アメリカ合衆国建国の歴史 その20 地域の拡張と領土の増大

合衆国の形成期には、人口増加、居住地域の拡張、領土の増大がほぼ並行して進みます。1790年の第一回国勢調査では約223万キロの領土となり、1863年にルイジアナ州を買収しほぼ2倍の国土となります。さらに1819年にはフロリダを買収し、1830年のインディアン移住法(Indian Removal Act)によりインディアンを強制的に西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立し1845年のアメリカへの併合を決めます。イギリスとアメリカによって共同で占有されていたオレゴン・カントリー(Oregon Country)の割譲による1846年のオレゴン条約(Oregon Treaty)の締結、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達します。1845年にテキサス、翌年のオレゴンの併合に続き、1848年にはカリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナの大部分、コロラドの一部、ワイオミング、ニューメキシコを含む北アメリカ大陸の南西部がメキシコから割譲されて、領土は大陸の三分の二に増大します。

インディアン移住法

1853年、メキシコ担当大臣ジェームズ・ガズデン(James Gadsden)によるアリゾナ州南部およびニューメキシコ州購入で大陸部の領土拡張は完了します。1790年には、393万人の住民のほとんどが大西洋岸に居住し、植民は東部海岸から内陸に向かって400キロくらいまで進みます。その一部はさらに西方のオハイオ、カナダ、ミシシッピ川水系オハイオ川の支流のひとつであるカンバーランド川(Cumberland River)まで広がっていきます。ニューヨーク州のエルマイラ(Elmira)、ビンガムトン(Binghamton)に人々が居住し始め、ミシガン州デトロイト、マキナック(Mackinac)、ウィスコンシン州グリーンベイ(Greenbay)、プレーリー・ド・シン(Prairie du Chien)、インディアナ州ビンセンス(Vincennes)にも開拓地が置かれます。後にアラスカとハワイも1959年に州に昇格します。

Alaska/Russia

アメリカ合衆国建国の歴史 その19 人口の増大と黒人奴隷

アメリカ植民地の地方行政自治の浸透は、イギリス帝国内における自治の傾向を当然ながら反映したものでした。 1650年の植民地の人口は約52,000人でした。1700年は約250,000人となり、1760年には170万に近づいていきました。 ヴァジニア州は1700年の約54,000人から1760年には約340,000人に増加しました。ペンシルベニア州は1681年の約500人の入植者で始まり、1760年までに少なくとも25万人となりました。さらにアメリカの他の都市も成長し始めました。1765年までにボストンは15,000人に達します。ニューヨークは16,000〜17,000人、植民地で最大の都市であるフィラデルフィア(Philadelphia)は約20,000人でした。

人口増加の一部は、奴隷として連れて来られたアフリカ人移民の結果でした。17世紀には、奴隷の人口はごく少数でした。18世紀半ばまでに南部の入植者は、自分たちの農園によって生み出された利益は、奴隷労働に必要な比較的大きな初期投資を賄えることを知ります。それによって奴隷貿易の量は著しく増加しました。ヴァジニア州では、奴隷人口は1670年の約2,000人から1715年にはおそらく23,000人に跳ね上がり、アメリカ独立戦争の前夜には150,000人に達しました。サウスカロライナの奴隷人口はさらに劇的でした。1700年には、およそ2,500人以下の黒人がいましたが、1765年までに80,000〜90,000人になり、人口比では黒人は白人を約2対1と上回っていました。

奴隷の行方

アメリカ大陸に自発的に移住してきた人々を惹き付けた魅力の1つは、安価な耕作地を利用できることでした。開拓者の西部への移住では、17世紀初頭にはアメリカ全土が開拓地であり、18世紀までには開拓地は海岸線から15〜320 kmの範囲にありました。これはアメリカが発展する歴史の大きな特徴です。1629年から1640年までに、イギリスのピューリタンがアメリカに大量に移住してきました。17世紀を通して、移民のほとんどはイギリス人でした。しかし、18世紀から20世紀になると、主にドイツ、プファルツ州(Palatinate)のラインラント(Rhineland)からのドイツ人の波がアメリカにやって来ました。1770年までに225,000人から250,000人のドイツ人がアメリカに移住し、その70%以上が中部植民地に定住しました。寛大な土地政策と宗教的寛容の精神が彼らの生活をより快適にしました。

