お金の価値 その五 小切手とカード

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 1977年から1983年頃にウィスコンシン大学で留学していたときのエピソードです。まず大学に着いて最初に行ったことは地元の銀行に現金を持参して口座を開設したことでした。そうすると銀行から100枚綴りの小切手帳が渡されました。そうしてアパートの家賃の支払いなどから小切手を使い始めることになりました。

 新学期が始まるので、授業料を支払いにいきますと、大学からは、「現金での授業料は受け取らない、小切手で支払うように」との指示でした。その理由は、多額の現金を口座から引き出すのは不便であり、収受には間違いが起こりやすいというのです。国際ロータリークラブからの奨学金も小切手で渡されました。それもって預金口座に入れたのです。

小切手

 毎日、買い物をするときは小切手で支払います。もちろん現金での支払いもあります。電気代などの請求書の支払いには、小切手を会社に郵送するのが一般的です。実は今も小切手全体の4分の3がアメリカで切られているのですが、他のどの国も小切手は普及していないといわれます。日本もしかりです。クレジットカード決済を生み出し、暗号資産を生み出したアメリカで、今も古風な小切手が使われているのはなぜでしょう。小切手が最も普及している国が、クレジットカードを発明し、ペイパル(PayPal)やアップルペイ(ApplePay)を生み出し、メタの暗号通貨リブラ(Libra)を考え出した国であるというのは不思議な現象といえそうです。

 1970年代は、日本ではクレジットカードの利用は一般的ではありませんでした。「インターナショナルカード」というカードが発行されたのは1978年の日本ダイナースクラブです。当然ですが当時私はクレジットカードなるもの持っておりませんでした。今も、日本でのカードの利用率は低いといわれます。スーパーマーケットでのカウンターでは、ほとんどの人が現金で支払うのを目にします。カードの信認度の低さとカード利用率の低さには因果関係があるといわれます。我が国でカードの利用が少ないのは、カードを使えるところが少ないからなのか、それとも人々がカードを使いたがらないからでしょうか?カードの価値は、それがどこで使えるか否かによって決まるのだと思われます。田舎の小さな店での買い物ではカードは使えません。

Apple Pay

 日本は世界に比べてカードが普及していません。その理由は正札が精巧で偽札が少ないことに関連しているようです。偽札が出回ると現金でのやりとりのとき、本物かどうかで点検することになり、やりとりでいやな雰囲気になりかねません。その一例を紹介します。私が沖縄からウィスコンシン大学に留学するとき、那覇東ロータリークラブの役員だった方よりお祝いとして100ドルを貰いました。100ドル札です。あるとき、買い物でそれを使おうとすると、店員がしげしげと見て、「店長と相談するので待って欲しい」というのです。店員は始めて100ドル札を見たにちがいありません。そして偽札と疑ったのでしょう。小切手やカードはその心配がないので、現金より利用することが多いのです。それに引き換え、日本のお金は安心して使えるという風土や文化が国民に定着しているので、小切手やカードはあまり普及しないようです。

Debit Card

 デビットカードとクレジットカードが最も利用されているのが韓国です。このことを前稿で申し上げました。カードの利用と同時に銀行口座から引き落とされる即時払い方式がデビットカードです。基本的には一括払いのみで、口座残高の範囲内でしか利用できないため、お金の使いすぎを防ぐことができます。他方、後払い方式で、一定期間内に決済した金額が毎月決まったタイミングにまとめて引き落とされるのがクレジットカードです。1回払いだけでなく、分割払いでの支払いや、利用件数や利用金額にかかわらず毎月一定額を払うリボ払いも可能です。

 小切手の話題に戻りますが、アメリカ人が小切手を好む理由は、他の支払いの選択肢と比べたときの小切手の魅力にあるからなのでしょう。スーパーマーケットでは、小切手で現金に換えることができるほどです。このように小切手がアメリカで便利なのは、それが受け入れられ、それを管理する法的枠組みがあり、そして同じくらい重要なことに、それが文化の一部となっているからだと思われます。支払い方法での選択肢がある他の国々で、小切手がほとんど使われていないのはなぜなのか、これは興味ある話題です。私の見立てでは、日本人は小切手は現金という通貨よりも信用がないと思っているからです。本来小切手は通貨のはずなのですが、その信認が低いのです。

 先日親戚の葬儀に行ってきました。そのために銀行に出かけ口座から札を引き出し、新品のものだけを選んで香典袋入れて持参しました。不便きまわりないことでした。これも日本古来の伝統なのかと諦めるとともに、小切手の便利さを思い起こした次第でした。
(投稿日時 2024年10月7日) 成田 滋

お金の価値 その四 国債は国の借金

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 日本政府が発行する債券は「日本国債」と呼ばれます。これが国債です。通常国債は銀行で売買されます。日本の場合は日本国内での個人向け売買や金融機関が運用を目的に購入するのが主流です。他国の国債は国際間で売買されることが多く、日本も他国の国債を大量に保有しています。特にドル建の国債を多額に所有しています。国債を大量に持っているとその国と外交交渉するときに有利ですし、貿易などでのドル建ての決済に必要な資金となります。円高の時に購入したドルを円安になったからといって全部売却するのはドル建ての決済で困るので、おいそれと売買できないのです。外国債はその国がデフォルトすると回収できなくなってしまうというデメリットはありますが、ドルやユーロの場合は強固な通貨ですから債務不履行、すなわちデフォルトの心配はほとんどありません。

昔の国債

 国債は国の借金と言いましたが、自国で国債を売買している場合にはデフォルトは起きません。外国に国債を買ってもらっている場合は、返済できないと国際問題になります。ギリシャやスペインは国債を外国に引き受けてもらっているため、自国の通貨で返済できないので困ったのです。かつて、国債は用紙に券面を印刷して発券されていましたが、2003年1月から始まった「振替決済制度」によりペーパーレス化が進みました。この制度では国債を紙で発行しないことや売却や購入などの取引内容が口座情報に記録されることが法的に明確にされました。

 財務省のサイトには興味ある記述があります。それは「国民1人当たり1000万円の借金」であるというフレーズです。この借金を孫の代までにも背負わせてよいのか、という言葉です。ここで肝心なことは、「国の借金」は「国民の借金」ではなくて日本政府の借金なのです。この政府の借金をあたかも国民がこれから税金を支払って返さなければならないようなフレーズになっているのです。これは大きな間違いで、決して国民が返済したり、負担したりするものではありません。財務省はこのようなフレーズを使って、借金は良くない、通貨をむやみに発行してはいけないのだというのです。「国民1人当たり1000万円の借金」というのは、「借金額を国の人口で割ってみただけの数字」なのです。国債は借換債という国債で返却されます。国民の税金で償還するのではありません。

GDP比の債務残高

 ここで間違ってはいけないのは、政府の借金は家計の借金とは全く異なるということです。家計では、借金は自分でいつか返さなければなりません。自分で紙幣を刷ることは許されていないの反して、政府には子会社である日本銀行には貨幣発行という能力があるのです。この通貨発行権があるため、借金を期限内に必ず返済することができるのです。ですから国の借金と呼ばれる政府債務は大変でも何でもなく、日本の財政破綻といった可能性は全くないのです。

 繰り返しますが政府・日銀には日本円の政府の債務はほぼすべて円建てなので、債務不履行に陥ることはありません。海外で起こるデフォルトの話は、デフォルトした国は、外貨を持たないために支払いができない状態なのです。適正な量の国債発行は、「信用創造」という日銀が有する「貨幣を生み出す」機能を指します。信用創造とは、銀行が貸し出しを繰り返すことによって、銀行全体として、最初に受け入れた預金額以上の預金通貨をつくりだすことをいいます。創造される信用貨幣の量は日銀の準備預金制度に依存していますので、過度な発行は控えられるのは当然です。ちなみに準備預金制度とは、市中銀行の預金の一定割合の額を中央銀行に預け入れさせる制度のことです。この預金は当座預金となり利息はつきません。

 ところでWikipediaによりますと、21世紀に入ってからの各国の負債の増加を見ると2001年=100とし、2015年時点のデータでは、英国が429、米国338、日本は163とG7の中で最も増加率が低いのです。G7の中で最も借金を増やしていないのです。この状態が望ましいかどうかです。この負債とは国債のことです。国債は、需要と供給を促進するための投資です。日本は投資をしない「ケチケチ国家」ともいえるのです。

 今、日本は震災や天災に備えなければならない状態です。国土強靱化が叫ばれています。そのためには、膨大な資金が必要です。震災や天災が起きてからの復興は大変なことです。もっと事前に強靱化を進めておけば被害を少なくすることができるのです。防災庁の設置ということが新内閣で言われています。そのためには、大量の資金が必要となります。もしかしたら、防災国債などが生まれるかもしれません。防災税などといった増税は論外です。

 「ケチケチ国家」を進めるのが、プライマリー・バランス(PB)の黒字化と債務残高対GDP比の安定的引き下げを掲げてきた財務省だといわれています。PBとは、財務省の見解によれば、「社会保障や公共事業をはじめ様々な行政サービスを提供するための経費を、税収等で賄えているかどうかを示す指標」といわれます。財務省は、税収でさまざまな政策的な経費を賄う財政健全化目標を掲げています。受益と負担のバランスを保つというのがプライマリー・バランスといわれます。つまり、消費増税などによって黒字化するという方針であり、国債という赤字をだす政策には反対しているのです。いざというときに、国債の信認が下がると償還が困難になりデフォルトになり、国家の信用を落とすことになりかねないと財務省は懸念するのです。

財政収支のイメージ

 G7の国債の5年以内のデフォルト確率を比較する興味あるデータがあります。それによりますと日本は0.33%とG7諸国中ドイツに次いで2番目に低いのに対し、英国は0.70%と日本の2倍以上の水準に達しています。このようにデフォルト確率が低いのは、日本国債に対する信認が高いからだというのが定説となっています。

 税収でさまざまな政策的な経費を賄う財政健全化目標というのは、「ガラパゴス化した日本の財政政策」だと揶揄されています。これが財政金融政策や経済の正常化を進める上での支障となっているといわれる所以です。経済活動が活性化しない状況が続くのは、プライマリー・バランスを堅持しようとする政府の施策にあるようです。
(投稿日時 2024年10月5日)  成田 滋

お金の価値 その三 「欲しがりません、勝つまでは」

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 戦時中の通貨発行の経緯は貨幣を考えるヒントを与えてくれています。政府は、国威発揚のために新聞報道をとおして国民から「国策標語」を求めます。「強化標語を公募し、以つて一億国民蹶起の合言葉となし。御賛同の上、御後援賜はり度」というのが大手の新聞に載ったといわれます。いわば戦争遂行のための国民決意を表す標語です。全国から多数の標語が集まったようです。その中には、「ぜいたくは敵だ」、「すべてを戦争へ」、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などに混じって次の標語も選ばれます。「胸に愛国、手には国債」です。

戦時中の国策標語の一つ

 戦費の調達のために、国は多額の国債を発行します。戦時国債と呼ばれる財政出動です。国債発行とは、通貨の発行のことです。国債によって市場に通貨を供給し、工場を建て武器を製造することを促すために発行したのです。国債によって原材料を買い入れ武器を製造するために国民を雇います。国民はそれによって収入を得ます。国債とは、このように供給と需要を大いに刺激するのです。収入が増加すると所得税が政府に入ってきます。しかし、肝心の生活に直結する品物は作らず大いに不足するのです。この状態を示す標語が「黙つて働き 笑つて納税」です。収入を需要にまわすと商品の価格が上昇し、下手するとインフレーションが起こります。戦時中ですから政府はインフレーションといった混乱を歓迎するはずがありません。

「欲しがりません、勝つまでは」

 「欲しがりません、勝つまでは」という標語も同じことです。国民に我慢を強いて、戦争を遂行したかったのです。こうした我慢や倹約という行為は、どの国でも奨励していたのです。例えば、戦時中のアメリカでは、車を一人で利用する事は隣にヒトラーを乗せている事と同じだ、という論調がありました。また自家用車では相乗りを推奨しました。缶詰を兵器に使えるようにと金属を倹約するように奨励されたこともあるくらいです。働かない国民には、兵器工場で働いて尽くすように勧めたともいわれます。「我々は標語に“触発”されたというより“抑圧”、“支配”された」という回想記も残されています。

 このように、程度こそ違いますが、戦時においてはどの国でも国民に戦争を他人事と思わせず、倹約に努め勤労にいそしむように奨励したのです。国の巨大な国債発行とは、輪転機をぐるぐる回し過ぎることです。当然通貨の価値は下落し、物価が上昇して資産が目減りしたのが戦時中の国債です。そして国民の持つ債券は大きく下落したのです。このようなインフレというリスクを国民に伝えなかったのが戦時内閣でした。

(投稿日時 2024年10月3日) 成田 滋

お金の価値 その二 輪転機を回して紙幣を刷る

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 北海道大学時代に「貨幣論」という授業を受けたことがあります。そのとき、どんなことを学んだかはほとんど記憶がありません。ただわずかに記憶に残ることは、輪転機を回して紙幣を刷りすぎると物価が上昇し、社会が混乱するということです。そのからくりは理解できるのですが、どの位の紙幣を発行するかのさじ加減はどのように決めるか、という質問を教授に出すことができませんでした。

 最近、岩井克人という学者の 『貨幣論』を読んで貨幣の興味ある話題に触れることができました。筆者は、貨幣は共同体的な存在であるいうのです。人々は貨幣を使うことによって貨幣共同体の構成員となり、貨幣共同体は貨幣が未来永劫にわたって存在し続けるとの期待によって存続するというのです。別な言い方をすれば、1万円札に1万円の価値があるのは、人々が皆そう信じているから、ということです。「他の人々もこの紙切れを1万円の価値があると思って取引に応じてくれる」という期待が壊れれば、1万円はただの紙切れになってしまういます。一例として、アマゾン川の原住民から果物を買おうとしてドルや円紙幣をだしても買えません。原住民はその価値を知らないからです。

紙幣印刷機

 以上のような現象は、戦後間もなく起こった50銭紙幣が紙切れになったのと同じで、人々がその50銭の値を信じなくなったからです。貨幣が貨幣でなくなるハイパー・インフレーションが起こったのです。Wikipediaによりますとハイパー・インフレーションとは「通常のインフレを超え、通貨が信用を失ってしまったときに起こりうる状態」と説明されています。

Benjamin Franklin

 1万円紙幣は広義の中央銀行の債務証書とされます。中央銀行とは国ー政府のことです。逆にいえば、国民は1万円の資産をもっているということです。もし政府が債務の返済を履行できない、いわゆるデフォルト状態になれば、国は滅びることを意味します。しかし、そうした事態にならないのは、国は債務を返済する力、すなわち徴税能力を持つからです。いざというときは、税金によって負債を返済できるのです。しかし、実際には徴税によって負債を解消するのではなく、借換債という国債を発行して返済するのです。このように国債を発行し続けることでデフォルトは起きないというカラクリなのです。

(投稿日時 2024年10月1日) 成田 滋

お金の価値 その一 1万円札

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 新しいの1万円札を見ながらいろいろと考える機会ができました。1万円札の製造原価は20円位であると報道されています。20円の紙切れが500倍の値打ちになるのですから、これは錬金術師が使う手であるという言葉を思い出します。

 小さいとき1円紙幣や50銭銅貨を使ったものです。昭和22年頃です。調べますと、今でもこの1円紙幣で物を買えるということを知りました。発行されてから130年以上が経過していても通貨として使えるというのですから、少々驚きです。しかし、これを使うと損することは私たちは知っています。このような小銭であったものの多くは1万円~5万円程度で取引されるといわれます。さらに驚くことは、この1円紙幣が未使用で、非常に良い状態の場合は100万円近い値がつくといわれます。

 そこで次のようなことを考えました。現在の1万円札を使わないで箪笥に大事にしまい、孫や玄孫のために残しておくとします。そして100年経つとこの1万円の値は100万倍になる可能性があるということです。玄孫は大金持ちになって小躍りするに違いありません。

Greenback

 戦後、50銭札や1円札は紙切れのようになりました。むしろ、物で欲しい物を買うことが流行しました。大事にとっておいた服の生地を米と交換するという事態です。皆がお札の価値を信用しなくなったからです。戦後まもなく、こうした通貨の価値が下落するハイパーインフレが起こりました。

米陸軍第442連隊戦闘団

 

 私が北海道の美幌にいたときです。親父は国鉄の職員でした。冬が近づくと職員には一世帯8トンの石炭が配給されました。住宅には必ず石炭小屋がありました。この小屋は夏は山羊小屋としても使っていました。お札の供給が足りなかったのか、お札の価値がなかったのかはわかりません。お札よりも石炭が幅をきかせていたことがわかります。そういえば、古代ローマでは兵士への給料は塩だったそうです。とりあえず塩を持っていれば、貴重品ですから他のものといつでも交換できたのです。塩は通貨だったのです。映画などでは、刑務所や戦場では罪人や兵士が貸し借りを煙草でやりとりする場面がでてきます。煙草も通貨だったのです。

 通常インフレーションというのは、需要と供給のバランスがとれなくなると起こります。供給が需要に追いつかない状態です。供給を増やすためには、通貨を発行し物作りを奨励しなければなりません。通貨によって原材料を仕入れ、人を雇い、工場を建てて国民が求める品物を製造して売るのです。しかし、戦後の状態は極端に供給が足りなかったのです。加えて外地から600万人もの日本人が引き揚げたり復員してきます。この急激な人口増によって需要に供給が全く追いつかなかったのです。我が成田家も樺太からの引き揚げ者でした。

 このインフレーション状態を救ったのが朝鮮戦争です。「特需」という特別の需要となる在日米軍の発注による需要の増加です。特に軍事物資の買い付けによって日本の経済は活気を呈していきます。駐留軍家族の個人消費や駐留軍の物資買付けが増大したのです。このとき、アメリカは物資、役務をドルによって買付けたので、日本のドルである外貨蓄積が大きく膨れます。ドルの保有によって海外からの原材料の買い付け、いわゆるドル決済ができるようになっていきます。この特需はヴェトナム戦争期にも国内で起こりました。

 こうして日本の経済は発展し、1955年度から1972年度あたりまでは、実質の経済成長率が年平均で10%前後を記録し、高度成長期と呼ばれるようになりました。いわゆる所得倍増計画も策定され、国民は政治から経済へと関心を向けていきます。1964年に東京オリンピックが、 1970年には大阪で日本万国博覧会が開催され、さらに新幹線の開業や高速道路の建設で全国の交通網が整備されていきます。こうして日本の戦後復興が世界に知られるようになりました。この理由は、積極的な財政投融資による経済優先の政策によるものだったと言われています。

(投稿日時 2024年9月29日)

ウィスコンシン州とマッカーシズムの終焉 その四

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 1954年の陸軍とマッカーシーの公聴会が大々的に報道されます。同年、マッカーシーによって不当にも糾弾されていたワイオミング州(Wyoming)選出の上院議員レスター・ハント(Lester C. Hunt)が自殺します。この事件でマッカーシーの支持と人気は急落していきます。1954年12月、上院は67対22でマッカーシーを非難する決議を可決し、マッカーシーはこうした懲戒処分を受けた数少ない上院議員の一人となります。マッカーシーは共産主義と社会主義に反対する運動を続けますが、その後48歳で死去します。マッカーシーの死亡診断書には死因として「急性肝炎、原因不明」と記されました。

Joseph_McCarthy

 マッカーシーの伝記作家たちは、上院での彼への非難の後、彼は悪い方向に変わったという点で一致しています。肉体的にも精神的にも衰え、「以前の自分とはかけ離れた青白い亡霊」(pale ghost of his former self)になっていたといわれます。マッカーシーは肝硬変(cirrhosis of the liver)を患い、アルコール中毒(alcohol abuse)で頻繁に入院していたと報告されています。上院補佐官やジャーナリストを含む多数の目撃者が、上院で彼が酔っ払っているのを見たとも報告しています。そして、ジャーナリストのリチャード・ローヴェレ(Richard Rovere)は次のように書いています。

 「彼は常に大酒飲みで、不満の時期にはこれまで以上に飲むこともあった。しかし、常に酔っていたわけではない。彼は何日も何週間も禁酒していた 。彼にとっては、ウイスキーの代わりにビールを飲むことを意味した。晩年の問題は、酒に我慢できなくなったことだった。2杯目、3杯目を飲むと気が狂いそうになり、すぐには立ち直れなかった。」

おわりに
 リチャード・ロービア(Richard H. Rovere)が書いた『上院議員 ジョー・マッカーシー』という著作に次のようなフレーズがあります。「多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかったj。社会学者のタルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)は「マッカーシズムは一部の既得権益分子に支持された運動であり、同時に上流階級に対する民衆の反抗である」と説明したことも知られています。マッカーシズムが果たして民衆の反逆であったかは理解しかねますが、いずれにせよ、第二次大戦後の冷戦の副産物であったといえるようです。

参考資料
・Senator Joe McCarthy (1959) Richard H. Rovere
・Affidavit of February 23, 1954, Talcott Parsons

(投稿日時 2024年9月24日)

ウィスコンシン州と陸軍への調査やハリウッドへの追求 その三

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 1953 年秋、マッカーシーの委員会はアメリカ陸軍に対する不可解な調査を開始します。これはマッカーシーが陸軍通信部隊の研究所の調査を開始したことから始まります。彼は陸軍の研究者の間に危険なスパイ組織があるというニュースでいくつかの見出しを飾ります。しかし、数週間の公聴会の後、彼の調査は何も成果をあげることができませんでした。国務省の外交政策に関わった中国学者オーエン・ラティモア(Owen Lattimore)、元陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル(George Marshall)らもマッカーシーからにらまれます。マッカーシーの赤狩りは政界だけではありませんでした。ハリウッドの映画界のスターであったチャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)、グレゴリ・ペック(Gregory Peck)、さらには物理学者のロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)も遡上にあげられます。

チャーリー・チャップリン

Julius Robert Oppenheimer

 陸軍とマッカーシーの公聴会が開かれます。1954 年初頭、米陸軍はマッカーシーとその主任顧問ロイ・コーンが、マッカーシーの元補佐官でコーンの友人で、当時陸軍に兵卒として勤務していた デイビッド・シャイン(David Schine)に有利な待遇を与えるよう陸軍に不当に圧力をかけたと告発します。共和党の上院議員カール・ムント(Karl Mundt)が委員長に任命され、陸軍とマッカーシーの公聴会は 1954年4月に開催されます。公聴会は36日間続き、ABCとテレビネットワーク会社のデュモント(DuMont)によって生放送され、推定2000万人が視聴します。32人の証人と200万語の証言を聞いた後、委員会はマッカーシー自身はシャインのために不適切な影響力を行使しなかったが、コーンは過度に執拗または攻撃的な努力を行った、と結論付けます。

マッカーシズムの後退
 マッカーシーにとって、委員会の結論の出ない最終報告書よりもずっと重要だったのは、この公聴会に関する報道が彼の人気にマイナスの影響を与えたことです。聴衆の多くは彼を横暴で無謀で不誠実だとみなし、新聞でも毎日の公聴会の要約もしばしば不利な報道がなされます。公聴会の終盤、スチュアート・サイミントン(Stuart Symington)上院議員はマッカーシーに対して怒りと予言に満ちた発言をします。マッカーシーから「あなたは誰も騙せません」と言われると、サイミントン議員は「上院議員、アメリカ国民は6週間もあなたを見てきました。あなたもまた、誰も騙せません」と答えたといわれます。1954年1月のギャラップ世論調査(Gallup Poll)では、回答者の50%がマッカーシーに対して肯定的な意見を持っていました。6月にはその数は34%に減少します。同じ世論調査で、マッカーシーに対して否定的な意見を持つ人は29%から45%に増加していきます。

 共和党員や保守派の間では、マッカーシーを党と反共産主義にとっての不安な人物だととみなす人が増えていきます。ジョージ・ベンダー(George H. Bender)下院議員は「共和党に対する不満が高まっている。マッカーシズムは魔女狩り(witch-hunting)、市民の自由の否定と同義語になっている」と指摘していきます。長年にわたり頑固な反共産主義者として名声を博してきた記者フレデリック・ウォルトマン(Frederick Woltman)さえも、ニューヨーク・ワールド・テレグラム紙(New York World-Telegram)にマッカーシーを批判する5回シリーズの記事を書きます。ウォルトマンはマッカーシーが「反共産主義の大義にとって大きな重荷になっている」と述べ、「事実や事実に近いことを極端にねじ曲げて、その分野の権威を反発させている」と非難するのです。

リコール運動と非難決議
 やがてマッカーシーに対するリコール運動が始まります。リコールは無謀だという批判にもかかわらず、「ジョーは去らねばならない」という運動は勢いづき、他の共和党指導者、民主党員、実業家、農家、学生を含む多様な連合の支持を得ていきます。ウィスコンシン州憲法は、リコール選挙を強制するために必要な署名数は、選挙で集められた署名数の4分の1を超えなければならないと規定していました。反マッカーシー運動は 60日間で約 404,000の署名を集める必要がありました。労働組合や州民主党からの支援がほとんどなかったため、大まかに組織されたリコール運動は、特に陸軍とマッカーシーの公聴会が同時に行われていた間、全国的な注目を集めました。

 マッカーシーは非難を受けた後も、さらに 2 年半、上院議員としての職務を続けます。しかし、大物公人としての彼の経歴はもはや通用しなくなります。上院の同僚たちは彼を避け、上院議場での彼の演説は、ほとんど人がいない議場で行われたり、あからさまに無関心な態度で受け取られたりしました。かつては彼の公の発言をすべて記録していた報道機関は彼を無視し、外での講演依頼はほとんどなくなりました。ついにマッカーシーの政治的脅迫から解放されたアイゼンハワーは、閣僚にマッカーシズム(McCarthyism)は今や「マッカーシズム」(McCarthywasm)であると皮肉を言うほどでした。

 それでも、マッカーシーは共産主義と社会主義を非難し続けました。彼はソ連との首脳会談に大統領が出席することに対して警告し、「暴政と殺人の大義を推進することなく、暴君や殺人者に友情を示すことはできない」と述べます。彼は「共産主義者との共存は不可能であり、名誉あることではなく、望ましいことでもない。我々の長期目標は、地球上から共産主義を根絶することであるべきだ」と宣言するほでした。上院での最後の行動の1つとして、マッカーシーはアイゼンハワー大統領によるウィリアム・ブレナン(William J. Brennan)の最高裁判所判事への指名に反対します。これは、ブレナンが直前に行った演説でマッカーシーの反共産主義調査を「魔女狩り」と評したからです。しかし、マッカーシーの反対は支持を得ることができず、彼はブレナンの承認に反対票を投じた唯一の上院議員となります。
(投稿日時 2024年9月19日)  成田 滋

ウィスコンシン州とマッカーシズム その2

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 マッカーシーは選挙運動で、真珠湾攻撃のときラフォレットは46歳だったにもかかわらず、戦争中に入隊しなかったとしてラフォレットを攻撃します。また、マッカーシーが祖国のために戦っている間にラフォレットは投資で莫大な利益を上げたと主張します。実際、マッカーシー自身も戦時中に株式市場に投資し、1943年に4万2000ドル、現在の価値で73万9523ドルに相当の利益を上げていました。マッカーシーがそもそも、その投資資金をどこから得たのかは謎のままとされています。ラフォレットの投資はラジオ局への部分的な投資で、2年間で4万7000ドルの利益を上げたといわれます。

Harry Truman

 1944年まで民主党員だったマッカーシーは、1946年に共和党員として上院議員選挙に立候補し、ウィスコンシン州共和党予備選挙で現職のロバート・ラフォレット・ジュニアを破り、当時の民主党候補ハワード・マクマリー(Howard McMurray)を61%対37%の差で破り上院議員となります。上院議員として3年間目立った活躍はありませんでしたが、1950年2月にマッカーシーは、国務省(State Department)に雇用されている「共産党員とスパイ組織のメンバー(members of the Communist Party and members of a spy ring)」のリストを持っていると演説し、突如全国的に有名になります。

赤狩りの開始
 1950年の演説の後の数年間、マッカーシーは国務省(State Department)、ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の政権、ボイス・オブ・アメリカ(Voice of America)、および米軍への共産主義者の浸透についてさらに非難しはじめます。彼はまた、共産主義、共産主義者への共感、不忠、性犯罪などさまざまな容疑を使って、政府内外の多くの政治家やその他の個人を攻撃していきます。これには、同性愛(homosexuals)の疑いのある人々に対する同時進行の「ラベンダーの恐怖」(Lavender Scare)も含まれていました。当時、同性愛は法律で禁止されていたため、同性愛は脅迫の危険を高めるとも考えられていたのです。「ラベンダーの恐怖」とは、共産主義者を標的にした赤狩りの一環として、政府内の同性愛者とおぼしき人間を粛清する大規模な取り組みのことです。いわば、アンチゲイパージ(Anti-Gay Perge)のことです。

ハリウッドの赤狩り反対運動

 新聞コラミストであったジャック・アンダーソン(Jack Anderson)によると、マッカーシーの選挙資金はラフォレットの10倍で、その多くは州外からの資金だったとされます。マッカーシーへの票はラフォレットに対する共産党の恨みによるものでした。ラフォレットが戦争中に不当利得を働いたという指摘は大きなダメージとなり、マッカーシーは予備選挙で勝利します。この選挙運動中にマッカーシーは戦時中のニックネーム「テールガンナー・ジョー」を宣伝し始め、「議会にはテールガンナーが必要だ」というスローガンを掲げて選挙戦を展開します。ジャーナリストのアーノルド・ベイクマン(Arnold Beichman)は後に、マッカーシーが「共産党が支配する全米電気・ラジオ・機械労働組合(CIO)の支援を受けて上院議員に初当選した」と述べます。同組合は反共産主義者のラフォレットよりもマッカーシーを推薦したのです。民主党の対立候補ハワード・マクマリー(Howard J. McMurray)との総選挙では、マッカーシーは61.2%の得票率で勝利します。

