ナンバープレートから見えるアメリカの州マサチューセッツ州・Spirit of America

注目

マサチューセッツ州(Massachusetts)のナンバープレートには「Spirit of America」というキャッチフレーズが印字されています。これは、建国の精神を意味します。州都はボストン(Boston)です。

License Plate of Massachusetts

イギリス人探検家でジェームスタウン・コロニー(Jamestown Colony)にいたジョン・スミス(John Smith)は、マサチューセッツ族(Massachusetts)にちなんでこの州を命名したとされます。「Massachusetts」とは、もともと「大きな丘の近く」(near the great hill)という意味だったといわれます。マサチューセッツ州といえば、ボストンを第一に挙げなければならないでしょう。その名前の由来です。チャールスタウン・コミュニティ(Charlestown Community)は「聖ボトルフの町」(St. Botolph’s town)として知られていたようですが、後に「ボストン」に改名されたといわれます。

1602年に最初のイギリス人入植者バーソロミュー・ゴスノルド(Bartholomew Gosnold)が到着したとき、この地域にはアルゴン族(Algonquian)が住んでいました。プリマス(Plymouth)は、1620年にメイフラワー号(Mayflower)で到着したピルグリム(Pilgrims)やピューリタン(Puritans)によって開拓されます。マサチューセッツ湾(Massachusetts Bay)植民地はマサチューセッツ・ベイ社によって設立・統治され、ピューリタン(Puritan)の入植に拍車をかけていきます。1643年にニューイングランド連合に加盟し、1652年にメイン州を獲得します。

マサチューセッツ州は、その歴史と文化が合衆国全体のものよりも古いという点が特徴的といえます。ピューリタンらが大英帝国(British Empire)の統治から逃れて新世界に定住し、最終的に信仰の自由を得ようとしました。1620年にメイフラワー協定(Mayflower Compact)や初期の法典である1641年の「自由の基盤」(Body of Liberties)などの文書により、政府は個人の表現や同意を保護する保証に基づいて統治すべきであるという概念が定められます。

こうした個人の自由の概念は、大英帝国の一部であった植民地の地位と衝突するようになります。アメリカ独立戦争はマサチューセッツ州で始まり、イギリスの植民地支配に対する最初の抵抗が始まりました。ボストン茶会事件(Boston Tea Party)に代表されるように、入植者たちが代表権のない課税に反対の声を上げ、叫んだのはマサチューセッツ州民であります。マサチューセッツ入植者の活動は他の人々に影響を与え、1775年のレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)で「世界中で聞こえた銃声」“shot heard round the world”で最高潮に達します。

州の南東部と中央部の入植地は1675年にフィリップ王の戦争 (King Philip’s War)を経験します。1684年に最初の勅許を失った後、1686年にニューイングランド自治領(Dominion of New England)の一部となります。1691年の2度目の勅許により、メイン州とプリマスを管轄することになります。1680年頃から、マサチューセッツはイギリスの植民地となります。1760年代になると、マサチューセッツ憲法として権利の宣言と政府の樹立を叫び、イギリスの支配に反旗を翻します。やがて独立戦争が始まるのです。この自治と独立の精神が「Spirit of America」というものです。

18世紀、マサチューセッツはイギリスの植民地政策に対する抵抗の中心地となります。独立後の1788年には合衆国憲法を批准した6番目の州となります。19世紀になると産業革命の最前線となり、織物工業で知られるようになります。

今日の州の主要産業はエレクトロニクス、ハイテク、通信技術です。多くの高等教育機関があることでも知られています。観光業は、特にケープコッド(Cape Cod)地方とバークシャー地方(Berkshires)が知られています。マサチューセッツ州は、この新しい国が農業経済から工業経済への転換を始めた先駆的な州であります。貿易によって富を得たフランシス・ローウェル (Francis C. Lowell)のような州の商人は、1812年の米英戦争で深刻な損失を被りますが、より安全な投資を模索していきます。その結果、繊維、ブーツ、機械の製造はマサチューセッツ州やロードアイランド州(Rhode Island)で始まり、やがて繁栄の基礎を築いていきます。北東部の州で工業化や都市化が進みます。1870 年代半ばまでに、マサチューセッツ州は合衆国で初めて、地方よりも町や都市に住む人の方が多い州となります。

19世紀を通じて、マサチューセッツ州は主要な製造業の中心地となりました。20世紀前半の南部との競争は大規模な経済衰退をもたらし、その結果、州全体の工場が閉鎖されていきました。しかし、第二次世界大戦と冷戦は、国防支出という連邦政府の巨額に依存する新たなハイテク産業を生み出します。他方、金融、教育、医療などのサービス活動も拡大し、ボストンを中心とした新たな経済が発展します。2004年、マサチューセッツ州は同性結婚を合法化(same-sex marriage)した最初の州となります。この法律は、個人が所属する重要な組織から特定の国民を排除することは個人の自治と法的平等の原則に反すると規定します。地域社会のニーズに配慮しながら、個人の自由を尊重しようとするマサチューセッツ州の長い闘いの結果、アメリカの特徴である民主主義の原則と資本主義の推進の連携が生まれるのです。

1840年代、均等となったヤンキー(Yankee)社会に、アイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)の惨状から逃れてきたローマ・カトリック教徒のアイルランド人の波が押し寄せます。同様に1860年代、カナダの農業貧困のため、ヤンキー起業家(Yankee entrepreneurs)が開拓した新しい工場システムの労働者として大量のフランス系カナダ人(French Canadians)がマサチューセッツ州に流れてきます。ヤンキーと移民の間で深刻な対立と敵意が生じましたが、19世紀の産業の繁栄はこれらの対立を改善するのに役立ちます。

17世紀には、土地に飢えたイギリス人入植者がアメリカ先住民を強制的に追い出し始め、また非常に多くの先住民がヨーロッパの病気で亡くなります。こうしたプロテスタントのイギリス人入植者、またはヤンキーといわれる人々は、200年以上にわたり支配的な人口となりました。1890年代までに、20世紀の最初の数十年間に至るまで、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、東ヨーロッパから新たな移民がやって来て、繁栄していた州の工場で働くようになりました。1920年までに人口の3分の2が移民か移民の子どもとなり、ヤンキースは明らかに少数派となっていきます。そういう状況で1924年に連邦移民法(Immigration National Act)が可決され、移民は大幅に削減されていきます。

プリマス(Plymouth)は州都ボストンから車で一時間のところにある港町です。ここにメイフラワー号(Mayflower II)のレプリカが停泊しています。メイフラワー号は1620年頃にヨーロッパからこのあたりに着いたことが記されています。長くてつらい大西洋の航海だったようです。