奴隷の売買

1713年以降に大規模に始まり、アメリカ独立戦争を過ぎても続いたスコットランドーアイルランド系アメリカ人とアイルランド系移民の人口は、より均等に分布していました。1750年までに、スコットランド系アイルランド人とアイルランド人は、ほぼすべての植民地の西部で見られるようになりました。しかし、ヨーロッパ人がより大きな経済的機会を求めたあらゆる地帯での独立と自給自足の探求は、土地を占有する先住民族との悲劇的な紛争につながりました。ほぼすべての場合、ヨーロッパ人は、土着生活や固有の文化を主張する先住民族を尊重せず、大陸の先住民族を辺境の地へ追いやることになります。

Black lives matter.

アメリカ合衆国建国の歴史 その18 植民地行政とタウンミーティング

チェサピーク社会とカロライナ社会の西部地域には、独自の特徴がありました。統治の伝統は少なく、土地と富の蓄積はそれほど顕著ではなく、社会的階層制はそれほど堅固ではありませんでした。一部の地域では、東部における規制や統治機構に対抗し、それが紛争につながります。ノースカロライナ州とサウスカロライナ州の両方で、東部の支配階級のエリートによる無反応な姿勢に対して、武装した争いが噴出しました。しかし、18世紀の中盤になると多くの人々が富と社会的名声を蓄積し、ノースカロライナ州とサウスカロライナ州は東部の州と同様に発展していきます。

Town Meeting

ニューイングランドの社会はより多様であり、統治機構は南部の機構に比べて寡頭的ではありませんでした。ニューイングランドでは、タウンミーティング(town meetings) といった市民参加の行政が、郡(county)裁判所の狭い基盤を超えて、州政府への関わりを拡大するのに役立ちました。州議会の議員を選出したタウンミーティングは、ほぼすべての自由な成人男性に開かれていました。それにもかかわらず、比較的少数の男性グループがニューイングランドの州政府を支配しました。南部と同様に、高い職業的地位と社会的名声のある男性は、それぞれの植民地の指導的地位に深くつながっていました。ニューイングランドでは、商人、弁護士、そして少ないながら聖職者が社会的および政治的エリートの大部分を占めていました。

中部植民地における社会的および統治的な仕組みは、他のどの地域よりも多様でした。ニューヨークにおいて地主(manor)や大地主が持っていた広範な統治の仕組みは、多くの場合、非常に封建的な制度となっていました。大きな邸宅の入居者は、しばしば邸宅の大土地所有者からの影響を逃れることが不可能であることを理解していきます。司法行政、代表者の選挙、税金の徴収は、しばしば邸宅内で行われました。結果として、大土地所有者は、途方もないほどの経済的および政治的権限を行使しました。

タウンミーティングの様子

1766年に起きた大きな反乱は、大地主に向けられた短期間での爆発であり、中産階級の間で広まった不満の兆候でした。対照的に、ペンシルベニア州の統治機構は、アメリカの他のどの植民地よりも開放的かつ双方向的でした。一院制の立法府は、強力な知事評議会によって科せられた制約から解放され、ペンシルベニアが王立と所有者からの影響から比較的独立していきました。この事実は、初期のクエーカー教徒の入植者の寛容で比較的平等主義的な特徴、その後の多数のヨーロッパ人の移民と相まって、ペンシルベニアの社会的および統治的機構を他のどの植民地よりも民主的なものとしましたが、同時に派閥も形成することになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その17 植民地行政の成長