 1953年1月に上院議員としての第2期の初めに、マッカーシーは政府事業(Government Operations)に関する上院委員会の議長になりました。いくつかの報告によると、共和党の指導者たちはマッカーシーの手法を警戒し、内部のセキュリティ小委員会ではなく、この比較的平凡なパネルとされていた共産主義者の調査に関与している委員会に権限を与えました。上院多数党の指導者ロバート・タフト(Robert A. Taft)の言葉によれば、政府事業に関する委員会には、調査に関する上院恒久小委員会(Senate Permanent Subcommittee)が含まれており、この小委員会の任務は、マッカーシーが政府の共産主義者の彼自身の調査にそれを使用できるようにするのに十分な柔軟性を備えていたといわれます。マッカーシーは、ロイ・コーン(Roy Cohn)を最高顧問に、27歳のロバート・ケネディ(Robert F. Kennedy)を小委員会の助言補佐官に任命します。
(投稿日時 2024年9月16日) 成田 滋

ウィスコンシン州のフランク・ロイド・ライト

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 アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wight)はウィスコンシンの出身です。フランスのル・コルビュジエ(Le Corbusier)、ドイツのミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)とともに「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる世界的に著名な建築家です。建築好きな人に限らず、多くの人々は彼の作品には魅了されています。

Frank Lloyd Wight

 ウィスコンシン州の田舎で育ったライトは、ウィスコンシン大学で土木工学(civil engineering)を学び、その後シカゴでジョセフ・シルズビー(Joseph L. Silsbee)のもとで短期間、その後アドラー・アンド・サリバン社(Adler & Sullivan)でルイス・サリバン(Louis Sullivan)のもとで徒弟として働きます。ライトは 1893年にシカゴで自身の事務所を開き、1898年にはイリノイ州オークパーク(Oak Park)の自宅にスタジオを構えます。

 ライトは、建築家はもちろん、デザイナー、作家、教育者でもありました。70年間の創作活動で800以上の建築物を設計します。ライトは20世紀の建築運動において重要な役割を果たし、作品を通じて世界中の建築家に影響を与えます。「タリアセン・フェローシップ」(Taliesin Fellowship)という建築塾で何百人もの弟子を指導します。 「タリアセン」とは、ウイスコンシンのスプリング・グリーン(Spring Green)という町にある工房であり、弟子や学生と自給自足の共同生活を営みながら、建築の教育と実践を行なったところです。スプリング・グリーンは、州都マディソンの西約55キロにありウィスコンシン川沿いに位置する1,566人の街です。

 ライトは、人間と環境との調和を考えた設計を信条としており、これを有機的建築(organic architecture)と呼びます。この哲学は、1935年に設計されたフォーリング・ウオーター(Fallingwater)という建物に示され、「アメリカ建築史上最高の作品」と呼ばれています。この建物は、ペンシルベニア州のピッツバーグ(Pittsburgh)から南東に80キロほどの地に今も建っています。ニューヨーク市マンハッタン(New York, Manhattan)にある「グッゲンハイム美術館」(Solomon R. Guggenheim Museum)も傑作の一つとされています。「かたつむりの殻」と形容される螺旋状の構造をもった建築で、美術館施設の概念を根本から覆した作品として知られています。

Solomon R. Guggenheim Museum


 ライトは、後にプレーリー派(Prairie School movement)と呼ばれるようになった建築運動の先駆者です。プレーリー派とは、屋根を低く抑えた建物が地面に水平に伸び広がる設計手法で、草原様式とも呼ばれています。建物は自然に調和するというのが彼の信条です。都市構想である電化、機械的機動性、有機的建築というブロードエーカーシティ(Broadacre City)の考え方による、コンパクトで魅力に満ちた小住宅であるユーソニアン住宅(Usonian home)のコンセプトも考案し、アメリカの都市計画のビジョンを示します。また、独創的で革新的なオフィス、教会、学校、高層ビル、ホテル、美術館、その他の商業プロジェクトの設計も手がけていきます。マディソン市にあるユニテリアン教会(Unitarian Church)も独特な設計で有名です。

Unitarian Church, Madison,WI


 ライトの設計では、内装要素である鉛ガラスの窓、床、家具、さらには食器などが構造物に取り入れられています。ライトは数冊の本と多数の記事を執筆し、アメリカやヨーロッパで人気の講師でもありました。ライトは1991年にアメリカ建築家協会から「史上最も偉大なアメリカ人建築家」として認められます。2019年、彼の作品の一部が「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築」(20th-Century Architecture of Frank Lloyd Wright)として世界遺産に登録されるのです。

Fallingwater


 ライトの建築物は我が国でも見られます。兵庫県芦屋市の丘の上にある「ヨドコウ迎賓館」は、1918年に灘五郷の造り酒屋、櫻正宗の八代目当主山邑太左衛門の別邸として設計されました。西池袋に所在する「自由学園明日館」は、1997年に国の重要文化財として指定され、歴史ある建物となっています。世田谷区にある旧林愛作邸もライトの設計によるものです。旧知であった帝国ホテル初の日本人支配人、林愛作の住宅です。

帝国ホテル、明治村

 最後に紹介するのは、博物館明治村にある「帝国ホテル中央玄関」です。1923年に、4年間もの大工事を経て2代目として開業した帝国ホテル・ライト館です。ライトが日本で初めてホテルの建築を手がけ、彼の代表作の一つとも言われています。旧帝国ホテル解体と保存は、株式会社帝国ホテル、日本建築学会、帝国ホテルを守る会、博物館明治村らによって17年間もの歳月を要して実現します。”東洋の宝石”と称される帝国ホテルのデザインは、まさに造形美の粋といわれ、現在は愛知県犬山市の博物館明治村でその雄姿を見ることができます。
(投稿日時 2024年9月9日) 成田 滋

ウィスコンシン州の政治とロバート・ラフォレット

注目

 ウィスコンシン州の政治の歴史を取り上げることにします。20世紀になるとウィスコンシン州にロバート・ラフォレット(Robert M. La Follette)という政治家が登場します。やがて彼は州知事となります。1916年にはウィスコンシン州では女性参政権運動家の選挙運動が認められ、さらに合衆国憲法第19修正条項(Nineteenth Amendment)を批准した最も早い州の 1つとなりました。この条項は、女性の参政権を認め、性別による選挙における差別を禁止するものです。

Robert M. La Follette

 20世紀初頭は、ラフォレットが推進した進歩主義政治の出現が注目されました。1901年から1914年にかけて、ウィスコンシン州の進歩主義共和党は、国内初の包括的な州全体の予備選挙制度、初の有効な職場傷害保障法、および初の州所得税を創設し、実際の収入に比例した課税を行いました。

 第一次世界大戦中、ウィスコンシン州は中立の立場にありました。その理由はウィスコンシン州の共和党員、進歩主義者、および州人口の 30~40パーセントを占めるドイツ人移民が多かったことからです。そのためにウィスコンシン州は「反逆者州(Traitor State)」というあだ名をつけられ、国内にいる多くの過激な愛国者(hyper patriots)によって非難されるという経過を辿りました。

 ヨーロッパで戦争が激化する中、ウィスコンシン州の反戦運動のリーダーであるラフォレットは進歩派の上院議員のグループを率いて、商船に銃を装備するというウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)大統領の法案を阻止しました。しかし、エマニュエル・フィリップ(Emanuel L. Philipp)やアーヴィン・レンルート(Irvine Lenroot)などウィスコンシン州の共和党政治家の多くは、アメリカの忠誠心を二分していると非難されていきます。

 州内に戦争に公然と反対する人々がいたにもかかわらず、戦争が始まると、多くのウィスコンシン州民は中立を破棄します。やがて企業、労働者、農場はすべて戦争による繁栄を享受していきます。118,000人以上の若者が兵役に就き、ウィスコンシン州は米軍が実施した全国徴兵(national drafts)に最初に応募した州となります。

Woodrow Wilson

 進歩的な州の発展原理であるウィスコンシン・アイディア(Wisconsin Idea)は、このときウィスコンシン大学エクステンション・システム(statewide expansion)を通じてウィスコンシン大学の州全体への拡張の推進力となります。その後、ウィスコンシン大学の経済学教授ジョン・コモンズ(John R. Commons)とハロルド・グローブス(Harold Groves)は、1932年にウィスコンシンが米国初の失業手当プログラムを作成するのに貢献します。同大学の他のウィスコンシン・アイディアを支持する学者は、ニューディール政策(New Deal’s)の1935年社会保障法(Social Security Act)となる計画を考案します。この計画を推進したのはウィスコンシンの法律学者であったアーサー・アルトマイヤー(Arthur J. Altmeyer)で、彼は重要な役割を果たします。

第一次世界大戦のヨーロッパ戦線

 第二次世界大戦直後、ウィスコンシン州民は、国連の創設、ヨーロッパの復興支援、ソ連の勢力拡大などの問題で分裂していました。しかし、ヨーロッパが共産主義陣営と資本主義陣営に分裂し、1949年に中国共産主義革命が成功すると、共産主義の拡大から民主主義と資本主義を守ることを支持する方向に世論が動き始めていきます。
(投稿日時 2024年9月8日) 成田 滋

ウィスコンシンは多民族のるつぼ

注目

 2022年のウィスコンシン州で実施されたアメリカ人コミュニティ調査(American Community Survey)によりますと、ヨーロッパ系の祖先が最も多かったのは5つのグループで、ドイツ系(36%)、アイルランド系(10.2%)、ポーランド系(7.9%)、イギリス系(6.7%)、ノルウェー系(6.3%)となっています。ドイツ系は、メノミニー(Menominee)、トレンパロー(Trempealeau)、ヴァーノン(Vernon)といった郡を除く州内のすべてで最も一般的な祖先となっています。ウィスコンシン州は、ポーランド系の住民の割合がどの州よりも高いのも特徴です。その他、ウィスコンシン州の人口の7.6%はヒスパニック(Hispanic)やラテン系(Latino)です。最大のヒスパニック系の祖先グループは、メキシコ系(5.1%)、プエルトリコ系(1.1%)、中央アメリカ人(0.4%)、キューバ系(0.1%)で、0.9%がその他のヒスパニック系またはラテン系の起源であるといわれています。

民族のお祭り

 ウィスコンシン州はもともと、民族的に多様性に富んでいる州です。フランスの毛皮商人が活躍した時代が過ぎた後、次の移住者の波は鉱山労働者で、その多くはコーンウォール人(Cornish)で、州の南西部に定住します。コーンウォール人とは、イングランド南西端に位置する地域から移民でやってきた人々です。次の波はニューイングランド(New England)とニューヨーク州北部からのイギリス系移民である「ヤンキー(Yankee)」が支配的でした。州成立初期には、彼らは州の重工業、金融、政治、教育を支配していました。1850年から1900年の間、移民は主にドイツ人、スカンジナビア人で最大のグループはノルウェー人(Norwegian)、アイルランド人(Irish)、ポーランド人(Polish)でした。20世紀には、多くのアフリカ系アメリカ人とメキシコ人がミルウォーキー(Milwaukee)に定住し、ベトナム戦争の終結後にはモン族(Hmongs)の流入が特徴的です。

ノルウェー人の独立記念祭

 モン族は中国からラオスまで国境をまたいで拡がっている民族ですが、ベトナム戦争により、アメリカに避難してきた人々です。ウィスコンシン州のアジア系人口の約33%はモン族であり、ミルウォーキー(Milwaukee)、ウォソー(Wausau)、グリーン ベイ(Green Bay)、シュボイゲン(Sheboygan)、アップルトン(Appleton)、マディソン(Madison)、ラクロス(La Crosse)、オークレア(Eau Claire)、オシュコシュ(Oshkosh)、マニトワック(Manitowoc)に重要なコミュニティがあります。ウィスコンシン州では 61,629人、つまり人口の約 1%がモン族であると自認するほどです。

 さまざまな民族グループが州のさまざまな地域に定住しました。ドイツ人移民は州全体に定住したのですが、最も集中していたのはミルウォーキーで付近です。ノルウェーからの移民は北部と西部の林業と農業地帯に定住しました。アイルランド、イタリア、ポーランドからの移民は主に都市部に定住していきました。グリーンベイの北部に位置するメノミニー郡(Menominee County)はアメリカ東部で唯一、ネイティブアメリカン(Native American)が多数を占める郡となっています。

モン族の人々

 アフリカ系アメリカ人(African American)は、特に1940年以降、ミルウォーキーに移住します。工業が盛んなので就労が容易だったからです。ウィスコンシン州のアフリカ系アメリカ人人口の86%は、ミルウォーキーやラシーン(Racine)地域に住んでいます。

 終わりにウィスコンシン州の住民のうち、71.7%はウィスコンシン州で生まれで、23.0%はアメリカの他の州で生まれ、0.7%はプエルトリコ、アメリカの島嶼部で生まれたか、またはアメリカ人の両親のもとで海外で生まれ、4.6%は外国生まれという調査結果となっています。まさに人種のるつぼがウィスコンシンなのです。
(投稿日時 2024f年9月6日)  成田 滋

ウィスコンシン州の地理的な特徴

注目

 ウィスコンシン州の地理や地図を紹介することにします。日本人の多くは、「一体、ウィスコンシンってどこにあるの?」と聞き返すでしょう。それも仕方がありませんね。ミシガンやイリノイ(Illinois)に比べて知名度はいまちといったところです。ですが、最近の2025年大統領選挙戦の報道で一躍その名が知られています。

Map of Wisconsin

サイロ

 ウィスコンシン州は、アメリカ中西部に位置し、五大湖(Great Lakes)地域と中西部北部(Upper Midwest)の両方にまたがっています。州の総面積は169,630 km2です。ちなみに日本378,000 km2です。ウィスコンシン州は、北はモントリオール川(Montreal River)、スペリオル湖(Lake Superior)とミシガン州、東はミシガン湖(Lake Michigan)、南はイリノイ州、南西はアイオワ州(Iowa)、北西はミネソタ州(Minnesota)と接しています。ミシガン州との国境紛争は、1934年と1935年の2つのウィスコンシン州対ミシガン州訴訟で解決しました。ウィスコンシン州の境界には、西はミシシッピ川(Mississippi River)とセント・クロワ川(St. Croix River) 、北東はメノミニー川(Menominee River)が流れています。

 五大湖とミシシッピ川の間に位置するウィスコンシン州には、多様な地形が広がっています。州は 5つの地域に分かれています。北部のスペリオル湖低地は、スペリオル湖に沿った一帯を占めています。そのすぐ南の北部高地には、61 万ヘクタールのチェワメゴン・ニコレット国有林(Chequamegon-Nicolet National Forest)を含む、針葉樹と広葉樹が混在する広大な森林があり、数千の氷河湖と州最高地点のティムズヒル(Timms Hill)があります。

 中央平原には、豊かな農地に加えて、ウィスコンシン川のデルズ(Dells)のようなユニークな砂岩層があります。南東部のイースタンリッジ(Eastern Ridges)とローランド地域(Lowlands)には、ウィスコンシン州の大都市の多くが集まっています。尾根には、ニューヨークから伸びるナイアガラ断崖(Niagara Escarpment)、ブラックリバー断崖(Black River Escarpment)、マグネシアン断崖(Magnesian Escarpment)などがあります。南西部のウェスタンアップランド(Western Upland)は、ミシシッピ川沿いの多くの断崖を含む、森林と農地が混在する険しい地形となっています。この地域はドリフトレス・エリア(Driftless Area)の一部であり、アイオワ州、イリノイ州、ミネソタ州の一部も含まれています。全体として、ウィスコンシン州の陸地面積の46%は森林に覆われています。

なだらかな平原と酪農

 ウィスコンシン州には、30億年以上から数千年にわたるさまざまな地質構造と堆積物があり、ほとんどの岩石は数百万年前のものといわれます。最も古い地質構造は、6億年以上前の先カンブリア時代(Precambrian)に形成され、その大部分は氷河堆積物の下にあります。バラブー山脈(Baraboo Range)の大部分はバラブー珪岩(Baraboo Quartzite)とその他の先カンブリア時代の変成岩で構成されています。この地域は、最も最近の氷河期であるウィスコンシン氷河期には氷河に覆われていませんでした。ラングレード郡(Langlade County)には、アンティゴ・シルト・ローム(Antigo silt loam)と呼ばれる砂・シルト・粘土がほぼ等分の土壌が堆積しています。郡外ではあまり見られない土壌といわれます。

Summer of Wisconsin

 氷河が後退するとき、谷を削りながら時間をかけて流れ、削り取られた岩石・岩屑や土砂などが土手のように残ります。この岩石や岩屑のことをモレーン(moraine)といいます。ウィスコンシンの平原は氷河の影響でなだらかになっていますがモレーンが多いのです。酪農が盛んになったのは、気候の他にこうしたモレーンのために土壌が小麦やトウモロコシなどの大規模農業に敵さず、人々は酪農に従事することになります。
(2024年9月4日) 成田 滋
 

ウィスコンシンの歴史−毛皮貿易

注目

 イギリスはフレンチ・インディアン戦争中(French and Indian War)にウィスコンシンを次第に勢力を拡大し、1761年にグリーンベイ(Green Bay)を支配し、1763年にはウィスコンシン州全体を支配します。フレンチ・インディアン戦争とは、1754~1763年まで、北米大陸でのイギリスとフランスの戦争で、フランス軍がインディアン諸部族と結んで、イギリス植民地軍を攻撃したのでイギリス側でこのように呼んでいます。植民地を巡る両国の最初の戦いです。

シングルヒルの戦い

 フランスと同様、イギリス人も毛皮貿易以外にはほとんど関心がなかったといわれます。ウィスコンシンの毛皮貿易産業における注目すべき出来事は、1791年に2人のアフリカ系アメリカ人がミシガン州境(Michigan)にあるマリネット(Marinette)にあるメノミニー族(Menominee)との間で毛皮交易所(fur trading post)を設立したことです。

 最初の永住者は、ほとんどがフランス系カナダ人(French Canadians)、一部のアングロ・ニューイングランド人(Anglo-New Englanders)、少数のアフリカ系アメリカ人解放奴隷で、彼らはウィスコンシンがイギリスの支配下にあったときに到着します。チャールズ・デ・ラングラード(Charles de Langlade)が一般に最初の入植者といわれ、1745年にグリーンベイに交易所を設立し、1764年にそこに永住します。入植は1781年頃にプレーリー・デュ・シン(Prairie du Chien)で始まります。プレーリー・デュ・シンは、ウィスコンシン州南西部にあり、ミシシッピ川に沿い,ウィスコンシン川との合流点から上流約 5kmに位置しています。 17世紀後半には軍事上,交易上の要地で,フランスやイギリスはそれぞれ砦と毛皮の交易所を設置していました。「Prairie du Chien」とは「平原のシダ植物」という意味です。

French and Indian War

 現在のグリーンベイ(Green Bay)にある交易所のフランス人居住者は、その町を「ラ・ベイ」(La Baye)と呼んでいました。しかし、イギリスの毛皮商人は、春先に水と海岸が緑色に染まることから、ここを「グリーンベイ」と呼んでいました。古いフランス語の呼び名は徐々に使われなくなり、最終的にイギリスの「グリーンベイ」という呼び名が定着しました。

 この地域がイギリスの支配下に入ったことは、フランス人居住者にほとんど悪影響を及ぼしませんでした。イギリスはフランスの毛皮商人の協力を必要とし、フランスの毛皮商人はイギリスの好意を必要としていたからです。フランスがこの地域を占領していた間、毛皮取引の許可証はほとんど発行されず、一部の商人グループにのみ発行されていましたが、イギリスはこの地域からできるだけ多くの金を儲けようと、イギリス人とフランス人居住者の両方に毛皮取引の許可証を自由に発行しました。

毛皮貿易

 当時、ウィスコンシン州における毛皮取引はイギリスの支配下で最高潮に達し、州で最初の自給自足の農場も設立されたほどでした。1763年から1780年まで、グリーンベイは繁栄したコミュニティとなり独自の食料を生産し、人々は優美なコテージを建て、ダンスや祭りを開催するほどでした。
(投稿日時 2024年9月2日)  成田 滋

ウィスコンシンの歴史−地名の由来

注目

 ウィスコンシンという語の由来についてです。ヨーロッパ人が入植した当時、この地域に住んでいたアルゴンキン語(lgonquian-speaking)を話すネイティブアメリカン(Native American)のグループの一つが、ウィスコンシン川に付けた名前に由来するといわれています。フランスの探検家ジャック・マーケット(Jacques Marquette)はウィスコンシン川(Wisconsin River)に到達した最初のヨーロッパ人で、1673年に到着し、日誌の中でこの川をメスコウジング(Meskonsing)と呼びました。その後、フランスの著述家がメスコウジングからウイスコンシン(Ouisconsin)に綴りを変え、時が経つにつれてこれがウィスコンシン川と周囲の土地の両方の名前になったといわれます。19世紀初頭に大量に到着し始めた英語を話す者は、綴りをウイスコンシンからウィスコンシンに英語化したようです。ウィスコンシン準州(Wisconsin Territory)の議会は、1845年に現在の綴りを公式に制定します。

Wisconsin in 1718

 ウィスコンシンを表すアルゴンキン語(Algonquian word) とその本来の意味は、どちらも不明瞭なようです。解釈はさまざまですが、ほとんどは川とその岸に並ぶ赤い砂岩に関係しています。有力な説の 1 つは、名前の由来はマイアミ語(Miami word)の「赤い」という意味の(Meskonsing) で、ウィスコンシン川がウィスコンシン デルズ(Wisconsin Dells)の赤みがかった砂岩を流れる様子に由来しているというものです。他の説には、名前の由来は「赤い石の場所」、「水が集まる場所」、「大きな岩」を意味するオジブワ語(Ojibwa)のさまざまな言葉の 1つであるという説もあります。いずれにせよ、どれも定説とはなっていません。

 ウィスコンシンの地を訪れた最初のヨーロッパ人は、フランスの探検家ジャン・ニコレット(Jean Nicolet)です。1634年にヌーベルフランス(New France)のサミュエル・ド・シャンプラン総督(Samuel de Champlain)の使者のニコレが、グリーンベイ(Green Bay)近くのレッド バンクス(Red Banks)に上陸しました。ジョージアン湾(Georgian Bay)から五大湖(Great Lakes)を通って西にカヌーで渡ってきたのです。さらにピエール・ラディソン(Pierre Radisson)とメダル・デ・グロセイリエ(Médard des Groseilliers)は1654年から1666年にグリーンベイを再び訪れ、1659年から1660年にはチェワメゴン湾(Chequamegon Bay)を訪れ、地元のネイティブアメリカンと毛皮の取引を行います。

Seal of Wisconsin

 1673年、ジャック・マーケットとルイ・ジョリエはフォックス・ウィスコンシン水路(Fox-Wisconsin Waterway)を通ってプレーリー・デュ・シン(Prairie du Chien)近くのミシシッピ川(Mississippi River)までの旅を記録した最初の人物となります。毛皮商人のニコラス・ペロー(Nicholas Perrot)などのフランス人は17世紀から18世紀にかけてウィスコンシン州で毛皮貿易を続けますが、フランスは1763年のフレンチ・インディアン戦争後(French and Indian War)でイギリスがこの地域を支配するまでウィスコンシン州に恒久的な入植地を作りませんでした。それでも、フランス人貿易業者は戦争後もこの地域で働き続け、1764年のシャルル・ド・ラングラード(Charles de Langlade)を皮切りに、イギリス統治下のカナダに戻るのではなくウィスコンシン州に永住した者もでてきました。

Cornish house


(投稿日時 2024年8月30日)成田 滋

ウィスコンシン州の大統領選挙戦渦中

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 今回のアメリカ大統領選挙戦では、民主党と共和党の論争が熾烈になってきています。それは、両党が最も重要視する州の選挙結果が大統領選挙戦の鍵となるからです。その州とはペンシルベニア(Pennsylvania)、ミシガン州(Michigan)、ウィスコンシン州(Wisconsin)、ミネソタ州(Minnesota)です。このあたりはアッパー・ミッドウエスト(Upper Midwest)と呼ばれ、農業、酪農、工業、製造業などが盛んで、アメリカの心臓部(America’s Heartland)とも呼ばれる地帯です。住む人々は、いわゆる中間層といわれ結構学歴の高い人々も多いところなので、両党ともこうした有権者に支持を訴えるのに懸命です。

Swing State

 アメリカ合衆国は50の州からなります。こうした50州は、歴史的に民主党や共和党の棲み分けがはっきりしている地盤となっているので、カマラ・ハリス(Kamara Harris)とドナルド・トランプ(Donal Trump)はこうした州ではほとんど選挙運動を行いません。例えばカリフォルニア州は民主党の地盤であり、テキサス州は共和党の地盤なのです。こうした岩盤となっている状態は、歴代の大統領選挙戦や連邦議会選挙ではっきりしています。

 合衆国には「選挙人団制度」があります。ちなみにカリフォルニア州(California)の選挙人は55名、ヴァモント州(Vermont)は3名という具合に、人口比によって選挙人数が決められています。州で最も多くの票を獲得した候補者が、その州の全ての選挙人票を獲得する方式で、これを「勝者総取り」と呼ばれています。全米の選挙人の総数は538人であり、大統領に選ばれるためには270の選挙人票を得る必要があります。つまり、一般投票で最も多い票を集めた正副大統領候補のコンビが、その州の選挙人票をすべて獲得します。

 最近の選挙戦報道で盛んに名前が出てくるウィスコンシン州を取り上げることにします。ウィスコンシン州は私が留学し学位を貰った思い入れの強い地でもあります。この州は、大統領や議員を選ぶ連邦選挙で民主党候補か共和党候補のどちらかが勝利するスイング州(swing state)とみなされています。どちらかに転ぶ(swing)かが分からない激戦区なのです。例えば、2020年の大統領選挙ではジョー・バイデン(Joe Biden)はわずか0.63%の差でウィスコンシン州を制します。その前の2016年の選挙ではトランプは0.77%というわずかな差でウィスコンシン州を制します。この選挙では、ウィスコンシン州民が1984年以来初めて共和党大統領候補に投票した時だったのです。元々ウィスコンシン州は、1992年から2012年までの各大統領選挙で民主党が勝利した州なのです。

 民主党の党カラーはブルーです。民主党群の州は、ブルーウォール(blue wall)と呼ばれ、ウィスコンシンもその一部でした。2012年、共和党大統領候補のミット・ロムニー(Mitt Romney)は、現職大統領バラク・オバマ(Barack Obama)に対抗する副大統領候補として、ウィスコンシン州の南部にあるジェーンズビル(Janesville)出身のポール・ライアン(Paul Ryan)下院議員を選びます。ロムニーはマサチューセッツ州知事などを歴任しますが、全国的には穏健派と見なされ、モルモン教会員であることや全国的な知名度の低さもあって、党内外で影響力の強い保守派の支持獲得が課題となっていました。そこで中西部の票を集めるために、ロムニーはライアンを副大統領候補として指名したのです。

 州全体では、ウィスコンシン州は二大政党の間で定期的に主導権が交代する競争が激しいところです。 2014年の総選挙後、州知事、副知事、州司法長官、州財務長官はすべて共和党員で、国務長官は民主党員でした。しかし、2018年には民主党が州憲法上の全役職を選挙で制します。現在の知事は、民主党員トニー・エヴァース(Tony Evers)ですが、この結果は、ウィスコンシン州では1982年以来初めてのことでした。

 ウィスコンシン州の住民はウィスコンシン人(Wisconsinites)と呼ばれています。ウィスコンシン州の農村経済では酪農とチーズ製造が伝統的な産業です。州のライセンスプレートには1940年以来「アメリカの酪農地帯(America’s Dairyland)」と記されています。「チーズヘッド(cheeseheads)」というあだ名が付けられています。非居住者の間では軽蔑的に使われることもあるようです。チーズのくさび形をした黄色いフォームで作られた「チーズヘッドハット」が作られるようになり、全米で知られるようになりました。フットボールや野球の試合、選挙集会などで人々はこれをよくかぶるのが見られます。

Cheese Head

 ウィスコンシン州では、州民の伝統を祝うため、数多くの民族フェスティバルが開催されています。サマーフェスト(Summerfest)、オクトーバーフェスト(Oktoberfest)、ポーランドフェスト(Polish Fest)、イタリア祭り(Festa Italiana)、アイルランド祭り(Irish Fest)、シッテンデ・マイ(Syttende Mai)というノルウェー憲法記念日を祝う祭りです。シェボイガン(Sheboygan)のブラット(ソーセージ)祭(Brat Days)、モンロー(Monroe)とメクオン(Mequon)のチーズ祭 (Cheese Days)、アフリカン・ワールド・フェスティバル(African World Festival)、インディアン・サマー(Indian Summer)、ウィスコンシン・ハイランド・ゲームズ(Wisconsin Highland Games),など、数多くのフェスティバルが開催されています。この州は、多民族から構成されていることの表れでもあります。

ロバート・ショウ合唱団の思い出

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 私の合唱経歴は、稚内中学校にいたとき、廊下でプロレスをやっていたときです。音楽の近藤艶子という先生から呼び出されて合唱クラブで歌おうというのです。突然の出来事です。それから稚内高校の合唱部、「響声クラブ」にも誘われて歌いました。周りから「狂声クラブ」と冷やかされていました。それでも道北の合唱コンクールで旭川市まで行ったこともあります。

