心に残る名曲 その百九十七 日本の名曲 信時 潔 「海ゆかば」

歌も作詞家も作曲家も先の大戦に巻き込まれた歴史があります。誰が非難されるべきかではなく、どうしたらこのような悲劇的な歴史を繰り返さないようにすべきを考えたいものです。作曲家、信時潔の作品から特にそう感じます。彼は1887年、大阪生まれです。少年の頃から賛美歌に親しんだといわれます。東京音楽学校でチェロを学びながら対位法や和声楽を学びます。そして1920年にチェロと作曲研究のためにドイツに留学します。帰国後は、留学生が必ず保証されている同学校の教授となります。

信時 潔

1937年、大伴家持の歌詞「海ゆかば」を作曲します。大戦中、「海ゆかば」は国歌より多く歌われていたといわれます。そういえば国立競技場における学徒出陣の際も、最後に学生も観客もこの歌を歌っています。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
 山行かば 草生(くさむ)す屍
  大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
   かへり見はせじ

信時が得意の賛美歌でレクイエム調の荘厳な歌曲としたようです。太平洋戦争末期に大本営が玉砕を報じる時にそのテーマ曲に使われたといわれます。

心に残る名曲 その百九十六 日本の名曲 本居長世の「青い眼のお人形」

本居長世は1885年に東京に生まれます。1908年に東京音楽学校を卒業し作曲活動に始めます。「青い眼の人形」、「めえめえ小山羊」、「汽車ぽっぽ」、「七つの子」、「靴が鳴る」などのわらべ歌は今も愛唱されています。

近世の邦楽に多く用いられる半音を含む五音階である「都節音階」によって感傷的でなにか古いムードをたたえた作品が多いようです。「都節音階」とは、ミ、ファ、ラ、シ、ドを基調とし四拍子や八分の六拍子による曲調です。

その他にも「十五夜お月さん」、「通りゃんせ」、「お山の大将」、「赤い靴」などを作曲します。箏の宮城道雄らととともに新日本音楽運動を起こし、邦楽界に大きな刺激を与えた作曲家といわれています。

心に残る名曲 その百九十五 日本の名曲 弘田龍太郎と「浜千鳥」

弘田龍太郎は1892年に高知県安芸市に生まれます。1914年に東京音楽学校器学部ピアノ科を卒業します。そして1928年に文部省留学生としてベルリン大学で学び、作曲とピアノを研究します。帰国後は、東京音楽学校教授となります。その後は、母校を去って作曲活動に専念していきます。ラジオの子ども番組の指導や児童合唱団を指揮したりしていきます。

弘田龍太郎

晩年は幼児教育に携わり、歌曲と童謡を多く作曲します。リズム遊びの指導などもやります。作品にはヨナ抜き長音階の旋律が圧倒的に多いのが特徴です。ヨナ抜き長音階とは、日本固有の五音音階のことです。例えば、「ドレミソラ」のように「シ」の音がないという具合です。西洋音楽ではドで終止するという考え方がありますが、ヨナ抜きではラとかレで終わります。「君が代」もそうです。

浜千鳥」のような感傷的なものから「雀の学校」のように単純明快まであります。その他、「靴が鳴る」 「叱られて」 「雨が降ります」など短調の曲ですが、叙情溢れる作品です。北原白秋らとの共作も目だちます。

心に残る名曲 その百九十四 日本の名曲 中山晋平と 「証城寺の狸囃子」

長野で1887年に生まれます。中山晋平がその生涯で作曲した作品は、童謡、新民謡、流行歌、その他判明しているだけで1,800位の作品があるといわれます。ものすごい作曲活動です。ここでは、その数多くの作品の中から代表的なものをとりあげます。

中山は島村抱月の書生となります。島村は明治から大正に活躍した演出家、劇作家です。1912年に音楽学校を卒業し、抱月主宰の芸術座公演の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲し、これがたいそうな評判を得ます。劇中で松井須磨子が歌ったのが有名です。その後『ゴンドラの唄』など多くの劇中歌を作曲,それらは洋楽スタイルによる最初の近代的な流行歌であったといわれます。

松井須磨子と島村抱月

野口雨情作詞の「波浮の港」、「出船の港」など民謡風で芸術的な作品のほか、新民謡では「須坂小唄」、童謡では「証城寺の狸囃」「あの町この町」など多数の傑作を生みます。千葉県木更津市の證誠寺にまつわる伝説からとったのが「証城寺の狸囃子」といわれます。