イギリスとアメリカとの地理的距離、アメリカ人の王室の役人に及ぼす強力な圧力、そして大規模な官僚機構が抱える非効率性は、王室の権力を弱めていきました。それによって、植民地の問題に対する地方の指導者への支持が高まっていきます。18世紀になると植民地議会は議会の権限を支配し、課税と防衛に影響を与える立法の主要な責任を果たし、最終的には王室の役人への給与を決めることになりました。

州の指導者はまた、知事の権限にも介入するようになりました。知事は規則上では地方公務員の任命を管理し続けるのですが、実際にはほとんどの場合、地方の州の指導者の勧告に自動的に従うようになりました。同様に、王権の代理人である知事評議会は、ロンドンの王立政府の利益よりも下院の指導者の利益を反映する傾向になり、評議会は著名な州の指導者によって支配されるようになりました。

こうして18世紀半ばまでに、アメリカにおけるほとんどの行政権力は、王室の役人ではなく、州の役人の手に集中していきました。こうした州の指導者は、例外なく彼ら構成員の利益をどの王室の役人よりも忠実に大事にしていきました。ですが当時の州の統治は、現代の基準からすれば、到底民主的なものではなかったようです。 一般的に指導者の社会的名声や行政力は、経済的地位によって決定される傾向がありました。植民地時代のアメリカの経済的資源は、ヨーロッパほど不均衡ではありませんでしたが、比較的少数の人々の手によって支配されていました。

North Carolina Beach

ヴァジニア州とメリーランド州のチェサピーク湾(Chesapeake Bay)社会、特にブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains) の東の地域では、農業生産者が植民地の経済生活のほぼすべての面で支配するようになりました。これらの生産者には、少数の著名な商人と弁護士が加わり、地方政府の最も重要な機関である郡裁判所と州議会の2つを支配しました。自由な成人男性の大部分、すなわち80パーセントから90パーセントの男性が行政のプロセスに参加できたにも関わらず、少数の裕福な人々の手に並外れた権力が集中したのは驚きです。それでもチェサピーク社会の一般市民、およびほとんどの植民地の市民は、彼らが「より良い」と考えていた人々に権限を委ねました。

権力を少数の人々の手に集中させることを可能にした社会倫理は、とても民主的なものとはいえませんでしたが、少なくともヴァジニア州とメリーランド州では、これらの社会の人々が、指導者に不満を持っていたという証拠はほとんど残っていません。一般的に人々は、地元の役人が行政を担うものであると信じていたようです。

Charleston

カロライナ州では、米と藍の生産者である小さな集団が富の多くを独占していました。ヴァジニア州やメリーランド州と同様に、生産者は社会的なエリート集団を構成するようになりました。原則として、カロライナでは、ヴァジニア州とメリーランド州のような寡頭制のような責任ある統治の伝統を持っていなかったため、生産者が不在地主や知事になる傾向がありました。こうした者は、生産現場や政治的責任から離れて、チャールストン(Charleston)で過ごすことが多かったようです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その16  王室による知事の任命

イギリスの王室統治機構に加えて、アメリカにはイギリスの商業帝国の規制を支援したり、植民地の内政の監督責任を持つ多くの王室の役人がいました。しかし、アメリカ諸州の政治における王権の弱点は顕著でした。一部の地域、特に17世紀のニューイングランドの企業植民地や;その他の植民地では、王室に責任のある知事がおらず、王権を行使することはありませんでした。これらの植民地に王室の知事がいないことは、貿易規制の施行に特に悪影響を及ぼしました。

任命される知事

実際、ニューイングランドの政治的および商業的活動に対する王室の統治の欠如から、貿易委員会は1684年にマサチューセッツ湾憲章を覆し、マサチューセッツを他のニューイングランド植民地およびニューヨークとともに、ニューイングランド自治領に統合するようにしました。植民した人々が1688年のイギリスの名誉革命(Glorious Revolution) の混乱に乗じて自治領統治計画を覆すことに成功すると、王室はその利益を守るためにマサチューセッツに王室知事を設置することになりました。