 高校2年のとき、親父の転勤で旭川西高校に転入しました。そこの音楽教師は、音楽時間にはもっぱらレコードを聴かせるのです。そのとき知ったのがロバート・ショウ合唱団(Robert Shaw Chorale)やロジャー ワグナー合唱団(Roger Wagner Chorale)です。この先生の名前は忘れましたが、その後旭川西高校の合唱部は、道内の合唱コンクールで最優秀賞をとったことを知りました。私はこの合唱部には所属しませんでした。

Robert Shaw

 その後、ロバート・ショウ合唱団などの演奏を聴いたのはもっぱらSP盤のレコードや録音テープからです。1960年代の前半ですから、まだそんな時代です。合唱団は、国内外ツアーやRCAビクターのレコーディングのために臨時で結成され、レパートリーの要求に応じて30人から60人ほどの団員がいたようです。ショウはアトランタ交響楽団・合唱団(Atlanta Symphony Orchestra Chorus)の音楽監督に就任したりします。合唱団は存続期間中はバッハ(Johann Sebastian Bach)からフォークミュージック、ブロードウェイ劇場の曲までレパートリーが広く、ロジャー・ワグナー合唱団C(Roger Wagner Chorale)と並んでアメリカで最も有名で広く尊敬されるプロの合唱団の1つとなります。

 私はウィスコンシン大学での留学中に州都マディソン(Madison)にあるマウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church)の聖歌隊で6年間、礼拝や復活祭、クリスマスのコンサートで歌う機会がありました。聖歌隊員は初見で楽譜を読め、男性の声の太さに驚いたものです。いろいろな演奏会を楽しむ機会に恵まれた留学生時代でした。

Classic by Robert Shaw

 ロバート・ショウ合唱団に戻ります。音色の均一性、深みのあるボーカルと絶妙なバランス、フレージングの優雅さ、活力あるリズムなどで有名でした。メンバーの多くはジュリアード音楽院(Julliard School)やニューヨーク周辺の音楽院(conservatories)から採用されます。ショウの指導力、高い水準の録音、そして合唱団構成における人種的な統合、そしてなによりも合唱音楽に世間の注目を集めたことで知られ、その音楽活動において多くの賞を受賞しています。

 1954年にはNBC交響楽団(NBC Symphony)指揮者であったトスカニーニ(Arturo Toscanini)はヴェルディ(Giuseppe Verdi)のテ・ディウム(Te Deum)をロバート・ショウ合唱団との共演で演奏しますが、そのときトスカニーニは合唱団を非常に高く評価したといわれます。合唱団は、文化交流プログラムの一環として米国国務省の支援を受けて、1956年にヨーロッパと中東の21か国、南米、1962年にはロシアツアーなどを行っています。

 ロバート・ショウ合唱団はクラシック音楽のレパートリーで有名なのですが、それだけではありません。彼の録音データ目録であるディスコグラフィー(discography)に収録される104のレコーディングには、船乗りの歌(Sea Shanties)、グリークラブ(Glee Club)の歌、宗教音楽や霊歌、ミュージカルの曲、アイルランドの民謡、そして最も有名なのは、発売以来ずっとベストセラーであり続けている1957年11月にリリースされたアルバム「クリスマス賛美歌とキャロル」(Christmas Hymns And Carols)があります。この演奏は1964年8月に全米レコード協会(RIAA)によってゴールド認定を受けます。さらにビルボードのトップポップアルバムチャート(Billboard’s Top Pop Album Chart)で最高5位を記録するほどヒットします。

 北大合唱団では、Sea Shantiesの「Shenandoah」とか「A Roving」などを歌ったことを覚えています。アメリカでは、帆船の水夫によって親しまれた音楽のようでしたが、やがて当時人気があった行進曲や陸のフォークソングがシャンティのレパートリーに選ばれていきます。「Shenandoah」がその代表といえましょう。

The King’s Singers


 ロバート・ショウ合唱団は、1965年に活動を永久に停止します。今や、規模の大きな合唱団に代わって小さな合唱やアカペラグループたとえば、アメリカでは、VOICES8とかChanticleer、PENTATONIX、イギリスでは、King’s Singersなどが広く知られています。Youtubeで曲を聴くとそのメンバーの交代が見られます。

(投稿日時 2024年8月23日)   成田 滋

大統領選挙戦報道に見られるフレーズ

注目

 アメリカの大統領選挙戦に見られるニュース報道の中から、普段あまり見かけることが少ないフレーズや語彙を取り上げて英語を復習すると同時に、アメリカの大統領選挙戦の様子を見てみます。

 ドナルド・トランプ(Donal Trump)とカマラ・ハリス(Kamala Harris)は副大統領候補を指名し、各州で選挙戦を展開しています。ますます熱を帯びてきた選挙戦をメディアは取材し、国内や海外に提供しています。両陣営の選挙戦を伝えるニュースからは、そのヘッドラインを見ると記事の内容が理解できます。

 すでに共和党大会は7月18日に終わり、トランプは副大統領候補として連邦上院議員のJ.D.ヴァンス(JD Vance)を指名しました。ハリスはミネソタ州知事のティム・はウォルツ(Tim Walz)を指名しています。民主党大会が8月19日に開かれハリスが正式候補者が決まります。そして投票日の11月5日を迎え、正式に大統領が決まるという日程です。二人とも激戦州とされる7州を遊説しています。この選挙戦では二人が所属する連邦議会の議員や激戦となる州の知事、市長、そして業界の有名人などがそれぞれを応援していて、さながら総力戦の様相となっています。こうした人々の応援演説は、なかなか興味のある内容となっています。

Statue of Liberty

 ブルームバーグ・ニュース(Bloomberg News)とモーニング・コンサルト(Morning Consultant)の最新世論調査によりますと、ハリスの支持率は選挙戦の結果を左右する可能性のある激戦7州全体で見ると48%であり、トランプの47%を上回っているようです。ですが今のところ選挙戦は予断を許さない状況に変わりはないようです。調査を行ったアリゾナ、ジョージア、ミシガン、ネバダ、ノースカロライナ、ペンシルベニア、ウィスコンシン各州でのハリス、トランプ両氏の差は統計上の誤差の範囲内といわれます。どちらに転ぶかはわからないというのが誤差の意味です。

 ただ、バイデン(Joe Biden)に代わってハリスが民主党大統領候補として選挙戦に臨んでいることは、新たな熱狂を生んでいることが調査で明らかとなっています。激戦州では民主党の重要な支持層が勢いづき、投票率が伸びる可能性が示されています。それは、ペンシルベニア州やミシガン州知事の応援演説などからも伺われます。

 それでは、選挙戦の状況をニュースのヘッドラインから見ていくことにしましょう。
Trump melts down as Harris surges in polls.
 このヘッドラインのキーワードは「melt down」と「surges」にあります。トランプの優勢が溶け出して、ハリスのうねり(surge)が高まっていると主張するのです。

 トランプは実業家で作家でもあるメアリー・トランプという姪からも批判を浴びています。それが次の発言です。
The Trump campaign is going up in smoke. Even more crazy, it the complete meltdown of Donald Trump, which he seems to get crazier by the day! Mary gives her take, as she know him unlike anyone else!
 トランプ陣営は煙のように消え去りつつあるといいます。「in smoke」がそれです。さらに狂っている、という指摘です。完全な崩壊は、「complete meltdown」に表れています。「meltdown」は福島の原発停止で何度も聞いたことのある用語です。

 彼女のトランプへの批判について報道は次のようにも伝えています。
Mary Trump Just Hit Her CRAZY Uncle Donald Where it Hurts Most!
 狂った叔父ドナルドの一番痛いところを突いたという意味です。親族であっても言うべきことは言うという姿勢の言葉です。

 トランプはその言動に対して、内と外から多くの批判を浴びています。常識では考えられないような発言が、何故か受けるのですから不思議です。それは岩盤層といわれる多くの支持者がいるからです。
He’s done. His brain is fried.
 トランプは彼は終わった。脳が焼け焦げているというもの凄く強い表現です。

 7月15日の共和党全国大会において、トランプが銃撃されたときの彼の右腕を上げた姿が映し出されたのを見て、多くの識者は、これでトランプが優勢になったと報道していました。その後、8月中旬現在、トランプの支持率は低迷しているようです。固定した支持者がいるのですが、中間層と無党派層の人々の取り込みに苦戦している報道が目につきます。
Arizona, Georgia and Nevada move in Harris’ direction.
 この三つの州はハリスの方向に傾いている、という意味です。

Wall Street is all in on Kamala Harris.
 大手の新聞がどちらを支持するかは気になるとことです。ウオール・ストリート紙はハリスに全面的に賭けていると主張しています。賭けているとは、選挙戦で勝利するのではないかと予想しているのです。

Donald Trump

Losing again? Trump rattled as Harris builds on Obama coalition.
 また負けるのか?とトランプは動揺(rattle)している、という意味です。ハリスがオバマの連合を強化しているからのようです。次のような見出しも同じような見方として考えられます。

Losing again? Trump rattled as the ‘Harris Effect’ surges in key states.
 また負けるのか?というのは、主要な州で「ハリス効果」が高っているので動揺している、という意味です。

15 NEW YORK Billionaires BACKING Kamala Harris’s 2024 Campaign.
 ニューヨークの15人の億万長者がハリスの2024年選挙キャンペーンを支持を表明したという文章です。

Trump WILL LOSE – His INSANITY is to Blame!
 トランプは負けるだろう。それは彼の狂気(INSANITY)が原因なのだ、という強い主張です。

Trump faced a rebellion of campaign staff after car-crash interview.
 トランプは、自動車事故のインタビュー後に選挙スタッフの反旗に直面した、との報道ですが、その真意はよくわかりません。

Trump LOSES IT over EMPTY SEATS at AWFUL Atlanta Speech.
 アトランタでの選挙戦演説の際に空席(EMPTY SEATS)が続いたことで、ひどい演説したという意味です。

Trump stumped by Harris-Walz because he can’t fathom public service.
トランプがハリス・ウォルツにケチをつけた(stumped)のは、彼が公務を理解できないからだというのです。「fathom」とは見抜くとか理解するという意味の動詞です。

 次に、ペンシルベニアの州知事でハリスの副大統領候補の人であったシャピロ(Josh Shapio)のフィラデルフィア(Philadelphia)での応援演説からです。彼の力強い演説内容は評価されています。
We’re not going back.
 我々は後戻りすることはない、というわかりやい言葉です。トランプ政権の政策に後戻りはしないという表明です。

He is a weirdo.
 シャピロ知事は演説でトランプを名指して、彼は変人(weirdo)だ、と糾弾します。「weirdo」スラングです。「weird」という関連用語がありますが、これは「変な」、「おかしな」という意味です。

 次の演説の一部は、参考になりそうなフレーズです。仕事をテキパキとやるときに使われます。
I focus on getting shit done for all of you.
 「getting shit done」は略してGSDとも使われます。シャピロは知事としての任務を素早く片付ける人間であると自慢するのです。ピッツバーグ市で長さ約136mの道路橋が崩落し、それを素早く修復したことを指しているようです。「shit」は普段は使わない言葉ですが、、、

Donald Trump Is a Psychopath & He Will Be Stopped.
 トランプは、妄想・幻覚・乱雑な思考と発語・非現実的で奇妙な行動の人間で精神病質(psychopathy)であるというのです。だから辞めさせたほうが良いという意味です。次の見出しも同じようトランプの状態を指しています。

Trump Has MENTAL COLLAPSE as ENTIRE LIFE CRUMBLES.
 トランプは精神的に崩壊し、人生全体が崩れている(CRUMBLE)、というのですから辛辣です。

‘Wuss’: George Conway on why Trump is ‘scared’ to debate Kamala Harris.
 「臆病者」:ジョージ・コンウェイというコンメンテーターが、トランプがカマラ・ハリスとの討論を「恐れている(scared)」理由を、臆病だからだというのです。「Wuss」という用語は通常は会話では使ってはいけないです。

 CNNニュースのヘッドラインからです。
‘He’s afraid’: Sen. Mark Kelly on Trump’s racial attacks against Harris. Trump is a desperate and scared old man.
 マーク・ケリー(Mark Kelly)上院議員は、トランプの人種問題に関する攻撃的な発言に対して、トランプは絶望し(desperate)、怯えている(scared(老人だ、と看破します。ケリーはアリゾナ州選出の上院議員で、ハリスの副大統領候補の一人でした。

 しかし、トランプもハリスに対しては黙っていません。次のごとく歯にも着せないように攻撃します。
Meet the Real Kamala. Weak.Failed. Dangerously Liberal.
 カマラに会ってみたまえ、本当のカマラはひ弱で失敗している。彼女は危険なリベラルなのだ、というのです。

 トランプはさらに次のようにハリスを批判します。
She is a radical left lunatic, and the worst border czar and vice president in history!
 彼女は極左の狂人で、史上最悪の国境担当大臣であり副大統領だ!「lunatic」とは狂ったということを指し、「czar」とは皇帝という意味ですが、ここでは大臣としておきます。国境とはメキシコとの国交のことです。彼女はバイデン政権でメキシコとの国境問題を担当していました。

 ニューヨークタイムズ紙ではコンメンテーターが次のように書いています。
In recent days, he has referred to Harris as incompetent, nasty, and not smart. Behind closed doors, he has reportedly reflected to her, repeatedly using the B-word.
 トランプは公然とハリスを無能、意地悪、そして賢くないなどと呼んでいます。「Behind closed doors」とは、密室という意味です。「B-word」のBとは「Bitch」という女性を罵る時に使われる表現です。”いやな女”という意味です。

 このところ支援団体だけでなく、労働組合や宗教関連団体、シンクタンクなどが立場を鮮明にしています。
Union Chief Shawn Fain discuses his breaking endorsement of Kamala Harris and gives his two top VP picks for the ticket: Kentucky Governor Andy Beshear and Minnesota Governor Tim Walz.
 自動車労働組合委員長のショーン・フェインは、ハリスの支持を表明し、副大統領候補としてケンタッキー州知事アンディ・ベシア氏とミネソタ州知事ティム・ウォルツの2人を挙げています。彼の予想どおり、ハリスはウォルツを副大統領候補に指名しました。「VP picks for the ticket」とは、くだけた表現で「副大統領候補のチケット」のことです。

UAW files federal labor charges against Donald Trump and Elon Musk after threatening workers on X interview.
 SNSのX(旧ツイッター)とのインタビューで自動車労働組合は、労働者を脅迫したとしてトランプとイーロン・マスク(Elon Musk)に対して連邦労働訴訟を起こします。連邦の労働者権利の保障を侵害しているというのです。ただ、こうした訴訟は、一種のネガティブキャンペーンのようなところがあるようです。

 トランプは、次のような地球温暖化の懸念に対して不可解な持論を述べています。
You know, the biggest threat is not global warming where the ocean is gonna rise 1/8 of an inch over the next 400 years. The biggest threat is not that, the biggest threat is nuclear warming. Because we have five countries now that have significant nuclear power.
 知ってのとおり最大の脅威は、今後400年間で海面が1/8インチ上昇するというのは、地球温暖化ではない。最大の脅威はそれではなく、核による温暖化であり、現在、5つの国が大規模な原子力発電所を保有しているためだと主張します。1/8インチとはたったの3ミリのことです。

 それに対してコンメンテーターは、次のように揶揄するのです。
NOAA data:Sea level near Mar-a-Lago increases 1/8 inch every 9 months.
アメリカ海洋大気庁(NOAA)によれば、トランプが住むフロリダ州のマール・ア・ラゴ付近の海面は9か月ごとに1/8インチ上昇するのだ、と反論しています。つまりトランプの主張は全く科学的根拠がなく出鱈目だという指摘です。

 CNNニュースに次のようなコラムがあります。
Donald Trump is behind. He trails in the pivotal postindustrial swing states and is treading water in the Southern and Sun Belt states.
 「treading water」とは足踏みしている、とか伸び悩んでいるという意味です 「treadmill」という運動器具があります。ジムにある動くベルトの上を足踏みする器具ですね。「pivotal」とは重要な、決定的な、という意味で使われています。

 政治に特化したアメリカのニュースメディア、ポリティコ(POLITICO)は、ロバートと名乗る者からトランプ陣営の内部文書を受け取ったと報じています。
POLITICO received internal Trump documents from ‘Robert.’ Then the campaign confirmed it was hacked. The campaign suggested Iran was to blame. POLITICO has not independently verified the identity of the hacker or their motivation.
 トランプ陣営は、この報道を受けてハッキングされたことを確認しています。ポリティコはハッカーの身元や動機を独自に確認していないのですが、陣営はイランが原因であると示唆しています。このような報道もネガティブキャンペーンの色合いが強いです。「Iran was to blame」という表現は、イランのせいだ、という意味です。

It’s just madness’: Inside Trump’s laundry list of increasingly bizarre claims
 「それはただの狂気だ」:トランプの主張はまるで洗濯物のようなリストのような、ますます奇妙な内容だ、という表現です。「laundry list」という表現は、面白いですね。わかりやすい言葉で、汚れた着物のリストのようだというのです。誠に正鵠を得ている表現です。

 放送ネットワークNBCとマイクロソフトが共同で設立したMSNBCニュースのアンカーマンであるLawrence O’Donnellが次のように報道しています。
.Lawrence: Everything out of Trump’s mouth is ‘real garbage’ and it should be treated as such.
 トランプの口から出てくるものはすべて「本物のゴミ」であり、そのように扱われるべきだ、というのです。「garbage」というのは誠にきつい、厳しい形容です。

 2012年大統領選挙での共和党の候補であり、上院議員であったミット・ロムニー(Mitt Romney) の演説の中に次のようなフレーズがあります。
Watch Mitt Romney’s full speech: ‘Trump is a phony, a fraud.’
 これまた厳しい形容です。トランプは偽者(phony)であり、詐欺師(fraud)だというのです。

 ペンシルベニア州ウィルクス・バリで行われたドナルド・トランプの悲惨な演説についてリポートしています。
MeidasTouch reports on Donald Trump’s disastrous speech in Wilkes-Barre, Pennsylvania where he spent a lot of time talking about how he believes he is better looking than VP Kamala Harris.
 トランプは、自分が副大統領のカマラ・ハリス氏よりもかっこいいと思っていると長々と語っていたというのです。

 最後にドナルド・トランプとイーロン・マスクの会話です。
Donald Trump conversation with Elon Musk
I saw a picture of her on Time Magazine today. She looks like the most beautiful actress ever to live. It was a drawing, and actually, she looked very much like a great first lady, Melania. She looked, she looked, didn’t look, she didn’t look like Camilla. That’s right. But, of course, she’s a beautiful woman, so we’ll leave it at that, right.

 タイム誌で彼女の写真を見たが、彼女は史上最も美しい女優のようである。しかし、それは写真ではなく絵だったが、実際、彼女は偉大なファーストレディのメラニアにとてもよく似ている。彼女はカミラ夫人に似ていない。その通りだ。

Kamara Harris on Time magazine

 メラニアとは、トランプ夫人のこと、カミラ夫人とはチャールズ国王の奥方です。さすがに女性の容姿を語るのはまずい、と思ったのか「so we’ll leave it at that, right」といって「この話はこれで終わりにしよう」と切り上げます。一体全体、カマラ・ハリスを自分の夫人、そして国王妃と比べるのが大統領候補者としての演説なのでしょうか。

 両陣営もネガティブキャンペーンをしがちなのが気になります。もう少し、世界情勢に関する政治状況や国内政策について二人の見解が欲しい感じがします。経済問題とか人種差別問題、不法移民の問題などたくさんあるはずです。次の候補者討論会は9月10日となり、FOXニュースで全世界に放映されます。両陣営は、虚々実々の駆け引きをしているようですが、

(投稿日時 2024年8月20日)  成田 滋

森有正の「遥かなノートル・ダム」

注目

 私がかつて一度会ったことのある哲学者が森有正です。呼び捨てにするのは少々ためらいますが、彼は哲学者というよりもフランス文学者といったほうが適当かと思われます。彼は、明治時代の政治家で初代文部大臣となった森有礼の孫で、東京帝国大学文学部哲学科で卒論を『パスカル研究』として発表します。やがて1948年東京大学文学部仏文科助教授に就任します。第二次世界大戦後、始まった海外留学の第一陣として1950年フランスに留学し、デカルト(Rene Descartes)やパスカル(Blaise Pascal)を研究し、そのままパリに留まります。東京大学を退職しパリ大学東洋言語学校で日本語や日本文化を教えていきます。

 私が森有正に会ったのは、1965年6月頃の札幌ユースセンター教会です。そこで働いていたとき、森が教会に入ってきて名刺を示し「オルガンを弾かせて欲しい」というのです。教会にはアメリカのルーテル教会青年リーグから寄贈された約400本のパイプのオルガンが設置されて礼拝やコンサートで使われていました。私はそのとき、彼が学者でオルガン愛好家であることを知りませんでした。後に「遙かなノートル・ダム」に出会ったとき、彼の深い思索や文明批評に触れて、その学識に接することになります。

森 有正

 森はパリでの長い生活で、その間数々の随想や紀行などを著します。人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正選集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。彼はフランスの教育制度や内容にも深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、フランスの教育に触れる箇所があります。

 「フランスの教育の要点は、知識の集積と発想機構の整備の二つである。知識の集積とは記憶が主要な役割を果たす。それは実に徹底していて、中等教育の歴史科をとってみると、先史時代から現代まで第六学級から卒業までの七年間に膨大な量を注入する。知識は内容を省略せず、各時代の主要問題、政治、外交、経済、社会、文化を中心に、しかも頻繁なコントロールや宿題、さらに作文によって生徒自身の表現能力との関連において記憶されるようになっている。日本の中学や高校の教科書の五倍くらいの量である。」

 「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいまで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって低学年から教育が行われ、その定義と正しい用法が作文によって試されるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習される。読本の読解ももちろん行われる。学年が進むと、文法的分析に論理的文体論的分析が加わる。そして作文はいつも全体を総括的にコントロールするものとして、中心的位置をしめている。」

 このようにフランス教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。それは単なる知識の詰め込みではないということです。

 森は、人間の中心課題として経験と思考、伝統と発想、そして言葉の重みを提起します。日本人は英語の単語や語句をたくさん知り、難しい本を読むことができても、書くとなると正しい英語を一行も綴れないことを話題とします。それは、自分の中の知識に対する受動的な面と能動的な面との均衡の問題であると指摘します。たくさんのことを覚えても、記憶してもそれが自分の中にそのまま停止しているから文章を綴れないのだ、といういうのです。単なる作文の練習をしてもどうなるものではなさそうです。英語でもフランス語でも本当に正しい語学を身につけるためには、その国の人の間に入って経験を積むほかはないと断言するのです。

森有正選集

 言葉には、それぞれが本当の言葉となるための不可欠な条件があるといいます。それはその条件に対応する「経験」であるというのです。経験とは、事柄と自己との間の抵抗の歴史であるというのです。福祉を論ずるにせよ、平和に論ずるにせよ、その根底となる経験がどれだけ苦渋に充ちたものでなければならないかを想起することです。その意味で経験とは体験とは似てもつかないものであると主張します。体験主義は一種の安易な主観主義に陥りやすいと警告するのです。

 「人間は他人がなしとげた結果から出発することはできない。照応があるだけである。これは文化、思想に関してもあてはまる。たしかに先人の築いたその上に築き続けるということは当然である。しかし、その時、その継続の内容は、ただ先人の達したところを、その外面的成果にひかれて、そのまま受けとるということではない。そういうことはできもしないし、できたようにみえたら必ず虚偽である。」

 「経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのと全く違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れてきていて、自分と分かち難く成長し、意識的にはあとから それに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ。」というのが森が強調したいことでもあります。

「変化と流動とが自分の内外で激しかったこの十五年の間に、僕のいろいろ学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って言うと感覚から直接生れてくる経験の、自分にとっての、置き換え難い重み、ということである。」このように経験という意味を深く追求することによって、真理であると思われることを一度真剣に、徹底的に疑う勇気が生まれるというのです。

オルガン演奏の森有正

 この本に「思索の源泉としての音楽」という章があります。森はオルガン演奏をこよなく愛した人です。特にバッハ(Johann Sebastian Bach)の音楽やグレゴリアン聖歌(Gregorian Chant)に心酔していました。こうした音楽の本質は、人間感情についての伝統的な言葉を、歓喜、悲哀、憐憫、恐怖、憤怒、その他を、集団あるいは個人において究極的に定義するものだとします。人間は誰しも生きることを通して自分の中に「経験」が形成されると森はいいます。自己の働きと仕事とによって自分自身のもとして定義される、それが経験だというのです。この仕事は、あらゆる分野にわたって実現されるもので、文学、造形芸術などとともに音楽もその表れだといいます。

 この著作は森有正の人となり、生き方、フランス文化や日本文化に対するに関する思索や洞察、さらには音楽の意義に至るまで、その言葉や音楽の定義力の強烈な純粋さのようなものが織りなすエッセイとなっています。私の考え方の一つの道しるべのようなものとなった、かけがえのない一冊です。

参考資料
『バビロンの流れのほとりにて』 (講談社) 1968年
『遥かなノートル・ダム』(筑摩書房) 1967年
『経験と思想』(岩波書店) 1977年

(投稿日時 2024年8月18日)  成田 滋

オルテガの「大衆の反逆」

注目

はじめに

 インターネットやSNSの隆盛で、歩きながらも自転車に乗りながらも絶えずスマホを見つめる多くの現代人がいます。そうした人々の選挙行動が今回の都知事選挙で話題となりました。SNSを駆使しすっとんきょうな政見放送で多くの若者から支援を受けた候補者、学歴詐称の疑いがあり公務と称して選挙運動をした候補者、離党しておきながら既成政党の固定した支持者をあてにした候補者、さらには掲示板ポスターの乱雑さ、候補者の名前を間違えると無効になる、という誤った報道が飛び交いました。本来ならば、選挙公約や争点が一体なになのかを吟味して投票すべきという常識が通じないような、まさに意外性に富むようなかまびすしい選挙でありました。

 果たしてSNSでつながった人々は自主的に判断し行動し、選挙に参加したのでしょうか。こうした匿名の集団は通常「大衆」と呼ばれます。そんな大衆が示す行動の特徴や問題を今から一世紀近く前に、鋭い洞察をもって描き大衆社会論の嚆矢となった一冊の本があります。スペインの政治学者で哲学者でもあるオルテガ・イ・ガセット(Jose Ortega y Gasset)が著した「大衆の反逆」(La rebelion de las masas)です。大衆社会論とは、特に産業革命以降の近代社会において、中間層としての大衆が社会にもたらした影響の大きさに関する社会学的論考といわれます。

ガセット オルテガ 

大衆とは

 社会のいたるところに存在する大衆は「他人と同じことを苦痛に思うどころか快感に感じる」とオルテガは言います。急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、人々は自らのコミュニティや足場となる場所を見失っているとも主張します。その結果、もっぱら自分の利害や好み、欲望だけをめぐって思考・行動をし始めるというのです。20世紀にはいり、自分の行動になんら責任を負わず、自らの欲望や権利のみを主張することを特徴とする「大衆」が誕生します。圧倒的な多数を占め始めた彼らが、現代では社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとオルテガは分析し、このままでは私たちの文明の衰退は避けられないと警告します。

 大衆は「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を覚えないどころか、それを快楽として生きている存在だとオルテガは分析するのです。彼らは、急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、自らのコミュニティや足場となる場所を見失い、根無し草のように浮遊を続け、他者の動向のみに細心の注意を払わずにはいられないのです。大衆は、世界の複雑さや困難さに耐えられず、「みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険性にさらされ、差異や秀抜さは同質化の波に飲み込まれていく」というのです。こうした現象が高じて「一つの同質な大衆が公権力を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させていくところまでやってくる」のです。

大衆の反逆


リベラリズムの台頭と頽廃

 オルテガは、こうした大衆化に抗して、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することを旨とする自由主義:リベラリズム(Liberalism)をとりあげます。そして、「多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾ける寛容性」や「人間の不完全性を熟知し、個人の理性を超えた伝統や良識を座標軸にすえる保守思想」を、大衆社会における民主主義の劣化を食い止める処方箋として提示します。

 彼は、歴史的な所産である自由主義の本質は、大衆化に抗して野放図に自由だけを追求するものではない、そこには「異なる他者への寛容」が含意されているとします。多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾けること、「敵とともに共存する決意」にこそリベラリズムの本質があり、その意志こそが歴史を背負った人間の美しさだというのです。そして、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することこそが自由の本質だと主張します。

 彼によれば民主主義の劣化は「すべての過去よりも現在が優れているといううぬぼれ」から始まるといいます。過去や伝統から切り離された民主主義は、人々の欲望のみを暴走させる危険があると警告します。オルテガは、現在の社会や秩序が、先人たちの長い年月をかけた営為の上に成り立っていることに気づくべきだともいいます。数知れぬ無名の死者たちが時に命を懸けて獲得し守ってきた諸権利と死者たちの試行錯誤と経験知こそが、今を生きる国民を支え縛っており、いわば民主主義は死者たちとの協同作業によってこそ再生されるというのです。しかし、19世紀の支配的思想としてのリベラリズムが頽廃していくことを正面から問題とするのです。

保守思想

 オルテガは現代人が人間の理性を過信しすぎてきたといいます。合理的に社会を設計し構築していけば、世界はどんどん進歩してやがてユートピアを実現できるという楽観主義が蔓延しているというのです。しかし、どんなに優れた人でも、エゴイズムや嫉妬からは自由になることはできません。人間は知的にも倫理的にも不完全で、過ちや誤謬を免れることはできないのです。こうした人間の不完全性を強調し、個人の理性を超えた伝統や良識の中に座標軸を求めるのが「保守思想」です。

