ナンバープレートから見えるアメリカの州ヴァジニア州・Mother of Presidents

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ヴァジニア州(Virginia)のナンバープレートにもいろいろなデザインがあります。うっそうとした豊かな森や清流など自然の生態系を反映してデザインには野鳥などを配置しています。ヴァジニアは、「アメリカ大統領の母なる地」「Mother of Presidents」の名にふさわしい風格のある州です。

License Plate of Virginia

ヴァジニア州東部の大部分に最初に定住したヨーロッパ人はイングランド人(English)で、イングランドの中部および南部の郡、特にロンドンとその周辺地域からやって来ました。1700年代には、ウェールズ人(Welsh)とフランスのユグノー人(Huguenots)が移民の中で目立っていて、スコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)とドイツ系(German)の人々がペンシルベニア(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)に移住してきました。特に西部と南西部の郡では、スコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先を持つ人々が今でも多数派を占めています。

Map of Virginia

ヴァジニア州は、清教徒連邦(Puritan Commonwealth)と1653年から1659年の間に保護領(Protectorate)亡命したイングランド王チャールズ二世(Charles II)への忠誠心からオールド・ドミニオン(Old Dominion)と呼ばれました。17世紀初頭のジェームスタウン(Jamestoewn)入植以来、アメリカの州の中で最も長く続いている歴史の1つです。処女女王エリザベス一世(Elizabeth I)にちなんで名付けられ、当初の憲章では、大西洋岸の入植地からミシシッピ川、さらにその先まで西に広がる土地のほとんどが与えられましたが、ヨーロッパ人には未踏の領域でした。ジョージ ワシントン(George Washington)、トーマス ジェファソン(Thomas Jefferson)、ジェームズ マディソン(James Madison)などのヴァジニア人の貢献はアメリカ合衆国の建国に極めて重要であり、共和国の初期の数十年間、この州は大統領誕生の地として知られていました。

Alexandria, VA

1607年にイギリス初のアメリカ植民地がジェームズタウン(Jamestown)に設立された時、ヴァジニア州にもネイティブ・アメリカンが住んでいました。ヴァジニアからはアメリカ独立革命の指導者を生み、後にアメリカ最初の大統領5人のうち4人を輩出していきます。1788年には合衆国憲法を批准した10番目の州となります。

奴隷制度はヴァジニア州経済の重要な部分を占めていました。1831年にナット・ターナー(Nat Turner)の奴隷反乱がここで起こりました。奴隷であり反乱の指導者ナットは数人の信頼する仲間の奴隷と決起します。反乱は家から家へと伝わり、奴隷を解放し、見付けた白人全てを殺したといわれます。最終的に反乱に加わった奴隷は自由黒人を含めて50名以上になります。ナットとその反乱部隊が白人民兵の抵抗に遭った時、既に57名の白人男女や子どもが殺されていました。

Nat Turner Rebellion

Governor’s Palace, Williamsburg

南北戦争が始まってすぐの1861年に、ヴァジニア州は連邦(Union)から離脱します。リッチモンド(Richmond)は南部連合(Confederacy)の首都となります。そしてヴァジニアは戦争を通じて主な戦場となります。ただヴァジニア州西部は連邦からの離脱を拒否します。1863年に分離してウェストヴァジニア州ができました。ヴァジニア州は1870年に連邦への再加盟を認められました。その後数10年間、州の債務をめぐる争いが政治生活を引き継ぎましたが、第一次世界大戦後、州の繁栄は増大していきます。

第二次世界大戦により、数千人の捕虜がヴァジニア州の軍事キャンプに収容され、港町のノーフォーク(Norfolk)地域は急速な成長を遂げます。ヴァジニア州にとっては、連邦政府は州最大の雇用主であり、製造業は二番目に大きい規模となっています。州南東部の海域およびそれを取り囲む陸域であるハンプトン ローズ(Hampton Roads)は、国内有数の港の1つであり一大観光地域でもあります。