王室任命の知事がいる植民地の数は1650年の1つから1760年に8つに増えました。王室は、その政策が確実に実施されるようにする仕組みを備えていました。枢密院(Privy Council)は、アメリカの各王立知事に、州の権限の範囲を細かく定義する一連の指示を出しました。州知事は、州議会をいつ召集するかを決定し、議会を閉会したり、または解散し、議会によって可決された法律を拒否する権限を有することになっていました。植民地の統治以外の場でも知事の権限は大きいものがありました。

名誉革命

ほとんどの直轄植民地では、州知事は植民地議会の上院の構成、財務長官、司法長官、およびすべての植民地裁判官などの重要な地方公務員を任命できました。さらに、知事は地方行政機関に対して多大な権限も持っていました。地方行政の主要な公務員であった郡裁判所の役人は、ほとんどの直轄植民地の知事によって任命されました。したがって、知事はアメリカのすべての行政機関を直接的、間接的に統治することができました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その15 航海条例と重商主義

アメリカの植民地に対するイギリスの政策は、必然的に国内政治の影響を受けました。17世紀と18世紀のイギリスの政治は決して安定していなかったので、当時のイギリスの植民地政策が明確で一貫して発展しなかったことは驚くべきことではありませんでした。植民地化の前半世紀の間、植民地自体が非常に混乱していたため、イギリスが賢い植民地政策を確立することはさらに困難でした。

政策目的の多様性と植民地の統治構造のために、イギリスがヴァジニア、メリーランド、マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランドが、帝国の全体的な計画にどのような役割を果たすかを予測することはほぼ不可能でした。しかし、1660年までにイギリスは帝国にとって高い利益をもたらす方策で再編成するための最初の一歩を踏み出します。すなわち、1660年に航海条例(Navigation Acts)が成立し、1651年にはその条例を一過的ながら修正し追加したことです。

Boston Tea Party

航海条例によってイギリス本土、またはイギリスの植民地に向かう商品は、原産地に関係なく、イギリス船でのみ出荷すること、それらの船員の4分の3はイギリス人であると規定しました。また、砂糖、綿、タバコなどの「特定物品」はイギリスにのみ出荷され、他の国との貿易は禁止されていました。この規定は、ヴァジニア州とメリーランド州に特に大きな打撃を与えることになります。これらの2つの植民地は、イギリスのタバコ市場を独占し、他の場所でタバコを販売することを禁じられていました。しかし、イギリスだけで生産物のタバコを吸収することはできなかったからです。

Navigation Acts

1660年の航海条例は保護貿易主義ですが、イギリスの商業帝国全体を保護するには不十分であることが判明し、その後、他の航海条例が可決され貿易システムが強化されました。 1663年に議会は、植民地に向かうヨーロッパの商品を運ぶすべての船舶が関税を支払うように、最初にイギリスの港を通過することを要求する法律を可決しました。貿易商が特定の物品を沿岸貿易で植民地から別の植民地に輸送し、それから外国に運ぶことを防ぐために、1673年に議会は、貿易商がそれらの商品がイギリスだけに運ばれることの保証金を支払うことを要求しました。

さらに、1696年に議会はイギリスの商業帝国を監督するために貿易委員会を設立し、植民地総督が貿易規制の施行を保証する枠組みを設置し、航海条例に違反した人々を起訴するためにアメリカに次席的な裁判所を設置します。全体として、こうしたイギリスへの統合を求める施策は成功しますが、他方でかなりの植民地貿易がイギリスの規制を回避していきます。それにもかかわらず、イギリスが17世紀後半から18世紀半ばまでに、アメリカの植民地により大きな商業的、および政治的秩序を確立することに部分的に成功したことは明らかです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その14  ジョージア州