 オルテガが唱えるこの保守思想とは何かです。「自らとは異なる意見や少数派の意見に丁寧に耳を傾け、粘り強く議論を積み重ねる」「自らの能力を過信することなく、歴史の叡知を常に参照する」「短期的な目先の利益だけのために物事を強引に進めない」「敵/味方といった安易なレッテル貼りに組しない『懐疑する精神』を大切にする」「大切なものを守っていくために『永遠の微調整』を行っていく」。このようにオルテガは、世界中にある危機に瀕した民主主義を再生するための重要な示唆を与えています。

「社会の行く末を左右するような決定が、丁寧に議論されないまま、いつの間にか決まってしまっている」「大きな不祥事が生じても誰も責任をとろうとしない」「それどころか不都合な事実については誰もが口を閉ざし、事実が隠蔽されてしまう。」オルテガは現代の日本の政界で起こっている出来事を予見していたようです。

「熱狂を疑え」

 オルテガは「本物の保守」と「偽物の保守」を見極めなければならないと主張します。そのためには、「熱狂を疑え」という姿勢を肝に銘じなければなりません。大衆とは、自分自身に特殊な価値を認めず、自分を「すべての人」と同じだと信じ、それに喜びを見出すあらゆる人間のことです。大衆は非凡なもの、特殊な才能を持ったものを排除しようとします。自己の願望や理想が満足してしまえば、もはやそれ以上は何も望まなくなり、過去への敬意も未来への展望も失ってしまうのです。オルテガ「大衆の反逆」で取り上げようと考えたのは、上述のような危機感の中で、次のような言葉に示されています。「敵とともに生きる! 反対者とともに統治する!」「敵とともに生きる! 敵とともに統治する!」この言葉に込められたオルテガの洞察は、「保守思想」の根幹ともいうべき思想です。

 大衆の時代である現代、人々は自分と異なる思考をもつ人間を殲滅しようとしているようです。自分と同じような考え方をする人間だけによる統治が良い統治だと思い込んでいます。それは違う、とオルテガは言うのです。自分と真っ向から対立する人間をこそ大切にし、そういう人間とも議論を重ねることが重要なのだという考えです。「組織のために有益な批判を行った人をも徹底的に冷遇する」「反対派の意見には一切耳を傾けず、鼻で笑うような対応をする」「多数派という立場にあぐらをかいて、丁寧な議論をすっ飛ばし、数の論理だけで強引に物事を進めていく」のは、独裁に近い有体だというのです。

 国家を国家たらしめているのは、理想を実現しようとする意志そのものであり、不断の努力なしに国家は存在しえないことを大衆は忘れているのです。「ヨーロッパ人」は新たなプロジェクトとして、ヨーロッパをひとつの国民国家とするべく取り組むべきなのです。大衆がついに社会的権力の座についたことが今日のヨーロッパ社会において、最も重要な事実となりました。しかし、残念なことに大衆というのは、自分自身を指導することもできなければ、もちろん社会を支配統治することもできないのが現状です。ヨーロッパが大衆化したということは、その民族や文化が危機に直面していることを表しています。かつて大衆は、社会という舞台における背景的な存在でした。だが今や舞台の前面に躍り出てきていますが、舞台に特定の主役はいないのが現状なのです。

平均人としての大衆

 大衆とは、すなわち「平均人」のことで、これは数の多寡に限らないのです。大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めず、自分は「すべての人」と同じだと信じ、それに喜びを見出すすべての人間を指します。逆に大衆ではない者とは、たとえ自らの能力に不満を覚えていたとしても、常に多くを自らに求める者です。つまり人間というのは、次の2つに分けられます。自分の人生に最大の欲求を課すタイプと、最小の欲求を課すタイプです。優れた少数者は前者、大衆は後者に当たるのです。彼らを分けるのは、生まれの出自ではなく。その資質や精神性にあるのです。

 大衆は今や社会の主役となり、かつては少数者のみのものだった施設を占領し、楽しみを享受しています。そのこと自体はかまわないとしても問題は、大衆が享楽の面だけではなく、政治の面にも進出してきていることです。近年の政治的変革とは、すなわち大衆の政治権力化という現象です。かつてデモクラシーは自由主義と法を強く重んじ、大衆はその運営を専門家たちに一任していました。ですが今の大衆は、物理的な圧力をもってして、自分の希望と好みを社会に押し付けようとしているという批判です。

 こうした変化は政治だけでなく、その他の知的な分野でも起こっています。今日の大衆が論文を読むのは、そこから何かを学ぼうとするからではなく、自分の持っている平俗な知識と一致しない場合にその論文を断罪するためなのです。しかも始末が悪いことに、今日の大衆は、おのれが大衆の一人であることを承知しつつ、だからこそ大衆であることの権利を高らかにうたい、いたるところでそれを貫こうとしています。大衆は今、いっさいの非凡なるもの、特殊な才能を持ったものを退けようとしています。彼らと違う考えのものは、社会から締め出される恐れすらあるのが、現代の不安な事実なのです。

大衆の反逆

 19世紀の文明は、「大衆」人間が過剰の世界に安住することを可能にする文明でありました。彼らは、そこでありあまる手段、すばらしい道具、卓効ある薬、豊かな便宜、快適な権利に取り囲まれて、そこの底辺にひそむ苦悩はもちろん、それらを発明し、それらを将来に保証する仕事がどれほど困難であるかにも目をつむってきました。

「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質化」された「大衆」の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだというのです。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからなのです。

 20世紀にはいり、圧倒的な多数を占め始めた大衆は、社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとオルテガは分析します。そして、このままでは私たちの文明の衰退は避けられないと警告します。20世紀のヨーロッパの思想的現状は、かつて被指導者であった「大衆」人間の大群が、世界を支配する決心をし、指導者になりつつあるという傾向です。「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ、無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。これが大衆の反逆という現象です。

(投稿日時 2024年8月16日)    成田 滋

事例研究は価値の低い研究なのか

注目

 なんらかの研究や教育に携わる人々は、日常のさまざまな分野、例えば子どもの発達や教育の営みを描き、それを特定の方法によって成果をまとめ発表しています。そのとき、どのようにして多数のエピソードやデータを集め、それをいかに分析して結論を導いたかを説明します。

研究論文:原著と事例報告

 通常の場合、論文は研究の目的、対象、方法、結果などを順序立てて読者に分かりやすい説明するのが一般的です。こうした方法は、統計手法を用いて、ある仮説を検証し一般化とか普遍化を求めようとします。このような研究の枠組みでは、多数のサンプルより集められたデータは、複数の観察者による観察結果の一致率などの指標によって信頼性が保証されるといわれます。こうした手法は通常、行動科学という分野などで使われる定量的研究とか仮説検証的研究といわれます。統計学の知識を活用することによって、見えないものが見え、理解しにくいことが理解できるようになるのです。

How to write research papers?

 事実、多くの教育学や心理学関連の学会誌は、仮説検証の実証的研究を「原著」(Original article)として扱っています。ただ、人の心を解明しようとするはずなのに、統計の手法にこだわったり誤用したりして、人の特徴や心の状態が見えてこない研究もあるのは否めません。数量化されれば、実証的であるとか、数字でデータ化されたものが客観的であるとか真実であると思いこむのは危険なことです。

 他方で、事例研究(Case study)とか症例研究といった一つの事例をいくつかのエピソードによって提示し説明する方法があります。事例報告とも呼ばれ、それぞれの症例の特徴を詳細に記述し、一般的な事実になるための仮説を提唱し、特別な事例の発表を通じて一般化しきれない個別の事例に光を当てるという研究です。事例からの特徴的な事柄などをエピソードとして記述するのは、それを数値化することが難しいがゆえに、「定性的研究」とか「質的研究」とも呼ばれます。「グラウンデッド・セオリー・アプローチ」(Grounded Theory Approach)とも呼ばれます。

 グラウンデッド・セオリーでは、インタビューや観察などを行い、得られた結果をまず文章化し、特徴的な単語などをコード化しデータを作ることです。その上で、コードを分類し分析するのです。この定性的研究は、データを収集した後は各自が自分で考え、印象批評をするのですが、具体的な分析手法はありません。

研究論文の読み方

 定性的研究の定性とは定量と真逆の意味があり、物事が数値化できない要素のことで、その部分に着目し、特徴を分析し、それが読み手に「なるほど」と「了解される」ことを目指すのです。了解されるとは、一般性とか公共性ということであり、普遍性とは異なります。定性的研究は、これまで一般化や普遍化が目指されていない以上、単なる一事例の提示にすぎない、と低い評価しか与えられないままに推移してきた経緯があります。

事実、多くの心理学関連の学会誌は、仮説検証の実証的研究を「原著」として扱い、事例研究を掲載しないままできたか、掲載する場合でも実証的研究より一段低い研究とみなし、「事例報告」(Case report)の名称で学会誌の末尾に掲載するという扱いをしてきました。行動科学における数量的、定量的な実証的な研究においてはもちろん、臨床研究においてさえ、事例の価値は低く見積もられてきました。なぜなら、一つの事例は、個別の指導事例の域を出ず、そこから一般化することが難しい、従って価値が低いという暗黙の理解があったからです。

事例報告の信頼性

 エピソード記述に代表される質的研究の方法論には、仮説検証の実証的研究に対応するような信頼性があるかどうかが問われています。単一事例を扱う観察では、そこで起こる現象の再現が難しいために、仮説検証と同じ手続きを使うことはできないのです。ビデオ録画を通して行動のエピソードが測定できるのではないか、という反証があるかもしれませんが、測定者が一人である場合、観察者が記述の主体となり記録そのものの信頼性が問われるのはやむを得ません。臨床心理学や精神医学系の学会誌も事例研究が中心に組まれていますが、その事例の扱い方は事例そのものに密着して、事例に語らしめる、というように事例そのものに価値があるという扱いをするといわれます。

質の高い論文とは


研究論文の分類

 原著論文は一般的な事実を導き出すことを目指し方法の妥当性,信頼性が問われます。ですが原著論文の定義は、大学や研究機関、文献情報サイトによって異なっていて、原著論文の定義は一つではありません。例えば、日本看護研究学会のサイトによりますと「学術上および技術上価値ある新しい研究成果で、原著論文ほどまとまった形ではないが、早く発表する価値のある論文も原著である」としています。

 医学中央雑誌刊行会によれば、症例報告は原著論文とするとしています。新規性・有用性・客観性、独創性のあるもので、講演または会議録でも、原著的内容、形式を有するものも原書論文としています。

 日本看護研究学会は、研究論文を「実践報告」と「実践研究」に分類し、前者を子ども等への働きかけとその結果をまとめたものとし、後者を子ども等への働きかけとその結果から、相関関係、因果関係を読み解き、新たな事実や事象、さらに問題点の提起や方法の提案などが提示されたものと規定しています。研究が独創的であり、新しい知見や理解が論理的に示されているものが研究論文というのです。

 日本特殊教育学会の機関誌では、仮説検証的な実証研究を原著とし、事例研究は原著より一段低い研究とみなし、学会誌の末尾に掲載しています。日本心理学会は、原著論文を問題提起と実験,調査,事例などに基づく研究成果,理論的考察と明確な結論をそなえた研究とし、掲載は10ページ以内としています。他方、研究報告は、すでに公刊された研究成果に対する追加,吟味,新事実の発見,興味ある観察,少数の事例についての報告,速報性を重視した報告,萌芽的発想に立つ報告とし、6ページ以内にまとめることを要求しています。このように論文作成に際して、ページを限定すること自体に論文に対する差別があると言わざるをえません。

 大学などの研究機関の教員公募にあたっては、審査の対象となるレジュメの中で論文数や刊行図書数がカウントされます。その際、原著数が多い者ほど有利になります。事例研究や研究報告は、原書と比べて質的な上下関係があるわけではありませんが、選考にあたっては一段低く評価されるのが現実なのです。特に教育学や心理学関連の論文の扱いは残念ながらそうした現実があります。

(投稿日時 2024年8月11日)   成田 滋

ボンヘッファーの「抵抗と信従」

注目

 ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)の「抵抗と信従」(Widerstand und Ergebung: Resistance and Surrender)という著作を紹介します。ボンヘッファーは、ドイツ古プロイセン合同福音主義教会(Die Evangelische Kirche der altpreußischen Union)の、ルター派の牧師です。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人として知られ、反ナチ主義者でもありました。第二次世界大戦中にヴァルキューレ作戦(Operation Walkure)と呼ばれたヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、刑務所内で著述を続けます。その後、暗殺計画は挫折し、ドイツ降伏直前の1945年4月9日に強制収容所で処刑されます。

Dietrich Bonhoeffer

 1933年7月には、ユダヤ人の公職からの追放を目的とした「職業官吏再建法」が制定されます。これは「非アーリア人種」や「政治的に信用のできない者」を公務員から追放することによって公務員数を削減する趣旨の法律です。教会にもいわゆる「アーリア条項」 (Arierparagraph)が適用されるようになります。これはユダヤ人また、ユダヤ人以外の「非アーリア人」を、組織や職業、その他の公共生活の側面から排除するために使われた最初の法制度です。アーリア(Aryan)という言葉は、中立的な概念を表す用語として生まれたのですが、思想的、または悪意のある目的のために適用され、操作されて過激な意味を持つようになります。

 その後、ドイツ的キリスト者 (Deutschen Christen) と呼ばれる親ナチス勢力の追随者がドイツのプロテスタント教会で支配的になりますが、こうした動きに対抗し、9月21日、ボンヘッファーはマルティン・ニーメラー(Martin Niemöller)らと牧師緊急同盟を結成します。これが後の告白教会(Bekennende Kirche)の結成に繋がるのです。ここから告白教会の牧師は、ナチスに対する反対運動を開始します。この牧師緊急同盟にはドイツの福音主義教会牧師の約3分の1が加入します。しかし、アーリア条項に反対した当時の教会指導者たちとボンヘッファーが全く同一の考えを持っていたわけではないといわれます。教会指導者らにとってアーリア条項に反対すべき主要な理由は、教会の自由が侵害されるという点でありました。ボンヘッファーは、ナチスの福音派の牧師らの姿勢について、その問題の重大性を深く認識し彼らと袂を分かっていきます。

堅信礼を受ける少年らと

 1933年以来、告白教会の路線にそって教会的な抵抗を続けてきたボンヘッファーは、1940年頃から国防予備軍を中心とする政治的抵抗運動に身を投じます。彼がこの抵抗運動の中で演じた役割は3つあります。第一は牧師として抵抗運動の精神的な支柱となることでした。第二は告白教会の若い世代の教会的で神学的な指導者として、ヒトラー打倒の陰謀計画が成功した暁に平和的で民主的なドイツにおいて、奉仕すべき教会の再建を検討することでありました。第三は1930年頃から抱いていたエキュメニカル(Ecumenical)な交わりを通して、特に抵抗派が望んでいたイギリスとの政界との繋がりをつけ、ヒトラー打倒とその後に来たるべきドイツの再建のために不可欠とされていたイギリスとの和平への保証、及びその条件の確認と、抵抗派への理解と支持を求める働きという任務を負っていたからでした。

 しかし、ボンヘッファーがヒトラー打倒について協力を仰いでいたミュンヘンの実業家シュミットフーバー(Schmidhuber)が秘密国家警察(ゲシュタポ)に逮捕されると、シュミットフーバーはヒトラー打倒計画の情報を明かすのです。こうして1943年4月にボンヘッファーもゲシュタポに逮捕されるのです。本書「抵抗と信従」には多くの手紙が網羅されています。そのほとんどが刑務所内で書かれたものです。すべて、正規の検問を経て書かれた両親宛の手紙は、彼の獄中生活の比較的明るい面をつたえています。「運命にたいする迅速で自覚的かつ内面的な和解」とか「ある無自覚的で自然な馴れ」といった自省的な思索も感じられます。獄中にありながらも、旺盛な読書力によって神学的な思索や聖書研究に没頭し、神学、哲学、歴史、文学、自然科学に渡る書物を読破していきます。詩をや音楽を愛し、自由な生きた人間としてのボンヘッファーの姿があります。

ボンヘッファーが牧会したシオン教会

 獄中でリューマチや腹痛で苦み、さらには爆撃の恐怖、別離と孤独、釈放への憧れなどが混ざり合いながらも、そこにユーモアによって苦悩を克服したかのような書簡が綴られています。「十年後」という書簡ですが、これはヒトラーが帝国宰相の地位につき、ドイツの全体主義運動に乗り出してから十年後に書いたものです。この十年間のヒトラー支配下の自己を含めて、ドイツ人の精神的な状況を省察しています。
 「悪の一大仮面舞踏会が、一切の観念を倫理的観念を支離滅裂な混乱に陥れた」
 「市民的勇気の欠如を嘆く訴えの背後に、一体何が潜んでいるのだろうか。近年われわれは多大な勇気や犠牲的行為をみた。しかし、市民的行為というものはほとんどどこにも見られなかった。」
 「ドイツ人は今日始めて自由な責任とは何であるかということを発見し始めている。」
 「愚鈍であるが、知的には非凡なほど活動的な人間がおり、愚鈍とはおそ別ものでありながら、知的には全く愚鈍な人間がいる」
 
 ナチスの全体主義思想下による国民の影響について、ボンヘッファーは、良心は葛藤を避けるために自律を放棄して他律に陥り、それが大衆のヒトラー崇拝となったというのです。ゲシュタポの探索を目を逃れて後に発見された少数の友人あての書簡で、以上のようにドイツにおける時代の精神状況をとらえ、抵抗運動を分析していることに着目すべきと考えられます。

 次ぎに「獄中報告」です。これはベルリン市内にあった陸軍刑務所で書かれエーベルハルト・ベートゲ(Eberhard Bethge)という友人に送られたものです。獄中の待遇一般や食事、作業、空襲警報、個別的なことなどです。特に留置者の空襲の際の叫声や怒号は経験した者しかわからないだろうと記しています。こうした手紙はすべて事前に当局によって検閲されていました。

 「両親への手紙」は、刑務所内から正規の検問とルートを経て、ほとんど10日に一度の割合でベルリンに住む両親に送られてものです。拘留生活のこと、日課、誕生日のお祝いの言葉、姪の結婚への祝い、獄中からの結婚式のための説教、などです。「あなた方二人は、これまでの生活を他に比べようもない感謝を持って振り返るべき理由を十分に持っているに違いありません。神はあなた方の結婚を結びつけて、離し給うことはありません。」

ウエストミンスター寺院の彫像 右端がボンヘッファー

 「ある友人への手紙」は親友であったベートゲへの書簡です。1940年以来、彼が一切の表現の自由を当局から剥奪されて以降は、告白教会のための、また抵抗運動のための多忙な生活を割いて原稿を書き続けます。昼間は、倫理学についての書物を書いたり、告白教会の常議委員会のための神学的な原稿を書き、夜は政治活動に携わっていたようです。こうした執筆は逮捕と投獄によって中断されます。

 本著の最後の章である「生命の微」は、神への感謝の祈りに満ちています。そのほんの一部を紹介します。

  神よ、私はあなたの永遠へと身を沈めながら
  私の民が自由の中に歩みいるのを見る。
  罪を罰し、喜んでこれを赦し給う神よ
  私はこの民を愛した。
  この民の恥と重荷とを負い、
  その救いを見たことにまさる歓びはない。
  私を支え、私を捕らえ給え!
  私の杖は倒れて地に落ちた。
  信実なる神よ、私の墓を備え給え。

 ナチスドイツの敗北直前に刑死するまで、数年間の過酷な獄中生活から紡ぎ出された著作で、戦後のキリスト教神学に絶大な影響を与えたのがディートリヒ・ボンヘッファーです。彼の死は、まるでキリストを木の十字架の上にかけたローマの政治の継続の姿です。それでも「キリストのように、人間は他者のために存在している」と記述した後で「教会が他者のためにここに存在している場合ならば、教会は教会に他ならない存在である」とも主張し、キリスト教会がナチス政権に賛同し、自己存続のためだけに活動することに警告するのです。まるで、

参考資料
「抵抗と信従」ボンヘッファー選集(全9巻) 倉松功・森平太訳 新教出版社、1962年
「告白教会と世界教会」 ボンヘッファー選集(全9巻) 森野善右衛門訳 新教出版社、1962年
「服従と抵抗への道」森平太 新教出版社、2004年
                            
(投稿日時 2024年8月3日) 成田 滋

ハンナ・アーレントのイェルサレムのアイヒマン

注目

はじめに
 本著は、アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)を訴追したイェルサレムの法廷を傍聴した哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)が「ニューヨーカー誌」(New Yorker)に投稿したものです。副題として「悪の陳腐さについての報告」が添えられています。「人間の皮をかぶった悪魔」 「自覚なき殺戮者」 「ナチスの歯車として与えられた命令を従順にこなし、ユダヤ人大虐殺に加担した男」などと呼ばれたのが元ナチス親衛隊員だったアイヒマンです。

逃亡と逮捕
 戦後、アイヒマンは主にナチス幹部の逃亡支援のために結成された「オデッサ」(ODESSA)などの組織の助力や、元ドイツ軍人や元ナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたローマの修道士の助力を得て、国際赤十字委員会から難民としての渡航証の発給を受けます。そして1950年7月ペロン(Juan Peron)政権の下、元ナチス党員などの主な逃亡先となっていたアルゼンチン(Argentine)のブエノスアイレス(Buenos Aires)にやってくるのです。

Jerusalem

 イスラエル諜報特務庁(モサド:Mossad) の工作員が1960年5月11日にブエノスアイレスでアイヒマンを拉致し、5月21日イスラエルへ連行します。そしてイェルサレムの法廷は、「アイヒマンがユダヤ人問題の最終的解決」(Holocaust) に関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担ったとして起訴します。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われる裁判が開かれ、同年12月に有罪判決を受け処刑されるのです。

 以上のようなアイヒマン逮捕と裁判劇は、各国から論争を呼びます。アイヒマンの拉致とイスラエルへの移送が発覚すると、アルゼンチン政府はイスラエルに抗議します。アルゼンチンの主権を侵害して強制的に連行された者を裁くことは,国際法に抵触するものであり,裁判所の管轄権を超えるものであるという立場を主張するのです。しかし、イスラエルとアルゼンチンの間には犯罪人引き渡し条約が結ばれていなかったため、国家を介した引き渡しができず、イスラエルは強硬手段によって移送し、起訴したのです。

 いかなる主権国も自国の犯罪者を裁く権利があります。そこでドイツもまたドイツ国籍であったアイヒマンを引き渡すように請求する権利がありました。しかし、ここでもアルゼンチンと同様にドイツとイスラエルの間には犯罪者引き渡し条約がありませんでした。このときのドイツの首相はアデナウアー(Konrad Adenauer)でした。

裁判経過 
 裁判に際してアイヒマン側の弁護士、ロバート・セルヴィアティス(Robert Servatius)らは,次の2つの理由に基づきイェルサレムの裁判所の管轄権を否定する主張をします。すなわち、被告人が犯した犯罪は,イスラエル国境の外において,しかもイスラエルが国家として成立する以前に,イスラエル国民でなかった人々に対して行われたものであったこと、またその犯行はイスラエル外で行われ、これを処罰しようとするイスラエルの法律は国際法に反すると主張します。他方、裁判官は法廷において、イスラエル国家はユダヤ人の国家として創設され承認され、それ故にユダヤ民族に対しなされた犯罪についての裁判権を有することを強調します。

 アイヒマンは、裁判を通して自分は告発されている罪の遂行を幇助および教唆したことだけは認めるのですが、決して自分では犯行そのものを行っていないと一貫して主張していきます。自分は法廷で真実を語ろうとして最善をつくしたが、法廷は自分を理解しなかった、自分は決してユダヤ人を憎む者ではなかったし、人間を殺すことを一度も望まなかったと陳述します。自分の罪は服従のためであり、服従は美徳として讃えられているとも主張します。自分の美徳はナチスの指導者に悪用されされたというのです。自分は支配層には属していなかった、自分は犠牲者なのであり、指導者達のみが罰に値するのだ、自分は皆に言われているような残酷非常の怪物ではない、自分はある誤解の犠牲者なのだ、という主張です。

 アーレントは、裁判を傍聴しながら、アイヒマンは自らの昇進には恐ろしく熱心だったということのほかに、彼にはなんなの動機もなかったと言明します。この熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなく、大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており法廷での陳述においてナチス政権の命じた「価値転換」について語っています。彼は愚かではなく、完全な無思想性の持ち主だというのです。これは愚かさとは決して同じではない、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったことが陳腐であり、それのみか滑稽であるというのです。このような現実離反と無思想性は、人間のうちに恐らくは潜んでいる悪の本能に他ならないと指摘します。価値転換とは哲学者ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の言葉で、 従来の価値序列を転換することによって、これまで禁止されたり軽蔑されていた価値観の回復をはかるという意味です。ナチスが、 従来の体制の価値観を転換したということです。

Hannah Arendt

裁判の合法性
 ナチズムとは民族を軸に国民を統合しようとする国民主義と、マルクス主義や階級意識を克服して国民を束ねる共同体主義を融合した全体主義的支配思想です。その本質とは、全ての組織を官僚制のもとにおき、人間を官吏に据え行政措置の中の単なる歯車に変えて、非人間化することです。アイヒマンはその中に組み込まれたのだと主張します。

 全てのドイツ系ユダヤ人は、1933年からのヒットラーによる警察権力の組織によってドイツ国民を呑み込み独裁国家としてユダヤ人を賤民としてしまった国家統制の波を非難します。そして、自分も同じ事情のもとでは悪い事をしたかもしれないという反省は寛容の精神をかきたてはするだろうが、今日キリスト教の慈悲を引き合いに出す人々は、この点について奇妙に混乱しているようだと アーレントは指摘します。独立国家であったカトリック教会のバチカン(Vatican)はヒトラー政府の正当性を公式に認知した最初の国となります。さらに、ドイツ福音教会(Evangelische Kirche in Deutschland)の戦後の声明はこう述べています。「わが国民がユダヤ人に対して行った暴行については、我々は不行為と沈黙によって同罪であることを慈悲の神の前で告白する」

 この声明に対してアーレントは、「もしキリスト教徒が悪に報いるに悪をもってしたなら、慈悲の神の前に罪有りとなる、数百万のユダヤ人が何かの罪を犯した罰として殺されたとすれば、教会は慈悲にそむいた罪を犯したことになるだろう。このように教会が自ら告白しているように、単なる暴行についてのみ同罪だとするのであれば、これを裁くべきものはどうしても正義の神だと考えなければならい。」と疑問を呈するのです。

 アイヒマンは、市民社会のほとんどすべての原理を徹底的に否定する独裁国家の行為を実行したにすぎなく、彼の身に起こったことは、今後また誰に起こるか判らないし、文明世界全体がこの問題に直面しているといいます。アイヒマンはいわば身代わりの贖罪者となったというのです。そしてアーレントは、当時のドイツ連邦政府は自分で責任を負うまいとして国際法に背いて、アイヒマンをイェルサレムの法廷に委ねたのだと批判します。

 アーレントは、「アイヒマンは愚かではなかったし、まったく思考していないこと、これは愚かさとは決して同じではない。それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが「陳腐」であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な、または鬼神に憑かれたような底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、やはりこれは決してありふれたことではない。」と回顧します。

Movie,Hanna Arendt


 アイヒマンが告発されたのは贖罪山羊が必要だったからであり、それも単にドイツ連邦共和国のためにだけでなく、起こったことすべてと、それを起こるのを可能にしたすべてのこと、つまり反ユダヤ人主義と全体主義支配のみならず人類と贖罪のために必要だったのだというのです。アーレントは、そうではなく正義のためにこそ開かれねばならなかったのがこの裁判であると主張します。

 オランダの思想家グロティウス(Hugo Grotius)は、自然法の理念にもとづいた正義の法によって為政者や軍人を規制する必要があると考え、また国家間の紛争にも適用される国際法の必要を説いています。判決では「犯行によって傷つけられた人間の名誉もしくは権威を守り、罰が行われなかったことによってその人間の権威失墜が生じないために、刑罰というものは必要である」というのです。このグロティウスの自然法の理念は、イェルサレム法廷の合法性を支えると同時に、アーレントの正義のためにという主張にも添うものです。

 イェルサレムの法廷が主張したのは、ホロコストは人種差別、追放、大量殺戮(ジェノサイト:genocide)であり、ユダヤ人の身においてなされた人道に対する罪だったことからして、ユダヤ人が犠牲者であったという限りユダヤ人の法廷が裁判を行うことは正当であるとします。しかし、ホロコストにはナチスによって作られた全国組織であるユダヤ人全国連盟やユダヤ人評議会員や長老らがナチスに協力したことが判明しています。こうしてユダヤ人自身が自民族の破壊に協力したことも事実として認めるべきだとアーレントは主張します。それに対して同じユダヤの知識人らは、アーレントはアイヒマンの責任を小さく評価し、ユダヤ人の責任に光をあてようとしているとして厳しく非難します。しかし、アーレントはアイヒマンの罪責を緩和しているのでは決してありませんでした。

おわりに
 ユダヤ人虐殺という罪が人道に対する罪である限り、それを裁くには国際法廷が必要だというのがアーレントの主張なのです。それに呼応するかのように、哲学者カール・ヤスパース(Karl Jaspers) も「ユダヤ人に対する罪は人類に対する罪でもあり、従って判決は全人類を代表する法廷によって下され得る」としてイェルサレムでの裁判の違法性を指摘するのです。圧倒的な組織と統制管理の時代にあって、どのようにして一人の凡庸な市民が想像を絶する罪の実行者になり得たかをアーレントは報告します。そうした平凡な悪人、陳腐な悪の出現がわれわれの時代の特徴的な現象であると警告するのが本著です。

