森有正の「遥かなノートル・ダム」

注目

 私がかつて一度会ったことのある哲学者が森有正です。呼び捨てにするのは少々ためらいますが、彼は哲学者というよりもフランス文学者といったほうが適当かと思われます。彼は、明治時代の政治家で初代文部大臣となった森有礼の孫で、東京帝国大学文学部哲学科で卒論を『パスカル研究』として発表します。やがて1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任します。第二次世界大戦後、始まった海外留学の第一陣として1950年フランスに留学し、デカルト(Rene Descartes)やパスカル(Blaise Pascal)を研究し、そのままパリに留まります。東京大学を退職しパリ大学東洋言語学校で日本語や日本文化を教えていきます。

 私が森有正に会ったのは、1965年6月頃の札幌ユースセンター教会です。そこで働いていたとき、森が教会に入ってきて名刺を示し「オルガンを弾かせて欲しい」というのです。教会にはアメリカのルーテル教会青年リーグから寄贈された約400本のパイプのオルガンが設置されて礼拝やコンサートで使われていました。私はそのとき、彼が学者でオルガン愛好家であることを知りませんでした。後に「遙かなノートル・ダム」に出会ったとき、彼の深い思索や文明批評に触れて、その学識に接することになります。

森 有正

 森はパリでの長い生活で、その間数々の随想や紀行などを著します。人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正選集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。彼はフランスの教育制度や内容にも深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、フランスの教育に触れる箇所があります。

 「フランスの教育の要点は、知識の集積と発想機構の整備の二つである。知識の集積とは記憶が主要な役割を果たす。それは実に徹底していて、中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで第六学級から卒業までの七年間に膨大な量を注入する。知識は内容を省略せず、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、しかも頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。日本の中学や高校の教科書の五倍くらいの量である。」

 「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいまで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって低学年から教育が行われ、その定義と正しい用法が作文によって試されるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習される。読本の読解ももちろん行われる。学年が進むと、文法的分析に論理的文体論的分析が加わる。そして作文はいつも全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置をしめている。」

 このようにフランス教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。それは単なる知識の詰め込みではないということです。

 森は、人間の中心課題として経験と思考、伝統と発想、そして言葉の重みを提起します。日本人は英語の単語や語句をたくさん知り、難しい本を読むことができても、書くとなると正しい英語を一行も綴れないことを話題とします。それは、自分の中の知識に対する受動的な面と能動的な面との均衡の問題であると指摘します。たくさんのことを覚えても、記憶してもそれが自分の中にそのまま停止しているから文章を綴れないのだ、といういうのです。単なる作文の練習をしてもどうなるものではなさそうです。英語でもフランス語でも本当に正しい語学を身につけるためには、その国の人の間に入って経験を積むほかはないと断言するのです。

森有正選集

 言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であるというのです。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。たしかに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」というのが森が強調したいことでもあります。

「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」このように経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

オルガン演奏の森有正

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)の音楽やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のもとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

参考資料
『バビロンの流れのほとりにて』 (講談社) 1968年
『遥かなノートル・ダム』(筑摩書房) 1967年
『経験と思想』(岩波書店) 1977年

(投稿日時 2024年8月18日)  成田 滋

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十一 ワシントン州–Evergreen State

ワシントン州(Washington)の最大都市はシアトル(Seattle)、州都はオリンピア(Olympia)です。このあたりは West Coast(西海岸)とも呼ばれています。日本人にはなじみのある州です。

Map of Washington

入り江と呼ばれるフィヨルド群(Fjord)からなるピュージェット湾(Puget)の東部には、シアトル、タコマ(Tacoma)、エヴェレット(Everett)などの大都市が連なります。プロ野球のマリナーズ(Mariners)の本拠地、マイクロソフト(Microsoft)の本社も近くにあります。航空機会社のボーイング(Boeing)の本社と工場があります。

州都オリンピアは兵庫県の田舎町、加東市とも姉妹都市です。誠に不釣り合いです(^^) シアトルから生まれたのがStarbacks珈琲ですね。これを始めて飲んだときは、そのコクと香りに驚いたものです。ワシントン州は製材、製紙業のほか、アルミニウム、食品加工が盛んでもあります。大豆、トウモロコシ、ジャガイモなどの栽培でも知られています。

ワシントン州の歴史ですが、日本との関係が深いのをご存じですか。戦前、日本から沢山の移民がこの地にやってきたのです。戦前、戦後、日系アメリカ人は辛い生活を余儀なくさせられます。そのことを記した小説に「Snow Falling on Cedars–ヒマラヤ杉に降る雪」 というのがあります。舞台は戦前で、ワシントン州の島における日系アメリカ人に対する人種差別を題材としています。この小説は、1995年にウイリアム・フォークナー賞(Faulkner Awards)をもらいます。この賞はアメリカの主要な文学賞の一つで、毎年優れた小説作品に贈られます。フォークナー(William C. Faulkner)はアメリカを代表する小説家です。