最初の移民の多くは聖教徒でした。船から下りた聖教徒が開拓したところが今も大切に保存されています。この居留地はプリマス開拓地(Plimoth Patuxet)と呼ばれて州の歴史的な公園となっています。開拓地は高い木の柵が巡らされてインディアンからの襲撃に備えたことを伺わせます。プリマス開拓地に入りますと、そこは1600年代という設定です。タイムスリップするのです。そこで働く人は百姓、鍛冶屋、洋服屋、パン屋さんなどいろいろです。当時の服装、言葉、動作で観光客に対応します。観光客はそのことを知らされません。次ぎのような会話が交わされます。

  観光客:当時は電気はありましたか?
  働く人:電気ってなんですか?
  働く人:どこから来ましたか?
  観光客:日本からきました。
  働く人:日本ってなんですか?どこにありますか?
  観光客:アジアです。
  働く人:どうやってここまで来ましたか?
  観光客:飛行機と車できました。
  働く人:飛行機とか車ってなんですか?
  観光客:飛行機も車も知らないんですか、、、、。

このあたりまで会話が進むと、ちんぷんかんぷんの観光客もようやく「ここは1620年頃なのだな、、、」と合点がいきます。舞台が昔の開拓地であるという発想と働く人々の演技にえらく感心します。

ボストンはアメリカ独立戦争で大きな役割を果たしたことから、この時期の史跡の一部は、ボストン国立歴史公園(Boston National History Park)の一部として保存されています。その多くは、「フリーダムトレイル」(Freedom Trail)というルートに沿って歩いて見て回ることができます。フリーダムトレイルは、地面に赤い線が引かれた約4kmのウォーキングコースです。ボストンコモン(Boston Common)から始まり、州議事堂(State Capitol)、パークストリート教会(Parksteet Church)、オールドサウス集会所(Old State House)、旧州議事堂(Old State Capitol)、ボストン虐殺事件跡地(Boston Massacre)、オールドノース教会(Old North Church)、チャールズタウン(Charlestown)のバンカーヒル記念塔(Bankerhill Monument)など、16の公式スポットを巡るのです。ファニエル・ホール(Faneuil Hall)という商店街や会議場や、近くのクインシー・マーケット(Quincy Market)は、ショッピング、食事、各種イベントが楽しめ、観光客や市民が集まる場所となっていて年間1800万人以上がここを訪れます。

ボストンには、著名な美術館もいくつかあります。ボストン美術館(Museum of Fine Arts)がその代表です。エジプト美術から現代美術まで45万点以上の収蔵作品を誇ります。特に浮世絵をはじめとする日本美術、中国美術は、西洋でも屈指のコレクションとして知られています。ボストン公共図書館(Boston Public Library)は、1848年創設の歴史をもち、アメリカ最古の公立図書館であり、人々に無料で公開されています。かつて小澤征爾が音楽監督をしていたボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra)もここにあります。

ボストンはその文化的風土が高く評価されて、「アメリカのアテネ」(Athens of America)との名声を得ています。その理由の一つは学問的な名声にあります。ボストンの文化は大学から発している部分が大きいといわれます。ボストン都市圏内に50を超える単科・総合大学があり、教育・研究活動行っています。ボストンとケンブリッジ(Cambridge)だけでも、大学に通う学生は25万人を超えるといわれます。その中心はなんといってもハーヴァード大学(Harvard University)でありマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)といえましょう。

ナンバープレート その三十六 マサチューセッツ州–Spirit of America

マサチューセッツ州(Massachusetts)の州都ボストン(Boston) から車で一時間のところにプリマス(Plymouth)という港町があります。ここにMayflowerII号のレプリカが停泊しています。Mayflowerは1620年頃にヨーロッパからこのあたりに着いたことが記されています。長くて困難な大西洋の航海だったようです。オランダ(Holland)のライデン(Leiden)あたりが出航地のようです。

Map of Massachusetts

 最初の移民の多くは聖教徒(Pilgrims)といわれています。船から下りた聖教徒が開拓したところが今も大切に保存されています。この居留地はPlimouth(プリマス開拓地)と呼ばれて州の歴史的な公園となっています。開拓地は高い木の柵が巡らされてインディアンからの襲撃に備えたことを伺わせます。

 Plantationに入りますと、そこは1600年代という設定です。タイムスリップするのです。そこで働く人は百姓、商人、鍛冶屋、パン屋さんなどいろいろ。当時の服装、言葉、動作で観光客に対応します。観光客はそのことを知らされません。こんな会話が交わされます。

  働く人:どこから来ましたか?
  観光客:日本からきました。
  働く人:日本ってなんですか?どこにありますか?
  観光客:アジアです。

  働く人:どうやってここまで来ましたか?
  観光客:飛行機と車できました。
  働く人:飛行機とか車ってなんですか?
  観光客:飛行機も車も知らないんですか、、、、。

 このあたりまで会話が進むと、ちんぷんかんぷんの観光客もようやく「ははあ、、ここは1620年頃の設定なのだな、、、」と合点がいきます。この演出は誠に可笑味があります。

 マサチューセッツ州のナンバープレートには「Spirit of America」というキャッチフレーズが印字されています。これは、建国の精神を意味します。1680年ころから、マサチューセッツはイギリスの植民地となります。1760年代になると、マサチューセッツ憲法として権利の宣言と政府の樹立を叫び、イギリスの支配に反旗を翻します。やがて独立戦争が始まるのです。この自治と独立の精神が「Spirit of America」というものです。

 研究機関としてハヴァード大学(Harvard University)、マサチューセッツ工科大学(MIT)を筆頭として、ボストン大学(Boston University)、マサチューセッツ大学(University of Massachusetts)、タフツ大学(Tufts University)など、いずれも合格率は10%前後という難関大学です。

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その三十二 ヴァジニア州–Mother of Presidents

ワシントンDC(Washington D.C.)からポトマック川(Potomac RIver)を越えたところに位置するアーリントン郡(Arlington)、そこからヴァジニア州(Virginia)は南西に広がります。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つ。南北戦争では南部連合(Confederacy)に属して合衆国軍(Union)と戦いました。州都はリッチモンド(Richmond)となっています。チェスピーク湾は大西洋に面し、あちこちに独立戦争の戦跡が国立公園として保存されています。