資料
 『全体主義の起原』 みすず書、1972年
 『人間の条件』 中央公論社、1973年
 『精読 アレント全体主義の起源』 講談社、2023年
 『イェルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告』 みずず書房 1994年

ハンナ・アーレントの人間の条件

注目

はじめに

いくつかの政治思想史の著作、例えば「現代政治の思想と状況」という東京大学法学部教授であった丸山眞男の著作を読むと、我が国の政治学や政治思想史には、依然としてマルクス(Karl Marx)主義の影響が強く、今日までマルクス主義が及ぼした思想の展開はきわめて大きいことがわかります。ですがアーレント(Hannah Arendt)の「人間の条件」を読みますと、マルクス主義に対する痛烈な批判が展開されていることがわかります。今日の高度経済成長の社会には、機械に代わられた単純労働の価値が下がり、手仕事や余暇活動といった新たな生活様式が登場しました。効率とか能率によって人生の価値を高めようとする風潮が生まれました。マルクス以後は労働を不当に尊重し、社会問題の解決が人生の目的であるかのような妄想が続いてきました。アーレントはこうした時代の趨勢には対して問題を提起します。

Karl Marx

現代では、労働が仕事や活動に対して圧倒的な優位を保っているとし、労働の優位の政治的表現が社会主義であり、その最も選れた理論家がマルクスでありました。アーレントはこの労働の優位性が現代社会の最大の危機があるとし、マルクスの理論と対決するのです。そして、労働の優位の世界の矛盾と限界を明らかにしていきます。彼女が労働優位の社会として批判の対象としたのは、社会主義社会だけではありません。自由主義社会もまた労働優位と経済重視の社会であり、その点では社会主義社会と全く同じだと主張します。「人間の条件」においてアーレントは自由主義社会と社会主義社会双方を含む現代社会全体を根底的に批判したのです。

Hannah Arendt

労働観

マルクスは言います。「労働と生殖は、繁殖力をもつ同一の生命過程の二つの様式である。人間の活動力のなかで、終わりがなく、生命そのものに従って自動的に進む活動力は労働だけである。」「労働は生命のリズムと密接に結びついている」。現在社会では、機械のリズムは、生命の自然のリズムを著しく拡大し、それを強めるであろう「労働」とは生命維持のためになされる労苦に満ちた無限の営み(activity)となり、それは西欧政治思想の伝統において長らく忌避と軽蔑の対象とされてきました。ところが近代以降には「労働」の地位が急上昇し、むしろ労働こそが人間にとって本質的な営みであると見なされるようになりました。

労働は「自然によって押しつけられた永遠の必要」であり、人間の活動力の中で最も人間的で生産的である一方、マルクスによれば、労働者階級を解放することではなく、むしろ、人間を労働から解放することを課題にしています。つまり、労働が止揚されるときにのみ、「自由の王国」が「必然の王国」に取って代わるというのです。これが彼の革命の思想です。

アーレントは、西欧政治思想の伝統から継承された「労働と政治からの二重の解放」というユートピアを読みとり、このユートピアを強制的に実現しようとする試みが、全体主義支配という否定的に描かれたディストピア(dystopia) をもたらすものであると主張します。このような全体主義への絶えざる危機意識こそがアーレント思想の核心であり、そこに彼女の批判精神が現れていると思われます。

世界の中の日本の状況

時代は下り、20世紀の世界情勢を概観的に見渡してみます。1994年以来、すでに社会主義はソ連と東欧において決定的な後退を経過します。しかし、自由主義もまた全面的に勝利したとはいえない状況にあります。アメリカを始めとする自由主義社会も貧富の格差といった矛盾を抱え、日本を含む多くの自由主義諸国はいまだに明るい展望を持ち得ていません。日本の国内政治状況を振り返ってみます。田中角栄首相の金脈批判からロッキード事件がありました。これらは政界を大きく揺さぶる事件でした。そして今回のパーティ券にともなう裏金事件です。それにも関わらず、自由民主党の揺るぎないような一党優位体制は依然として続いています。

55年体制とは、自由民主党と日本社会党との二党を基軸とする体制です。しかし、その体制は崩壊し、本格的な多党化時代が到来し、保守と革新という伝統的な対立も消滅しています。こうした中にあっって現状の打破のための議論が起こってはいますが、選挙制度とか政治資金規正などの技術論に終始し、現代の政治が直面している危機の本質に目を向けることはありません。アーレントの「人間の条件」という著作は、現代社会を根底的に批判することを通じて現代政治とはなにか、その問題点とはなにかを鋭く抉り出していることです。

政治は利害の調整、特に経済的利害の調整に関わるものとされています。政策の研究が終始され、その内容はほとんどが経済問題とされます。そこに関わるのは職業政治家で、普通の市民が政治に参加する活動はいかにして容易になるかが問われています。しかし、こうした話題は世間はあまり関心がありません。精々選挙をとおして示すだけです。翻ってアーレントは、政治参加を保障し、拡大するという課題は政治の中心おかねばならないと主張し、なによりも市民の政治参加が重大であるかを強調しています。

おわりに

オートメーションに代表される現代の機械生産は、大量消費社会を実現しました。しかし、生命そのものに従って自動的に進む労働には、本来終点がないのですから、消費社会はますます膨張せざるをえないでしょう。この過程に横たわる危険な信号の一つは、経済全体がかなり消費経済になっているということです。物が市場に現れた途端に、今度をそれを急いで貪り食い、投げ捨ててしまわなければならない、いわゆる投げ捨て文化が批判されています。こうした大量消費社会が直面する環境汚染や資源枯渇の問題もまた、労働優位の社会の当然の帰結にほかならないのです。こうした問題を根本的に解決するためには、労働の優位を覆させなければならないというのがアーレントの主張です。

参考資料
 ・現代政治の思想と状況 丸山眞男著 未来社 1962年 
 ・日本政治思想史研究 丸山眞男著 東京大学出版会、1952年
 ・丸山眞男集(全16巻別巻1) 岩波書店 1995~1997年
 ・人間の条件 ハンナ・アーレント著 志水速雄訳 筑摩書房 1999年

(投稿日時 2024年7月30日)

民権論と金権論

注目

はじめに

歴史は繰り返すといわれますが、最近「民権論」ということが取りざたされています。なぜかといいます、今般のキックバックという政治資金パーティの裏金を舞台とする金権政治が明るみに出て、批判されているからです。「金権論」という言葉が使われるのも頷ける世相です。金権論に対するアンチテーゼとして「民権論」が再登場するのも合点がいきます。

民権論

ブリタニカ国際大百科事典によりますと「民権論」とは、主に明治前半を通し提唱された民衆の権利擁護思想とあります。特に自由主義思想と結びつくことによって、自由民権論という明確な政治思想が広まったといわれます。この政治思想は、18世紀にフランスにおいて起こった啓蒙思想が下敷きにあると思われます。こうした思想の代表は、モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu)の三権分立論などの国家論、ヴォルテール(François-MarieVoltaire)の宗教的寛容論、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の社会契約説などの啓蒙思想です。ちなみに「啓蒙」とは、「蒙(知識不足)をひらく、無知のものに知識を与えることで、無知を有知にするという意味があります。無知とは、封建社会の中で教会的な世界観の中に閉じこめられていた人々の有様を指します。

ロベール・ド・モンテスキュー

民権論と啓蒙思想

プロイセン(Prussia)の哲学者であったイマニュエル・カント(Immanuel Kant)は『啓蒙とは何か』という著作の中で次のように定義しています。「啓蒙とは人間が自分自身で責めを負った未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしに自分の悟性を用いることのできない状態である。」カントが強調する啓蒙とは、知識人や専門家たちが上から民衆に教え諭す働きではなく、いわば民衆が自ら自分自身を鼓舞し決断する働きそのものが大事であるというのです。

民権論は、天賦人権論ともいわれます。1879年植木枝盛の「民権自由論」や,新聞・雑誌,地域における学習や討論会などを通じて広く国民の間に浸透した時期がありました。国会開設運動や憲法制定など、民権論を具体的に実現するために行われた自由民権運動の一つです。自由民権運動の支柱となったのは、啓蒙思想で謳われる天賦人権論であり,国民の政治的・市民的権利の確立を説く政治理論でもあります。憲法により政治権力は制限されるべきだという「立憲主義」の思想のことです。しかし、国家権力の統制によって自由民権運動は下火となり定着しませんでした。

エマヌエル・カント

金権政治や寡頭政治

金権政治はプルトクラシー(plutocracy)と呼ばれ、金の力で政治権力を掌握することいわれます。ギリシア語の訳語で,ploutos (富) と kratia (力) を合せたものであって,富豪政治または富裕階級の支配ともいわれます。哲学者アリストテレス(Aristotle)はこれを「貴族制」(aristocracy)とか「寡頭政治」(Oligarchy–オルガルキ)と呼びました。支配層のメンバーが裕福であったり、その富を通じて権力を行使する寡頭政治は、金権政治としても知られています。

金権政治が極限まで行くと、金銭獲得のために利権を前提とした賄賂、選挙において巨額資金の投入によって、有権者の票や議会の採決における議席を金で買収することも行われます。さらに職業政治家が私利私欲に走り、政策そのものまで利益団体からの金銭授受によって左右されるのです。金銭を駆使することによって当選を目指すことは金権選挙と呼ばれます。卑近な例としては、後述する自民党の裏金を巡る企業献金や寄附による政治の腐敗があります。

我が国の選挙では、一票の格差はよく話題となりますが、投票価値の公平性という観点から非常に大きな問題になっているのが参院選挙区の一票の格差です。そして全国区制については、全国各地を遊説する上に加えてポスターやビラに多額の選挙資金が必要となっていることです。そのため「全国区」ならぬ「銭酷区」と呼ばれることもあります。また「8億円で当選し7億円で落ちる」と言われていたことから、「八当七落」と、もじられました。政治資金パーティ券が常態化しているのも、選挙資金や私利私欲を目指す金権政治の典型といえるでしょう。

イタリアの思想家、ロベルト・ミヒェルス(Robert Michels)が寡頭制の鉄則(Iron law of oligarchy)という理論を提唱しています。巨大化する政党が平等や民主主義を実現すると声高に主張しながら政府の政策に妥協し、組織の維持・存続にばかりに気をとられている実態を目の当たりにして提唱したものです。組織の成員は、複雑化し同類化した組織・集団を管理する技能を持たないため、少数の指導者たちに運営を任せ、依存するようになるというのです。このことが少数の指導者たちが強大な権限を確保させ、一般成員の支配を可能とするというのです。これは今の自民党派閥幹部の姿そのものです。ミヒェルスは、すべての政治体制は寡頭制に変貌するというのです。

寡頭政治の一例を今回の政治資金パーティに関わる裏金から見ていきましょう。裏金ももらっていた議員は、「派閥の幹部からかつて政治資金収支報告書に記載しなくてもよいという指示があった。『大丈夫かな』とは思ったが、長年やっているのなら適法なのかと推測せざるを得ず、指示に従った」といっています。少数の指導者といわれた幹部たちが強大な権限を保持し、成員である所属議員を牛耳っていたのです。

裏金と選挙

今日、日本では金権政治はもっと広い意味で使われています。すなわち,選挙に勝つために,あるいは党首の座の獲得や政権の維持のために莫大な資金を使うことを意味しています。また、ときには巨大企業が経済力によって有利な政策決定をかちとることも金権政治といわれます。大きな経済団体では大企業が会員となり、企業や団体の意見を取りまとめて、政府や行政に働きかけています。「日本経済の発展と国民生活の向上」のための政策の提言をしその実行を働きかけるのです。金権政治が明確に見え隠れする存在といえます。これが利権に基づく政治行為をいわなくてなんでしょうか。

裏金というのはどんな形にも使える自由な金なので、それを人件費に使おうと、銀座のクラブでの飲食に使おうと、選挙に使おうと、自由にその財布から出せるのです。裏金がなければ政治活動ができないといわれたのです。この資金の流れは、マネーロンダリングといわれる資金洗浄の疑いもあります。つまり、裏金を資金の出所をわからなくするために、架空または他人名義の金融機関口座などを利用して、転々と送金を繰り返したりして、捜査機関等による収益の発見や検挙等を逃れようとする行為です。金権政治の一つの典型といえます。

おわりに

民主主義の選挙には金銭が大きく関わっています。政治には金がかかるといわれますが、その理由の大きくは、選挙と議員を支える秘書をどれだけ多く雇っていくかにかかっているといわれます。それゆえ民主主義が生まれた頃から、「民主主義は金権政治なのか?」と言う議論は尽きません。賄賂の温床とも言われる政治献金とか選挙資金パーティをどのように規制するかは、国会で審議されていますが、いまだ解決策は見えていません。賄賂や裏金に無感覚になっている職業政治家の理性や矜持を厳しく問いただすべきです。こうした職業政治家は、カントがいう自分の悟性を用いることに麻痺する未成年状態といえましょう。

(投稿日時 2024年7月27日)  成田 滋
               shigerunarita@gmail.com

大統領選挙戦「離脱声明」の英語

注目

 今回のアメリカ大統領ジョセフ・バイデン(Joseph Biden)の選挙戦からの「離脱声明」は、高校生や大学生の英語の勉強に役立つ記事です。そのことを本稿で取り上げます。

 「離脱」という表現にあたる英語の単語はいろいろとあります。離脱とは、終了や撤退、脱落とか撤収、断念とか辞退という言葉に置き換えることもできます。そしてそれに相応しい、いろいろな英単語や文章が浮かびます。そこで、New York TimesやBBC(British Broadcasting Corporation)の報道で「離脱声明」をどのように表現しているかを振り返ってみます。

 「Biden tells staff leaving race was right thing to do.」 この文章では選挙戦から離脱するという意味で「leaving」を使っています。「leaving」という意味は、病気や高齢のために離脱するという中立的な表現であります。やむを得ず離脱するというニュアンスがあります。次のように「end」を使う報道もあります。「Biden ends failing reelection campaign.」ここでの「end」は、どのような理由にせよ、バイデンは選挙戦を辞めたという中立的な表現です。受験で登場する「put an end」も同じような響きがあります。

バイデン大統領とハリス福大統領

 次ぎに「abandon」も使われています。「Biden abandoned his campaign for a second term under intense pressure from fellow Democrat. 」 文字通り選挙戦から離脱したというという報道です。民主党内からの強い圧力により二期目の再選から撤退したのです。側近や民主党員、そして世論から見放されている、という場合は「President Biden has been abandoned by his aides, Democrats, and the public.」となります。

 「撤退」といえば「withdraw」が状況を表現する適当な単語かもしれません。「Biden withdraws from race in presidential earthquake.」大揺れの大統領選挙運動から撤退、という意味で使われています。撤退という単語は戦争状況でも使われます。「It will be two years on the 30th since US troops withdrew from Afghanistanを.」 アメリカ軍がアフガニスタン(Afghanistan)から撤退してこの30日で2年が経過するという表現ですが、「withdraw」がピッタリします。「Will Russian troops soon withdraw from Ukraine?」ロシア軍は間もなくウクライナから撤退するでしょうか?

 「選挙戦から脱落」という表現は「Biden drops out of presidential race and endorses Harris.」という文書に現れています。大統領選挙運動から脱落し、ハリス(Kamala Harris)副大統領を候補者として応援するというのです。「drop out 」という易しい単語はしばしば使われます。退学するとか、不登校になるという場合も使われ、馴染み深い表現ですが、少々耳目を集める表現でもあります。アメリカのメディアは、読者に判りやすい「drop out 」を使いがちです。しかし、BBCには、こうした直截的な表現は見当たりません。

 BBCのヘッドライン・ニュースでは、次のような文章も見られます。「US President Joe Biden standing down from 2024 presidential race, endorses Kamala Harris.」ここでは、「standing down」という熟語ですが、退任するとか退くという意味で、2024年大統領選から撤退、ハリス氏を支持、となっています。

 もう一つのBBCのヘッドラインは次のように報道しています。
「Biden says he quit presidential race to unite party and country.」 「quit」という動詞は現在形も過去形も同じです。「Biden stepped aside as the Democratic candidate for November’s election and endorsed his Vice President Kamala Harris.」 「step aside」も撤退とか退くという表現です。覚えておきたい熟語です。

 7月21日にバイデン大統領は「Fellow Americans」と題する声明を発表し、その中で次のように述べています。「I believe it is in the best interest of my party and the country for me to stand down and to focus solely on fulfilling my duties as President for the remainder of my term.」 自分は退任し、残りの任期中は大統領としての職務を全うすることに専念することが、私の党と国にとって最善の利益であると信じるという、凛とした表現となっています。

バイデン大統領は7月24日に大統領オフィスから選挙戦撤退の理由を国民に伝えます。そして民主党の大統領候補として副大統領のカマラ・ハリスを次のような表現で推薦します。「She’s experienced. She’s tough. She’s capable」 この文章では、並列(parallelism)という修辞法を使い、短い文章によって視聴者に強く印象づけています。

 文章や表現上での単語の選び方や修辞は大切です。メッセージを読む人や聞く人の心に残る動詞を考えるのが要諦なのです。

政党の離合集散と今日の政治状況

注目

現在、野党と呼ばれる政党が乱立している。これらの党は、積極的な主義で集まったものではなく、反自民党、非自民党とか反立憲民主党、非共産党なものが寄り集まってできた党である。いわば自民党でもない、共産党でもないという消極的な理由から成立するというところに特色がある。もう一つの特色は保守的なインテリの党であることだ。きわめて目先がきき、是々非々を掲げ、先走りする傾向から生まれてくる。

こうした特色と自民党とを対比すれば、自民党は日本の保守勢力の大本山として、どっしりと居座っているのをみるとよくわかる。新しい政党のイデオロギーは動揺し、右にも左にも流れる。この傾向がよい方向に働くと反動性に対峙する政策をだすし、悪い方向に働くとファッシスト的になる。こうしたいわば先物買いとか便乗主義の良い例が憲法改正とか安全保障、エネルギーといった話題である。

新しい野党は日本の保守勢力のなかで時代に敏感な動きをする。その中には保守勢力の最も急進的な傾向の分子もいれば、穏健保守といわれるリベラルな分子もが包摂されている。立憲民主党と国民民主党が合流するとか、しないといったことが話題となっている。両党はもともと、旧民進党の議員を中心に結成された。旧民進党の母体は旧民主党であり、旧民主党は政権を奪取する前は、新党さきがけや、その他、いくつもの細かな政党が一つになってできた政党である。

日本では、過去何度か新党ブームが起こり、党が割れたり、くっついたりを繰り返してきた。1989年、平成になって最初の参議院選挙が行われ、「マドンナ旋風」により、日本社会党が歴史的な勝利を収め、参議院と衆議院で多数党が異なる「ねじれ国会」状態となる。そこから、国会議員による権力を巡っての熾烈な争いが発生し、新党ブームが巻き起こりる。結果的に、自民党と共産党以外すべての政党が連立し、細川護熙が率いる日本新党が政権を握る。しかし、細川内閣・羽田内閣はわずか10ヶ月で下野し、自社さ連立政権に代わる。

政権を失った非自民連立政権は、さらに1994年から「小選挙区比例代表並立制」に対応するために、勢力を結集し、新進党を結成する。しかし、結局は、1997年にいくつもの細かな政党に分裂してしていく。分裂した新進党は、民政党などを経て、民主党の結成につながる。2005年が郵政選挙の年で、この前後は小泉フィーバーで、政権が安定していく。そういう時期は、小さな政党は、生まれず、少し目立った新党としては2005年に郵政民営化に反対する議員によってできた国民新党ぐらいであった。

民主党は2009年に政権を奪取する。その後の3年余りで3人の総理を出し、政権発足当初の「事業仕分け」をやる。当初こそ「日本にも二大政党制が」と期待されたが、2012年の選挙で大敗し下野する。下野した後、民主党は再び党勢を盛り返したいものの、思うように復活できていない。みんなの党からの移籍や、党名の変更、都民ファーストの会、希望の党との連携など、様々な合従連衡がここでも起こる。結果同じような面子が、何度も離合集散を繰り返している。

2015年には日本維新の会が設立され、自公連立政権に対しては、是々非々の立場をとっている。維新の会は、立憲民主党をはじめとするいわゆる野党共闘とは距離を置いている。しかし、維新の会は地域政党の枠を越え、国政でも存在感を見せようとし、公務員制度や二重行政にメスを入れる「身を切る改革」で幅広い支持を得る一方、大阪都構想や万博、IRなどの巨大プロジェクトで混迷を極めている。しかも、政治資金規正法をめぐる与党との慣れないによる内部抗争などが懸念されている。

我が国の政党は長らく一強多弱状態が続いている。それ故に政権に道徳的緊張感がなくなって久しい。裏金問題はその典型である。昨今「立・共」、「維・国」という主要野党の色分けが定着しそうだが、「見果てぬ夢」がいまの野党再編論や二大政党論ではないか。健全な野党がいないと政治というのは正常に機能しないと思われる。今回の都知事選挙では、旧来の喧しい選挙運動に新しいうねりを起こした。それは、野党の共闘とか一本化といた戦術は通用しないということである。それは現在の野党が依然として一部の支持者に依存することへのアンチテーゼだと思われる。20代、30代の年代の投票率が上がったのは、これまで政治に不信を抱いたり、無関心だった若者が投票に参加したからである。

ただし、インターネットやSNSの隆盛で、常に他者の動向に細心の注意を払わずにはいられなくなっている者も大勢いる。本当に自主的に判断し投票したかは問われなければならない。自らに課せられた責任を自覚し、その中で存分に能力を発揮しようとするならば、若い無党派層による「ネオ市民党」とか「新市民党」といった新しい政党の誕生が期待できるかもしれない。この党は、既成政党とは大いに異なるものになることにも期待したい。

(投稿日時 2024年7月22日)    成田 滋

アメリカ共和党全国大会がミルウォーキーで

注目

現在、米共和党の全国大会がウィスコンシン州の最大都市であるミルウォーキーで開かれています。東部ペンシルベニア州で演説中に狙撃され負傷したD.トランプは予定通り大会に出席して、その存在意義を高めています。注目されていたのは、トランプが誰を副大統領候補として指名するかでした。そして7月15日の党大会初日に、オハイオ州選出の上院議員である39歳のJ.D.バンスを指名しました。

オハイオ州は、製造業などの衰退で「さびついた工業地帯(rust belt)」と呼ばれる地域で白人労働者層が多く、共和党も民主党も大統領選挙戦では、「オハイオは接戦州」として重要視しています。過去の大統領選挙でも両党とも中西部の「労働者と農家」に重点を置く選挙戦を展開してきました。オハイオ州は、産業分布や人種構成が全米平均に近く「アメリカの縮図」として知られ、歴史的には7人の大統領を産んだ州です。

共和党全国大会

オハイオ州は両党の支持率がきっ抗し、選挙の度に勝利者が変動(swing)するので、「スイングステート(Swing State)とも呼ばれています。トランプが2016年に、得票率の差わずか1ポイント未満で勝利した州です。1964年以降は、「オハイオ州で勝利した者が”必ず”大統領になる」というジンクスが出来上がったのです。トランプがオハイオ州選出の上院議員J.D.バンスを指名したのは、合点がいきます。

全国大会が開かれているウィスコンシン州は共和党の発祥の地といわれます。1854年3月に、同州リポンという小さな街のリトルホワイトスクールで、約30人が参加する最初のアメリカ共和党郡大会が開催されたのです。南北戦争の時代のウィスコンシン州は共和党を支持する州でした。ウィスコンシン州は「酪農の地」と呼ばれ、白人農家や酪農家が多く共和党の地盤でした。20世紀前半は上院院議員であったR.ラフォレットらが共和党を支配していましたが、後には民主党となる進歩党を復活させます。爾来、ウィスコンシンは共和党と民主党がしのぎを削る州の一つとなっています。

ラフォレットの貢献は、開かれた政府、最低保障賃金、党派に拠らない選挙、開かれた予備選挙のしくみ、上院議員の直接選挙、女性参政権および進歩的税制度などをウィスコンシンで広め、その思想は「Wisconsin Ideas」と呼ばれ、ウィスコンシン大学の発展にも影響を及ぼします。そして、1950年代には州選出のJ.マッカーシー上院議員による悪名高き「マッカーシズム」(McCarthyism)と呼ばれた反共産主義運動が起こります。

近年の大統領選挙におけるウィスコンシン州は接戦が続いています。2008年の場合はB.オバマが56%の支持を得て勝利しました。2012年もオバマが52%を獲得し、勝利を収めます。2016年には一転して、トランプ、H.クリントンともにウィスコンシンで勝利することが大統領選の勝利を意味するほどの接戦となります。選挙前の世論調査では一貫して民主党有利という下馬評でしたが、得票数で上回るも獲得選挙人数で敗北しトランプが大統領となります。しかし、2020年の大統領選挙では、バイデンが49.57%、トランプが48.95%という得票率で両者の差は1%前後の大接戦となりました。

ウィスコンシン州もオハイオ州も大統領選挙ではいつも全米の耳目を集める州です。その理由は以上のような地政学的、及び歴史的な経緯によって、政治に高い関心を持つ州だからです。

(投稿日時 2024年7月16日)  成田 滋

ルール・オブ・ローと政治資金規正法

注目

「法の支配」と訳されるルール・オブ・ロー(Rule of Law)は、全ての権力に対する法の優越を認め、基本的に権力に対する歯止めという考え方です。市民の権利や自由を保障することを目的とする立憲主義のことです。それは、今回の政治資金規正法の根本原理である国民の不断の監視と批判のもとに置かれるということに示されています。これまでの改正論議は、政府自民党のパーティ券の裏金づくりという行為に法という衣をまとわせることが、あたかも民主主義的な法治主義であるかのような印象を国民に与えたのではないでしょうか。

裏金づくりに関わった議員は、追求されると表向きは法に従っているとか、法に則っていると釈明しています。今度の政治資金規正法は、既成の事実を作り、法をそれに合わせて解釈しさえすればよいという意図がいろいろな箇所にみられます。例えば10年後に明細書や領収書を開示するとか、収支報告書の「確認書」の作成を議員に義務づけるとか、政策活動費の幹事長の行う支出との領収書、使途公開は項目にとどめるとか、政治資金の透明性を外部監査で明らかにする、などと説明し、誰が、いつ、どの様に実施するかなど、具体的な内容は政府与党の裁量や解釈にまかされるのです。

その他、「政策活動費」の支出をチェックする第三者機関の制度設計などは検討事項となっています。制度設計などと謳って、実効性のある仕組みを先延ばしするような意図が現れています。こうした抜け穴を野党は追及したのですが、この法律は所詮多数に無勢で成立してしまいました。唾棄したくなるような結末です。

法を実体に合わせて解釈することができるように与党が画策したのが、今回の政治資金規正法です。権力というのは、表向きには法に従って統治していると姑息に主張します。裏金作りの問題が一時的に世論は沸き立ったのですが、政治資金規正法の成立によって、国民は、「まあしょうがない」 ということで事態が終息していくような空気が漂うのを感じます。

民主主義とは、権力の掌握者を統制するための、これまで考えられてきた唯一の機構です。選挙民が権力の側の政治資金規正法の発議に現れた美辞麗句に反発する能力を失ったときに、民主主義は崩壊する危機があると考えます。
  
                    成田 滋
  (投稿日時 2024年7月14日) 

東京都知事選挙を考える

注目

 インターネットやSNSの隆盛で、歩きながらも自転車に乗りながらも絶えずスマホを見つめる多くの現代人がいます。そうした人々の選挙行動が今回の東京都知事選挙で大きな話題となりました。SNSを駆使しすっとんきょうな政見放送で多くの若年層から支援を受けた候補者、学歴詐称の疑いがあり公務と称して選挙運動をした候補者、離党しておきながら既成政党の固定した支持者をあてにした候補者、さらには56名の候補者の掲示板ポスターの乱雑さ、候補者の名前を記入し間違えると無効になる、という誤った報道、本来ならば選挙公約や争点が一体なになのかを吟味して投票すべきという常識が通じないような、まさに意外性に富むかまびすしい選挙でありました。

 投票率が前回の都知事選挙に比べ5.6%上がり60.6%になったとか。都民が選挙に関心を持っていたことが現れたようです。その理由はなぜかということですが、一過的な現象だったのかどうかです。今回、若年層が投票行動を示したのを評価する声もあります。政治に関心がないと、有権者の声は政治に届きにくくなります。職業政治家は投票に来てくれる世代、政治に関心がある世代を優先した政治を行う傾向があります。今回の都知事選挙によって、若者たちに目を向けた政策を考えるようになるはずです。

ポスター掲示板


 
 政治の大きな不祥事が生じても誰も責任をとらず、それどころか不都合な事実については職業政治家が口を閉ざし、事実が隠蔽されてしまっています。日本で今、起こっている出来事をみていると、Adoの楽曲「うっせぇわ」は人々の気持ちや不満を表現しているようです。この歌から怒りの感情や嫌悪感が伝わります。「人でなく、政策で選べ」といった文句が「うっせぇわ」でかき消されたのが今回の都知事選挙でした。
(投稿日時 2024年7月11日)  成田 滋

ハンナ・アーレントと全体主義の理解

注目

はにめに

『Hannah Arendt』という映画を観たことがありますか?この映画は、1951年に出版された「全体主義の起原」(The Origin of Totalitarianism)という著作を基にした作品です。この名著を執筆したのは、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)で、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人の政治哲学者です。ナチスの全体主義(totalitarianism)はいかにして起こり、なぜ誰にも止められなかったのか、アーレントはそれを、歴史的考察により究明しようとしました。この本は、歴史をさかのぼって探求する内容で、中々理解するのが難しい作品です。

