心に残る一冊 その117 「樅ノ木は残った」 その四  宇乃と甲斐

「樅ノ木は残った」には二人の特徴的な女性が登場します。一人は「おくみ」であり、もう一人は「宇乃」です。伊達家の家臣の一人、畑与右衛門の娘が宇乃です。与右衛門は汚名を着せられて上意討ちとなります。宇乃は、かつては甲斐の母であった慶月院の側に仕えました。甲斐は宇乃の後見人のようになり、成長を見守っています。「おじさま」と呼びながら甲斐に心を通いあわせています。

甲斐の屋敷は東新橋の芝口などにあります。上屋敷とか浜屋敷とよばれていたようです。藩主や家臣が住み政務をとるところです。愛宕下付近にあったのが中屋敷で藩主の妻や嫡子らが住むところです。下屋敷とか蔵屋敷もあったようです。妻の律は国許である宮城は柴田の船岡にいますが、甲斐とは不仲になっています。後に離縁されます。

甲斐と宇乃が樅ノ木について語ります。
「私はあの木が好きだ」
「船岡にはあの木がたくさんある」
「樅だけで林になっている処もある」
「静かなしんとした、なにもものを云わない木だ」
「木がものを云いますの?」 宇乃が訊ねます。
「宇乃はしらないのか」
「木はものを云うさ、木でも石でも、、みんな古くなるとものを云う」
「いまに宇乃が船岡へいったら木がどんなにものを云うか、わたしが教えてあげよう」

中屋敷では麻疹で苦しむ息子虎之助が寝ています。二人はしばし昔話などをしています。甲斐は障子をあけて廊下にでます。そこに宇乃が佇んでいます。両袖を胸に重ねて身動きもせず、雪の舞しきる庭のひとところをみています。
「なにを見ている」
「ああの樅ノ木に雪が積もっています」
「わたしは明日、船岡に帰る」

すると宇乃が彼のほうへくるりとむきなおり、大きく見開いた眼でまっすぐに彼を見上げます。その眼は見開いたままで、たちまち涙でいっぱいになりります。
「おじさま、、」宇乃はそう云って衝動的に両手で甲斐を抱きしめるのです。