Mt. Shuksan

ワシントン州は雨が多いところです。松などの常緑樹が多いみごとな森林が発達しています。全米有数の林業の州です。ナンバープレートには「Evergreen State」とあります。Evergreenとは松の木のことで、別名クリスマスツリー(Christmas Tree)とも呼ばれます。

アメリカの文化 その20 オルガンビルダーと森 有正

パイプオルガンの話題です。北海道大学のクラーク会館に設置されるオルガン以前のことです。1965年に札幌ユースセンター教会が、ミズリー派(Missouri Synod)ルーテル教会から400本のオルガンの寄贈を受けます。オルガンの製作会社はアメリカのWalkerという会社でした。オルガンの組み立てを担当したのは、日本で最初のビルダーで鵠沼めぐみルーテル教会員の辻宏氏です。その組み立て行程を間近で見学できたのは幸いでした。このオルガンは北海道で最初に献納されたオルガンとなります。

オルガンが完成し、その柿落で招かれた演奏者は秋元道雄東京芸術大学教授です。そのときバッハ (Johann Sebastian Bach) のトッカータとフーガ ニ短調(Toccata und Fuge in d-Moll) を始めて間近で聴きました。秋元氏は東京芸術大学のオルガン科卒業後、ライプツィヒ=ベルリン (Leipzig-Berlin) 楽派のヴァルター・フィッシャー(Walter Fischer) 教授の門下生であった真篠俊雄教授に師事します。やがて、秋元氏はイギリスとドイツに留学します。そしてロンドン市立ギルドホール音楽演劇学校 (Guildhall School of Music and Drama)より全英最優秀音楽留学生賞である「サー・オーガスト・マン賞」(Sir August Mann Award)を受賞します。

その後、パリのノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Paris) での演奏会を含め数多くの演奏活動を行います。「プラハの春・国際オルガンコンクール」など多くの国際コンクールの審査員をつとめた経歴を有しています。芸大で教えながら、飯田橋にある日本キリスト教団富士見町教会のオルガニストも務めました。我が国でもオルガン科を有する大学が増えてオルガニストが養成されています。秋元氏に師事した人々が活躍しているようです。2010年1月に生涯を終えられました。

欧米では教会の大小に関わらず必ずオルガンがあります。教会堂の大きさによってオルガンも大型になります。小さな教会のオルガンは、会衆から見えるように前面や側面に設置されています。コンサートホールでは、装飾を兼ねて前面に配置されるのですが、それよりもはるかに多くのパイプが聴衆から見えない所に配置されています。その数は数千本から数万本に及びます。音階をなす数十本の笛が1組となって使われます。金管、木管の組み合わせです。この一組はストップと呼ばれます。

札幌ユースセンター教会で奉仕していたとき、哲学者でフランス文学者だった森有正が「オルガンを弾かせて欲しい」と教会を訪れたことがありました。森は明治時代の政治家森有礼の孫です。オルガンを演奏し、特にバッハのオルガン曲の奏者として優れた仕事を残し、レコードを出すクリスチャンでもありました。パリ大学東洋語学科で日本語や日本文化を教えた経験をもとに、晩年に哲学的なエッセイを多数執筆します。私も『遥かなノートルダム』という著作を持っています。「言葉と経験」という思想を『バビロンの流れのほとりにて』、『アブラハムの生涯』という本の中で強調しています。オルガンと秋元道雄、森有正をつなぐのはノートルダムのようです。

アメリカの文化 その18 Easterと卵

「イースター」(Easter)は復活祭のことです。十字架にかけらたイエス・キリスト(Jesus Christ)が3日後に復活したことを祝う祭りです。 復活祭は年によって日付が変わる移動祝日です。基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」とされ、今年は本日4月4日となります。ドイツでは「オースタン」Osternと呼ばれています。イースター」も「オースタン」もゲルマン神話の春の女神「Eostre」やゲルマン人が用いた春の月名である「Eostremonat」に由来しています。

ギリシャ正教(Greek Orthodox)やロシア正教(Russian Orthodox)、日本正教会では復活祭のことを「パスハ」(Paskha)と呼んでいます。カトリック教会やラテン系の国では「パスカ」(Pascha)、スペインでは「パスクワ」(Pasqua)と呼ばれています。こうした語は「過越の祭り」(Passover)を意味するヘブライ語(Hebrew)が語源となっています。キリスト教における復活祭は旧約聖書時代の過越の祭りを雛形にした祝日とも推測されます。