ヴァジニア州は正式には「Commonwealth of Virginia」と呼ばれます。植民地時代から地域がそれぞれに共通した目標である独立に向けて共に発展するという意思を表しています。歴代4名の大統領とは、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンらです。それゆえに「アメリカ大統領の母なる地」とも言われるほどです。ワシントンDCの対岸の州内にはアメリカ国防総省(Pentagon)やCIA本部もあります。

Monticello,VA

観光は州の重要な産業です。ヴァジニア州には、植民地時代のウィリアムズバーグ(Williamsburg)、ジョージ ワシントンの邸宅であるマウント・バーノン(Mount Vernon)、トマス・ジェファソンのモンティチェロ(Monticello)、南北戦争の戦場、現在のアーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)の敷地内にあるロバート・リー(Robert E. Lee)将軍の家など、多くの史跡があります。特に、ウィリアムズバーグは是非訪れたいところです。1690年代には植民地時代の首都でありました。2.25キロ平方の地域に入植当時の建物はすっかり復元されて、植民地時代の面影を感じることができます。

Jefferson Memorial

1693年設立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary)は、この国で2番目に古い大学です。この大学は、イングランド国教会によって設立され、イギリス国王の勅許状を持つ最初のアメリカの大学となりました。ハーヴァード大学に続いてアメリカで最も由緒のある、また優れた学部教育のカレッジとして知られています。研究機関の中心はなんといってもヴァジニア大学です。創立は1819年、ジェファソンらによって創建されました。学内のすべての建物がコロニアルスタイル(colonial style)で統一され、全米で最も美しい大学キャンパスと称されています。これらの大学は、「最も入学が難しい大学」 (Most Selective)となっています。

College of William & Mary

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューメキシコ州・Land of Enchantment

注目

ニューメキシコ州(New Mexico)のナンバープレートには「Land of Enchantment」(魅了してやまない地)とあります。晴天に恵まれた気候と風光明媚な観光スポットが観光客を惹きつけます。山々や高原にはバケーション・リゾート(Vacation resorts)がたくさんあります。カールスバッド洞窟(Carlsbad Caverns)やホワイトサンズ国立公園(White Sands National Parks)では、ユニークな自然の驚異が見られます。史跡や手つかずの自然が広がる地域は、他の国立公園地域や州立公園、国定記念物に保存されています。

License Plate of New Mexico

この地域への人類の定住は、おそらく1万年前に及ぶといわれます。15世紀にナバホ族(Navajo)とアパッチ族(Apache)がやってくる前に、プエブロ(Pueblo)インディアンの農耕文明が灌漑システムや断崖住居を発展させます。その遺跡が州内の至る所に残っています。16世紀にメキシコからのスペイン人がこの地域をスペイン領とし、1540年にフランシスコ・バスケス・デ・コロナド(Francisco Vazquez de Coronado)が探検してきました。最初の入植は1610年のサンタフェ(Santa Fe)だったようです。

Map of New Mexico

ニューメキシコ州は最も若い州の1つですが、米国西部で最も古い白人入植地です。ヴァジニア州(Virginia)ジェームスタウン(Jamestown)の設立から3年後の1610年、スペイン人入植者がサンタフェを設立します。スペイン人は16世紀に征服したメキシコから北に来て、リオグランデ川(Rio Grande)の北の土地を「ヌエボ メキシコ」(Nuevo Mexico)、またはニューメキシコ(New Mexico)と呼びました。「メキシコ」という呼び名は、スペイン人が到着したときにそこを支配していたアステカ族(Aztec)の別名である「メキシカ」(Mexica)に由来しています。

1600年代にはキリスト教の宣教師が活躍します。1821年にメキシコの一部となり、米墨戦争(Mexican-American War) 終結後の1848年にアメリカに割譲されます。ニューメキシコ準州は1850年に連邦議会によって設立され、1912年にアメリカの47番目の州となり、フロンティアのイメージを保持していきます。第二次世界大戦は経済と社会の変化に拍車をかけ、ロスアラモス(Los Alamos)を含む研究施設ができます。今日の経済は原材料の輸出と連邦政府の支出に大きく依存しており、石油と天然ガスも重要となっています。観光業はニューメキシコの主要産業となっています。

