心に残る一冊 その25 Intermission 広辞苑改訂と「はんなり」

このシリーズでちょっと休憩します。先日「10年振りに広辞苑改訂」という記事がありました。毎日のように図書館通いをして大分経ちます。そしてブログの素稿を書くために、きまって新村出氏編集の「広辞苑」を書架から取り出します。調べたい用語や単語を書き写すとすぐ書架に戻します。広辞苑の利用者が多いのです。漢字を調べるときは白川静氏編集の「字通」を借ります。

図書館にある広辞苑は2007年出版の第六版。定価は書いてありません。私が家で使う広辞苑は昭和44年出版の第二版です。定価は3,200円で出版年は西暦を使っていません。初版も昭和30年とあります。

辞書を手にして知りたいことは、その語がどのような意味があるかということです。さらに、語がどのように意味を変えたかを調べるのに辞書は欠かせません。古語や現代語を包括し、学術その他広くゆきわたる語いや事項を含むいわば小百科事典です。語いの多義性とか多様性、実用性を教えてくれるのも辞書です。広辞苑は用例や典拠を豊富に掲げています。語源や語法をみることによって本義や派生語を知ることも望外の楽しみとなります。こうして知的好奇心をかきたててくれます。

広辞苑では、地域語や地域の事情なども選ばれています。たとえば「はんなり」。落ち着いた華やかさを持つさま、上品に明るいさま、とあります。「はんなりとした色合い」というように使うのでしょうか。兼好法師が「今ここで見る顔はまた、はんなりとなつかしう、かわいらしう、恥ずかしう」という具合に引用されています。「花なり」が語源とか。京言葉の代表といわれているようですが、道産子のわたしには「はんなり」という言葉を調べて納得し、なにか京の出になったような気分になります。

同じく岩波書店から出ている「国語辞典」も持っています。こちらは携帯用で、さすがに「はんなり」はありません。固有名詞や外来語を掲載しないのが編集の方針とあります。

心に残る一冊 その24 「たそがれ清兵衛」

「蝉しぐれ」と並ぶ私の愛読書の一冊が「たそがれ清兵衛」です。この小説を読んだのは50代ですが、いつも手元に置いておきたい作品です。庶民や下級武士の悲哀を描いた時代小説にはどこか共感するものがあります。大衆小説の本筋は娯楽色が豊かなこと、という言い方がされますが、私には社会の底辺にいる人々の息づかいを豊かに描く藤沢周平の筆遣いに惹きつけられます。

主人公は下級武士の井口清兵衛。「たそがれ清兵衛」と呼ばれています。病弱な妻の世話や看病のために、同僚との付き合いを断わり、退城の合図とともに黄昏れ時に帰宅するのです。そのため「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれています。

海坂藩の藩主が若くして没し、ほどなく後継者争いが起こります。世継ぎが決まり、旧体制を率いてきた藩士の粛清が始まります。粛清されるべき人物の中に一刀流の使い手、余吾善右衛がいました。余吾は切腹を命じられながらもそれを拒絶し、討手の服部某を斬殺し自分の屋敷にたてこもります。海坂藩は清兵衛に新たな討手として命じます。交友があった余吾善右衛に清兵衛は自首をすすめます。

壮絶な果たし合いが終わり清兵衛は、傷だらけで自宅に戻ります。清兵衛を待っていたのは2人の娘と朋江という女性です。清兵衛は幼なじみの朋江を思い続けていたのです。やがて清兵衛は朋江を妻に迎えます。

明治維新とともに勃発した戊辰戦争で賊軍となった海坂藩は、圧倒的な官軍と戦うことになります。清兵衛は官軍の銃弾に倒れます。時代に翻弄される人々の一人にたそがれ清兵衛をみるのです。

心に残る一冊 その23 「三屋清左衛門残日録」 醜女

この時代小説を読んでいますと、なにか自分に思い当たることが描かれていて実に愉快な気分になります。

「さぞのんびり出来るだろうと思っていたのだ。たしかにのんびり出来るが、やることななにもないというのも奇妙なものでな。しばらくはとまどう」 清左衛門はかつての部下であった佐伯熊太にいいます。

「過ぎたるはおよばざるが如しだ。やることがないと、不思議なほどに気持ちが委縮してくる。おのれのもともとの器が小さい証拠だろうが、ともかく平常心が戻るまでしばらくかかった」

熊太は「ひと一人の命がかかっている話」を清左衛門を持ちかけ助けを求めます。おうめという女のことです。彼女は城下の貸家の娘です。行儀見習いのため城の奥御殿に奉公にはいります。あるとき藩主が何の気紛れを起こし、醜女と呼ばれていたおうめに一夜の伽をいいつけるのです。その一夜の出来事のあと、身籠ったらしいという噂で、おうめには暇が出され実家に戻り、藩から三人扶持をもらう身分となります。三人扶持とは3人の家来や奉公人を抱えることができる切米のことです。