ヨーロッパや北アメリカは、長く寒い冬が終わり、キリストの復活祭とともに春の到来を祝うのがイースターです。イースターのシンボルは生命の誕生と再生の象徴である卵と繁殖力の高いウサギ (イースターバニー Easter Bunny) です。イースターエッグが良く知られています。色とりどりの卵が店で売られ、自宅でも色づけした卵を子ども達に分け与えて祝います。

世界中の多くの教会で特別な礼拝が行われます。食事やイベントなどさまざまな習慣や風俗があります。イースターの個性的なイベントといえば、最もファッショナブルで知られるニューヨークのイースターパレードがあります。意匠をこらした帽子を被り、奇抜な衣裳を身に着けた人々が歩行者天国を練り歩きます。ドイツ人は、イースターではこれでもか!というくらい呑んで食ってのお祭りとなります。とことんまでやる真面目な国民性が反映しているといわれます。

クリスマス・アドベント その15 ”O come, O come, Emmanuel”

紀元前586年頃、古代イスラエル(Israel)の民にバビロン捕囚(Babylonian Captivity)がやってきます。首都エルサレム(Jerusalem)が、新バビロニア(Babylonian)の王となったネブカドネザル(Nebuchadnezzar)によって占領されたためです。バビロンはメソポタミア(Mesopotamia)地方の古代都市でありました。やがて故国に帰れるというユダヤ人の希望はそれゆえに幻となり、50年に渡ってバビロニアに居住する苦しみを強いられます。そうして「救い主(メサイア)Messiah」待望の信仰が生まれます。

旧約聖書のイザヤ書第7章14節には次のような預言があります。
 ”見よ、おとめがみごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ。”
Behold, the virgin shall conceive and bear a son, and shall call his name Immanuel.「 Immanuel」とは「主がともにいる」という意味です。”bear a son” は”give birth to a son”と同じく生まれるという意味です。

この讃美歌は、「久しく待ちにし、主よとく来たりて」として訳されています。元々8世紀のラテン語グレゴリオ聖歌(Gregorian chant)です。曲は7つの詩から成っています。夕礼拝や祈り会のときに交互に歌うしきたりだったようです。その後13世紀になると5つの詩が加えられます。1851年に讃美歌の作詞者であるジョン・ニール(John M. Neale)がラテン語歌詞を英訳、それが日本に入ってきます。

この曲は捕囚の中に光を求める讃美歌であり、救い主を待ち望む歌でもあります。このように原曲が中世のグレゴリオ聖歌であるためか、旋律も和声も静かで厳かな雰囲気を醸し出しています。単旋律でも、編曲されて合唱としても歌われています。

O come, O come, Emmanuel
And ransom captive Israel
That mourns in lonely exile here
Until the Son of God appear
Rejoice! Rejoice! Emmanuel
Shall come to thee, O Israel.

アドベント・クリスマス その14 ”Lo, How a Rose E’er Blooming”

日本語題名は「エッサイの根より」と付けられている賛美歌です。古くからカトリック教会で歌われてきました。詩も曲も15世紀頃からドイツのライン(Rhine)地方に伝わるキャロル(Carol)がもとになっています。もともとは、23節から成るマリアの賛歌で、降臨節の期間に歌われます。

古代イスラエル王国第2代王ダビデ(David)の父がエッサイ(Jesse)といわれます。その出典箇所は旧約聖書(Old Testament)の中の有名な預言書イザヤ書です。その11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」とあります。ユダ族のダビデの子孫からキリストが生まれることを示唆しているのです。そのことはマタイによる福音書(Gospel of Matthew)の冒頭に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と記述されています。キリストの系図がダビデを通じエッサイに由来することを語るのです。

時代は下り19世紀以降、この曲はプロテスタントの讃美歌に収録されるようになります。2番目の歌詞ではマリヤから幼児イエスが生まれることに置き換えられています。こうしてドイツから英米にも伝わり世界的なアドベントの歌になります。

歌詞の冒頭にある”Lo”は古英語で 「見よ」 といった驚きを表す単語である。”Behold”という単語にあたります。歌詞を翻訳すると「ご覧ください、薔薇はいつも咲いていますよ」となります。
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 エッサイの根より 生いいでたる、
  預言によりて 伝えられし
   薔薇は咲きぬ。
  静かに寒き 冬の夜に。

Lo, how a Rose e’er blooming from tender stem hath sprung!
 Of Jesse’s lineage coming, as men of old have sung.
  It came, a floweret bright, amid the cold of winter,
 When half spent was the night.