ヴァジニア州のエンブレム

 ヴァジニア州は正式にはThe Commonwealth of Virginiaと呼ばれます。植民地時代から地域がそれぞれに共通した目標である独立に向けて共に発展する意思を表しています。この州からは、歴代8名の大統領を送り出しています。George Washington, Thomas Jeffersonらです。そのために、「アメリカ大統領の母なる地」(Mother of Presidents)とも言われるほどです。DCの対岸の州内にはアメリカ国防総省(Pentagon)やCIA本部もあります。アレクサンドリア(Alexandria)という歴史的旧市街も綺麗です。独立戦争以前の街です。全米で最も古いとされるファーマーズマーケットも知られています。

 ウイリアムスバーグ(Williamsburg)は是非訪れたいところです。1690年代には植民地時代の首都でありました。1.5km x 1.5 kmのスペースに入植当時の建物はすっかり復元されて、植民地の面影を感じることができます。その近くに1693年に設立されたWilliam & Mary大学があります。アメリカで最も由緒のある、また優れた学部教育のカレッジとして知られています。

 研究機関の中心はなんといってもヴァジニア大学 (University of Virginia)です。創立は1819年、Thomas Jeffersonによって創建されました。学内のすべての建物がコロニアルスタイルで統一され、全米で最も美しいキャンパスと称されています。

 ヴァジニア州のナンバープレートはいろいろなデザインがあります。うっそうとした豊かな森や清流の自然や生態系を反映してデザインには野鳥などを配置しています。ヴァジニアは「Mother of Presidents」の名にふさわしい風格のある州です。

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ナンバープレートを通してのアメリカの州 その十五 カリフォルニア州 The Golden State

日本人に最も馴染みのあるカリフォルニア州(California) は南北に長い形をしていて、北はオレゴン州に東はネバダ州・アリゾナ州に、最南端のサンディエゴ(San Diego) からはメキシコと国境を接しています。長い海岸線や高低差によって、海岸と内陸ではかなり気温や気候が異なります。この気候は地中海性気候といわれています。降雨量が少ないのと急激に人口が増えたために水資源の不足がしばしば取りあげられています。

 州都はサクラメント(Sacramento)です。「アメリカの学校 その十四 サクラメントの学校」でも紹介していますが、ブドウ畑が広がるナパ・バレー(Napa Valley)から東へ向かうとサクラメントに着きます。西部開拓時代の街角のOld Townは保存されていて当時の開拓時代の気分を味わえます。

 カリフォルニアといえばロサンゼルス(Los Angels)やサンフランシスコ(San Francisco)、サンディエゴなどの大都市ですね。ロサンゼルスはハリウッドを抱え娯楽産業の世界的中心となっています。サンフランシスコを中心とするベイエリア(Bay Area)は、シリコンバレー(Silicon Valley) をはじめ、全米で最も経済的に進んだところです。農業が盛んなのは中部です。サンディエゴは気候が温暖でアメリカで最も住みよい町といわれています。どこもメキシコの雰囲気が横溢しています。

 この州はアメリカでも先進的な行政をするところで知られています。例えば、大気汚染などの問題でメーカー等の産業廃棄物処理・排水規制などの法律が制定されていた。また排気ガス規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい州といわれています。ところが財政は厳しいので、一度州知事になったアーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Alois Schwarzenegger) も頭が痛かったようです。

 メキシコからの移民でヒスパニック系の人口は34%を占めています。ですからメキシコ料理はどこででも楽しめます。またイタリア料理、中華料理、ベトナム料理なども美味しいところです。サンフランシスコの中華街(China Town)は世界一といえる賑やかさです。

 カリフォルニアはハワイと並んで、多くの日本人が移住したところです。1920年代の移民を禁じる排日移民法(Immigration Act of 1924) が制定され、太平洋戦争によってさらに差別や隔離政策が進みます。日系人は土地や財産を没収さながらも子どもを教育し、現在の地位を獲得した苦労話が幾多きかれます。私の知人であるチャールズ・コバヤシ氏もそうです。苦労して州判事まで上り詰め、今はサクラメントで成長したお子さんやお孫に囲まれて引退生活を楽しんでいます。

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旅のエピソード その27 「ハワイの日系アメリカ人」

日系アメリカ人の活躍は前々回に少し述べました。ハワイに移民した最初の人々は一世(Issei) 、そして今や四世(Yonsei)から五世(Gosei)へと受け継がれます。ちなみに、こうした単語はすっかり英語として定着しています。

日系アメリカ人は、長い間偏見と差別に苦しみました。そのために生活も苦しかったようです。懸命に働き、教育を大事にし、善良なアメリカ市民になろうと努力しました。ハワイ大学より兵庫教育大学に客員研究として招いたカーティス・ホー(Dr.Curtis Ho)教授は、中国人と日本人との間に生まれた方です。小さな島で育ち、やがて奨学金をもらい本土の大学で学び、研究者となりました。父親は厳しい労働に従事し、稼いだお金を彼の教育のために注いだそうです。

日系人がアメリカ社会での地位を確立するには、「勤勉な働き者」「清潔好き」「礼儀正しい」「約束をきちんと守る」といった矜持の定着が必要でした。こうして日系人は確実に善良な市民としてのイメージをアメリカ社会に定着させていきます。

日系人の活躍です。1963年にダニエル・イノウエ氏(Daniel Inoue) が初の日系上院議員となります。ジョージ・アリヨシ氏(George Ariyoshi) が1974年に第3代ハワイ州知事に就任することで、日系人の地位や役割が不動のものとなります。1978年 エリソン・オニズカ氏(Elison Onizuka) が日系人として初の宇宙飛行士に選ばれます。ですが、乗り込んだチャレンジャー(Challenger) が爆発し亡くなります。1988年には、第40代のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が、大戦中に人種差別政策により日系人を強制収容所に連行した歴史に謝罪し、一人につき2万ドル(約200万円)を補償したのは目新しいことです。

アメリカの学校は今 その三十三  Mount Olive Lutheran Church School

mtolive75years_f eastsidhe-school-1939 clc-logo-explainedMt. Olive Lutheran Church(マウント・オリーブ・ルーテル教会)はマジソン市の落ち着いた住宅街にあります。会衆の数は2,000人くらいで、多くは大学、州政府、企業などに働く人々です。3分の2以上が家族ぐるみで礼拝に出席します。研究者や大学院生も多く教育には熱心です。スタッフは牧師が2名、オルガニストが1名、そして事務長、用務員が各1名となっています。オルガニストは教会教育の長や聖歌隊(Choir)の指揮を兼ねています。もちろんオルガンがあって日曜日の二度の礼拝で賛美歌が演奏され、会衆はオルガンの伴奏で歌います。このときはなんとも気持が高揚するものです。