Santa Fe

ニューメキシコを訪れた人の多くは、再びそこに定住し、ネイティブアメリカン、ヒスパニック系(Hispanic)アメリカ人、アングロアメリカンといった多様な人口構成となり、3つの文化が融合しています。この州は、英語とスペイン語の2つの公用語がある唯一の州です。しかし、この巨大な州には依然として人口がまばらです。面積では50州中5位ですが、人口密度では45位にすぎません。

平野の大部分は牛や羊の放牧に使用されています。国土の約5分の1が森林となっています。水が利用できる場所では、ニューメキシコ州の支えて非常に肥沃な土壌がトウモロコシや小麦などの生産を支えています。しかし、重要なダムや灌漑プロジェクトが完了したにもかかわらず、水の保全は依然として州にとって大きな問題となっています。

Los Alamos

この州の最大の都市はアルバカーキー(Albuquerque)です。今では伝説的となりましたが、かつてビル・ゲイツ(Bill Gates) がパソコンのOSを開発した町です。現在、人口の45%がヒスパニックです。加えて、今でもネイティブ・アメリカンが全米で第三位を占める位、多く住んでいます。ですが面積からするとアメリカで最も人口密度が低い州といわれています。州都は、かつてメキシコの総督府が置かれていたサンタ・フェです。歴史・芸術・文化の豊かな州都です。観光はサンタ・フェの経済を支えています。温暖な気候や、冬のスキー、夏のハイキングなど野外活動の機会に恵まれています。

芸術の町サンタフェには、ジョージア・オキーフ美術館(Georgia O’Keeffe Museum)があります。アメリカを代表する画家の一人です。彼女は高校時代をウィスコンシンのマディソン(Madison)で育ち、その後シカゴとニューヨーク市で美術を学ます。そこで写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)と結婚しました。1920年代初頭までに、『Black Iris』(1926年)などに代表される、非常に個性的な画風を示します。

Georgia Okeefe

オキーフの主題は、動物の頭蓋骨やその他の骨、花や植物の器官、貝殻、岩、山、その他の自然の形態の拡大図などでした。遠近感のない空間を背景にした彼女の神秘的で暗示的な骨や花のイメージは、エロティック、心理的、象徴的なさまざまな解釈にインスピレーションを与えてきました。彼女の後期の作品は、1946年に夫の死後に移住したニューメキシコ州の澄んだ空と砂漠の風景を称賛しています。批評家からは、彼女は最も独創的で重要なアメリカの芸術家の一人とみなされており、彼女の作品は一般大衆の間でも非常に人気があります。

Museum of Art

サンタフェのダウンタウンの歴史地区、特に総督府に隣接するプラザ(Plaza)にはメキシカンフードの人気レストランが立ち並んでいます。町並みは日干しの土で作られた建築物アドービ(Adobe)です。砂、砂質粘土とわらなどの素材でつくられる建材です。熱を吸収してもゆっくりと放出するので建物の中は涼しく、ニューメキシコのような暑くて乾いた地に適しているといわれています。ニューメキシコ州は、そびえ立つ山々、赤い岩、不毛の砂漠が広がる風光明媚な高地です。その自然の美しさの中に、歴史的なアメリカ先住民の村、スペインの伝道所、そして初期の祖先プエブロ族が残した素晴らしい崖の住居があります。

Downtown Santa Fe

ナバホ、プエブロ、アッパチインディアンが住む居留地で作られる民芸作品、各地にある大小の博物館の展示物、そして大自然が観光客を魅了しています。ネイティブ・アメリカンとメキシコの文化と芸術を最も身近に接することができる州といえましょう。これらの観光スポットは観光産業の繁栄を支え、この州の「魅惑の国」というニックネームを不動のものとしています。