熱海の中山晋平記念館

以後,民謡の特徴を生かした童謡,歌謡曲などを作り、大衆音楽に貢献します。独特の明快な日本的、庶民的な歌のスタイルが伝わりま。今日の演歌にも通じます。今日の大衆歌曲の道を拓いたともいえそうです。

心に残る名曲 その百九十三 日本の名曲 中田 章 「早春賦」 

中田 章

中田章は1886年に東京生まれの作曲家でオルガニストです。1905年に東京音楽学校で学んだのち,やがてオルガンや音楽理論を教えました。
作曲家としては,春を待ちわびる思いを歌った唱歌「早春賦」によってたいへん有名になりました。この曲は,大正初期に,同じ東京音楽学校で国語を教えていた吉丸一昌が詩を書き,同僚だった中田章に作曲を依頼して生まれたものです。

吉丸一昌はドイツ歌曲『故郷を離るる歌 Der letzte Abend』の訳詩をしたことでも知られています。
  春は名のみの 風の寒さや
   谷のうぐいす 歌は思えど
    時にあらずと 声もたてず
     時にあらずと 声もたてず

「早春賦」はモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)作曲「春への憧れ(K596)」と非常に曲想が似通っているといわれます。両方を聞きくらべてみてはどうでしょうか。

心に残る名曲 その百九十二 日本の名曲 山田耕筰「からたちの花」

日本の西洋音楽の分野で初めて本格的な活動を行った作曲家で指揮者が山田耕筰です。大正から昭和の時代にかけ,日本における西洋音楽の基礎を作るうえで,創作と演奏の両面にわたって大きく貢献します。

山田耕筰

山田は1886年,東京に生まれます。少年時代に両親を亡なくしたため,イギリス人宣教師と結婚した姉夫婦のもとで育てられます。この義理の兄が東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)で、彼から音楽を教わるのです。東京音楽学校の声楽科を卒業後,実業家の岩崎小弥太の援助を受けて,24歳からドイツのベルリンの音楽院に留学し,伝統的なドイツ音楽の作曲を学びます。和声法、対位法、音楽形式、管弦楽法など、西洋古典音楽の正統的な作曲技法の修得です。東京音楽学校には作曲科すら開設されていなかった時期です。

1914年,28歳で帰国してからは日本初の管弦楽団を指揮したのをはじめ,大小さまざまな演奏会を開いて日本に西洋音楽を広めます。さらに,自らも多くの作曲を行い,国内だけでなく海外でも作品を発表しました。彼の作品の数はたいへん多く,オペラや管弦楽曲から映画音楽まで幅広いジャンルにわたっています。

管弦楽団の運営に失敗し、1926年に茅ケ崎に移住します。この地の穏やかな環境で創作意欲を取り戻し、歌曲や童謡の作曲にも取り組みます。三木露風の詩「赤とんぼ」や「この道」などの名曲が茅ヶ崎で生まれます。北原白秋の詩による「からたちの花」、「待ちぼうけ」、「砂山」など数多くの名曲を残し,その旋律は言葉のアクセントを生かし,日本語が自然に美しく歌われるように工夫されています。

三木露風

心に残る名曲 その百九十一 日本の名曲 滝廉太郎と「荒城の月」

西洋音楽黎明期の代表的な作曲家の一人が滝廉太郎であるとWikipediaにあります。1890年に15歳で東京音楽学校に入学し、本科をへて研究科へ進みます。そしてピアノ奏者となります。1900年に聖公会博愛教会にて洗礼を受けます。

1901年、文部省派遣留学生として、ドイツのライプツィヒ王立音楽院(Hochschule fur Musik und Theater Felix Mendelssohn Bartholdy Leipzig)に入学します。そこでピアノや対位法を学びます。音楽院に入った2か月後に肺結核により、1年後には帰国を余儀なくされます。そしてわずか23歳にて夭折します。文部省中学唱歌となる「荒城の月」、「箱根八里」は特に有名です。その他、「花」、「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」などがあります。

1900年に発表された「春のうららの隅田川」という曲は「四季」のうちの1曲です。素晴らしい伴奏が響きます。その楽譜の初頭で、滝は西洋音楽の模倣を脱し、日本人作曲家として「芸術歌曲」を創出してゆく自覚を喚起しているといわれます。ほとんどの作品が歌曲です。滝は、山田耕筰らとともに西洋音楽理論を用いて創作を試みた最初期の作曲家といわれます。