あまり公にできないことなので、ほとほと困っている熊太は、手を貸せと清左衛門に頼みます。

「しかし、わしはもやは隠居の身でな。公けのことを手伝うには倅の許しをもらわなくてはならないだろう」
「そのことならさっき、城で又四郎どのに会った話した」 熊太ははぬかりなく言います。又四郎は清左衛門が家督を譲った息子です。

「おやじは退屈しているはずだから、かまわんでしょうと言っておったぞ」

身籠ったのは、相手がわからぬ父なし子というので、殿の威信を損なわないように、おうめを密かに処分してしまえという山根備中という組頭がいうのです。山根は権威主義に忠実な家風で育ったため、言うだけではなく、実際におうめを抹殺しかねない、と清左衛門は考えおうめを助けようと人肌脱ぐのです。

心に残る一冊 その22 「三屋清左衛門残日録」 微変化

一旦、老境の悲哀を感じながら,清左衛門にはわずからながら生活に変化が生じます。藩内に起こる権力を巡る動向に助けを求められるのです。隠居の身のところに、かつての部下がやって難題を持ち込むのです。うっとうしくも感じながら、まだまだ自分の経験や知恵を必要とする人々がまわりにいるのを知り、清左衛門は生活に変化を感じていくのです。「のんびり隠居などしていられない」という姿勢に、自分がまだ平衡感覚を有しているらしいとも感じます。

 

 

 

 

 

 

 

この時代小説は、いくつかのエピソードが登場します。「白い顔」では妻の多美を酔うたびに苛む25歳の藤川金吾に清左衛門は激昂します。実家に逃げ帰って離縁した多美は平松与五郎に嫁ぎます。二人は一バツなのですが、二人の縁を取りもつのが清左衛門です。それを恨んで藤川が清左衛門を待ち伏せます。

「多美を平松に片付けるのに隠居がずいぶんと骨折ったという話を聞いたぞ」
「それが何か?」清左衛門はいくらか無意味な気持ちでこたえます。
「おてまえにはかかわりがござるまい」
「そうはいかぬ。多美はまだおれの女だ」
「だまらっしゃい!」 清左衛門は一喝します。
おれの女という下卑な物言いに腹立つ清左衛門です。相手の不気味さを忘れて憤怒の声がでるのです。

藤川の柄に右手が伸びた瞬間、清左衛門は走り寄って藤川の右腰に身を寄せ、柄を握った相手の手首に気合いもろとも手刀を打ち下ろします。めまぐるしく動いたのに、ほんの僅かだけ息がはずむのです。隠居の身でありながら、道場に再び通っている甲斐があったと清左衛門は感じます。

心に残る一冊 その21 「三屋清左衛門残日録」 寂寥感

「日残りて昏るるに未だ遠し」に始まるこの小説は、生涯の盛りが過ぎ、老いて国元に逼塞するだけだと考えていた主人公三屋清左衛門にいろいろな出来事が起こります。その身にふりかかることは、藩の執政府は紛糾の渦中に巻き込まれるのです。そんな隠居暮らしに葛藤する老いゆく日々の命の輝きが描かれています。まるでいぶし銀にも似たような藤沢周平の筆遣いを感じる一作です。

勤めていたころは、朝目覚めたときにはその日の仕事をどうさばうか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、してみると朝の寝ざめの床の中でまず、その日、一日をどう過ごしたらよいかということから考えなければならなかった。」清左衛門の朝はこのようにして始まります。

藩邸の詰め所にいる時も役宅にくつろいでいる時も公私織り交ぜておとづれる客が絶え間なかったのだが、今は終日一人の客もこなかった。」 客が来なかった日は何の会話もなかったということです。

仕事のからむ一切の雑事から解放された安堵のあとに、強い寂寥感がやってきたのは思いがけないことであった。」 仕事一筋の人生のあとにやってくる自由さの中の複雑な思いです。

こうした感慨は、私も定年退職後に経験したことでした。「今日は何人の人と会話したか?」ということも考えるのです。このフレーズは父親が亡くなったとき整理していた日記から出てきたものです。彼は日記をつける習慣がありました。96歳のとき「かっての友人は一人もいなくなった」ともいっていました。

心に残る一冊 その20 「木綿触れ」

藤沢周平の小説には、下級武士の無念や悲劇、農民や職人のつましくも助け合い生きる姿を描いた作品が目だちます。彼の故郷は山形県鶴岡市です。東北の小京都といわれる静かなたたずまいの城下町です。山といえば、羽黒山や月山、湯殿山、金峯山などが周りにあります。そして川です。内川、青龍寺川、赤川が作品に登場します。山と川、そして橋が舞台となっています。