ニューメキシコは日本にとって忘れることのできない州です。砂漠のど真ん中にある町、ロスアラモスは巨大な研究都市です。国防総省が武器を開発しています。ここで製造された原子爆弾(Little Boy)が博物館に展示されています。複雑な思いのする場所です。私はこれまで二度ニューメキシコ州を訪れました。ウィスコンシンから家族を呼んで再会した所でもあります。
(投稿日時 2024年3月2日)

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十八 テネシー州–Volunteer State

テネシー州(Tennessee) は州境でケンタッキー州、ミズーリ州、ヴァージニア州など8つの州と接しています。最大の都市はメンフィス(Memphis)ですが、州都はナッシュビル(Nashville )となっています。「チュチュトレイン」(Choo Choo Train)のチャタヌガ(Chattanooga)もこの州にあります。アパラチア山脈(Appalachian Mountains)を中心とするグレート・スモーキー山脈国立公園(Great Smoky Mountains National Park) はハイカーが押し寄せるところです。産業では、タバコ、綿花、そして大豆などの農産物が有名です。

Map of Tennessee

ニューディール期(New Deal)のTVA(テネシー川流域開発公社)によって、多数の巨大なダムが建設されます。テネシー州はもともと遅れた農業州で南部なまりと密造酒に代表されるヒルビリー(hillbilly)地域といわれていました。ヒルビリーとは泥臭さとか田舎者といった意味です。TVAのお陰で農業の近代化や工業化が進みます。

テネシーはカントリー・ウエスタン(Country music)の発祥の地です。エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)もここの出身。彼が主に音楽活動を行ったのがメンフィスです。70代以上の方にはテネシー・ワルツ(Tennessee Waltz)が懐かしでしょう。ナッシュビルにも沢山の南部のライブを楽しめるところがあります。その響きはBluegrassと呼ばれるアコースティック音楽のジャンルです。演奏にはギター、マンドリン、フィドル(ヴァイオリン)、ギターなどの楽器が使われます。アパラチア南部に入植したスコッチ・アイリッシュ(Scotch Irish) といわれる北アイルランドやスコットランドから移住した人たちの伝承音楽をベースにしているようです。

Bluegrass Musicians

Bluegrassはアップテンポの曲が多く、楽器には速弾きなどの即興演奏(インプロヴァイズ)もあります。もちろん、ブルース感を表現する弾き方やハーモニーにも特徴があります。ナッシュビルへ行く機会がありましたら必ず本場のBluegrassを楽しむべきです。
 
テネシー州のナンバープレートには「Volunteer State」とあります。1800代のBattle of New Orleansに人々が駆けつけて応援したことに由来しています。この戦いでイギリス軍を破り、ルイジアナやテネシーがイギリスの植民地支配から解放されていきます。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その三十八 ミネソタ州–10,000 Lakes

カナダと国境を接し、ウィスコンシン州の西隣に位置するのがミネソタ州(Minnesota) です。州都はセントポール(St. Paul)。その隣は最も大きな都市、ミネアポリス(Minneapolis)とです。この二つは隣合わせなので「双子の都市」(Twin Cities)と呼ばれています。

Map of Minnesota

ミネソタ州の人口ですが、白人が88%を占めます。先祖は北欧やヨーロッパの移民のようです。ミネソタの風土や気候が似ていたからでしょう。あまりにも寒いところなので、有色人は少ないように思われがちですが、ラオス/タイ/ベトナムから多くの難民を受け入れている州としても知られています。これらの人々はアメリカではMon(モン族)と呼ばれています。

Missouri River

双子の都市ではプロ野球球団のMinnesota Twinsがあります。フットボールではMinnesota Vikingsが知られています。精密機器などの産業でも有名です。小麦や大麦など穀物の集散地であります。穀物市場を席巻するカーギル(Cargill)や3Mなどの本社もあります。カーギルは人口衛星を使い全世界の穀物の成育や生産状況、消費の情報を基に経営戦略を練り、穀物メジャーとも呼ばれています。