博愛主義者の集まりであるフリーメイソン(Freemason)という友愛結社の会員であったイギリス人軍人のジェームズ・オグルソープ (James Oglethorpe)は、負債のために苦しんでいた人々の移住先を築こうと、ジョージア(Georgia)植民地のサバンナ(Savannah)にやってきます。オグルソープの計画は、投獄された債務者をジョージアに移送し、そこで彼らを労働をによって更生させて、そのことによって所有者は利益を上げることができました。実際にジョージアに定住した人々や貧しい債務者でなかった多くの人々は、非常に制約の多い経済的および社会的システムに遭遇します。

Freemasons

オグレソープと彼のパートナーは、個々の土地所有の規模を500エーカー(約200ヘクタール)に限定し、奴隷制を禁止し、ラム酒の飲酒を禁止し、相続制度によって大規模な土地の蓄積を制限しました。こうした規則は考え方としては高潔でしたが、進取の気性に富んだ入植者と所有者との間にかなりの緊張を生み出しました。さらに、経済は植民地を更に発展させようとする人々の期待に応えていきませんでした。ジョージア州の絹生産は、カロライナ州と同様に収益性の高い作物とはなりませんでした。

Savannah, Georgia

入植者は植民地の政治組織にも不満を持っていました。 土地の所有者は、理想となるような実験を綿密に実施することには主たる関心を持っていましたが、地元に自治組織をつくらせようとはしませんでした。 所有者の政策に対する抗議が高まるにつれ、1752年の王室が植民地の支配権を握ります。 その後、入植者が不満を持っていた奴隷制度をやめさせようとする制限が解除されました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その13  カロライナ州

イギリス帝国は1629年の当初に勅許をだしてカロライナ(Carolina)を植民地化し、そこに助成金を拠出していました。イギリスの基準から並外れた富と権力を持った8名の男性が、実質的にこのカロライナを植民地化し始めたのは1663年でした。所有者はカロライナの温暖な気候で絹を栽培しようとしましたが、絹という貴重な商品を生産するためのあらゆる試みは失敗します。さらに入植者をカロライナに引き付けることは困難であることがわかってきます。

Map of Carolina

先住民族との一連の激しい争が鎮静化した後、人口が大幅に増加し始めたのは1718年になってからでした。入植のパタンは2つありました。ノースカロライナ(North Carolina) は、複雑な海岸線によってヨーロッパとカリブ海(Caribbean)の貿易から大部分が切り離されていましたが、中小規模の農場のコロニーは発展しました。サウスカロライナ(South Carolina) は、カリブ海とヨーロッパの両方と密接な関係が生まれ、米を生産し1742年以降は世界市場向けに藍 (indigo)を生産しました。

ノースカロライナとサウスカロライナへの初期の入植者は、主に西インド(West Indian)の植民地からやってきました。しかし、この移住のパタンは、ノースカロライナ州ではそれほど特徴的ではありませんでした。ノースカロライナ州では、住民の多くがヴァジニア州民が自然に南部へ移住してきたのです。

Lord Antony Shaftesbury

1669年にアンソニー・クーパー(Anthony Cooper)、後のシャフツベリー卿(Lord Shaftesbury) が哲学者ジョン・ロック(John Locke)の助言を受けて起草した基本憲法は、カロライナで最初の政府の枠組みとなります。しかし、制約が多く封建的な内容のためにほとんど効果がありませんでした。基本憲法は1693年に放棄され、土地所有者の権限を弱め、州議会の権限を高める枠組みにとって代わられました。 1729年、主に所有者が権利を守ろうと要求した問題に対処できなかったため、カロライナはノースカロライナとサウスカロライナという別々の直轄植民地に分離しました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その12  ニュージャージー州

ニュージャージー(New Jersey)の成立は、植民地時代のほとんどを通してニューヨークとペンシルベニアの影に隠れていました。 1664年にイギリスの王室によってヨーク公爵に譲渡された領土の一部は、後にニュージャージーの植民地ともなりました。ヨーク公爵は次に、彼の土地のその部分を王の2人の親しい友人であり仲間であるジョン・バークレー(John Berkeley)とジョージ・カーテレット(George Carteret)に与えました。 1665年、バークレーとカーテレットは独自の方針で自治政府を設立しました。しかし、ニュージャージーの助成金をめぐって、ニュージャージーとニューヨークの地権者の間で絶え間ない衝突が発生しました。