教会学校は毎週日曜日の2回の礼拝の間に開かれます。幼稚部、小学部、中学部があります。会衆の中から選ばれたリーダーが指導します。教える内容は聖書の教えです。保育所も開設し専従の保育士や職員も働いています。障害のある子どもも小集団で学びます。夏はキャンプやハイキングがあり、体と心の成長を助けます。中学生は、特に大人の仲間入りに備えて、キリスト者としての信条(Creed)や教理問答(Catechism)など集中して学びます。そして14歳になると堅信礼(Confirmation)という成人として認められる儀式が礼拝の中で執り行われます。

教会は会衆の献金によって支えられます。十一献金といって収入の1/10を目安に献金しています。1/10を満たせない人は、諸々の奉仕活動に参加することで献金に代えることになります。例えば教会学校の教師として教える、聖歌隊で歌う、週報の印刷手伝いをする、お年寄り家族を訪問したり病人を見舞いをするなどです。どのような形でも自分のタラントを捧げることができればよいのです。

Mt. Olive Lutheran Churchは地域に住む障害者の職業訓練をも引き受けています。平日、ジョブコーチと呼ばれる訓練士に引率されて、教会の印刷物を折りたたんだり、封筒詰めをしたり、宛先のシールを貼ったりします。こうしたスキルを教会で学ぶのです。マジソン市との障害者訓練の地域連携事業にMt. Olive Churchも参加しています。

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アメリカの学校は今 その三十二 教会立学校

stanthonysparochialschool 515213688 parochial_2多くの信徒を有するキリスト教会、特にカトリック教会(Catholic church)はParochial school と呼ばれる教会立の学校を運営しています。その運営母体は教会の会衆です。会衆による献金や寄付によって教会は成り立ちます。教会は大きく分けて旧教と呼ばれるカトリック教会と新教と呼ばれるプロテスタント教会(Protestant church)があるのはご承知のとおりです。どちらも聖書教育や情操教育には力を入れています。これが使命、ミッションと呼ばれるものです。教育活動は、長い歴史を有する教会の堅固な伝統となっています。

我が国にもいわゆるミッション・スクールがあります。多くはヨーロッパや北米の教会から派遣された宣教師と呼ばれる人々がその礎を造った歴史があります。創立の精神(Ethos)は、聖書の教えにそってキリストの弟子として生きるという考えです。真理を追究し人格を高め社会と人々に奉仕するという精神です。ミッション・スクールの中には、宗教教育の色彩が薄れ、進学校とか有名校といった世間の期待に迎合するかのような校風も感じられます。

ウィスコンシン州都マジソンにあるMt. Olive Lutheran Churchの学校を中心に、教会立の学校の特徴を2回に分けて紹介しましょう。この教会はその名の通りルーテル系です。マルチン・ルターという神学者が興した教会です。ルターは「Luther」と綴ります。Lutheranとはルター派の人々という意味です。ウイスコンシン州にはたくさんルーテル教会が存在します。1800年代に北欧やドイツなどからの移民がこの大陸の東海岸や中西部(Midwest)にやってきます。アイオワ(Iowa)、イリノイ(Illinois)、インディアナ(Indiana)、ミネソタ(Minnesota)、ミズリー(Missouri)、ミシガン(Michigan)、ネブラスカ(Nebraska)、オハイオ(Ohio)などには、特にルーテル教会が目立ちます。

Midwestの別称は「America’s Heartland」。アメリカの心臓部とでも呼んでおきましょう。工業、農業、商業の中心です。その代表がデトロイト(Detroit)、セントルイス(St. Louis)、シカゴ(Chicago)、ミネアポリス(Minneapolis)などです。こうした都市に人と金と物、そして情報が集まるのです。

とまれ話がそれたので元に戻ります。ルーテル教会とは、聖書に基づいて三位一体の存在を信じ、すべての会衆が祭司として社会で役割を有するという教えが基本にあります。恩寵によって救われ、聖書の言葉に信仰の基盤を置いています。カトリック教会とは教理とか教義において違うところがあります。

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アメリカの学校は今 その三十 矯正教育の教室

bn-ed714_fergus_g_20140818114648 and_376621 phoenix-skyline-arizona日本にはあまりない教育の実践を紹介しましょう。それは、犯罪を犯した生徒の矯正を目指す教室です。アリゾナ(Arizona)の州都フェニックス(Phoenix)に行ったときです。

フェニックスは砂漠の真ん中に形成されていてサボテンが各所で見られます。20世紀前半からニューディール (New Deal) 政策によるコロラド川(Colorado River)の電源開発、フーバーダム(Hoover Dam)やグランドクーリーダム (Grand Coulee Dam) の建設によって、豊富で安価な電力が確保され軍事産業などが発展し、今は半導体などのエレクトロニクス産業が中心となっています。さらにグランド・キャニオン国立公園 (Grand Canyon National Park) などの観光産業でも盛んです。

職業訓練を中心とした学校を紹介されて兵庫教育大学院生とで出かけました。3名の生徒が英語や数学を勉強していました。教師は数名いたでしょうか。事前に、私はそこの生徒は犯罪の経歴があることを聞いていました。銃を保持していた白人女性、ドラッグを売っていた黒人男性、車を盗んだ黒人男性です。いずれも高校生です。

教師は、私たちが生徒に声をかけてよいといいました。「将来どんな進路を考えているのか」と聞きますと、「大学へ行って技術を身に付けたい」と黒人高校生が答えてくれました。女性は看護師になりたいというのです。そのために、教科の勉強をしているようでした。彼等は裁判所から一年間の保護観察を言い渡され、職業訓練などの矯正教育を受けているのです。それにしても見知らぬ訪問者に生徒との会話を許すなんて驚きでした。

心配なのは、犯罪が悪化し刑罰が厳しくなっていることです。ある州では、検察官が事件を少年裁判所に送るか、刑事裁判所に起訴するかを判断する裁量を有するというのです。しかし、特に少年の犯罪においては、厳罰化を持って処するよりも教育的支援でもって更正させるべきだというのは、フェニックスで経験した矯正教育が示しています。厳罰化する事が、必ずしも社会にとっていい影響を与えるとは限らないという考え方もアメリカには根強くあります。