この州のナンバープレートには「10,000 Lakes」と印字されています。無数の湖で知られています。昔、氷河がミネソタ全体を覆っていたようです。氷河はゆっくり移動しますが、そのとき大地を削っていきます。それが基で湖が出来たというわけです。あまりに沢山の湖があるので、目的地に着くには大分迂回しなければならないということを友人から聞いたことがあります。湖が多いので蚊の大群に見舞われます。ミネソタ州の鳥(state bird)は蚊だ、というジョークもあります。

ミネソタ州といえば、ポール・バニヤン(Paul Bunyan)という巨人です。アメリカ合衆国やカナダの民話に出てくる伝説上の怪物です、西部開拓時代の怪力無双のきこりで、ベイブという大きな雄牛や愉快な仲間数人を連れて、アメリカ全土の木を伐って歩き、五大湖やミシシッピ川をつくったという民話があります。開拓民が苦しい生活から生み出した話です。

Paul-Bunyan

旅のエピソード その20 「フットボールは情報合戦」

秋にアメリカへ行くときは是非カレッジ・フットボール(college football)を観戦していただきたいです。週末はかならずといってよいほど、どこかで試合をやっています。入場料は20ドルくらいです。

スタジアムへ行きますと、駐車場ではグリルでハンバーグやホットドックを焼いて景気をつける人々がいます。学生寮の側を通ると、ラジカセやCDプレーヤーのボリュームを一杯に上げて試合前の雰囲気をあおっています。学業からしばし解放された若い学部生がなにかを叫んでは気勢を上げています。いやがおうでも興奮が高まります。

フットボールは情報合戦のスポーツです。高いスタンドには偵察チームが陣取り、攻撃や守備のコーチに相手チームの弱点や強みを無線で教えるのです。戦争でいえば衛星を使って戦場を監視するようなものです。ラン(run)でいくかパス(pass)でいくか、キック(kick)で陣地を挽回するか、あるいはギャンブルするかなどの決定に必要な情報を与えるのです。

クォーターバック(QB)はチームの司令塔、いわば前線の指揮官です。それを動かすのが偵察チームからの情報であり、それに基づいてQBにプレイを指示するのが攻撃(offece)コーチや守備(defence)コーチです。一つひとつのプレイについて、コーチからの指令を受けたQBは円陣を組んで選手にそれを伝えます。この円陣のことをハドル(huddle)といいます。

選手は勝手な行動は許されません。一つ一つのプレイがこうした偵察チームからの情報によって決められます。戦争遂行の作戦と同じです。プレイのパタンはさまざま。それを組み合わせるのです。相手チームも同じように作戦を立てます。いかにして相手の裏をかくか、意外なプレイをするかをスタンドで予測するのがフットボールの醍醐味といえます。

旅は道連れ世は情け その18 YESとNOの使い分け

「旅は道連れ世は情け」のシリーズは今回で最後とします。これまで大勢の優秀な院生と一緒に学んだり教えられたりしました。院生との思い出はいろいろありましたが、なんといっても毎年実施する海外研修旅行でした。海外での研修は半年前から先方と交渉を始めます。

研修では特に学校の訪問が主たる目的です。先方というのは、友人、知人、紹介された人です。このコネがないと訪問交渉はうまく進みません。こちらがなにを調べたいか、どんな人に会いたいか、どんな資料が欲しいか、などを先方に伝えることからスタートします。

通常、ゼミ生以外にも他の講座の院生に広く呼びかけて参加者を募ります。院生のほとんどは教師なので、研修費用には不自由はしません。しかも、大学院で研究する身分ですから時間はたっぷりあります。

研修旅行に際しては、私の役割は訪問日程を決めてから航空券やホテルを予約することです。院生のこまごました世話をあまりしません。ホテルのチェックインや相部屋の決め方、訪問先への道を尋ねることなどは院生にやってもらうことにしています。皆れっきとした大人。自分でやって貰いたいのです。英語というハードルはそこにはありますが、、、今回の話題は外国の空港での手荷物カウンターでのやりとりです。