子を失って悲嘆にくれる妻を励まそうとする下級武士、結城友助。代官手代の上司、中台八十郎は代官所で金を吸い上げ、倹約令がでているのに絹の着物など、ぜいたくな身なりをし妾も囲っています。下士も庶民も絹を着てはならない時代です。苦しい生活の中から妻はなえに中台のために差し操って絹の着物を作らせた親切が仇となります。そして中台に妻を弄ばれるのです。はなえはそれが元で自殺を遂げるのです。はなえが身を投げたのが川です。

友助は代官手代中台八十郎の屋敷に出掛けます。

友助 「言うことをきかなければ、お上に訴える。そうなれば自分だけでなく、亭主も結城家の家名も危ういとでも言いましたか?それでは、あの臆病な家内がどう手向かえるものでもない。死んだ者同然に、言うことをきいたはずです」
中台 「それでいいではないか、結城、」
中台 「事実、そのために結城の家にも、おぬしにも、なんのお咎めもないではないか」
友助 「しかしそのために家内は死にましたぞ」
中台 「そんなことは、わしは知らん。女が勝手に死んだのだ」
友助 「あなたは、人間の屑だ」

友助は抜き打ちに中台の肩を切り、はなえの仇を討つのです。そして正座して腹をくつろげます。庭に水音が響き、家の中はなお静まりかえっています。腹を切るのを妨げる者は誰もいません。

心に残る一冊 その19 「蝉しぐれ」 その五 お福との別れ

「蝉しぐれ」の最終稿です。文四郎は、お福と御子を救った勲により二十石の加増となります。さらに一緒に闘った布施鶴之助の召し抱えを横山家老に願いでて受理されます。家老家を出ると文四郎は、追放された里村の刺客に襲われます。文四郎は、秘剣村雨の極意を使いかろうじて刺客を仕留めるのです。

20数年後、文四郎は郡奉行として出世します。そして父親のかつての名、助左衛門をもらい二人の父親になります。江戸では側室として仕えたお福の前藩主が亡くなり、その一周忌を前にしてお福は白蓮院の尼になることを決め、海坂藩に戻ってきます。そして、その前に助左衛門に会いたいと手紙を送ってきます。

二人はしみじみと語らい、感極まって手をとり合い抱き合うのです。助左衛門はお福の唇を求めると、お福それにも激しく応じてきます。しばらくしてそっと助左衛門の身体を押しのけ、声をしのんで泣くお福です。別れ際にお福は言います。

「ありがとう文四郎さん、これで思い残すことはありません」

権力争いの渦中にあって、主人公文四郎の凜としてさっそうたる生き方と清朗な行動、親友との一途な剣の修行と友情、市井の人々や農民への暖かい眼差しと寄り添う生き方があります。そこには抒情が漂います。

心に残る一冊 その18 「蝉しぐれ」 その四 奸計と死闘

ふくが蛇に咬まれたときの様子です。右手の中指がぽっくりと赤くなっていま。文四郎はためらわずその指をふくむと、傷口を強くすいます。泣くふくを文四郎は叱るのです。「泣くな」 赤くなっていた唾を吐き捨てるのです。文四郎とふくの相思の情はやがて広がります。

15歳の時、藩主の手が付いて側室となったふくはお福と名乗ります。すぐに身ごもるのですが流産してしまいます。文四郎の親友で、江戸藩邸にいて論語などの学問をしている島崎与之助は、流産は側室おふねの陰謀だという噂があると文四郎に語るのです。その後送られてきた与之助の手紙には、江戸藩邸でにわかにお福の評判が悪化し、藩主の寵愛を失ったという噂が触れられています。

海坂藩内では跡目を巡る権力争いが激化します。文四郎の父、助左衛門も義のために反逆者と烙印を押され切腹させられたのです。牧家を潰されなかった文四郎にも家老里村左内=稲垣派と横山派の派閥争いを目の当たりにしていきます。そして双方から誘いがやってきますが、文四郎は態度を決めかねています。

お福は海坂藩にある藩主の御殿、欅御殿で藩主の御子を産み、そこに隠れます。この子どもが成長し藩主になることに危惧を抱くのが里村=稲垣派です。お福と子どもを亡きものとし、それを横山派の仕業としようとします。そして里村は横山派が御子に食指を動かしている、とそそのかし文四郎に御子をさらってこいと命令するのです。里村はさらに、牧家を潰さなかった貸しがあると文四郎に伝えます。