勉学の態度が改善されれば、矯正教育を受ける生徒はやがて通常の高校に戻ります。生徒を地元の高校に戻すことが望ましいという考え方が前提にあるのは興味あることです。
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アメリカの学校は今 その二十九  Haggerty Elementary School

ma_cambridge06 episcopal_divinity_school_cambridge_ma harvard_square_in_cambridge_massachusettsアメリカの東海岸にマサチューセッツ州 (Massachusetts)があります。州都はボストン (Boston) です。このあたりには有名な大学がいくつかあります。ハーヴァード大学(Harvard University)、マサチューセッツ工科大学 (Massachusetts Institute of Technology:MIT)、ボストン大学(Boston University)、タフツ大学 (Tufts University)、ノースイースタン大学 (Northeastern University)、どれも超一流の研究中心の大学です。ボストン音楽院 (Boston Conservatory)での学びに憧れるのはビオラを弾く私の孫息子です。

今回の学校は、ハガティー小学校(Haggerty Elementary School)です。この学校はハーヴァード大学のあるケンブリッジ (Cambridge)という町にあります。このあたりはニューイングランド (New England) と呼ばれ、植民地時代の建物が煉瓦造りで残っています。高い建物は規制されています。ハガティー小学校はDaniel A. Haggertyという軍人の名前をとっています。この人は1846年のメキシコ戦争 (Mexican War)で最初の犠牲者となった人といわれています。学校などにはその町が輩出した有名な人の名前がつけられるのをしばしばみることができます。

メキシコ戦争は別名、 Mexican-American WarとかInvasion of Mexicoともいわれます。メキシコがスペインから独立したのが1821年。アメリカとメキシコには領土をめぐる覇権争いが始まります。独立間もないメキシコはアメリカに敗れ、カリフォルニアがアメリカに割譲され、リオ・グランデ川 (Rio Grande)が国境となります。

ハガティー小学校のモットーは“While Everyone is Different, Everyone Belongs.”(みんなが違っても、みんなが参加できる)。民主主義の考え方です。学校創設の原点は市民の参加、税金でつくるのです。国には頼ることはありません。ハガティー学校もそうです。教室の中は実に明るく、本やコンピュータ、教材が所狭しと並んでいます。どの教室にもラグが敷かれ、子供は腰を下ろして授業に参加します。壁には子どもの作品がかけられているのは日本の学校と似ています。

日本の教室の造りと大きく違うのは、教室が小さい衝立で仕切られていることです。島がつくられて、グループでの指導が中心なのです。習熟度の違いがグループ分けの基本です。同じ内容による一斉の指導はあまり見られません。

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アメリカの学校は今  その二十八  George F. Kelly School

cpslogofloatleftc bridgesm guildford_1831ボストン(Boston)にあるローガン国際空港 (Logan International Airport) のあたりは住宅地です。ここからダウンタウンの高層ビルが湾の対岸に見えます。このあたりはChelseaという町です。チェルシーと呼びます。いい響きの町ですが、アパートが建ち並び、勤労者が住んでいます。その多くはヒスパニック系 (Hispanic) の住民です。ボストンの町中まで地下鉄で5分くらいの便利さです。

またまた私事ですが、長男はChelseaのアパートからケンブリッジ(Cambridge)にあるハーヴァード大学(Harvard University)に通っていました。嫁はChelseaの小学校一年の担任をしていました。これがGeorge F. Kelly Schoolです。彼女はウィスコンシン大学でスペイン文学の専攻でしたのでバイリンガルです。以前、チリ(Chile)の首都にあるサンティアゴ大学 (University of Santiago) にも留学したことがあります。今は教師をしながら児童文学分野で著作活動をしています。

学校のあたりは、中の下といった大分くたびれた町並みです。ですが学校の建物は真新しく周りと不調和です。学校のモットーは、「未来への架け橋 Bridge to Success」。教室に入ると授業はスペイン語で行われています。彼女のクラスはすべてヒスパニック系の子ども達です。メキシコやプエルトリコ、キューバなど中南米のスペイン語圏諸国からアメリカに渡ってきた移民の子孫というわけです。

午前中はすべてスペイン語で、そして午後は英語での授業です。午前中は、ヒスパニックの助手(Teacher Aid)がいて授業を助けています。クラスには、学習困難な子供も見かけます。助手は主にこうした子供もの勉強をみてやっています。44名の教員のうち10名が特別支援の教員となっています。そのほか、矯正体育、ソーシャルワーカー、言語治療士も常駐しています。教師陣の名前とEmailが公表されているのは、 George F. Kelly Schoolも例外ではありません。

メディアセンターの充実さはコンピュータの数や司書の存在で伺えます。Mac, PCの両方があります。生徒の学習として、Mac上の教材が整っているというのが我が国と違うところです。どのコンピュータもネットにつながっているのは言うまでもありません。個々の子どもにあった勉強では、コンピュータやネットワーク上の教材を使うことが必要だからです。今はiPadが普及しています。

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アメリカの学校は今 Intermission その二十七 Cultural Studies

_mg_0145 landscape-1464097810-bob-dylan-jerry-schatzberg a8fbef631640965b845ac4e3cd88f747あまり聞き慣れない研究の分野に「Cultural Studies」というのがある。文化学研究とでもいえようか。「地域へと広まっていった文化一般に関する学問研究の潮流を指している」 とある。ハイカルチャーだけでなくサブカルチャー(大衆文化)の研究を重視するようだ。

サブカルチャーという用語を最初に使ったのはアメリカの社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)である。彼は「孤独な大衆」(The Lonely Crowd)という著作の中で、社会的性格は伝統指向型から内部指向型とか他人指向型へと変化すると論じている。リースマンは、伝統指向型の社会的性格は、はっきりと慣習が伝統によって体系化されているため、恥に対する恐れによって人々の行動は動機付けられると考える。

さらにリースマン曰く。内部指向型や他人指向型の社会的性格では、人は行動の規範よりもマスメディアを通じて、他人の動向に注意を払う。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安とか寂しさによって動機付けられるのだと。この考えは仮説だろうと察するが、一考に値する。

ハイカルチャーを享受するには相応の教養や金と時間が必要であった。だが、大衆が実力を持つのは20世紀。大衆社会においては、高等教育を受けた人々が増加し、ハイカルチャーも一般の人々が楽しむことができるようになった。絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書などで見られるし、音楽も演奏会に行かなくともラジオ・テレビ・CD・インターネット上で気軽に楽しむことができるようになった。現代は、いわばハイカルチャーの大衆文化時代といえる。要は、Cultural Studiesとは以上の現象をもっと難しく研究する分野のようだ。

Bob Dylanの歌詞は大衆文化の典型のように分かりやすい言葉を使っている。だが、その歌詞の意味は誠に深い。ノルウェー・ノーベル委員会はそれを評価したのだろう。