John Berkeley

ニュージャージーの法的地位は、バークレーが植民地への半分の関心を2人のクエーカー教徒に売却することによって、さらに複雑になります。その後、この地域は、カーテレットが管理する東ジャージーとペンと他のクエーカー教徒の管財人が管理する西ジャージーに分割されます。 1682年にクエーカー教徒は東ジャージーを購入しました。所有者の多様性と行政の混乱によって、入植者と植民者の双方が所有権の取り決めに反対し、1702年にイギリス王室は2つのジャージーを一つの王立州に統合します。

Old New Jersey

クエーカー教徒は東ジャージーを購入したとき、ペンシルベニアへの水路を保護するために、デラウェアとなる予定の土地も取得しました。その領土は、ペンシルベニア植民地の一部であり、議会が開催される1704年まで続きました。こうしてアメリカ独立戦争まで、ペンシルベニア州知事の統治化となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その11 ウィリアム・ペンとペンシルベニア州

ペンシルベニア州(Pennsylvania)は、その創設者ウィリアム・ペン(William Penn)のリベラルな政策のおかげもあり、アメリカのすべての植民地の中で最も多様でダイナミックに繁栄することになります。 ペン自身はイングリッシュ・ホイッグ(English Whig)と呼ばれるリベラルでしたが、決して過激な思想の持ち主ではありませんでした。 彼のクエーカー教徒(Society of Friends)としての信仰は、当時の一部のクエーカー教徒の指導者の宗教的過激主義ではなく、信仰における大事な教えである良識と平和主義の自由の尊重など、ホイッグの教義といわれる基本的な信条へ信奉が特徴でした 。 ペンは、新世界で提唱した「聖なる実験」(holy experiment)によって、これらの理想を実現しようとしました。

William Penn

ペンは、1681年にチャールズ2世(Charles II) からデラウェア川(Delaware River) 沿いの土地を父親の王への忠誠に対する報酬として与えられます。 1682年にペンによって提案された最初の「政府の枠組み」は、それぞれ植民地の自由な所有者によって選出される評議会と下院議会から成るものでした。評議会は立法について唯一の権限を持つとされました。下院は、評議会によって提出された法案を承認または拒否することができました。この形態の政府の「寡頭的」性質について多くの反対があり、その後ペンは1682年に第二の政府の枠組みを提案し、1696年には三番目の政府の枠組みを提案します。しかし、どれも植民地の住民を完全に満足させることはできませんでした。1701年に、ようやく議会にすべての立法権を与え、評議会を諮問機能のみを備えた任命機関とする特権憲章(Charter of Privileges)が市民によって承認されました。特権憲章は、他の3つの政府の枠組みと同様に、すべてのプロテスタントに宗教的寛容の原則を保証するとしました。

Penn and Indians

ペンシルベニアは開拓当初から繁栄していました。最初の入植者は、肥沃な土地と重要な商業的特権を受け取り、その後の入植者と間では確執がありましたが、ペンシルベニアの経済的な機会は、他のどの植民地よりも大きいものとなります。 1683年にドイツ人がデラウェア渓谷に移住し、1720年代から30年代にかけてアイルランド人(Irish)とスコットランド系アイルランド人(Scotch-Irish)が大量に流入し続けると、ペンシルベニア州の人口は増加し多様化していきました。平野部の肥沃な土壌は、寛大な政府の土地政策と相まって、18世紀を通して高いレベルで入植者の生活を支えていきました。しかし、土地の開拓という呪文に飢えているヨーロッパの入植者の願望は、ペンが構想していた先住民族への施策とは対立するものでした。ヨーロッパ人入植者が求めていた「経済的機会」の動きは、ペンが設立してきたコロニーの土地をめぐって、すでに占有していた先住民族との間で頻繁な混乱や殺戮という行為に現れました。