囲碁にまつわる言葉 その17 【寝浜】

八王子が輩出したアマチュア棋士の三浦浩氏は、日本アマチュア本因坊決定戦全国大会で最初の優勝を果たします。昭和46年の17回大会でした。この大会の特徴は選手の年齢が大幅に若くなったことで、前回の16回大会では37.5歳、17回大会は30.8歳というそれまでにない若々しい大会だったといわれます。24歳という少壮気鋭の三浦氏が初出場で初優勝という栄冠を獲得します。そして、平成11年の第45回同アマ本因坊決定戦で5度目の優勝を飾ったとき、25歳の対戦相手をして「昔の自分を見るようでした、若さの勢いを感じました」と対局を振り返っています。五強といわれた村上文祥、平田博則、菊池康郎さんらを破っての優勝です。

—–【寝浜】——–
戦国武将が碁を好んだことは知られています。武田信玄は大の囲碁好きだった記録があります。信玄の配下には優れた武将が多かったことで知られています。武田四天王の一人高坂晶信、またの名を弾正も碁に強かったようです。『囲碁百科辞典』の囲碁年表に、「長遠寺に於いて、武田信玄、高坂弾正と対局す」とあります。高坂昌信は、しばしば信玄の相手をしたようです。その棋譜が残っています。

信玄の死により家督を相続したのが武田勝頼です。勝頼は、強硬策を貫き領国拡大方針を継承しますが、1575年の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退します。その戦では、騎馬隊という特殊な兵力を持つ武田軍を信長の鉄砲隊という新たな兵力で打ち破ったといわれます。鉄砲隊が騎馬隊に勝ったとする図式をして、勝頼は、「碁に寝浜(ねばま)をして勝ちたるに同じ」と慨嘆したというのです。
 
「寝浜」とは、囲碁で打ち始める前に、相手の石を隠し持って、作り碁の時に出す悪質な行為を指します。信長の鉄砲隊を「寝浜」であると揶揄するのですが、負けは負けです。「甲陽軍鑑」という信玄と勝頼の2代にわたる武士道、治績,合戦,戦術,刑法等が記された書籍があります。高坂弾正昌信の遺記を基に、後の人々が編纂したらしいです。この中に「寝浜」がでてくるようです。