アーレントが大学を卒業して間もない頃にドイツに台頭したヒトラーを党首とするナチス党(Nazi)は、ドイツが疲弊した原因がユダヤ人にあるとし、ユダヤ人が資本主義を牛耳り、経済領域で不公平な競争を行っていると主張するのです。そしてユダヤ人を絶滅させる「最終解決」(final solution) を掲げ反ユダヤ主義政策(antisemitism)をとります。ユダヤ人はユダヤ教で結びついており、階級社会からも独立していました。こうした状況から、ヒトラー政権下ではユダヤ人は目の敵にされてしまいます。

Hanna Arendt

全体主義とは

全体主義とは何かという定義ですが、平凡社の世界大百科事典によりますと、〈個〉に対する〈全体〉の優位を徹底的に追求しようとする思想・運動とあります。その用例として、イタリアのファシズム(Fascism)、ドイツのナチズム(Nazism)、ソビエトのスターリン(Joseph Stalin)体制、中国の一党独裁体制の基本的な特質を表現する概念とされています。アーレントによれば、全体主義とは、単なる主義でも思想でもなく,それに基づく運動/体制/社会現象を含むといわれています。全体主義はその内容は問われなく、どんなものでも任意に選ばれるというのです。

様々な「社会的な俗情」例えば、嫉妬,貪欲,恐怖心等に基づいて選定されます。その後,その俗情を隠蔽するために、ご都合主義的な理屈が無意識的にねつ造されたり,ご都合主義的なイデオロギーとなります。やがて理論が無意識的に選ばれ,テロをちらつかせ、プロパガンダに利用されていきます。当然ながら論理的,倫理的な一貫性が不在となり、必然的に人々は思考停止になり、体制側は様々な工夫を重ねながら,より効率的に全体主義を敷衍していくというのです。

アーレントは、全体主義は、専制や独裁制の変形でもなければ、野蛮への回帰でもないと主張します。20世紀に初めて姿を現した全く新しい政治体制だというのです。その形成は、国民国家の成立と没落、崩壊の歴史と軌を一にしています。国民国家成立時に、同質性や求心性を高めるために働く異分子排除のメカニズムである「反ユダヤ主義」と、絶えざる膨張を続ける帝国主義の下で生み出される「人種主義」(racism)の二つの潮流が、19世紀後半のヨーロッパで大きく広がっていきます。

Movie,Hanna Arendt

反ユダヤ主義とは

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する憎悪や敵意、偏見や迫害のことで、ユダヤ人を差別し排斥しようとする思想といわれます。人種主義とは、人種間に根本的な優劣の差異があり、優等人種が劣等人種を支配するのは当たり前であるという思想です。その起源としては、近代以降、人種が不平等なのは自明であり、社会構造の問題は人種によって決定づけられるとしたことです。フランスにおける貴族という特権階級を正当化する目的が、最初期の人種主義とされます。

国民国家の誕生と帝国主義

歴史のおさらいですが、絶対王政が崩壊しフランス革命が起き、アメリカ独立革命という「市民革命」が起ききます。こうして国家主権は国民が持つという意識が生まれたのです。また、国民は、言語・文化・人種・宗教などを共有する一体のものと意識され、国民としての一体感が形成されます。そして国民が憲法などによって主権者であると規定され国民主権が確立したのが「国民国家」(nation state)なのです。単一民族で成り立っている国民国家はほとんど無く、アメリカのように多くは民族的特質の多様な人びとが国民国家を形成しているので「多民族国民国家」とも呼ばれます。

アーレントによると、19世紀のヨーロッパは文化的な連帯によって結びついた国民国家となっていきます。国民国家とは、国民主義と民族主義の原理のもとに形成された国家です。国民主義では、国民が互いに等しい権利をもち、民主的に国家を形成することを目指しました。また民族主義は、同じ言語や文化をもつ人々が、自らの政治的な自由を求めて、国境による分断を乗り越え一つにまとまることを目指す考え方です。

同時に19世紀末のヨーロッパでは原材料と市場を求めて植民地を争奪する「帝国主義」が広がります。さらに、自分たちとは全く異なる現地人を未開の野蛮人とみなし差別する新たな人種主義が生まれます。他方、植民地争奪戦に乗り遅れたドイツやロシアは、自民族の究極的な優位性を唱える「汎民族運動」(pan-ethnic movement)を展開します。 汎民族運動とは、民族的な優越と膨脹を主張するイデオロギーのことです。中欧・東欧の民族的少数者たちの支配を正当化する「民族的ナショナリズム」を生み出します。そして国民国家を解体へと向かわせ、やがて全体主義にも継承されていくのです。

やがて20世紀初頭、国民国家が衰退してゆく中、大衆らを民族的ナショナリズムの潮流を母胎にし、反ユダヤ主義的のような擬似宗教的な「世界観」を掲げることで大衆を動員していくのが「全体主義」であるとアーレントは分析します。全体主義は、成熟し文明化した西欧社会を外から脅かす「野蛮」などではなく、もともと西欧近代が潜在的に抱えていた矛盾が現れてきただけだというのです。

アイヒマン裁判と悪の陳腐さ

何百万人単位のユダヤ人を計画的・組織的に虐殺したことがどうして可能だったのか?アーレントはその問いに答えを出すために、雑誌「ニューヨーカー」(New Yorker) の特派員としてイスラエル(Israel)に赴き「アイヒマン裁判」を傍聴します。アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)はユダヤ人移送局長官として、収容所へのユダヤ人移送計画の責任者といわれました。アーレントは、実際のアイヒマンは、組織の論理に従い与えられた命令を淡々とこなす陳腐な小役人だったのを目の当たりにし驚愕します。自分の行為を他者の視点から見る想像力に欠けた凡庸な人間だったというのです。「悪の権化」のような存在と目された彼の姿に接し、「誰もがアイヒマンになりうる」という可能性をアーレントに思い起こさせるのです。

Adolf Eichmann

映画の中で、学生たちを前にして、毅然とした反論を行うアーレントが見られます。誰もが悪をなしうるというのです。「悪」をみつめるとき、「それは自分には一切関係のないことだ」、「悪をなしている人間はそもそもが極悪非道な人間だ。糾弾してやろう」と思い込み、一方的につるし上げることで、実は、安心しようとしているのではないか? アーレントはさらに言います。『ナチは私たち自身のように人間である』ということだ。つまり悪夢は、人間が何をなすことができるかということを、彼らが疑いなく証明したということである。言いかえれば、悪の問題はヨーロッパの戦後の知的生活の根本問題となるだろう…

こうしてアーレントは「エルサレムのアイヒマン–悪の陳腐さについての報告」(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)というニューヨーカー誌への寄稿のなかで「誰もがアイヒマンになりうる」という恐ろしい事実を指摘します。「Banality」とは、考え・話題・言葉などが退屈で陳腐なこと、という意味です。彼女は言います。『彼は愚かではなかった。完全に平凡で全く思想がない――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした要因だったのだ。』

アーレントへの批判

ニューヨーカー誌でこの報告が発表されると、アーレントは痛烈に批判されます。つまり『エルサレムのアイヒマン』は、ユダヤ人やイスラエルのシオニスト(Zionist)たちから「自分がユダヤ人であることを嫌うユダヤ人がアイヒマン寄りの本を出した」というのです。このような非難に、アーレントは、裏切り者扱いするユダヤ人やシオニストたちに対して、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人であることに自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論するのです。

アーレントは、「全体主義」とは、外側にある脅威ではなく、どこにでもいる平凡な大衆たちが全体主義を支えてきたということです。私たちは、複雑極まりない世界にレッテル貼りをして、敵と味方に明確に分割し、自分自身を高揚させるようなわかりやすい「世界観」に、たやすくとりこまれてしまいがちです。そして、アイヒマンのように、何の罪の意識をもつこともなく恐るべき犯罪に手をそめていく可能性を誰もがもって全体主義の芽は、人間一人ひとりの内側に潜んでいるのがアーレントの主張です。全体主義は、人間関係を成り立たせる共通世界、共通感覚を破壊して、人々からまとま判断力を奪う、人々はイデオロギーによる論理の専制に支配されるというのです。

おわりに

アーレントの研究は、現代社会を省察する上で次のような示唆を与えています。経済格差が拡大し、雇用・年金・医療・福祉・教育などの基本インフラが不安視される現代社会は、「擬似宗教的な世界観」が浸透しやすい状況にあり、たやすく「全体主義」にとりこまれていく可能性があるというのです。擬似宗教的な世界観とは、前述したように反ユダヤ主義のような人種差別思想です。世の中が不安になると、人々は物事を他人任せにし、全体主義が登場する要因になるのです。アーレントは、「大衆が独裁者に任せきることは、大衆自らが悪を犯していることである」と唱えました。こうした過ちを再び犯さないためにも、私たちは政治に関心をもち、積極的に参加していくことが必要だとアーレントは示唆するのです。

参考書
 『全体主義の起原』 みすず書、1972年
 『人間の条件』 中央公論社、1973年
 『精読 アレント全体主義の起源』 講談社、2023年

投稿日時 2024年7月7日        成田 滋

ロバート・オッペンハイマーの遺産 その3原爆投下の理由】 

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1958年にオッペンハイマーは各地を訪れて講演や講義をします。パリ(Paris)、ブリュッセル(Brussel)、アテネ(Athene)、テル・アビブ(Tel Aviv)です。そして1990年の9月にオッペンハイマーは来日します。後に彼は次のように述懐しています。「原爆の開発には大義があったと信じている。しかし、科学者として自然について研究することから逸脱して、人類の歴史の流れを変えてしまった。私にはそれに対する答えがない」物理学者として、また一人の人間としての矜持を示す言葉といわれています。

Julius Robert Oppenheimer


ケンブリッジ大学(University of Cambridge)のキャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)の指導教官で、後にノーベル賞を受賞するパトリック・ブラケット(Patrick Blackett)は「原子力の軍事的、政治的影響」という本を書きます。その中で日本での原爆使用決定に対して批判します。「1945年8月までに、日本は実質的に敗北していた。実は原子爆弾は、戦後の日本占領におけるソビエトの取り分の要求に、軍事的に対処するために投下されたのだ。当時完成されたばかりの2個の原爆を、あれだけ大慌てに太平洋の向こうに運び、広島と長崎に投下したのは、日本が米軍だけに降伏したのだという主張に間に合わせるためだったと想像するほかない。それも間一髪のところで間に合った。原爆の投下は第二次世界大戦最後の軍事行動ではなく、現在進行している外交冷戦の最初の大型行動であった。」

米ソの間の軍事的な対立と原子力外交によって、人々に緊張度の高い心理的な葛藤を生み出していきます。特に原子科学者の心には、その緊張は激しかったといわれます。素晴らしい科学的な成果が戦争において政争の道具として使われたことについて、彼らは当然ながら深い責任を感じたようです。後に行った講義でオッペンハイマーは「アメリカは核兵器をすでに敗北していた敵に対して使った」と述懐しています。このコメントは、ブラケットの主張と合致するものでした。

第二次大戦後の米ソの対立が核開発と軍拡競争という背景のなかで、多くの科学者がその時の政治や政府、そしてイスタブリッシュメント(Establishment)という中核的な社会勢力に翻弄された歴史があります。政治の世界に権力闘争があり、科学者や文化人といわれる人々の中には、多くのユダヤ系の人々が人種差別に苦しみます。共産主義の吹き荒れる戦前の社会でこうしたユダヤ系の人々は、赤狩りという魔女狩りに苦悩します。共産主義という踏絵を踏むように迫られていたのです。アインシュタインやオッペンハイマー、その後水爆の父と呼ばれたエドワード・テラー(Edward Teller)もそうです。この「Oppenheimer」というこの著作はそのことを詳細に言及しているのが興味深いところです。

オッペンハイマーは1966年に高等研究所(Institute for Advanced Study)を退職し、 オッペンハイマーのキャリアを事実上終わらせた訴訟から60年後の2014年、合衆国エネルギー省 (U.S. Department of Energy)は公聴会の機密解除された完全な記録を公開します。既に公開されていた資料の他に、新たに公開された資料は、オッペンハイマーがアメリカへの忠誠心の持ち主であるという立場を擁護します。そして優秀な科学者が職業上の嫉妬とマッカーシズム(McCarthyism)という反共産主義に基づく政治的運動によって名誉が失墜されたと主張します。

Joseph McCarthy

2022年、エネルギー省はオッペンハイマーの機密保持許可の取り消しを正式に無効にするのです。そのときのエネルギー長官であったジェニファー・グランホルム(Jennifer Granholm)は、「欠陥のある調査によって偏見と不公平な結論が彼の公職からの追放につながった」と声明するのです。こうしてようやくオッペンハイマーは、名誉を回復するのです。
(投稿日時 2024年7月5日)
               成田 滋

ロバート・オッペンハイマーの遺産 その2国際原子力機関の提唱】 

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オッペンハイマーは、彼が力を尽くして研究してきた核がもたらす脅威を封じ込めることによって、その爆弾文化から人々を遠ざけようと果敢に努力します。その最も印象的な努力は、原子エネルギーの国際管理計画でした。それはアチソン・リリエンソール(Acheson-Lilienthal)報告者として知られています。その骨子は「国際原子力機関をつくり,それが各国の原子力施設を所有し,運営する」という革新的構想などが明らかにされていました。実はその報告者はオッペンハイマーが考えたもので、大部分彼が原稿を書いたのです。

1945年10月にオッペンハイマーはロスアラモスの職を正式に辞します。そのときの告別の辞で次のように述べます。
「何年か先に、この研究所の仕事に関わったすべての人が、達成した仕事を誇りを持って振り返ることができる日を望んでいます。ですが今日のところ、その誇りは深い懸念によって加減しなければなりません。原子爆弾が交戦中の国々の、あるいは戦争に備えている国の新しい兵器として加えられることになれば、ロスアラモスと広島の名前を人類が呪う日が必ずやってきます。」

Einstein and Oppenheimer

さらに1945年11月2日にロスアラモス劇場で「われわれを取り囲む苦境」と題してオッペンハイマーは演説します。
「わたしたちは、実際的な政治についてはあまり知りません。ですが科学者である以上、世界がどのように動いているかを知ることは良いことであり、また人類全体に可能な限り大きな力を与え、その力の光と価値によって世界を管理することは良いことであると信じています。核兵器の開発が理性的な解決に結びつくチャンスのあるところ、災難を引き起こすチャンスの少ないところは、世界の中でアメリカしかないでしょう。科学者は重大な危機に対する責任を逃れることができません。この責任を逃れるために科学者は努力するのです。科学者には分別があります。非常に深刻な危機であると受け入れること、われわれが製造を始めた原爆が非常に恐ろしいものであると認めることです。」「原爆は、直ちにアメリカを理不尽な攻撃に曝されやすくする無差別な恐怖の武器であり、核時代の夜明けにわれわれに警告しています。」
しかし、オッペンハイマーの警告は無視され、最終的に彼は沈黙させられます。

オッペンハイマーは語学能力にも秀でた理論物理学者だったといわれます。ドイツ語、英語、フランス語、ベルギー語、ギリシャ語、ヘブライ語などです。さらに東洋の哲学、特に神秘主義の中に心の慰めを発見していきます。サンスクリット語(Sanskrit) の叙事詩の一つ「マハーバーラタ」(Mahabharata)を読めるようになります。彼は、この叙事詩から煩悩からの解脱を求めていたといわれます。科学者として物質世界とかかわりながら、そこから解脱したいと考えていたのです。純粋に精神的な領域に逃げようとしていたわけでも、宗教を求めていたのでもなく、求めていたのは心の平和であったといわれます。

Atomic Bomb

オッペンハイマーは核軍備拡大競争の危険性について懸念していました。「わたしは二つの事が重要であると気づいています。まず爆弾を国際的な管理下におかなければならないことです。なぜなら、一国の管理に任せば、どうしても競争意識がでます。次ぎにこの産業の時代が続けば、必ず核エネルギーに依存するようになると確信できます。」オッペンハイマーはこうして、原爆と原子力の平和利用の両面を管理できる、本当の力を持った国際的原子力機関を提唱するのです。さらにエネルギー工場で核兵器を造っていることがわかった場合、核拡散を進める可能性ありとして、工場の懲罰的な閉鎖というある種の罰則を科すことが大事であるとも主張するのです。

オッペンハイマーは、原子力の全局面を独占して、その利益を個々の国に恩恵として割り当てる国際機関を提唱します。このような機関はテクノロジーを管理すると同時に、これを厳格に民生用として開発することにすると提案します。しかし、長い目でみれば、世界政府なしでは、永久の平和はあり得ないと考えるのです。平和がなければ原子力戦が起こるであろうとも予言します。ただ、世界政府は今すぐ見込まれるものでないのは明らかなので、原子力の分野においてはすべての国が「部分的主権の放棄」に同意すべきというのが彼の考えでした。

Robert Oppenheimer

オッペンハイマーが危惧していのは、大きな戦争ばかりではありませんでした。彼は核のテロリズムも心配していました。「爆弾の国際管理は、わが国が戦争前に享受していた安全保障に匹敵するものを持つことができるただ一つの方法である」「今後百年間に生まれる可能性のある悪い政府、新しい発見、無責任な政府の下で、これらの兵器が予行的に使われる恐れに対して、絶え間なく心配せずに生きるためには、これしか方法がありません。」

オッペンハイマーとアインシュタインは、物理学者としては対立したといわれますが、ヒューマニストとしては同志でありました。軍との契約に依存する兵器研究所や大学での科学者としての仕事が、冷戦下の国家安全保障のネットワークによって大口取引されていました。このような歴史おいてオッペンハイマーは別の道を選んだのです。科学のこうした軍用化が始まっている現在、オッペンハイマーはロスアラモスに背を向けます。そうした自分の影響力を軍拡競争に歯止めをかけようとした生き方にアインシュタインは敬意を表するのです。
(投稿日時 2024年7月3日)       成田 滋

ロバート・オッペンハイマーの遺産 その1ロスアラモス国立研究所】 

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世界的に著名な理論物理学者のロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)の生涯に関する著作があります。カイ・バード(Kai Bird)とマーティン・シャーウイン(Martin Sherwin)が2005年に書いた「Oppenheimer」です。この上下本を図書館で借り読みました。この本を基にした映画も観ました。映画の冒頭から、彼が1953年12月21日、彼は自分に不利な軍事安全保障報告書(military security report)を知らされ、過去に共産主義者と関係があったこと、ソ連工作員の氏名提出を遅らせたこと、水爆製造に反対したことなどで告発される場面が映し出されます。後に「原爆の父」という名誉なのか不名誉なのかの呼び名をつけれるのですが、原爆の威力を知っていたオッペンハイマーは、水爆の開発などに反対し、政府の方針と対立し、やがて裁かれるという立場に置かれるのです。アメリカでは、「対日戦争を早期に終結し、アメリカ兵の損失を無くすために原爆投下は必要であった」という世論が広まっていました。ですがオッペンハイマーは、「原爆投下をしなくても日本は既に戦争に負けていた」と述べるのです。

Robert Oppenheimer


オッペンハイマーはかつて共産党員らの交流が問題視されていました。それにも関わらず、ニューメキシコに作られたロスアラモス国立研究所長(Los Alamos National Laboratory)に任命され、原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員したマンハッタン計画(Manhattan Project)に邁進します。米ソの冷戦が激化し、核軍拡競争に入ります。やがてオッペンハイマーは、科学者の枠を超えて政治の領域に入っていきます。国連において核を国際管理し、核軍拡競争に至らせず廃絶することを構想し、政治を動かそうとするのです。しかし、当時のアイゼンハワー大統領(Dwight Eisenhower)によってオッペンハイマーは排除されます。おまけに、機密情報を得られる「保安許可」を奪われ公職を追放さます。「保安許可」とは、現在日本でも論議されている「Security Clearance」のことです。アイゼンハワーは、恐怖による核抑止論に基いて、戦略核兵器の配備を進め、その使用をもちらつかせる「瀬戸際政策」を採用したことで知られた大統領です。オッペンハイマーの核管理や廃絶とは真逆の政策でした。

Los Alamos National Laboratory


イギリスで働いていたドイツの亡命物理学者、オットー・フィリッシュ(Otto Frisch) ルドルフ・パイエルス(Rudolf Peierls)が、ナチスドイツは実用可能な原子爆弾を、今回の戦争に間に合うようにできると考えていました。こうした情報によって、アメリカ、イギリス、カナダの原子爆弾プロジェクトであるチューブ・アロイズ(Tube Alloys)、やがてそれを引き継いだマンハッタン計画に関わる物理学者が核開発競争に勝つことが大事だと一致するのです。

反共主義の潮流がアメリカで勢いを増していきます。赤狩りに奔走する議会調査委員会に喚問され、FBIは彼の自宅やオフィスの電話に盗聴器を仕掛け、政治的な過去に関する抽象的な話や政府方針が新聞に流れると、オッペンハイマーはますます追い詰められた気持になります。戦後は空軍の核兵器による大量戦略爆撃計画に反対したことが、FBIのフーバー長官(Edgar Hoover)や米原子力委員会(US Atomic Energy Commission)委員長のルイス・ストローズ(Lewis L. Straus)を始めとする多くの政府実力者の怒りをかいます。

その後、安全保障公聴会は彼が反逆罪では無罪であると宣言しますが、軍事機密にアクセスすべきではないとの裁定を下します。その結果、原子力委員会の顧問としての契約は打ち切られます。 アメリカ科学者連盟(Federation of American Scientists)は直ちに判決に対して抗議し、彼の弁護に乗り出しますた。 オッペンハイマーは、科学的発見から生じる道徳的問題を解決しようとする一方で、魔女狩り(witch hunt)の犠牲者とか殉教者といった科学者の世界的な象徴となります。 彼は人生の最後の数年間を科学と社会の関係についてのアイデアを練ることに費やします。

1963年にリンドン・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)大統領は、はオッペンハイマーに原子力委員会のエンリコ・フェルミ賞(Enrico Fermi Award)を授与します。この賞はエネルギーの開発や活用、または生産に関する業績を讃えるもので、賞金は375,000ドルです。フェルミはマンハッタン計画に参画し、世界初の原子炉の運転に成功し、「核時代の建設者」と呼ばれたイタリア生まれの物理学者です。
                                              成田 滋

ダグ・ハマーショルドの「道しるべ」

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1961年9月、私は北海道大学一年のときに国連事務総長のダグ・ハマーショルド(Dag Hammarskjold)が飛行機事故で亡くなったのを知りました。アフリカへの紛争調停に赴く途中だったようです。このニュースを今も鮮明に記憶しています。イスラエルとアラブ諸国との停戦合意、国連緊急軍(UNEF)の創設、スエズ動乱の平和的解決の支援など、その高い外交手腕が評価された事務総長です。中立を掲げていたスウェーデン出身の外交官ならではの功績ではなかったでしょうか。国内では、政治家として社会民主党内閣で財政や経済問題と取り組んだといわれます。ですが政治的な独立性を主張し、どの政党にも属さなかったというのは興味深いことです。特定の主義や思想に偏るのを避けたのでしょう。

Dag Hammerskjold

今、ハマーショルドが書いた「道しるべ」という思索の翻訳を読んでいます。英語の題名は「Markings」で訳者は、元国際基督教大学総長であった鵜飼信成です。興味あることですが、著者は事務総長として取り組んだ外交上の諸問題や紛争の解決などについては一切触れていません。あくまで自己の内省を記録しています。この著作の冒頭で「これは私の、私自身との、そして神との交渉についての白書(white book)である」とあります。政治と宗教と社会の関係の中から、政治を省いているのです。政治というのはどうしてもドグマや教義、支配や強制ということが関わってきます。著者は、自己の分析や内省においては、政治の話題は雑音になるとでも主張しているかのようです。

ハマーショルドが直面したアフリカや中東の状況は、極めて重大な局面にあったと思われます。第二次大戦後の世界で最も注目すべき現象の一つは、新興独立国の成立です。こうした国々成立の歴史的な要因はいろいろな見方があるようです。その最たるものは、人々が個人の自由と独立を要求するのと同様に、国家や民族にとってもその自由と独立の要請が高まったということです。歴史的にみますと、その最も先駆的な役割を果たしたのは、アメリカの自由と独立だと考えられます。イギリスの植民地であった大西洋沿岸の13州が、本国の圧政に耐えかねて立ち上がる新興独立国家の原初的な形態を示したと思われます。

United Nation, New York

アフリカにおける諸国の独立運動は、宗主国であったイギリスやフランス、ベルギー、ポルトガルなどの列強とアフリカ各地の新興国との対立でありました。ハマーショルドは、事務局長として戦後のアフリカ大陸における自由と独立運動とそれに付随した紛争の調停に邁進します。1960年は、アフリカの17か国が一斉に独立を達成し、この年は「アフリカの年」と呼ばれます。1960年10月に国際連合総会において、ガーナのエンクルマ大統領が演説し、アフリカの独立への支援と、南アフリカにおけるアパルトヘイトの不当を訴え、大きな反響を呼びます。同年12月の総会で「植民地独立付与宣言」を反対票なしで可決するのです。そこではすべての植民地支配は人権の侵害であり、すべての人々は自己決定権を有すると宣言したのです。

しかしながら、植民地時代にヨーロッパの列強によって人為的に引かれた境界線がほぼそのまま残され、独立後の国境紛争や部族紛争が絶え間なく起こるのです。形式的には独立を達成したものの独裁政権が権力の座にすわり、経済支援に名を借りた欧米資本主義による間接支配と言う形の新植民地主義が起こります。ハマーショルドは列強と独立国との間の仲介に傾注するのです。やがて、アフリカ諸国は第三世界を形成し、東西冷戦での米ソの対立を牽制する力となります。ハマーショルドは、新植民地主義の台頭には警戒し、アフリカ諸国の民族自決の姿勢を肯定します。それが欧米諸国からは警戒されていたようです。これが、事務総長として「地球上で最も不可能な仕事」と呼ばれる調停で、この仕事に奔走します。ハマーショルドが飛行機事故で亡くなったとき、事故には列強が関与したのではないかという噂もありました。その真意は究明されずに終わります。

「道しるべ」からは、個人的な信仰の証しが伝わってきます。もう一つ興味深いことは、芭蕉の『奥への細道』に傾倒していたようで、彼の内省的な散文には俳句の影響が見られるとの指摘です。あわせてNew York Timesの書評も読みました。「Meditations of a Man of Action」 (瞑想と行動の人)とあります。稀代の思想家であり文学者であり宗教哲学者でもあったようです。
(投稿日時 2024年6月30日)     成田 滋

ルール・オブ・ローと政治資金規正法

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法の支配と訳されるルール・オブ・ロー(Rule of Law)は、全ての権力に対する法の優越を認め、基本的に権力に対する歯止めという考え方です。市民の権利や自由を保障することを目的とする立憲主義のことです。それは、今回の政治資金規正法の根本原理である国民の不断の監視と批判のもとに置かれるということに示されています。これまでの改正論議は、政府自民党のパーティ券の裏金づくりという行為に法という衣をまとわせることが、あたかも民主主義的な法治主義であるかのような印象を国民に与えたのではないでしょうか。

Rule of Law

裏金づくりに関わった議員は、追求されると表向きは法に従っているとか、法に則っていると釈明しています。今度の政治資金規正法は、既成の事実を作り、法をそれに合わせて解釈しさえすればよいという意図がいろいろな箇所にみられます。例えば10年後に明細書や領収書を開示するとか、収支報告書の「確認書」の作成を議員に義務づけるとか、政策活動費の幹事長の行う支出との領収書、使途公開は項目にとどめるとか、政治資金の透明性を外部監査で明らかにする、などと説明し、誰が、いつ、どの様に実施するかなど、具体的な内容は政府与党の裁量や解釈にまかされるのです。

その他、「政策活動費」の支出をチェックする第三者機関の制度設計などは検討事項となっています。制度設計などと謳って、実効性のある仕組みを先延ばしするような意図が現れています。こうした抜け穴を野党は追及したのですが、この法律は所詮多数に無勢で成立してしまいました。

法を実体に合わせて解釈することができるように与党が画策したのが、今回の政治資金規正法です。権力というのは、表向きには法に従って統治していると姑息に主張します。裏金作りの問題が一時的に世論は沸き立ったのですが、政治資金規正法の成立によって、国民は、「まあしょうがない」 ということで事態が終息していくような空気が漂うのを感じます。

民主主義とは、権力の掌握者を統制するための、これまで考えられてきた唯一の機構です。選挙民が権力の側の政治資金規正法の発議に現れた美辞麗句に反発する能力を失ったときに、民主主義は崩壊する危機があると考えます。
   (投稿日時 2024年6月28日) 
                         成田 滋

学歴詐称と不条理と思考停止詐欺と嘘のパタン】 

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梅雨の頃で感じることの一つは、狭い庭の木々にたわわに伸びる葉です。とりわけ柿の木の葉は日毎に広くなり、緑が濃くなっていきます。人は、自然を眺めて「絵のように綺麗だ」といいますが、自然は絵の美しさとは格段の違いがあります。絵は人が作ったもの、自然は被造物の作品なのです。その美しさは喩えようがありません。絵の具で描いた緑や景色は芸術家の世界であり、それはそれで価値のあるものでしょう。他人が作品に勝手に値段をつけて価値あるものにするのが、この世の中です。しかし、自然に価値を付与することはできません。