手荷物を預けるとき、空港の検査官は、旅行者がなにか不審なものを持ち込まないかを調べるます。そこで簡単な質問をします。
検査官 「おかしなものを持っていないか?」
院生 「はい(Yes)」
検査官 「なにを持っているのか?」
院生 「いいえ(No)」
検査官 「??、、、、」

院生は、「はい、持っていません」と言ったのです。

検査官は、怪訝な顔をしてやおらスーツケースを調べ始めました。そしてビニール袋に入った白い粉のようなものをとり出しました。これで一大事です。Yesと言ってしまったからです。
検査官 「これはなにか?」
院生 「これはTop,,Top,,」

院生は粉石けんという単語を知らなかったのです。ソープではなく「ディタージェント(detergent)」という単語が正解です。Topとは洗濯石けんの名前です。院生は検査官と一緒に別室行きです。それを私たち一行はニヤニヤして見つめます。わたしもあえて院生に助け船を出すようなことはしません。

やがて院生が無事解放されてスーツケースと一緒に戻ってきました。しかし、再度の検査で別な検査官とまたYes, Noのやり取りをやってしまったのです。係官の表情がおかしかったです。「この人騒がせなジャップめ」とでも思ったのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その17 「寿司には気をつけよ」

ミネソタ大学の人々にはお世話になったりお世話をしたりしました。思えば誠に幸いで有り難い経験です。前回、広島でのセミナー後の懇親会と費用のことを紹介しました。

ミネアポリス(Minneapolis)に行ったときです。広島へ一緒に行ったミネソタ大学のStan Deno教授が同僚を誘い市内の日本食レストランへ招待してくれました。彼は著名なLDの研究者です。

最初は前菜(appetizer)として大皿の寿司が2枚でてきました。相当な量でした。やがてメインはスキヤキとなりました。大いに飲んで話しが弾みました。Deno教授が勘定を払いに行きましたが、なかなか戻らないのです。振り返るとなにやら交渉している様子です。

彼の同僚は皆ニヤニヤしながら見つめています。Deno教授が戻ると、「寿司の値段を聞かされなかった、あんなに高いものとは知らなかった」とびっくりした表情です。そこで大皿1枚をタダにしてもらったというのです。皆、「Your are a tough negotiator! 」 「凄い交渉人だ」といって持ち上げるのです。あとで、Deno教授は、「研究費での接待費は上限があるので、必死に交渉した」といっていました。

それからは寿司はしばらく笑いのネタとなりました。思い出すだけでもおかしみが沸いてきます。アメリカの和食レストランは一般に高いので注意することです。ミネソタ大学の先生方は日本食レストランに行っていないことがわかりました。田舎者なのでしょう。

01844010759  St. PaulMinneapolis_JA-JP1129900217 Minneaplis

旅は道連れ世は情け その16 「わりかんはない」

ミネソタ大学の人々とはいろいろなエピソードが残っています。1986年頃のことです。私は横須賀にある国立特殊教育総合研究所、後の国立特別支援教育総合研究所で働いていました。研究所主催で「国際セミナー」が開かれました。誰を講師として招くかを協議したとき、ミネソタ大学心理教育学部の特別支援教育の先生方を招くことを提案しました。それが承認されて5人の教授を迎えることになりました。

ミネソタ大学心理教育学部が広島大学教育学部と研究の提携関係にありました。そこで、研究所でのセミナー後広島へ行きたいという先方の要望に応え、一行を連れて広島へ行きました。広島県立教育センターへに招かれて、4時間ほどの研究セミナーをしました。セミナーの開始前に参加していた研修のスタッフは「起立、礼、着席!」の声で始まり、終了後には感謝の意を込めてセンター歌を斉唱するのです。ミネソタの人たちは驚いていました。

その夜の懇親会です。誠に盛大な食事会でした。そろそろお開きと思っていると、先方の幹事が私のところにやってきて、「勘定は個人持ち」というのです。安月給の私です。一瞬クラッとしました。5人の教授から費用をもらうわけにはいかないのです。冷静さを装って6人分を幹事に渡しました。