Isaiah ‘twas foretold it, the Rose I have in mind;
 Mary we behold it, the Virgin Mother kind.
  To show God’s love aright, she bore to us a Savior,
 When half spent was the night.

アドベント・クリスマス その13 ”O Tannenbaum”

アドベント・リース(Advent wreath)には樅の木の枝が使われることを既に述べてきました。樅の木は冬のさなかでも緑色を保つマツ科。それゆえに、”Christmas Tree”とも呼ばれます。樅の木はドイツ語での響きが最もよい心持ちがします。”Tannenbaum”がそうです。”Tannen”は樅、”Baum” は木というドイツ語です。バウムクーヘン(Baumkuchen)はドイツ語がそのまま使われる菓子です。”木の形をしたケーキ”という意味です。

クリスマス・キャロルの一つで世界中で歌われる曲に”O Tannenbaum” があります。現在の歌詞はライプチッヒ(Leipzig)のオルガン奏者で教師、そして作曲家であったアーネスト・アンシュッツ(Ernest Anschutz) が1824年に歌詞を付けたといわれます。歌詞をみると、この曲は必ずしもクリスマスや飾りがつけられたクリスマスの木のことを歌っているのではないことがわかります。マツ科のこの常緑樹は不偏さとか信仰ということのシンボル、そのことを称えています。

アンシュッツが書き下ろした歌詞は16世紀のシレジア(Silesian)民謡からの哀しい恋の曲が元となっています。シレジアとは今のドイツ、ポーランド(Poland)、チェコ(Czech)、スロバキア(Slovakia)のあたりを指す地域です。メルクワイア・フランク(Melchoir Frank)という人が歌った “Ach Tannenbaum”という曲に依拠しています。

19世紀になると降臨節にはクリスマスの木が飾られるようになります。そしてたくさんのクリスマス・キャロルも作曲され歌われていきます。アンシュッツの歌詞にある “treu” とはしっかりとした、とか信仰にあふれた、という意味です。歌詞の二番目は “treu” が “grun”(緑)となっています。20世紀になってこの歌がクリスマス・キャロルとして歌われるとともに歌詞も変わっていったようでです。樅の木を形容して「凜とした葉は夏の盛りだけでなく、雪の降る冬さえも緑をたたえています」という歌詞です。

O Tannenbaum, o Tannenbaum,
 wie treu sind deine Blatter!
  Du grunst nicht nur
  zur Sommerzeit,
   Nein auch im Winter, wenn es schneit.
    O Tannenbaum, o Tannenbaum,
   wie treu sind deine Blatter!

クリススマス・アドベント その11  Little Drummer Boy

クリスマスキャロルはいろいろに分類されそうです。聖夜のように礼拝堂で厳かに歌われるもの、ポピュラーソングのようなもの、子どもたちだけで歌われるものもあります。今回紹介するのは子どもが歌う曲です。

「誕生」はすべての人にとって喜ばしく嬉しい時です。老いも若きもその時を祝います。数あるクリスマスの歌には、古く伝統的なものから現代的(contempolary)なものまで誕生を主題とする曲がいろいろとあります。今回、紹介するのは一人の少年が太鼓を叩きながら、イエスの誕生の喜びに加わるという曲です。それが「The Little Drummer Boy」というもので、別名は「Carol of the Drum」です。

作曲したのはキャサリン・デーヴィス(Katherine Davis)。作曲家であり教師でした。作られたのは1941年。曲の由来はチェコスロバキア(Czechoslovakia)に伝わる古い民謡です。1950年代、この曲を収録したレコードはアメリカで大ヒットしたそうです。歌詞は次のような内容です。

”さあ行こう。一人の王様が生まれたぞ” と大人が僕に声をかけた。
”大切な贈り物をこの王様のところに届けよう”
”だけど、僕は貧しいので、なにも持っていくものがありません”
”マリアさん、お祝いとしてこの太鼓を叩いていいですか?”