人によって美の意識は違うのは当然です。そこに善し悪しはありませんし、価値があるなし、ということもありません。人が対象となるものを目の前にしたとき、その人の生い立ちや生活が反映されて、なにかを感じたり感じなかったりするものです。ただ、なにも感じないとか、感動がないというのは寂しい気がします。感性が足りないといって非難するのは避けなければなりません。ただ、そうした無感動でいる人に対しては、気の毒だ、としかいいようがありません。

どうしたら感動の瞬間を捉えることができるでしょうか。それは、世の中の動き、例えば政治や経済のこと、身の回りで騒がれる流行とかファッションといったことに「どこかおかしい」とか「不思議だな」、「どうしてなんだろう」というある種疑いの感覚を持つことではないかと思うのです。卑近な例でいえば、昨今の裏金問題で記憶喪失のような政治家の発言、多様性とやらをうたう議員たちの研修や親睦の在り方、不倫などの不貞行為で議員辞職、選挙と学歴詐称、武力の放棄を宣言したこの国が、今続いている中東での争いに反対することを宣明にしないことなど、理解に苦しむことは枚挙に暇がありません。こうした不可解な現実に対して選挙で鉄槌を下すべきなのですが、依然として社会の仕組みが変わらないのが現実です。これは有権者の「思考の停止」の結果と言わなくてなんでしょうか。

留学体験と語学の関門

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」、「水に流す」、「線香花火で終わる」、「耳にたこができるほど聞かされる」「熱しやすく冷めやすい」といった諺があります。森友加計や公文書改ざん問題、裏金の疑惑は一体どこへ吹っ飛んだのでしょうか。こうした世相にあって、最近、一政治家の学歴詐称について、それに一部加担したことを吐露した人の手記が報道されました。その方はどこかにその罪意識がもたげ、良心の呵責に耐えかねて声を挙げたといわれています。

Campus of Brown University

卒業したと詐称するのは大学の質や権威をおとしめるだけでなく、学問そのものに対する挑戦といわなければなりません。卒業というのは、4年間や6年間の厳しい学びの果実が実り、それが晴れて認められることです。卒業証書によってそれが公にされるのです。とりわけ海外の大学の卒業というのは、国内の大学を卒業する以上に苦労が多いものです。言葉の問題がそこに立ちはだかるからです。専門の勉強はもちろんですが、その前に語学が第一の難関として立ちはだかります。レポートを書いてみても、文法上は正しくても、大学院生に徹底的に直されるのです。高校時代に文法を学び、英訳、和訳は得意だったはずなのですが、現地の人々には通じないことがわかってきました。自分のなかのかなりの自信が揺らいだのが大学生活で文章を書くという行為でした。卒業という目標の前に、こうした科目や単位を取得するうえでの障壁のようなものを感じたものです。

留学というのは一種の恐れが伴うものです。私の個人的な体験では恐れとは単に言語の問題だけでなく、それまでやってきた学問めいたことが、十分に基礎の上に立ったものだろうかという恐れです。それを体験したのが、最初に履修した科目の試験で酷い点数をとったときでした。それ以来、勉強の仕方を変えることにしました。授業が終わると記憶が冷めないうちに、メモをとっていた単語を繋いで文章化し、そこから授業の内容を再現するというやり方です。それ以来、落第点をとることはなくなりました。その間、レポートを修正してくれるセンターにせっせと通い、文法的に正しい文章ではなく「通じる文章」にするコツのようなものを習得していきました。特に英語の表現技法を学んだのが貴重な体験となりました。大分あとになって帰国してから、「英語で教育研究論文をどうかくか」といった少々冷や汗もののような本を出版するまでとなりました。そのポイントは、接続(Transition)、修辞法(Rhetoric)、簡潔な文章ということを強調する小本です。日本の高校や大学では、レポートや小論文を作るときに、表現を洗練し文章に説得力を持たせる技法は教えられません。

学歴詐称と「ディプロマ・ミル」

今、問題になっている東京都知事の経歴詐称や学位記偽造に関してです。外国語というのは、だれにとっても学問研究で大きな障壁のようなものです。特に我が国であまり知られていないアラビア語を国語とするエジプトの公用語は古代アラビア語である「フスハー」(Hussha)の名で知られています。エジプトの歴史や文化に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ないといわれます。日常で使われているのはアラビア語エジプト方言といわれます。知事が4年間で難しいフスハー語の教科書で勉強し、大学の授業を受け、レポートを書き、試験にパスしたと主張するのは無理な話です。

学歴詐称の例

日本の多くの人々が知らない組織に「ディプロマ・ミル」(diploma mill)、または「ディグリー・ミル」( degree mill)があります。大学に就学せずとも金銭と引き換えに高等教育の「学位」を授与する会社・組織・団体・非認定大学のことです。こうした活動は学位商法と呼ばれます。アメリカ英語のスラングで、入学卒業が非常に容易な大学は、皮肉をこめて「ディプロマ・ミル大学」と呼ばれます。アメリカ合衆国のみならず世界中の有名大学では、卒業認定は厳格であるのは当然であり、「ディプロマ・ミル大学」は一笑に伏されます。

実在する大学の学位、すなわち卒業証書を偽造して授与する商法は世界中に広がっています。そして偽造技術も高度化していて本物かどうかを見分けるのは難しくなっています。このように金さえ払えば卒業証書を偽造するのはいとも簡単なことです。今回の学位記やカイロ大学声明文などの存在は、「ディプロマ・ミル」を利用した巧妙な手口の産物と考えられます。このアラビア大使館のフェイスブック(Facebook)に掲載されたという声明文がなぜかアラビア語で書かれず、英語が書かれ、そして日本語に翻訳されるというのは不可解なことです。難しいアラビア語による学業をまともに励んで卒業したとは考えにくいのです。ましてや首席で卒業などと主張するのは全くの茶番劇です。

カイロ大学の卒業証書が偽造で、なお経歴にカイロ大学卒業とかを記すとこれは外交上の問題になりかねません。なぜならカイロ大学は勝手に大学名を使われ、なお卒業したなどと名乗られると困惑するのはもちろん、東京都や日本国政府がエジプト政府やカイロ大学から抗議されかねないのです。カイロ大学の名誉に関わることです。このような偽造は、例えば私が「東京福祉大学」なる大学を正式に卒業していたとして著作や選挙運動で「東京大学」と称したらどうなりますか、東京大学側は、そうした行為に迷惑し、場合によっては抗議するのは当然なのです。

腐敗認識指数とエジプト

都知事は、「事実を明らかにしない、事実の裏付けをしない、黙り込むことに限る」と考え逃げ切ろうとしているようです。ノーコメントで押し通そうしているわけで、今年の都知事選挙で現知事が出馬するとなれば、選挙公報にカイロ大学卒を掲載するのかしないのかが関心の的となります。掲載しないとなると、「やっぱりカイロ大学卒は嘘だった」といわれるでしょうし、学歴を再度掲載するとなれば、「カイロ大学から訴えられ、外交問題に発展しかねない」かもしれません。彼女はエジプト政府に弱みを握られており、エジプト側は、彼女は自分たちの子飼いだとみなし、大事な金ずるとなっていきます。カイロ大学は、日本という先進国の元防衛大臣や環境大臣を歴任し都知事となっている政治家を輩出したと喧伝したいのです。都知事はエジプトの広告塔のような存在なのかも知れません。彼女は出馬についてはどっちみち板挟みになるのは明白です。それを避けるためには、政界から引退するという選択もあるかもしれません。全く唾棄したくなるような最近の選挙や政治、そして記者会見や新聞報道における大手メディアの消極的な姿勢です。

文芸春秋社からの出版による「女帝:Y. K.」などに対して、Y. K.は個人的な中傷だという理由で提訴できるはずなのに、「政治家は抑制的であるべき」などと弁明して提訴しないのは、提訴すると証拠の品を提出させられ、結果として嘘がばれるからだと考えるからです。「荒唐無稽な噓」が通ってしまうでしょう。都知事が、これだけの疑惑をもたれながら非難をかわしている理由はどこにあるのかです。ここにはカイロ大学とエジプト政府の現状を考える必要があります。

エジプトという国は長い間、軍事政権下で独裁体制が続き、今も政情が不安定な状態が続いています。世界各国の腐敗や汚職を監視する国際的な組織にNGO「トランスペアレンシー・インターナショナル(Transparency International)」があります。この組織は、賄賂、公権力の乱用、公的サービス分野での縁故主義、利益相反防止・情報開示などを基にしてクリーン度を公表しています。点数が高いほど汚職が少ないことを示します。2024年1月30日に発表された「2023年度腐敗認識指数によれば、首位はデンマーク、日本は16位、アメリカは24位、そしてエジプトは108位となっています。汚職や不正がはびこるエジプトが108位にあることは納得できそうです。

腐敗認識が低いエジプトでは卒業工作はいとも簡単にできるといわれます。例えば、クーデターにより就任した現大統領アブドルファッターフ・シーシー(Abdel Fattah El-Sisi)が大学学長に対して「誰それの卒業を認めよ」という指示をすると学長は職員に卒業証書を作成させることができるのです。政治家は誰それから賄賂を貰ってこうした工作を大学にさせるのです。そして学長にも賄賂の一部が回ってくるはずです。なぜなら、国立大学のカイロ大学の学長は、大統領が任命するので、証書の作成は日常茶飯事、政治家や軍人の命令で自由自在に行えるのです。そこで問題となるのは、こうした粉飾賄賂を渡したのは誰かということです。都知事がこの賄賂に関わっているのでは、と勘ぐるのはあながち間違いではなさそうです。2015年5月、現大統領のシーシーはカイロを訪問した日本エジプト友好議員連盟会長で元防衛大臣であった都知事と会談し、教育、防衛分野における協力関係を話し合ったといわれます。二人は旧知の仲であることも念頭に置く必要があります。

詐欺と嘘のパタン

エジプトはアラブ諸国、とりわけ石油産出国の盟主です。日本は石油の安定的な確保のために、エジプトなどに政府開発援助(ODA)による無償資金を与えています。東京都もエジプトなどへ視察と称して職員や若者を派遣し交流を深めています。令和4年11月には都知事は都職員10名に及ぶ随行団を連れてカイロ大学などを訪問しています。学歴詐称疑惑を否定する「カイロ大学声明」を出してくれたモハンマド・エルホシュト学長(Mohammad Elkhosht)に対し、都政と全く関係ない「カイロ大学に対する協力(無償援助)拡大」を表明します。席上、「カイロ大学文学部日本語日本文学科の学生など約90名に向けて、わかりやすい日本語で講演会を行った」ということもHPで紹介されています。進級試験に落第したような語学力なので、アラビア語での講演は難しかったのでしょう。エジプト日本技術科学大学と東京都立大学との関係を強化し、都としても支援することを約束するなど、都知事のエジプトへの思い入れは相当なものと伺えます。これもカイロ大学なるものの声明のお礼であり、重大な弱みをつかまれていることを粉装しているとしか考えられません。

果たしてカイロ大学声明なるものが本当にカイロ大学から出たものかです。実は、勝手に架空のカイロ大学の事務局のようなものをでっち上げて、そこから声明が出たかのように見せかけているらしいという噂です。もしそうであれば、当のカイロ大学はどのように受けとめるかです。カイロ大学は、この架空の大学事務局を黙認しておけば、都知事への生殺与奪の権利を持つ立場にあると考えるはずです。都知事の弱みをつかんでいる以上、カイロ大学は、都知事対応を強い立場を維持することができます。もしかしたら、資金援助の要請すらできるのです。

嘘の反応


2024年3月の都庁での記者会見で都知事の記者からの質問に対する答えでは、知事はYES, NOを決して言わないのです。「嘘はつかないが、本当のことは言わない」の姿勢で学歴の詐称の疑いが深まったようです。肝心なことを聞かれると「記憶が鮮明でない」と言い逃れる有様です。記者の調査も不十分なせいか、会見での質問が誠にお粗末でありました。質問に対してYES, NOをいわないのに、なぜか記者たちはそれ以上突っ込んだ質問をしないという体たらくです。新聞紙上でも、記者会見の様子を報道したものは全くありませんでした。なぜかマスコミは沈黙化しています。

嘘のパタンについてはいくつかあるようです。最もみられるのは自分を防御することです。名声や財産などを守るためです。もう一つは自分をひけらかしたり背伸びする行為です。都知事の記者会見では、この二つが明らかにみられます。自分を防御したり、ひけらかすことの嘘は、あくまで自分にはカイロ大学卒の学歴があるという主張です。だから選挙公報などでそれを明らかにする自己正統性の主張です。

次ぎにはぐらかしの嘘の例は「あまり鮮明に覚えていない」という発言です。「あまり」ということは、YES, NOを明確にしない曖昧な態度のことです。これははぐらかす行為の典型で政治家が使うことが多いようです。「カイロ大学の意思で発出されたものだ」というのは権威にすがるような背伸びした行為といえます。自分が関わってはいない、あくまでカイロ大学の行為であるとしてはぐらかすのです。決して自分が頼んで声明を出させたなどとは認めないのです。嘘のパタンがそのまま映し出される公僕の醜い姿です。

                     2024年6月25日  成田 滋

         shigerunarita@gmail.com

権利の上に眠る者時効の考え方

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今般の都知事がカイロ大学を卒業したとする学歴詐称の疑いや、自民党の政治団体が政治資金パーティーの収入を政治資金収支報告書に記載していなかったことに共通する本質的な課題を権利の保護と時効という法理から捉えてみます。

卑近な例として、ある人が借金をして催促されないのを幸いとして、ねこばばを決め込んで得をし、善人者が貸した金を取り戻せないことになる場合があります。なんとも不心情な話に思われます。しかし、催促や督促をしない者は、権利の上に長く眠っている者とみなされ、保護されないことが起こるのです。返済を催促する行為によって債権の時効を中断することが大事だということです。単に自分は債権者であるということに安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、今般の学歴詐称や政治資金収支報告書不記載という問題に関連する重大な意味があると思われます。

日本国憲法の第十二条は次のように規定しています。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」この規定は基本的人権が憲法九十七条の基本的人権の由来と特質という次の規定と対応しています。つまり「日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である。」自由とか権利という基本的人権は、それを不断の努力によって保持することが大事だというのです。このような「権利の上に眠ること」は、怠惰の行為であり、保護されないというのです。然して基本的人権の獲得という歴史的な歩みは、これからも将来に向かって継続すべき責任があるという教訓を残しています。

国民は憲法によって主権者となりました。ですが主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、いつか主権者でなくなっているという事態が起こります。ヒットラーの権力掌握や、我が国の軍部による特権的な地位による統制などの歴史であります。私たちが社会や生活の中で、自由だ、自由だといって自由であることを謳歌している間に、いつのまにかその自由の実質は空疎にならないとも限りません。自由は置物のようにどこかあるのではなく、実社会の現実でその行使によって守られる、いいかえれば日々自由になろうとする行為によって、はじめて自由でありうるということなのです。

その意味では、今日の自由とか権利というものは、世の中の動きに無関心で、毎日の生活さえ安全安心で暮らせたら、物事の判断は他人や職業政治家にあずけておけばよいと思っている人には無縁なもので、しかしそれは極めて危ない状態にあるのです。さきほどの債権者のように権利の上に眠る者と同じなのです。このように学歴詐称や政治資金収支報告書不記載に関わる問題から、以上の「権利の上に眠ること」、「権利を行使すること」と著しく共通する精神を読み取ることができます。

今般の都知事の学歴詐称問題を「権利の上に眠る者」に関連して言及してみましょう。公職選挙法235条は、虚偽事項の公表罪をうたい、当選を得る目的で候補者の身分、職業、経歴などに関して虚偽の事項を公にした者は2年以下の禁固または30万円以下の罰金に処すると規定し、その時効は3年となっています。「カイロ大学卒業」という選挙公報の記載の真偽がなんであれ、なんの異議の申し立てがなかったので時効となりました。いわば債権が消滅したのです。都知事は権利の上に眠る都民の在り方にほくそえんだのです。

次ぎに、裏金と政治資金収支報告書の不記載問題です。この不記載問題は、どうや20年以上の前から続いていたようです。しかし、誰も最近まで不記載を問題視したり、告発する者がいなかったのであります。つまり職業政治家を含めて国民も「権利の上に眠る者」であったために、「5年」という時効によって多額の金銭が一部の政治家の懐に入って闇に葬られてしまったのです。これは不記載を告発しなかったことにより、「政治家は時効によって救われた」のです。

このように、時効の考え方というのは、たとえ正当な権利者であったとしても、一定の期間、その権利を行使・維持するために必要な措置を採らなかった者を保護する必要はないという原則なのです。確かに意図的に不記載をして、その問題点を知っていても、誰も咎める者がいないのならば、罰せられないというのが民法の規定なのです。

時効のもう一つの考え方です。本来は正当な権利者であったとしても、長期間が経過した後にはそれを立証するのが困難になることがために、過去に遡っての議論に一定の限界を設けるのが時効です。つまり、かなり前に不記載問題があったとしても、それを立証するものがないときは、問題視しないという考え方です。立証の困難なことを救済するのです。つまりそうした職業政治家の責任を問わないのです。必要な措置を採らなかった者が損をする、自己責任であるという考えです。

民主主義とは、本来制度の硬直化や自己目的化を不断に警戒し、制度の現実を絶えず監視したり批判することによって始めて作用します。債権は行使することによって債権者となるというロジックは、現代社会におけるものごとの判断の仕方を深く規定しているエートスといえます。

(投稿日時 2024年6月13日)         成田 滋  shigerunarita@gmail.com

憲法改正論議を考える洞窟の比喩

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学者や政治家の間には、憲法改正の是非は結局国民自身が決めるべき問題であるという、それ自体もっともな主張によって、自分の態度表明を明らかにしなことが見られます。実際は自分の立場は決まっているのですが、現在それを表明するのは具合が悪いので、もう少し世論がそちらのほうに動いてくるのを待とう、あるいはもっと積極的に世論をその方へ操作誘導してから後にしようという戦術があるようです。また形勢を観察して大勢の決まる方に就こうとする日和見派もあるようです。

憲法改正問題は次の総選挙において大きな争点の一つとなると思われます。その結果によっては来るべき憲法第九条の改正が、国民投票において最後の審判が下されるべき話題となるはずです。いうまでもなく国民がこの問題に対して公平な裁断を下しうるためには最小限、いくつかの条件が満たされていなければなりません。第一は通信手段や報道のソースが偏らないこと、第二に異なった意見が一部の職業政治家、学者、評論家といった階層の人々の前にだけでなく、あまねく国民の前に公平に紹介されること、第三に以上の条件の成立を阻む、もしくは阻む恐れのある団体の示威行為、破壊活動防止法の発動、公安機関の登場を阻むことです。

真摯な動機から憲法改正を国民の判断に委ねようと主張する人々は、必ず以上のような条件を国内に最大限に実行する道徳的責任を感じなければなりません。憲法の護持や改正を謳う人々が、以上のような条件を無視し、もしくは無関心のままに国民の判断を云々するなら、国民は正しい判断ができるかは疑わしいと思われます。

現在、新聞やテレビ、インターネット上のニュースソースが偏っていたり、必ずしも嘘をついているとはいえないまでも、さまざまな意見が紙面や解説で公平な取り扱いを受けないことが見受けられます。全体主義国の独裁や海洋進出への批判などが多出するなか、アメリカの外交政策の批判やグローバリズムの問題はあまり取り上げないとか問題視しない状態、別な表現でいえば言論のフェアプレイによる討論を阻んでいる諸条件に対して、特段の異議を唱えることなしに、ただ、世論や国民の判断をかつぎだしてくるのは、早計であるといわざるをえません。現在の大手の新聞やマスコミの記事の取り上げ方にフェアプレイの姿勢が欠如していることを重々承知のうえで、逆にそれを利用して目的を達成しようという魂胆を持った政治家がいるのも事実なのです。

そこで注目したい報道がありました。2024年5月3日の東京新聞の社説です。私たち国民は、この10年間、囚人のように洞窟に閉じ込められ、政権が都合よく映し出した影絵を見ているのではないかというのです。これは、ギリシャの哲学者プラトン語る「洞窟の比喩」というエピソードを引用しています。囚人たちがいる洞窟の壁に影絵が映ります。囚人はその影絵こそ真実だと思っています。ある1人が洞窟の外に出ます。そこで見る世界は洞窟の影絵とは似ても似つかないのです。その者が洞窟の奥に戻り、囚人たちに自分が見た世界を語ります。でも洞窟の囚人たちは誰もその話を信じようとはしません。政権が都合良く推し進める風景が影絵なのですが、それを信じこまされているというのです。国民は、ようやく洞窟の外に導かれて数々の忌々しい影絵の実体を知ることになりました。

現在、職業政治家が使う言い回しの一つが「大国間競争や地域紛争で世界秩序が一段と不安定し不確実性が高まっている」ということです。確かに国際秩序は危機に瀕しているといわれます。大きな原因は、アメリカの国際社会への関与が弱まりつつあること、中国等の最大貿易国が強大な経済力に持つようになったことです。中国は海洋進出を続け、国際法違反を繰り返しています。加えて深刻な問題はロシアのウクライナ侵略などは、紛れもない国際法の違反行為です。こうした情勢を錦の御旗のように掲げて、防衛力の抜本的な増強、すなわち「国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」に備えるとしています。それを憲法第九条改正の根拠とするのです。

新憲法の精神を誉め、宣伝した学者や子ども達にその精神を教えてきた教育者の中には、今や「あれはGHQによって押しつけられたものである」と言う者がいます。国際情勢などにあまり関心も知識もない人ならともかく、少なくとも人並み以上にそうしたことに通じているはずの政治家や学者、評論家、教師などが「当時はまだ米ソがそれほど対立していなかった」という理由から戦争放棄の条項を説明し、今やそうした状況は変化しているという「事情変更の原則」を持ち出して憲法改正の伏線にしようとしているのです。

ところが第二次大戦の終了と同時に冷戦の火蓋は既に切られていました。その代表が1946年3月のウィストン・チャーチル(Winston Churchill)の演説です。「バルチック海のステッティンからアドリア海のトリエストにいたるまで、大陸を縦断する鉄のカーテンが降りている」と警告するのです。「全体主義と闘う世界中の自由な国民を支援する」という共産主義封じ込め政策であるトルーマン・ドクトリン(Truman doctrine)が宣明されたのは1947年3月です。アメリカ大統領トルーマンが、共産主義または全体主義的イデオロギーに脅かされているあらゆる国へ経済的、軍事的援助を提供すると宣言したのです。

ちなみに、現行の憲法草案要綱が内閣から発表されたのは1946年3月、その後審議修された結果、8月に衆議院を通過、貴族院での学者や政府当局者との論戦ののち、衆議院が再修正に同意し、かくて同年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行されるのです。このように冷戦の真っ直中に憲法は施行されたのです。憲法の前文にある一切の武力を放棄し「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と謳ったのは決して四海波静かな世界においてではなく、米ソの抗争が今日ほどではないにしても、その緊張状態が世界的規模において繰り広げられることが十分に予見される情勢の下において施行されたのです。こうした冷戦の開始と進行にも拘わらず、敢えて非武装国家として新しいスタートを切ったところにこそ現行憲法の画期的な意味があったといえましょう。
成田  滋
(2024年5月10日)
                  shigerunarita@gmail.com

ナンバープレートから見えるアメリカの州ワシントンD.C・Taxation without Representation

注目

アメリカ合衆国のライセンスプレートを通して、各州の紹介をしてきました。このブログの最終回は合衆国の首都ワシントンD.C. (District of Columbia)です。ワシントンD.C. を紹介するには多くのページを必要とします。なにから始めたらよいか迷うほどです。まずはワシントンD.C.のナンバープレートからいきましょう。

License plate of Washington D.C.

プレートには「Taxation without Representation」とあります。このフレーズですが、D.C.は他の州とは違って、上院や下院への議員を選ぶ権利が住民にはないのです。にも関わらず高い住民税を払っています。これまで何度も議会に抗議したり訴訟を起こして、選挙権の獲得運動がありました。しかしいまだに実現していません。そこでD.C.はナンバープレートに抗議のフレーズを入れているのです。「税金払えど選挙権なし」という意味が込められています。他の州には、このような主張を込めたものは見当たりません。興味あるナンバープレートです。

首都のワシントンは、連邦直轄地という特別区で、東海岸のメリーランド州とヴァジニア州に挟まれたポトマック川河畔(Potomac River)に位置しています。各州とは別に、首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられていて、合衆国三権機関である大統領官邸(White House)、連邦議会(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)が所在し、多くの連邦省庁が集中しています。いわば日本の霞ヶ関のようなところです。

National Mall

バージニアやメリーランド州などと隣接するこの街は世界の政治の中心の一つです。国権の最高機関である大統領府(White House)、連邦議会議事堂(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)や中央官庁などの行政機関が集まるほか、国立公文書館(National Archives and Records Administration)、日本銀行にあたる連邦準備制度(Federal Reserve System)、世界銀行(World Bank)や国際通貨基金(IMF)の本部、各国大使館などが置かれています。

街の中心はナショナル・モール(National Mall)と呼ばれています。モールの中心にはワシントン記念塔があります。モールの両端にはリンカーン記念館(Lincoln Memorial)と連邦議会議事堂が鎮座しています。スミソニアン協会(Smithsonian Institution)が運営する多くの博物館や美術館がモール内にあります。どれも質・量ともに世界でもトップクラスであります。加えて、多くの国立記念建造物や碑が建てられています。例えば、第二次世界大戦記念碑、朝鮮戦争戦没者慰霊碑(Korean War Memorial)、硫黄島記念碑(Iwo Jima Memorial)、ベトナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam War Veterans Memorial)、アルバート・アインシュタイン記念碑(Albert Einstein Memorial)など数えられないほどです。

Lincoln Memorial

スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが国立自然史博物館(National Museum of Natural History)といわれます。子ども達に人気なのが国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)でしょう。いつも家族連れや団体で一杯です。このほかに国立アメリカ歴史博物館(National Museum of American History)、国立アメリカ・インディアン博物館(National Museum of the American Indian)、国立アフリカ美術館(National Museum of African Art)、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭C(Hirshhorn Museum and Sculpture Garden)、芸術産業館(Arts and Industries Building)などです。是非訪ねていただきたいのはユダヤ人の虐待とその歴史を遺品や写真などで紹介するホロコスト博物館(Holocaust Museum)です。どの館も安い入場料あるいは無料で見学できます。午前と午後に一つずつ見学しても一週間は確実にかかります。

National Cathedral

モールのすぐ南にタイダル・ベイスン(Tidal Basin)という池があります。ここにはかって日本から贈られた桜並木があります。3月末は花見客で一杯となる合衆国で有数の桜の名所となっています。毎年桜のピークは4月1日と予想されています。日本とアメリカの友好の歴史を物語る場所でもあります。1912年に日米の平和と親善の象徴として日本から3000本が贈られたものです。この寄贈は、紀行作家のシドモア女史(Eliza Scidmore)、当時のタフト大統領(William Taft)の夫人ヘレン・タフト(Helen Taft)、尾崎行雄東京市長を始め日米双方の多くの方々の尽力によって実現したものといわれます。

Cherry flowers of Tidal Basin

ワシントンD.C.の設計に携わってのは、ピエール・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家です。連邦都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成した人として知られています。ランファンはジョセフ・ラファイエット(Joseph La Fayette)と共にアメリカ植民地にやってきた移民です。独立戦争ではヨークタウンの戦いなどに一緒に参加してイギリス軍と戦った技師で軍人です。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成します。開かれた空間と景観作りを最大限に重視し、環状交差路から放射状に広い街路が伸びるという設計となっています。

Pierre Charles L’Enfant

興味深いのは、バラエティに富んだ建築物がワシントンD.C.にあることです。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にあることです。ホワイトハウス、ワシントン大聖堂(Washington Cathedral)、トマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson Memorial)、連邦議会議事堂、リンカーン記念館、ヴェナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam Veterans Memorial)といった建築物です。どれも第一級の気品を備えています。

Old Town of Alexandria

ワシントンD.C.には、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、ハワード大学(Howard University)などもあります。ハワード大学は、全米屈指の名門歴史的黒人大学となっています。白人系やアジア系の学生も入学できる超難関の大学です。現合衆国副大統領のカマラ・ハリス(Kamala D. Harris)、元連邦下院議員のアンドリュー・ヤング(Andrew Young)、アフリカ系アメリカ人として初めての連邦最高裁判事のサーグッド・マーシャル(Thurgood Marshall) らも卒業生です。
(投稿日時 2024年6月4日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ワシントン州・Evergreen State

注目

ワシントン州(Washington)は雨が多いところです。松などの常緑樹が多い見事な森林が発達しています。全米有数の林業の州です。ナンバープレートには「Evergreen State」とあります。Evergreenとは松の木のことで、別名クリスマスツリー(Christmas Tree)とも呼ばれます。最大都市はシアトル(Seattle)、州都はオリンピア(Olympia)です。このあたりは West Coast(西海岸)とも呼ばれています。日本人にはなじみのある州です。

License plate of Washington State

ワシントン州といえばシアトル。どこか神戸に似ています。入り江と呼ばれるフィヨルド群(Fjord)からなるピュージェット湾(Puget)の東部には、シアトル、タコマ(Tacoma)、エヴェレット(Everett)などの大都市が連なります。プロ野球のマリナーズ(Mariners)の本拠地、マイクロソフト(Microsoft)の本社も近くにあります。航空機会社のボーイング(Boeing)の本社と工場があります。