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アメリカの学校は今 Intermission その二十六 文化の回帰ということ

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Bob Dylanの話題から、過去のブログで綴った「文化の回帰」という拙文を読み起こしています。以下は2014年8月に掲載した駄文であります。ご笑覧くだされば幸いです。

大衆文化と呼ばれるサブカルチャーのメインカルチャーへの挑戦は至るところに現象として現れた。1960年代である。当然のようにメインカルチャーと考えられた歴史とか古典に対する強い関心と畏敬は、サブカルチャーの側からすると一種の審美的文化観とされて、時に「マニア」、「おたく」といった独特な行動様式として揶揄されることもある。しかし、おたくの本人は「伊達や酔狂」と自負するようなところがあって、こうした人々はむしろ孤高のような存在感を楽しむようなところもあるようだ。

サブとメインの境界が曖昧になったということは、その逆転現象がうまれてきたということかもしれない。例えば、活字文化は今もそうかもしれないが、メインカルチャーの旗頭であった。だが、なにもかも電子媒体としてメディア界に急速に広がるのが現在。書籍の売り上げた伸びないのは、電子媒体の流通と普及と逆相関があるようだ。多くの書類、卒業論文、研究論文は電子媒体で提出しなければならない。悔しいことだが、手書きの論文は受け付けてくれない。

「子供たちは夏目漱石や森鴎外を読まないのではない。読めないのだ」ともいわれる。漢字能力の低下が一因だというのである。手書きできない。それで電子辞書を使い携帯電話サイトから「ケータイ小説」を作る。「書く」のではない。漢字が書けなくても小説が書けるという時代になった。「話し言葉が中心なので親近感があり、一文一文が短く読みやすい」という新しい文化観もそこにある。

技術革新に伴う諸々の変化は、もはや後戻りができない。革新が続くだけだ。だが、電子媒体にも寿命がある。記録したデータを保持できる期間は有限である。読み込みの処理がなくとも経年により媒体は劣化していく。そしてデータが読めなくなったり消失したりする。自分もその苦い経験はある。もっとも機械的な寿命の問題だったが、、、、

活字文化がサブカルチャーか、メインカルチャーかという議論はなにか不毛な感じもする。だが分かっていることは、サブとメインの逆転、そのまた逆転も起きうることである。今や「アングラ」も「ヌーヴェルヴァーグ」という表現に出会うことはない。文化の論争は意味がなくなっているからだろう。文化の回帰現象は、統計で使うように平均とか元の状態に近づく、あるいはそれを繰り返すということであるようだ。

活字文化プロジェクトが各地で盛んになり、活字文化推進会議とか活字文化推進機構もできた。電子媒体文化とのせめぎ合いのようだが、両者が共存することも文化ではないかと思うのである。
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アメリカの学校は今 その二十五 Intermission サブカルチャー

NOVEMBER 1961:  Bob Dylan recording his first album, "Bob Dylan", in front of a microphone with an acoustic Gibson guitar and a harmonica during one of the John Hammond recording sessions in November 1961 at Columbia Studio in New York City, New York. (Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

NOVEMBER 1961: Bob Dylan recording his first album, “Bob Dylan”, in front of a microphone with an acoustic Gibson guitar and a harmonica during one of the John Hammond recording sessions in November 1961 at Columbia Studio in New York City, New York. (Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

250px-joan_baez_bob_dylan2014年8月11日のこのブログで「文化を考える その4 サブカルチャー」と題する駄文を掲載しました。次のような内容でした。

1960年代のサブカルチャーを誘因する大きなきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。既成の体制やハイカルチャーに対して主として若者が怒りだす。主流の文化であるメインカルチャーの地位が揺るぎ出すのである。それまでサブカルチャーとして卑下されがちであった現象が次第にそ認知されていく。このことはメインとサブの境界を曖昧にしていくことを意味する。

音楽の世界ではビートルズのジョン・レノン(John Lennon)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ジョーン・バエズ(Joan Baez)、ピーター・ポウル・メアリー(Puter, Paul & Mary-PPM)などである。彼らの、自由と平和を訴えるメッセージは若者だけでなく広く大衆に受け入れられていく。映画の世界でも芸術性の高い作品に混じって、大衆娯楽に徹するものとが共存していく。「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる”新しい波”の映画も制作される。大島渚の「愛のコリーダ」は既成の概念を打破するような演出だ。演劇もそうだ。アンダーグラウンド(Underground-culture)とかカウンターカルチャー(Counter-culture)と呼ばれ、反権威主義的な文化の芸術運動が広まった。それまで認知度が低く、水面下での活動がやがて社会的な地位を確立していく。

漫画やアニメはかつてはサブカルチャーだったが、今やすっかりメインカルチャーとして不動のものとなった。ビデオ・オン・デマンド(VOD)が有線テレビジョン(CATV)で提供されている。「一億総白痴化」 、「駅弁大学」といった造語の大家、大宅壮一には今の社会状況がどのように写るのかは興味ある話題である。彼が生きていれば一体どんな流行語を使うだろうか。

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アメリカの学校は今  その二十四  Shorewood Hills Elementary School

6393805-unitarian_church-0 65443863 horse-kids-1 mcgruff-cycle-2この学校は私の三人の子供が卒業した小学校です。ウイスコンシン州(Wisconsin) マジソン市(Madison) の隣にあります。学校は、Village of Shorewood Hillsというれっきとした自治体の中にあります。閑静で高級な住宅街で、理事会 (Board of Trustees) がこの村を運営しています。村税、警察、道路、公園、水道、清掃などの業務です。その隣にはウイスコンシン大学の外国人研究員住宅地、そして大学院生の家族世帯が住む地域が広がります。Shorewood Hillsの子供はこの三つの地域から通ってきます。

この学校には非英語圏の国々からきた家族の子供が大勢学んでいます。大学院生の多くは外国からです。ですから地元Shorewood Hillsに住む子供は、いわば少数民族、というわけです。この学校にはニックネームがついています。それは「小さな国際連合- Small United Nation」というのです。子供の国籍や民族がさまざまなのです。40以上の国々から生徒はやってきます。ほとんどの子供の親は、研究者か大学院生です。

多様な背景を有する子供を指導する先生はさぞかし大変だろうと思いきや、スタッフは長年、こうした子供の指導に慣れています。当たり前のように子供達を上手に扱っています。非英語圏の子供に英語を教えるプログラムも優れています。スタッフは、子供の家庭が教育に対して熱心なことを知っています。Shorewood Hillsの住民も、自分の子供が異なる国々から来る子供たちと学ぶのはとてもよいことだと考えています。それに大都会の学校とは違って実に安全な学校です。

