徒が学んでいます。幸い教師の障がいについての理解が、当該の生徒の指導によって深まりつつあります。保護者も通信制高校の特徴を理解され、インターネットを使い家で学ぶことを選択されています。単位制の良さは、何年かかかっても学力を身につけて終了することができることです。
専門学校と高校の単位を組み合わせるところも増えています。仕事に役立つスキルを身につけ、資格をとることは将来の就職には大いに働きます。多様な教育上のニーズのある生徒には多様なサービスを用意するのが我々の責任です。(成田 滋)