この懇親会と立て替え費用のことは、長く彼らの間で話題となったと知らされました。その後、日光への観光では彼らは私の旅費や宿泊代をだしてくれました。広島の懇親会から、誰かが損して誰かが得したということではありません。まわりまわって皆が負担し合うというエピソードでありました。

2012012611035744e  University of Minnesota, Twin Cities

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旅は道連れ世は情け その15 台北のホテルでの忘れ物

中華民国の首都はもちろん台北です。市内をあちこちを歩きながら、中国と台湾の独立のことを学びました。

国立國父紀念館の他に、国立中正紀念堂も立ち寄るべきところです。「中正」とは蒋介石の本名です。紀念堂には蒋介石元総統のブロンズ像が鎮座し、その後の壁には三民主義を引き継いだ「倫理」、「民主」、「科学」という蒋介石の基本政治理念が掲げられています。公園や道路名などからも、孫文と蒋介石はこの国では最も大事にされている人物であることがわかります。

国立故宮博物院のコレクションはいうまでもないでしょう。まさに「神品至宝」で詰まっています。もともと紫禁城宮殿で所蔵された重要な文物は、旧日本軍の進出や国共の内戦の激化によって、台湾に運ばれてきたとされます。その運搬経緯はまことに奇跡のような謎に満ちたところがあるようです。

ところがこの台北市内のホテルで忘れ物をしてしまいました。朝ビュッフェで食事をしてから手洗い行きました。いつも身につけているパウチをはずして用を足したのです。部屋に戻ったとき、パウチを忘れたのに気がつきました。慌てて戻ったのですがパウチはありません。食堂にはまだ大勢の団体客が食事中でした。

急ぎカウンターに忘れ物を告げると、すでにそこに保管されていました。中年のメイドさんが届けてくれたことを知りました。その方にお礼をいいながら、なにがしかのチップを差し出しました。ところが笑いながら受け取ってくれません。ホテルの研修が徹底しているせいでしょうか。台湾も日本の「おもてなし」の感化を受けているのでしょう。

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旅は道連れ世は情け その14 「バックパックを忘れた」

このブログ上で忘れ物にまつわるエピソードをいくつか紹介してきました。今回は自分が忘れ物で真っ青になったときと院生の「パスポート事件」の話題です。

大学の同僚とでヴァージニア州(Common Wealth of Virginia)にあるフェアファックス教育委員会(Fairfax County School)と学校を回り、ある調査を依頼したときです。調査のほうは幸い先方が極めて協力的で、質問紙を丹念に検討してくれて「これでいいだろう」ということになり調査に応じてくれることになりました。

翌日は気分良く電車に乗って、ワシントンD.C.のモール(Mall)にあるスミソニアン(Smithonian)の博物館巡りにでかけました。スミソニアン協会は17の直営博物館や美術館を運営する世界一の学芸組織です。いくつかの博物館を回り終えて、お終いは国立アメリカ・インディアン博物館(American Indian Museum)へ入りました。そこの小さな講堂でビデオを観ての帰り、椅子にパスポートやカード、現金、カメラをいれたバックパックを置き忘れました。

忘れ物に気がついたのは博物館をでて30分くらいです。その瞬間目の前が真っ白、呆然となりました。米国では忘れ物は戻らないことが多いのです。急いで博物館に戻り係員に質すと預かっているというのです。持ち物は身から離してはならないという言葉をかみしめた時でした。

ニューメキシコの州都アルバカーキに院生らと視察旅行をしたときです。ネイティブ・アメリカンの博物館で、院生の一人がパストートがないといいだしました。皆で手分けをして探したのですが出てきません。ネイティブ・アメリカンの係員に遺失物として届けがないかをききましたが駄目です。係員は、「兄弟よ、この国に残っていいのだよ」と院生を元気づけようとしたのが忘れられません。

New Mexico  Adobesanta-fe-new-mexico-beautiful-best-places-to-retire Santa Fe