”マリアさんは優しく頷いてくださった。牛や羊はじっと待っていた。”
”僕は一生懸命、赤ちゃんのために太鼓を叩いた。”
タタタッタ、タタタッタ、、、、”
”赤ちゃんは僕と太鼓に微笑んでくれた。”

Come they told me pa ra pa pam pam
a newborn King to see pa ra” pa pam pam
Our finest gifts we bring pa ra pa pam pam
to lay before the King pa ra pa pam pam
Ra pa pam pam ra pa pam pam
So to honor him pa ra pa pam pam when we come
Little baby pa ra pa pam pam
I am a poor boy too pa ra pa pam pam
I have no gift to bring pa ra pa pam pam
that’s fit to give our King pa ra pa pam pam
Ra pa pam pam ra pa pam pam
Shall I play for you pa ra pa pam pam on my drum
Marry nodded pa ra pa pam pam
the ox and lamb kept time pa ra pa pam pam
I played my drum for him pa ra pa pam pam
I played my best for him ra pa pam pam
Then he smiled at me pa ra pa pam pam me and my drum

クリスマス・アドベント その10 預言者イザヤという名前

1977年に国際ロータリー財団より奨学金をいただき、ウィスコンシン大学に留学したときのスポンサーがロバート・ジェイコブ(Dr. Robert Jacob)という医師でした。日本語読みではさしずめヤコブ氏となります。長年ミルウオーキー(Milwaukee)の郊外で開業していました。専門は脚の整形外科。熱心なユダヤ教徒でありました。いつも住まいの側にあるシナゴーグ(Synagogue)で長老(Elder)として活躍されていました。次女がウィスコンシン大学の看護学部を卒業したとき開いたパーティに奥様とご一緒に参加してくださいました。残念なことに数年前に召されました。

これまでMrs. Jacobからは、ご子息らの成人の儀式、バー・ミツヴァ(Bar Mitzvah)の案内、9月には新年ロシュ・ハシャナ(Rosh Hashana)の祝いを頂戴しています。一度、ジェイコブ氏に連れられてシナゴーグ(synagogue)を見学させていただいたことがあります。シナゴーグとはユダヤ教の会堂のことです。キリスト教の教会の前身といえます。礼拝はもちろん祈りの場であり、結婚や教育の場、さらに文化行事などを行うユダヤ人コミュニティの中心的存在となっています。もともとは聖書の朗読と解説を行う集会所でありました。会堂に入るときは、男子はキッパ(kippa)とかヤマカ(yarmulke)と呼ばれる帽子を頭に載せることになっています。

ユダヤ教徒はタルムード(Talmud)と呼ばれる教典を学び行動するように教えられます。タルムードは生活や信仰の基となっています。家庭では父親の存在が重要とされます。率先して子どもに勉強させタルムードなどを教えます。子どもを立派なユダヤ人に育てたものは、永遠の魂を得ると信じられています。

クリスマス・アドベント その8 カンタータ第147番

もう一つのカンタータ(Cantata)をご紹介します。カンタータとは、イタリア語「〜を歌う(cantare)」に由来し、器楽伴奏がついた単声または多声の声楽作品を指します。今回は、カンタータ第147番です。「心と口と行いと生きざまもて(Herz und Mund und Tat und Leben)」と訳されています。140番と並んで人々に親しまれる教会カンタータです。この曲を広く知らしめているのが第6曲の「主よ、人の望みの喜びよ」の名で親しまれているコラール(Choral)で、ドイツ語では”Jesus bleibet meine Freude”という題名となっています。

カンタータ第147番は、新約聖書ルカによる福音書(Gospel of Luke) 1章46〜55節にに依拠しています。礼拝での聖書日課は「マリアのエリザベート訪問の祝日」となっていて、マリアが神を賛美した詩「マニフィカト(Magnificat)」が朗読されます。マニフィカトとは、聖歌の一つである「わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救い主なる神を讃える」という詩のことです。全部で10曲から構成されるカンタータ第147番の一部を紹介することにしましょう。

冒頭の合唱は、”Herz und Mund und Tat und Leben”というトランペットが吹かれる快活な曲で気持ちの良い合唱フーガ(Fuga)です。フーガとは対立法という手法を中心とする楽曲のことです。同じ旋律(主唱)が複数の声部によって順々に現れます。この時、5度下げたり、4度上げて歌います。これを応唱ともいいます。少し遅れて応唱と共に別の旋律が演奏されます。これを対唱と呼びます。次のレシタティーヴォも、オーボエなど弦楽合奏を伴うしみじみした響きで演奏されます。

第3曲のアリアは、オーボエ・ダモーレ(oboe d’amore)というオーボエとイングリッシュホルンに似た楽器の伴奏がつきます。少々暗い響きですが雰囲気が醸し出されます。第4曲はバスのレシタティーヴォが続きます。第5曲のアリアでは、独奏ヴァイオリンの美しさが際立ちます。ソプラノの響きも美しい。

そして第6曲がお待たせ「主よ、人の望みの喜びよ」のコラール。英語では「Jesus, Joy of Man’s Desiring」。主旋律と伴奏旋律が互いに入れ替わり、あたかも追いかけごっこをしているようです。どちらも主旋律のように響きます。いつ何度聞いても慰められる名高い曲です。