保護者は自分の担任の先生を選ぶことができます。校長に対して、「Smith先生に担任をお願いします」という具合です。大抵は希望どおりに先生をつけてくれます。私も、周りの人から指導に熱心なある先生のことを聞いていたので、三人の子供がこの先生から指導を受けることができました。この先生は二年生の担任でした。一度お礼を兼ねて自宅に招き食事をしたこともあります。

アメリカの学校は今  その二十三 Keaukaha Elementary School

webster5 keaukaha webster3 map_hawaiiハワイ最大の島ハワイ島(Hawaii Island)にある小学校を紹介します。今回は、Keaukaha Elementary Schoolです。呼び方は「キウカハ小学校」とでもしておきましょう。これまでハワイの私立学校を三つ紹介しました。ですがハワイの大多数の学校は公立学校です。

ハワイ島は通称Big Islandと呼ばれ、ホノルルから飛行機で50分位のところに位置する火山の島です。ここには、4,200メートルのマウナケア (Mauna Kea)という山頂に各国の機関が設置した天体観測所があります。我が国も国立天文台ハワイ観測所に有名な大型光学赤外線望遠鏡の「すばる」を建設して星の誕生や死、銀河の衝突、宇宙の膨張などの現象を調べています。この島は、日系人によって開拓された島で、ヒロ市内にHawaii Japanese Centerがあり、開拓の歴史が展示されています。

キウカハ小学校はハワイ島の中心ヒロ (Hilo)にあります。ハワイ島のどの学校も気候に合わせているせいか、廊下は吹きさらしになっています。キウカハ小学校もそうです。建物の多くは木造です。教室内はもちろん冷房が効いています。校庭は椰子の木がそびえています。教職員の服装はムームー (muumuu)やアロハ(aloha) 姿です。そして名前からして日系の職員が目立ちます。

この小学校は幼稚部から6年生までの学校です。訪問したときの校長はMs. Katherine Websterという女性でした。彼女から、一緒に訪問した障害児教育専攻の教師6名に対してハワイの障害児教育の講義を受けました。通常、小学校の校長は障害児教育にはあまり詳しくはないのです。Ms. Websterは違いました。全障害児教育法(Education for All Handicapped Children Act of 1975)や指導法に至るまで、その博識に驚きました。

外は暑いので子どもの姿は見かけません。校庭は広くはありません。冷房が効いた体育館での運動が中心です。コンピュータは実に素晴らしく完備されていました。多くの島から成り立つ州だけに遠隔教育とか遠隔学習が盛んなのです。
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アメリカの学校は今  その二十二 スクールバス

tumblr_lylzltkjmc1qewb27o1_1280 school_main school-bus-car-that-didnt-stopアメリカやカナダの多くの子供達もスクールバスを利用します。バスは目立つ黄色で大分古そうなデザインの車体です。これがとても丈夫に作られています。高校の校区は広いのでスクールバスの路線もいろいろあります。始業前、放課後、そしてクラブ活動終了後に生徒を送迎します。

ほとんどのバスのエンジンは前方にあり、車体は高くてどこからみてもすぐわかります。運転手は手動でぐいとレバーを回してドアを開けます。スクールバスでの生徒の乗り降りには、生徒を護るために厳しい規則があります。このバスを見かけたときは、他の自動車は注意しなければなりません。生徒が乗降中は、運転席上部と後部のライトが点滅します。バスの両側には【STOP】と書かれた赤い八角形のサインボードが出ます。この間、後続の車はバスを追い越してはいけません。中央分離帯がない場合は、対向車も停止して生徒の乗り降りを待たなければなりません。バスの後部には「Don’t Pass When Signals Flashing」というサインがついています。

こうしたスクールバスを利用する者の安全を護る規則をがいろいろとあります。1939年にU.S. Federal Motor Vehicle Safety Standardsという規則が定められます。これを少し紹介します。なんといっても車体の頑丈さが要求されます。他のバスは黄色を使ってはならないこと、万一の事故で横転しても車体がクラッシュしないこと、横転したときなど、窓枠から生徒が投げ出されないこと、非常ドアが閉まっていないときはアラームが鳴ること、座席の間隔を狭めること、夜間のために蛍光色のテープを貼ることなどです。

最も歴史が古いバスの製造会社はWayne Corporationという企業です。1837年に最初のスクールバスを製造し、今や北米最大の製造会社となっています。この黄色いバスは、遠足や社会見学などでも生徒を運びます。またスポーツ活動でも選手らを運ぶのに使われます。どの州でも郡でもスクールバスは民間の会社が経営しています。

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アメリカの学校は今 その二十一  Assets School

0 img_5680-e1435167747649 paul-and-volunteers再び、ホノルル市内の学校の紹介です。ホノルル国際空港や真珠湾(Pearl Harbor)の近くにあるアセッツ・スクール (Assets School) を紹介します。この学校も「Kamehameha」 と同様に私立学校です。特に書字や読字に困難を抱える生徒が多数学んでいます。興味あることに英才児もいます。こうした生徒が普通の生徒と一緒に学ぶ授業のことを一体化教育ーインクルーシブスクール(Inclusive school)といいますが、この学校は一体化教育を地でいくところに特徴があります。

もともとこの学校は真珠湾にある基地に住む子供たちの学校でした。やがて誰もが入れる学校となりました。この学校には幼児教育から高校までの課程があります。このことを略して「K-12」、つまり幼稚園から高校までということです。生徒全員で350名の小さな学校です。

この学校のマスコットは海亀(honu)です。広い海を悠々と優雅に泳ぎ、あくせくしないで、いつも冷静に行動しようとする亀に学ぼうとする姿勢を意味しています。

小さい学校であるが故に、学校経営には企業や団体、同窓生、保護者などからの寄付が大事です。寄付の呼びかけには、「車を提供してください」、「コンピュータを寄付してください」というのもあります。学校を支えるのは地域であることは、校庭に現れています。「この木なんの木、気になる木、、、」というコマーシャルソングにあるガジュマルのような大木の下にすばらしい木製の遊具施設が並んでいます。校庭はもちろん全面芝生です。

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アメリカの学校は今  その二十   Elizabeth Hall International School

franken2 reading_circle img_1146_2Elizabeth Hall International Schoolは、ミネアポリス(Minneapolis)のダウンタウンの近くにある典型的な小学校です。典型的という意味は、多様な人種の子供が学ぶこと、その多くは経済的に恵まれない子供が多いということです。全児童の7〜8割をアフリカンアメリカン(African Americans)で占めています。