家老里村の奸計に気づいた文四郎は、友人の逸平らとでお福と子どもを助けに御殿に向かいます。そのとき里村の一隊が御殿にやってきます。里村らの考えはこうです。文四郎を御殿に乗り込ませ、そこを襲って文四郎と御殿の人間を皆殺しにする、その罪は文四郎一人に着せ、あとでそれとなく横山派の仕業と匂わせる。さらに横山派が里村派に罪を着せるために文四郎を使って御子を奪わせようとしたが、護衛の者と斬り合いになって相撃ちに倒れた、という台本を考えていたのです。

文四郎らは死闘の結果、お福と御子を無事助けて横山家老に預けます。里村=稲垣派に対する処分が発表されます。里村らは領外永久追放や座敷牢に閉じ込める郷入り処分となります。

心に残る一冊 その17 「蝉しぐれ」 その三 父の切腹

文四郎は牧家に養子にきて育てられたのです。つましい牧家の暮らしながら、養父、養母から暖かい愛情をそそがれて成長します。世継ぎを巡る閥に巻き込まれた養父は、詰め腹を切らされることになります。

「しかし、わしは恥ずべき事をしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。おそらくあとには反逆の汚名が残り、そなた達が苦労することは目に見えているが、文四郎はわしを恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ、、登世をたのむぞ、、、、」 登世は文四郎の養母です。

「夜が明けると、日はまた昨夜の嵐に現れた城下の家々と木々にさしかけ、その日射しは、六ッ半(8時)に達する頃には、はやくも堪えがたい署熱の様相をむき出しに見せ始めた。そして五ッ半になると牧文四郎の家に城から使者がきた」

「藩に対する反逆の罪により、牧助左衛門には切腹を。牧家は家禄を四分の三に減じ、普請組を免じて、家は長屋に移す。」  使者は文書を読み上げます。
「自裁し終わった遺骸は、それぞれの家で引き取って貰う。できれば荷車を支度するように」 
文四郎 「何刻までに参ったらよろしゅうございますか?」
使者 「始まるのは四ッ半、助左右衛門どのは昼過ぎになろうが、昼までには寺にきておるほうがようかろう」

予期していたように、むしろをかけられた父親の荷車は行く先々で人々の冷たい視線を集めます。軒下にたっている人々が一語も出さず、しんとして自分を見送るのを文四郎は痛いほど感じるのです。

「さあ、押してくれ!」
助けにきてくれた道蔵に一声かけると文四郎は最後の気力を振り絞って、横たわる父親の荷車を押してのぼりになる坂をはしり上がります。その姿は「蟻のごとく」、車はそれほど重かったのです。喘いで車を押す文四郎の眼に、組屋敷から小走りにかけつけて来る少女の姿が映ります。確かめるまでもなく、それはふくです。文四郎の側までくると、荷車の上の遺体に手を合わせ、文四郎に寄り添って梶棒をつかみ、涙がこぼれるのをそのままに一心な力をこめて梶棒を曳くのです。

心に残る一冊 その16 「蝉しぐれ」 その二 海坂藩

藤沢周平の出身地はかつての庄内藩。彼の多くの作品にでてくる城下町、領国の風土の描写は、庄内藩とその城下町鶴岡が下敷きとなっています。それが架空ですが海坂藩です。後に紹介する長編「三屋清左衛門残日録」や「風の果て」といった作品の舞台も海坂藩を伺わせてくれます。

政変に巻きこまれて父を失い、家禄を減らされた主人公、牧文四郎の成長を描いたのが「蝉しぐれ」です。小説の冒頭では文四郎は15歳。市中の剣術道場と学塾に通い、ひとつ年上の小和田逸平や同い年の島崎与之助と仲がよく、また隣家の娘ふくに不思議と心を引かれ、すこしずつ大人になっていきます。平凡な日々がおだやかに過ぎてゆくなかで、海坂藩内ではお世継ぎをめぐる政争が表面化し、これに養父助左衛門も関与していきます。

城の周りを流れる五間川が氾濫しそうになって、外出中の助左衛門の代わりに文四郎が駆けつけたことがあります。遅れて到着した助左衛門は、金井村の田がつぶれるのを防ぐために、堤防の切開の場所を上流に変更するよう、指揮を執っていた相羽惣六に進言します。金井村の人々はそのときのことを感謝し、後に助左衛門が反逆罪で捕らえられた時には、堤防切開工事に一緒に参加した青畑村の人々と共に助命嘆願書を提出します。

藩内には横山派と稲垣派との政争があり、助左衛門は横山派に加わり、特に村々を回って村方に横山派を作り上げる働きをします。しかし、文四郎が16歳の年の夏、横山派が稲垣派に敗れ、一統12名と共に藩に対する反逆の罪で切腹を言い渡されます。切腹前日、面会を赦された文四郎に助左衛門は言い残すのです。

「父を恥じてはならぬ、母を頼む」