戦争の指導者であるリンカンとデイビスの両者は、それぞれの党派で深刻な攻撃を受けます。どちらも反対者の主張に直面しました。リンカンの場合、東部の都市へのアイルランド移民と北西部の州の南部生まれの入植者は、特に黒人に対して敵対的であり、したがって解放に対して反対でした。他の多くの北部人は戦争が長引くにつれて不満を抱くようになりました。奴隷制の足がかりがあまりなかったサザン・ヒル・カントリー(Southern hill country)の住民も、同様にデイビスに対して敵対的でした。さらに、戦争を遂行するために両指導者は政府の権限を強化する必要があり、戦争をもたらした統合のプロセスをさらに加速させていきます。その結果、両政府は州知事から激しく攻撃され、州知事はその権限の侵害に憤慨し地方自治を強く支持していきます。
北部の政治上の不満は、1862年の議会選挙で示され、リンカンと彼の党は世論調査で激しい反発を受け、下院で過半数を占めていた共和党の議席が大幅に減少します。同様に南軍も1863 年の議会選挙は政権に非常に強く反対したため、デイヴィスは、南軍の支配下にあったアッパーサウス(upper South)の州からの代表者と上院議員の継続的な支持によってのみ、指導性を発揮することができました。その結果、新たな選挙を行うことができなくなります。
1864年8月になっても、リンカンは大統領に再選されることが悲観的となり、民主党候補のジョージ ・マクレラン将軍(Gen. George B. McClellan)が自分を破るであろうと予想していました。ほぼ同時に、デイビスは連合の副大統領であるアレクサンダー・スティーブンス(Alexander H. Stephens)によって公然と攻撃されました。しかし北軍の勝利、特にウィリアム・シャーマン (William T. Sherman)のアトランタ占領は、リンカンに大いに味方します。そして、戦争においてが北軍が勝利を収めたとき、彼の人気は最高潮に達します。他方、デイビス政権は敗北が続くたびに支持を失い、1865年1月、南軍議会はデイビスに対してロバート・リー(Robert E. Lee)を南部全軍の最高司令官にすることを主張するのです。こうして一部の人は、明らかにリーという強力な指導者の誕生を期待したのです。