学校のスタッフは、子供の家庭状況などを反映して教師の他に言語治療士、(Occupational therapist: OT)、Physical therapist: PT)、音楽、学校心理士、矯正体育教師、メディアスペッシャリスト (Media specialist)がそれぞれ1名、ソーシャルワーカー(Social worker)が2名常駐しています。

不適切な行動や言語の問題を引き起こす児童もいます。私どもがこの学校を訪問したとき、事務室の前で2名の男児が立たされていました。後で理由を尋ねると女性教師に対する侮蔑的な発言をしたとのことでした。

そうした児童を一時待避させるタイムアウト室 (Timeout)もあります。タイムアウト室とは珍しいです。この教室の大きさは、幅と奥行きが3m*10m位です。窓が1箇所あり室内の中央に児童用の椅子が1脚置いてありました。ここで「しばし心を静め反省、、」させられるというわけです。

教師の不足が続き、介助教師 (Teacher aids)を雇っています。その数は11名でこれは全教職員の1/3にあたるそうです。3-4年生の混合クラスの授業では4人の教師(主1、サブ3)で7人の児童を指導しています。特別支援教育用の教室には教師の他に介助教師が1人、言語療法士も1人常駐しています。

時間割の中に「Rules」という科目もあります。日本でいう「基本的生活習慣」に相当するようです。社会的スキルの指導が目的のように感じられます。日本の道徳教育とは、質的に異なるようでした。ソーシャルワーカーは、子どもの不適切な行動に対する停学通知書の作成なども行うというのですから、随分と我が国とは事情が異なるものです。

児童の指導で苦心している学校のようですが、最近、国際理解教育の活動が活発となり、国際バカロレアプログラムを実施するという教師の努力が伝わる話題で注目されています (International Baccalaureate Primary Years Programme: IB-PYP) 。学校の新しい試みは生徒のダイヴァーシティによってできるのでしょう。

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アメリカの学校は今  その十九 Hiawatha Community School

mrt cargill-1459773566 ty8431926040023ミネアポリス市(Minneapolis) はミネソタ州(Minnesota)一の大都市。隣が州都セントポール市(St. Paul)でこれを併せて双子の町(Twin Cities)と呼ばれています。プロ野球のチーム名がTwinsですね。昔の氷河でできた多くの湖が点在しています。湖が多いので蚊が無数に飛んでいます。そんなわけで、「」ミネソタの州鳥はモスキートだ」という冗句があります。

ミネアポリスはミシシッピー川(Mississippi River)とミネソタ川(Minnesota River) が合流し、昔から穀物の交易で栄えてきました。この町はかってのノースウエスト航空 (Northwest Airline)や精密機械のハネウエル(Honeywell)等の本社がありました。ノースウエスト航空はデルタ航空(Delta Airline)となりアトランタ市(Atlanta) に本社があります。ミネアポリスはデルタ航空のハブ空港となっています。ハネウエル本社はニュージャージー州(New Jersey)に移りました。今は、穀物市場で有名やカーギル (Cargill)の本社がミネアポリスの郊外にあります。

町の中には大きな製粉工場などが目立ちます。1860年頃から主に北欧からの移民がやってきます。気候が似ていたからです。そのほか、オランダやドイツ、イタリアなどからも多くの移民が定住して発展してきました。その後アフリカ系やアジアの人々も職を求めて定住しました。

Hiawatha Community Schoolの話題です。「Hiawatha」は先住民族の一つであるモホーク族(Mohawk)の言葉で「戦士」という意味です。モホーク族は農耕民族ともいわれ、モホーク刈りと呼ばれる独特の髪型をしていたようです。さて、学校には幼稚部から5年生約300名が学んでいます。学校のあたりは、いろいろな民族の人々が住んでいます。貧しい家庭の子どもたちは、朝食と昼食の無料給食サービスを受けています。私たち見学者も朝食をいただく機会に恵まれました。大きなハンバーグ、フレンチフライ、牛乳です。ケチャップの袋が山盛りになっています。子供たちには、まずは腹を満たしてから学習させようとするのです。子供の中には白人もいます。服装も貧しく髪をとかしていないためか、すさんだ印象を受けました。
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アメリカの学校は今 その十八 サクラメントの学校(2) A. Warren McClaskey Adult Center

mcclaskey_0 delta-king-old-sacramento static1-squarespaceカリフォルニアの州都サクラメント (Sacramento) の人口は47万くらい。中都市といった規模です。ここの学校区教育委員会はUnified School Districtと呼ばれています。周辺の小さな町を統合して教職員、施設設備、予算を管轄しています。今回紹介するサクラメント市内の学校は発達障害者の成人教育機関、「A. Warren McClaskey Adult Center」です。恐らく、Warren McClaskeyという市民が教育委員会に多額の寄付をして造られたものと思われます。

このセンターは教育委員会が運営する発達障害者の職業訓練教育機関です。高校教育の延長となっていて、生涯教育施設ともいわれています。アメリカでは幼児教育から職業訓練にいたる教育は全て教育委員会の管轄です。ほとんど無料で職業訓練のサービスを受けることができます。

障害のある生徒も通常の高校で学習するのですが、それだけでは職業上の自立に至らない場合が多いのです。そのためにこうした訓練機関が存在します。一市民として地域社会で生活するためのスキルを身につけ、仕事について自立的な生活ができるように支援されるのです。

センターではいろいろな訓練プログラムを観察できます。例えばレストランのウエイターやウエイトレスになるための訓練です。清潔な服装、テーブルの用意、あいさつの仕方、座席への案内、注文の取り方、サービスの声かけ、チップの受け取り方、レジの扱い方などなど興味ある訓練を受けています。私たち教員一行もテーブルに座らされて訓練に参加し、おかげで無料の昼食をいただきました。訓練の成果でしょうか、生徒の対応も堂に入っておりました。チップも渡しました。

訓練の合間に余暇時間を過ごす空間があります。センターの側にある住宅を借りています。生徒は三々五々集まっては、珈琲を飲んだり、本を読んだり、ゲームをして余暇を楽しみます。そこの事務室には、訓練生一人一人の訓練プログラムのファイルがあります。個別の就労計画といった内容です。複数の教職員が訓練生の能力やスキルに合ったプログラムを作りそれに基づいて指導しています。ジョブコーチ (Job coach) はこうしたセンターでは欠かせない存在です。
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