「アルファ碁」(AlphaGo) その十五 囲碁の世界における「考えることと思うこと」

今日はアメリカ新大統領の就任式。18か月前では「ありえなーい、考えられなーい」ことでした。話題は「考えること」と「思うこと」です。

八王子市内小学校での囲碁教室では、子供達につい「よく考えなさい」という言葉を使ってしまいます。恐らく子供は「考えよ」、といわれてもチンプンカンプンなのかもしれません。局面から一手を考えるとは、手順を考えることです。これは「読み」といわれます。碁の初心者に「読む」ことを期待するのは、少々高望みかもしれません。

私たちが行動するときは、将来の何らかの成否とか損得の見込みをたてています。「なぜ?」というよりはむしろ「いかに、」という過程や成果の見通しをたてます。なぜそこに打つのか、というよりはいかにしてそこに打つか、そのことを言葉で表すことができればかなりの棋力といえます。

碁は将棋やチェスと異なり、置いた石を動かすことができません。その石自体も、王将と歩兵といった役割とか機能を持たない全く無性の存在です。しかし、その石が捨て石となったり種石となるのですから、石に価値が付与されてくるという不思議なゲームです。極端にいえば無限の可能性を秘めているのです。

私たちは因果関係という言葉をしばしば使います。デカルト流にいえば、因果関係と考られる世界を「説明できることが科学だ」とする傾向があります。そこには数字が登場します。数字は、政治の世界でもビジネスの世界でも学問の世界でも幅をきかしています。会社で売り上げ予測の数字が示されれば企画書が採用されたり、当選何回ということで大臣に抜擢されたり、統計的に有意であるとして研究仮説が採用されます。すべて数字のなせる業といえそうです。

しかし、「思う」とか「想う」ということは、因果律では説明できない心の働きです。碁では、「どうしてそこに打ちましたか?」と周りが棋士に聞いても「そこが一番良さそうな、感じの出た手だと思いました」というでしょう。「思うだけでは科学的でない」といわれても仕方ありません。確かに科学の見方からすれば極めて旗色が悪いコメントです。ですが、石同士の関係性とか意味といった気分の世界があるのです。囲碁の面白さと難しさはここらあたりにありそうです。

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