箱根旧街道

心に残る名曲 その百九十四 日本の名曲  岡野貞一と「ふるさと」

鳥取市の鳥取城跡にある久松公園入り口に作曲家、岡野貞一と「ふるさと」の歌碑が建っています。 鳥取城は、元鳥取藩主池田家の居城がですが、現在天守閣などの城はなく、石垣や壕が残っています。近くには洋風建築で国の重要文化財となっている仁風閣があります。

岡野貞一は1878年に鳥取で生まれます。1895年東京音楽学校に入学し、その後1918年より文部省の尋常小学校唱歌の作曲委員となります。1932年まで東京音楽学校で教鞭をとり、数々の曲を作っていきます。東京のメソジスト教派、本郷中央教会のオルガニストや聖歌隊の指揮者として実に実に43年間、礼拝奏楽を担当します。

岡野貞一

この教会にカナダ製の最初のパイプオルガンが設置されたのが1890年。英国ウェールズから東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)が初代の聖歌隊長、オルガニストとなります。彼はオルガン技師でもありました。妻は山田耕筰の姉の山田恒子でした。その後、岡野貞一を本郷教会のオルガニストとして指名するのです。

岡野の作品も最も知られているのが「ふるさと」です。1914年に尋常小学唱歌の第六学年用として採用されます。作詞は高野辰之で、その後も高野と一緒に作ったのが「おぼろ月夜」、「春の小川」、「春が来た」、「紅葉」などです。「ふるさとを思い起こす歌」の人気投票では、岡野の「ふるさと」が常に第一位の地位を保っています。

 こころざしをはたして いつの日にか帰らん
  山はあおき故郷 水は清き故郷

心に残る名曲  その百九十三 ヨハネス・オケゲム Qu’es mi vida, preguntais

中世ルネッサンス音楽に戻り、しばらく西洋の音楽家から離れることにします。ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem)は、中世ルネッサンス音楽を席巻したといわれるフランドル楽派(Franco-Flemish school)の作曲家です。すでにこのブログで取り上げてきたデュファイ(Guillaume du Fay)やジョスカン・デ・プレ(Josquin des Pres)と同じく15世紀の半ばに活躍した作曲家といわれます。

現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本」(Chigi codex)によって伝承されています。「キージ写本」とはフランドル(Flemish)地方の音楽原譜集のことです。

オケゲムの曲です。「死者のためのミサ曲」(Missa pro Defunctis)は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムといわれています。多声部の響きが敬虔さ伝えています。ごくわずかの現存する作品の中で技巧を凝らした36声部のための「主に感謝せよ」 (Deo gratias)、「私の愛する人」(Ma maitresse)は、オケゲムの表情豊かな音楽と作曲技法を伝えてくれています。

Johannes Ockeghem

デ・プレに強い影響を与えたように、カノン(canon)という複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式用いた「キリエ」(Missa Prolationum-Kyrie)は美しい音を響かせています。オケゲム自身が著名なバス歌手で聖歌隊指揮者でもあったことから、オケゲムの多声部におけるバスの旋律はかなり込み入っており、複雑な響きを与えています。

心に残る名曲  その百九十二 レハール 「金と銀」

ワルツ「金と銀」(Gold and Silber)やオペレッタ「メリー・ウィドウ」(Merry Widow)などで知られるハンガリーの作曲家がフランツ・レハール(Franz Lehar)です。オペレッタについては、どこかで喜劇とか小喜劇と呼ばれ、ハッピーエンドで終わる歌劇のようなものであることを述べました。レハールの父親は軍楽隊長で、12歳のときプラハ音楽院(Prague Conservatory)に入学し,ヴァイオリンを学びます。ドヴォルザーク(Antonin Dvorak)らに作曲技法を学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビューします。1902年からウィーンの劇場で指揮者として活動を始めます。

1905年に「メリー・ウィドウ」を発表するとウィーンを熱狂させたといわれます。この作品は,以後ドイツ各地,ペテルブルグ(St. Petersburg),ミラノ(Milan),ロンドン(London),ニューヨーク(New York)などで相次いで上演されます。「金と銀」ですが、ワルツのリズムに乗った流麗な旋律がオペレッタの特徴です。当時流行していたダンスのリズムや民族的な素材を取り入れ、和声的、対位法の技巧を駆使し旋律をいっそう豊かにしています。

FRANZ LEHAR Franz Lehar 30 April 1870 ? 24 October 1948 known in Hungarian as Lehar Ferenc Austrian composer of Hungarian descent, mainly for his operettas Credit: Peter Joslin / ArenaPAL