Olympia, Capital

州都オリンピアは兵庫県の田舎町、加東市とも姉妹都市です。誠に不釣り合いです(^^) シアトルから生まれたのがStarbucks珈琲ですね。これを始めて飲んだときは、そのコクと香りに驚いたものです。ワシントン州は製材、製紙業のほか、アルミニウム、食品加工が盛んでもあります。大豆、トウモロコシ、ジャガイモなどの栽培でも知られています。

Starbucks Headquarters

ワシントン州の歴史ですが、日本との関係が深いのをご存じですか。戦前、日本から沢山の移民がこの地にやってきたのです。戦前、戦後、日系アメリカ人は偏見により辛い生活を余儀なくさせられます。そのことを記した小説に「Snow Falling on Cedars–ヒマラヤ杉に降る雪」 というのがあります。この小説を書いたのはデイヴィッド・グターソン(David Guterson)です。舞台は戦前で、ワシントン州の島における日系アメリカ人に対する人種差別を題材としています。この小説は、1995年にウイリアム・フォークナー賞(Faulkner Awards)をもらいます。この賞はアメリカの主要な文学賞の一つで、毎年優れた小説作品に贈られます。フォークナー(William C. Faulkner)はアメリカを代表する小説家です。実は、この小説を紹介してくれたのは私の長男の嫁Kateです。彼女は今教師をしながら童話を書いています。。

Puget Sound

ワシントン州内のベインブリッジ(Bainbridge Island)という島には、ここに住んでいた日系人276名が強制収容へ送られたこと記憶し、人種差別が今後「二度と起こらないように」と祈念した屋外展示があります。

Snow Falling on Cedars

この小説の荒筋です。1954年、ワシントン州のピュージェット湾(Puget Sound)の北、ファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶサンピエドロ島(San Piedro Island)に住んでいた日系アメリカ人のカブオ・ミヤモトが、島で親しまれていた漁師カール・ハイン(Carl Heine) を殺害したという容疑で第一級殺人罪に問われます。1954年9月16日、カールの死体は網にかかったまま海から引き上げられ、水没した彼の腕時計は1時47分で止まっていました。大戦後の根強い反日感情の中で裁判が行われます。

裁判を取材するのは、唯一の地元紙「サンピエドロ・レビュー」(San Piedro Review)の編集者イシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は元米海兵隊員で、太平洋のタラワの戦い(Battle of Tarawa)で日本軍と戦って片腕を失い、仲間の死に直面していました。彼は日本人への憎しみを抱き、カブオの妻ハツエへとの愛と、カブオが本当に無実なのかどうかという良心とで葛藤するのです。イシュメルがハツエと恋に落ちたのは、高校が一緒の時です。二人は密かに交際し、互いに情を通じ合っていました。

Snow Falling on Cedars

検察側には、町の保安官アート・モラン(Art Moran)と検事アルヴィン・フックス(Alvin Hooks)、弁護側は老練なネルス・グドモンドソン(Nels Gudmondsson)です。カールの母エッタ・ハイン(Etta Heine)を含む数人の証人は、カブオが人種的な理由でカールを殺害したと証言します。カブオはかつて日系人部隊第442連隊戦闘団で戦いますが、日本海軍による真珠湾攻撃後、祖先の血筋を理由に偏見を受けてきました。ヨーロッパ戦線で若いドイツ人を殺害したことへの因果応報を感じながら裁判に臨みます。

カブオ・ミヤモトに対する殺人容疑の裁判には、町の検死官ホレス・ウォーリー(Horace Whaley)や、カールにイチゴ畑を売っている老人オーレ・ジャーゲンセン(Ole Jurgensen)も加わります。裁判では、このイチゴ畑が争点となります。この土地はもともとハイン・シニア(Carl Heine Sr.)が所有していたもので、ミヤモト夫妻はハイン家の土地にある家に住み、ハイン・シニアのためにイチゴを摘んでいました。カブオとカールは子どもの頃、仲良しでした。カブオの父親は、やがてハイン・シニアに2.8ヘクタールの農地の購入を持ちかけます。妻のエッタは反対しますが、カールは賛成し支払いは10年払いとなります。

しかし、最後の支払いが終わる前に、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発し、日本人の血を引く島民はすべて強制収容所に移されることになります。ハツエとその家族であるイマダ夫妻は、カリフォルニア州のマンザナー収容所(Manzanar camp)に収容されることになります。母から反対でハツエはイシュマエルと別れ、マンザナーにいたカブオと結婚するのです。

1944年、ハイン・シニアが心臓発作で亡くなり、エッタ・ハインがジャーゲンセンに土地を売却します。戦争が終わって帰ってきたカブオは、土地の売買を反故にしたエッタを激しく憎みます。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れ、農場を売却することになったとき、カブオが到着する数時間前に、カールが土地を買い戻そうと声をかけてくるのです。裁判では、家族間での土地争いの確執がカブオのカール殺人の動機であると主張されるのです。

編集者のイシュメルはポイント・ホワイト灯台(Point White lighthouse)にあった海事記録を調べます。そこでカールが死んだ夜、カールが釣りをしていた海域を貨物船SSウエスト・コロナ号(SS West Corona)が、彼の時計が止まるわずか5分前の午前1時42分に通過していたことが判明します。イシュメルは、カールが貨物船の航跡の勢いで海に投げ出された可能性が高いことを知るのです。彼は、ハツエに振られた恋人としての苦い思いを抱えながらも、次ぎのような情報を得るのです。

それは、カールが船漁灯を切るために船のマストに登ったとき、貨物船の波によってマストから叩き落とされて頭を打ち、海に落ちたという結論を裏付ける証拠です。審議の結果、カブオの殺人容疑は晴れるのです。ハツエはカブオと結婚して以来避けていたイシュマエルに感謝し、イシュマエルはハツエへの愛にピリオドをうちます。そして彼の抱いていた不可知論という哲学は、やがて無神論へと変わっていくのです。

(投稿日時 2024年5月30日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ロードアイランド州・The Ocean State

注目

ロードアイランド州(Rhode Island)のナンバープレートには「海洋の州」(The Ocean State)とあります。その名のように多くのオーシャンフロント・ビーチがあります。州内の陸地の奥深くまでナラガンセット湾(Narragansett Bay)が入り込んでいることから、観光用パンフレットでよく使われるフレーズとなっています。この州は合衆国東北部、ニューイングランド地方(New England)にある小さな州です。独立時の13州の1つで、全米50州の中で面積が最小の州です。州都および最大都市は港湾や学術都市であるプロビデンス(Providence)です。「Providence」とは、キリスト教における、“すべては神の配慮によって起こっている”という概念を意味し、「摂理」や「神の意思」と訳されます。

License plate of Rhode Island

この地域の原住民はナラガンセット(Narragansett)インディアンです。1636年、マサチューセッツ(Massachusetts)から追放されたロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)とその信奉者たちによってヨーロッパ人が最初に入植します。彼らが設立したプロビデンス・プランテーション(Providence Plantation)は由緒のある開拓部落です。ロードアイランド州の起源となった植民地集落の名前です。1663年、チャールズ2世(King Charles II )がウィリアムズに勅許を与えます。フィリップ王戦争(Philip’s War)でニューイングランド植民地に正式に加わることはなく、多くの入植地が焼き払われ、大きな被害を受けることになります。

Roger Williams

フィリップ王戦争とは、1675年6月から翌年8月まで、ニューイングランドで白人入植者とインディアン諸部族との間で起きたインディアン戦争のことです。 フィリップ王とはワンパノアグ族(Wampanoag)酋長メタコメット(Metacomet)のことで、白人入植者は酋長をそのように呼んでいました。興味あることです。

アメリカ独立戦争のきっかけとなったイギリスの関税法との戦いでは、ロードアイランドは最前線に立ちます。連邦の原初州であり、1790年に憲法を批准した13番目の州でありましたが、権利章典(Bill of Rights)が含まれて初めて批准に同意することになります。1842年のドールの反乱(Dorr’s Rebellion)が起こります。地元の少数のエリートが、政府を支配していたロードアイランド州から広範な選挙権を剥奪し、型破りな民主主義を押し付けようとする試みでありました 。トーマス・ドール(Thomas Door)が主導し、選挙権を剥奪された人々を動員して州選挙規則の変更を要求したのがこの反乱です。土地を所有しない白人男性にも参政権が拡大されるまで、州独自の憲章が有効でありました。

Providence

1790年にサミュエル・スレイター(Samuel Slater)がポータケット(Pawtucket)に建設した綿織物工場は、アメリカの産業革命を引き起こします。製造業は現在も経済にとって重要であり、製品には宝石や銀製品、織物や衣類、電気機械や電子機器などがあります。ロードアイランド州の農業生産は野菜、酪農製品及び卵です。産業は機械、造船及びボート製造、ファッション装身具、加工金属製品、電気設備、並びに観光業となっています。

州とプロビデンスにはアイビーリーグ(Ivy League)の一つブラウン大学(Brown University)があります。創立は1764年です。アメリカ独立以前です。創立当初はバプティスト教会の教育機関でした。アイヴィーリーグの大学創立にはどれも宗教的な背景があります。Brown大学は人種や性別に関わらず、またバプティスト以外の教徒の子弟も受け入れることが伝統となっています。第18代の大学総長として始めて黒人であるRuth Simmonsが選ばれます。アイビーリーグの大学では非常に珍しいことです。

Brown University

アイビーリーグでは、コロンビア大学(Columbia University)がニューヨーク市にあるだけで、他の有名な大学はボストンを除いてロードアイランドなどの地方にあるのは興味あることです。優れた大学の教育研究はどこででもできるということです。
(投稿日時 2024年5月27日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ワイオミング州・Equal Rights State

注目

ワイオミング(Wyoming)州のナンバープレートには「平等の州 (Equality State)」とか「カウボーイ州 (Cowboy State)」と印字されています。北にモンタナ州、東にサウスダコタ州とネブラスカ州、南にコロラド州、西にユタ州とアイダホ州と境をなしています。州都はシャイアン市(Cheyenne)です。全米で最も人口が少な州です。ワイオミングとは、アルゴンキン語族(Algonquian)の言葉で「大平原」を意味します。州の東側3分の1はハイプレーンズと西側3分の2はロッキー山脈東部の山岳地帯と丘陵の牧草地帯が広がります。

License plate of Wyoming

ワイオミング州の歴史です。18世紀にヨーロッパの探検家たちが初めて訪れたとき、ワイオミングには、すでにショショーネ族(Shoshone)を含む平原インディアンが住んでいました、オレゴン・トレイル(Oregon Trail)とオーバーランド・トレイル(Overland trails)が横切っていました。ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)は、この地域を通過しませんでしたが、探検隊の一人、ジョン・コルター(John Colter)は探検隊から外れて ワイオミングで過ごしたといわれます。

Shane

ワイオミングは 1868年にワイオミング準州(Wyoming Territory)が設立されるまで、アメリカのいくつかの準州に分かれていました。やがて1868年にワイオミングは準州となります。1869年に女性参政権を採用し、1889年には憲法に女性参政権を盛り込んだ最初の州となりました。州のニックネームは平等の州『Equality State』と少々地味なフレーズです。それには次のような事実があります。すなわち1870年、ララミー(Laramie)という街では女性が初めて陪審員(jury)を務め、同年ララミーではメアリー・アトキンソン(Mary Atkinson)が女性初の令状や逮捕、差し押さえを執行する裁判所職員(court bailiff)となり、同年サウスパスシティ(South Pass City)ではエスター・モリス(Esther Morris)が女性初の治安判事(justice of the peace)になります。1925年に全米で最初の女性知事としてネリー・ロス(Nellie Ross)が就任します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」と呼ばれるようになりました。

Esther Morris

一体、どうしてワイオミング州では女性が活躍するようになったかは不明です。通常、ワイオミングのような田舎の州は農業や酪農に従事する人々が多く、考え方は伝統的で保守的なのです。しかし、女性参政権を主張していたモリスを指導者に選ぶという大らかさが州民にあったからだろうと察します。「ワイオミングというアメリカ合衆国で最も若くまた最も裕福な準州の1つが、言葉だけでなく行動で女性に平等な権利を与えた」というのは、エスター・モリスの才能に依ったことも事実のようです。

ワイオミングには、アメリカでも特に有名な3つの国立公園、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)、グランドティトン国立公園(Grand Teton National Park)、氷河国立公園(Glacier National Park)があります。こうした国立公園は、アウトドア愛好家や冒険家に大人気です。ワイオミング州では広大な美しい大地をクマ、バイソン、エルク(elk)、コヨーテ(coyote)などの野生動物が生息して大事に保護されています。氷河国立公園は「大陸の王冠」(Crown of the Continent)と呼ばれ、今も26野氷河が存在しています。グランドティトン国立公園は、1953年に制作された西部劇映画「シェーン」(Shane)のロケ地となったところです。流れ者シェーンと開拓者一家の交流や悪徳牧場主との戦いを描いた世紀の名作です。シェーンを演じていたのは名優のアラン・ラッド(Alan Ladd)でした。

Geyser of Yellowstone

近代の経済では家畜が依然として重要ですが、 観光業も重要となっています。州の主要な産業は鉱業と農業。鉱業ではウラニウム、天然ガス、メタンガス等を産出し鉱業の影響力もますます大きくなっています。農業では小麦や大麦、馬草、サトウキビが主たる生産物です。
(2024年5月24日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・マルティニーク島と小泉八雲

注目

小泉八雲は、ギリシャで生まれたアイルランド系のイギリス人です。アイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、そして日本にやってきます。ジャーナリストとして各地で出会った人々との交流や習慣を紀行文や随筆で記し、多くの小説も書き、後に日本では英語教師や英文学者として活躍したことで知られています。フランス語にも精通し1887年から2年間、カリブ海(Caribbean)に浮かぶ島でフランス領西インド諸島のマルティニーク島(Martinique)で過ごします。そこで執筆したのが「仏領西インドの2年間」(Two Years in French West Indice)です。本稿は、各国を放浪し異国情緒にあふれる人種、伝統、風俗・習慣に触れながら八雲がどのようにこの島の人々の生きざまを捉えていたか考えることとします。

小泉八雲の著作

これまでルイジアナ州に住むクレオール(Creole)の人々の文化や風俗をとりあげてきました。人種を問わず植民地で生まれた者はクレオールと呼ばれています。特にフランス人・スペイン人とアフリカ人・先住民を先祖に持ち、フランスからのルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫とその文化を指すともいわれます。付け加えるならば、クレオールとはもともとは、片方の親がヨーロッパ系で、もう片方の親がアフリカ系の子どものことを指していましたが、今日では、両方の系統が混じっている人々のことを指し、「黒人と白人の混血者」と説明されるようです。

マルティニーク島

八雲がなぜ、マルティニーク島に渡ったのかは分かりませんが、この島がフランスの植民地であり、多様な人種が混ざり合っていることに関心があったのかもしれません。西洋文明の社会に疑問をいだき、それに飽き足らず異国文化への関心を深めていったようです。八雲はマルティニークでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、その植民地体験を豊かな文章で書き残しています。事実、八雲も自分の出自が混血であったために、人種の多様性の豊かさに魅了されたことが「仏領西インドの2年間」の著作に表れています。

さて、西インド諸島の名は、1492年10月にクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)が上陸したバハマ諸島(Bahamas Islands)のサン・サルバドル島(San Salvador Island)付近を、インドに到達したと誤解したことに由来しているといわれます。西インド諸島の主要部を構成する諸島の一つがフランスの海外県であるマルティニーク島です。マルティニーク島は、1502年のコロンブスの第四次航海により発見されます。意図していた金や銀を産出せず、さらにカリブ人が頑強な抵抗を続け、ヨーロッパ人の侵入を退けます。しかし、1635年にセント・キッツ島(Saint Kitts)を拠点にしたフランス人のピエール・デスナンビュック(Pierre dEsnambuc)が上陸し、これによってフランスが主導権を握り植民地化します。

クレオール人


フランスの植民地化が進むと、マルティニーク島はアフリカから奴隷貿易で連行された黒人奴隷によるサトウキビ・プランテーション農業で経済的に発展します。大西洋における三角貿易によって今のハイチ(Haiti)であるサン=ドマング(Saint-Domingue)やグアドループ(Guadeloupe)と共にフランス本国に多大な利益をもたらしていきます。かつてマルティニーク島にいた先住民は、ヨーロッパ人による虐殺やヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病により全滅し、現在は純粋な先住民は1人もいないといわれます。

マルティニーク島には、アフリカから奴隷として連れて来られた黒人とヨーロッパ系白人と、アフリカ系の特に黒人との混血のムラート(Mulatto)と呼ばれるクレオール人、華僑、インド人、レバノン(Lebanon)、シリア(Syria)、パレスチナ(Palestina)から移民したアラブ人(Arab)なども少数ながら存在します。住民の多くはフランス語とクレオール語を話しますが、クレオール語は少数言語となっています。

カトリック教会

八雲は「仏領西インドの2年間」という著作のなかで、マルティニーク島というのは、画趣に富むところだと記述しています。とりわけ有色人の女性の服飾、頭の飾りなどの珍しさや華やかさ、有色人の娘に見られる肉体的な変化が特徴的であるというのです。そして、こうした特徴は南フランスの南部や西南部の田舎の風俗に類似していると指摘します。最初に入植してきたフランスの農民と西アフリカの奴隷という先祖の人種が、両者ともに風土と環境という諸条件によってこうした特徴が形成されたのだという見立てです。

やがてマルティニーク島では、初期の入植者の子孫は父祖に似なくなり、クレオールの黒人は祖先を改善し、混血のムラートは植民地自体の平穏さを危うくするほどの肉体力と精神力を次第に発揮していきます。八雲は「白人と黒人との間に生まれた混血種は文明にはきわめて同化しやすい。肉体的なタイプとして、個人、特に一般女性のなかに、人類最高の美しい標本を提供している」とも断言するくらい、女性の美を観察しています。

しかし、八雲は植民地全般に古き良き社会の崩壊が始まることを指摘します。植民地支配下で民族意識が高まり、自主独立の機運が高まってきたからです。至る所に熱帯の廃墟や深い憂愁、かっては甘藷で黄金色をなしていた広大な段々畑が、雑草と蛇によって捨てられているというのです。人の住んでいない農場の家屋、雨によってえぐられ谷間のようになった草ぼうぼうの道、何百年にわたり育った森林の木々に代わって徐々にはえだしたバナナの樹が目立つというのです。砂糖が安価に売られていた時分の楽園をしのばせる美しさはかろうじて残ってはいるが、、、、

マルティニーク島の村

そして有色人の女の姿も変わったというのです。男に対して自分を卑下したり隷属的なところが大分薄れ、自分の立場の道義的に正しくないことを以前より理解していると観察します。彼女らの愛人や保護者であるクレオール白人が他へ移住し、同時に黒人の支配が強くなってきたからです。加えて生活の困難が不断に増してきます。彼女らは、次第に募る人口の増加によって社会の酷薄と憎悪も増してきているのを知ってくるのです。それにも関わらず彼女達の心根の良さ、外国人に対する寛容さについて「彼女達は生まれながらの慈善団体の尼だ」という指摘です。有色人女性達の道徳的資質を褒めているのです。

有色人女性に関するこうした賛辞は法外なものではないと八雲は確信します。ところがこれに反して、有色人男性に対するクレオールの意見はあまり好ましくないというのです。それは政治上の事件と情熱が有色人男性の性質を正当に評価することを困難にしているからだろうというのです。フランス領植民地全体の有色人の歴史は全部同じで、つまり彼らが社会的に平等になろうと躍起になろうとするのを恐れている白人からは信用されないし、黒人からもそれ以上に信用されないのです。混血のムラートは両方の人種に敵意をいだき、両方の人種から恐れられているらしいのです。

仏領西インドの2年間

マルティニーク島では、一定の期間義勇兵として軍隊に勤務した者には全部に自由を与えて彼らを操縦していくことを試み、その一部は成功します。ただし、どんな時にもムラートと黒人とを一緒に働かせることは不可能であることがわかります。ムラートは解放される一世紀も前から、すでに都市労働者及び職工の熟練者階級を形成していたからです。

有色人女性は人生に目的を持ち、自分の境遇を向上させること、子どもには高等教育を授けること、そしてわが子には、なんとかして偏見の呪いをかけさせたくないと願っています。白人には依然としてすがってはいますが、それは白人を通して、なんとか自分の立場を改善したいと願っているからです。彼らは両方の人種間の和解というようなことを達成する望みをもっているようだともいいます。

クレオール人全体の信念は「失われた国」という繰り返される叫びの中に集約されています。白人はだんだんと本国へと移住し、植民地は繁栄を失いつつあります。「それでもこの太陽の国の女性は、欺きのために死ぬようなことはない、苦しみがあれば、小鳥のように歌でその苦しみを吐きだしてしまうほど強い」と八雲は断言するのです。
(投稿日時 2024年5月22日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・クレオールと小泉八雲とケージャン

注目

あらゆる文化の基礎となるのが言語です。クレオール語(creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の人々が、自然に作り上げられた言語(ピジン言語–pidgin)が、次の世代で母語として話されるようになった言語のことといわれます。英語でいえば、ユー・イェスタデイ・ノー・カム(You yesterday no come )といった塩梅の会話です。文法構造などが簡略化されて、単語をつなぐだけでも会話が成立します。ピジン語が、日常生活のあらゆる側面を使われると、やがてそれが人々の中で母国語化するのです。

Saina Manotte, singer

前稿では、フランスの植民地であるカリブ(Caribbean)に浮かぶマルティニク島(Martinique Island)でのクレオール化に触れました。クレオールの人々は次第に少数派となりますが、排他的な努力をして彼らの文化的優越性を守ろうと努力してきました。今では社会的な勢力を失いましたが、風俗、食物、建築にその文化は生き残っています。宗主国フランスによる支配と同化に対抗するために、クレオールとしてのアイデンティティの確立を叫んだのは、前述のグリッサンの他にラファエル・コンフィアン(Raphael Confiant) といった作家です。コンフィアンは、クレオール文学を通して、文化的な同化に対して次のような警鐘を鳴らしています。
     「我々は西洋の価値のフィルターを通して世界を見てきた」
     「自身の世界、自身の日々の営み、固有の価値を「他者」のまなざしで見なければならないとは恐ろしいことである。」

Raphael Confiant

クレオールと小泉八雲との関係についてです。彼は、日本に来る前にアイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島の仏領マルティニク島を放浪しています。西洋文明社会に疑問をいだき、それに飽き足らず異国文化への関心を深めていったようです。八雲はマルティニクでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、その植民地体験を豊かな文章で書き残しています。それが〈クレオール物語〉という著作です。「非西欧」への憧れが彼の中で育っていたことがわかる著作といわれています。八雲はいかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかったようです。それがクレオールの文化に傾倒した理由といえましょう。

ヘルン旧居

アメリカ少数文化集団の一つにケージャン(Cajun)があります。ルイジアナ南西部に住むフランス系の住民です。ケージャンの呼称は、アカディア人(Acardia)を意味するフランス語の〈Acadien〉がなまってカジャンとなったものを英語式にしたことから由来します。1604年、最初にカナダ南東部アカディア地方に入植したフランス人が、18世紀に英仏間の植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)のあおりで、各地を転々とし、ルイジアナの低地帯に住み着きます。同地域がアメリカに併合の後も周囲から孤立して独自の文化を保ってきました。

Cajun Seafood

ケージャンはカトリックを信仰し、近年までフランス語なまりの〈ケージャンフレンチ-Cajun French〉と呼ばれた独特の言語を使用してきました。彼らの最も特徴的な文化が音楽で、独特のアコーディオンやヴァイオリンを使ったワルツ、ツーステップのダンス音楽です。料理も知られています。ケージャン文化はルイジアナ州のクレオール文化とははっきり区別されるものです。
(投稿日時 2024年5月20日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・クレオール

注目

ルイジアナ州では独特な文化や言語が発展してきました。本稿ではそれを取り上げます。クレオール(creole)がそうです。クレオールとは、16世紀にはアメリカ新大陸生まれの純粋のスペイン人を指す言葉として用いられました。スペイン語でクリオーリョ(creollo)と呼ばれ、その原義は〈良く育てられた〉といわれます。その後、拡大解釈され、ヨーロッパ以外のさまざまな植民地で生まれたヨーロッパ人、とくにスペイン人の子孫に用いられました。アフリカから連れてこられた黒人と区別するために、新大陸生まれの黒人がクリオーリョと呼ばれることもあったようです。

Creoles

クレオールは、アメリカ合衆国では、ルイジアナ地方に植民したフランス人やスペイン人、及びその血を純粋に受け継ぐ者を指します。ニューオーリンズを建設した奴隷労働力の上に優美なフランス的文化を育てた人々がクレオールと呼称されています。クレオールという言葉はしばしば誤用されてきたようです。フランス系やスペイン系と黒人との混血を意味するようになります。

アメリカ南部のルイジアナ州はもとはフランスの植民地でした。そこに黒人奴隷がサトウキビ農園で働き、白人地主と黒人奴隷との間の、あるいは黒人奴隷の間のコミュニケーションのための言葉が生まれました。それがクレオール語と呼ばれるようになりました。アフリカのさまざまな地域から連れてこられた黒人奴隷は、多くの異なった言語集団に属していたため、彼ら自身の共通の言語を持たなかったのです。そして子ども達はクレオール語を習得していきます。しかし、クレオール語は奴隷の言葉として差別の対象ともなります。クレオール語とは特定のものがあるわけではなく、全世界の旧植民地に広く点在するといわれます。

Creoles


植民地においては、そこで生まれるあらゆるもの、たとえば人、物、習慣、文化などすべてがクレオールと呼ばれるようになっていきます。やがて奴隷解放の機運や運動が起こります。それを促したのはフランス人権思想の影響といわれます。こうしてフランス植民地による奴隷制は、フランス自身の思想によって廃止されることになります。そのためアフリカからの労働力を期待できなくなります。やがてアジアの植民地であったインド、中国、レバノンなどから貧しい人々が安い労働力として連れてこられます。こうしていっそう、さまざまな文化要素の混交が起こります。これをクレオール化(Creolization)と呼ばれます。クレオール化を提唱したのは、マルティニーク生まれの詩人・作家・思想家のエドゥアール・グリッサン(Edouard Glissant)で、彼のコンセプトは言語、文化などの様々な人間社会的な要素の混交現象を指します。

ケージャン料理

フランスの植民地の1つであり、カリブ海に浮かぶ西インド諸島に位置するマルティニーク島(Martinique)があります。今の首都はフォール・ド・フランス(Fort-de-France)です。この島にもフランス本国と同様に人権の理念が及んでいきます。知識人の間だけでなく、一般市民レベルでもクレオール語は差別の対象となり、フランス語崇拝が広まっていきます。しかし、フランスへの文化的同化現象は起こりませんでした。1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、マルティニークは同化されるべき植民地の扱いから脱することが出来ず、現在も植民地のままです。自治権が与えられていきますが、独立の問題を先送りにされています。今でも小・中学校ではクレオール語による教育は排除されています。マルティニーク島は、アジアやアフリカの植民地に比べ、人口の大部分が他所からの移住から成り立っているため、民族主義的地盤が弱いといわれています。フランスへの人口流失が続き、現地の産業は弱小で、フランスへの経済的な依存が続いています。
   (投稿日時 2024年5月16日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ルイジアナ州・The Pelican State

注目

ルイジアナ州(Louisiana)のナンバープレートには「The Pelican State」とも呼ばれ、ペリカンを背景にしています。「Sportsman’s Paradise」というのもあります。アウトドアの活動にふさわしい風土を表現しています。少々可笑し味があります。どの様な州も地方でも、その風景や人々の居住形態に多様性を示すものです。ルイジアナ州も例外ではなく、他の州よりももっとその特徴を華やかに展開しています。この特徴を探るのが本稿の主たる目的となります。

License Plate of Louisiana

州都はベイトンルージュ市(Baton Rouge)、最大の都市はニューオーリンズ市(New Orleans)です。メキシコ湾に通じる重要な港湾都市で、工業都市・観光都市としても発展しています。ニューオーリンズのフレンチ・クオーター(French Quarter)と呼ばれる地区には、今なおフランス植民地帝国時代の雰囲気を残していて、大勢の観光客を招いています。通常は、気候も温暖、メキシコ湾でとれる牡蠣や魚が魅力的で、アメリカでも最も人気のある観光地の一つとなっています。

2005年8月にハリーケーン・カトリーナ(Hurricane Katrina)がフロリダ州の南部先端に上陸、ニューオーリンズ市は、フレンチ・クオーターなど陸上面積の8割が水没しました。今はすっかり復旧し賑わいを取り戻しています。

Map of Louisiana

「Sportsman’s Paradise」の名にふさわしく、狩猟、釣り、キャンプ、キノコ狩り、BBQも素晴らしいといわれています。私はまだこの州を訪ねたことがありません。ルイジアナ州南部の海岸は、早い速度で消失を続けている地帯です。その原因として、石油・ガス産業のために掘られた運河によって海水が内陸に入り込み、沼地や湿地に被害を与えているようです。

最初のヨーロッパ人入植者はフランス人(French)かスペイン人(Spanish)でした。「ラテン・アメリカ人」(les Americains)が州北部とフロリダの郡部(Florida Parishes)に定住するようになったのはその後になってからです。居住地の各地域には、ローマ・カトリックまたはプロテスタントの信仰の堅持を特徴づける文化遺産が保存されていました。ルイジアナ系フランス人、特に1700年代にイギリス人によってカナダ南東部から追放されたフランス人入植者であるアカディア人(Acadians)の子孫は、ケイジャン(Cajun)と呼ばれます。やがてケイジャンは、ルイジアナ州南部の大部分を支配するようになります。

Cajun Shrimp

ケイジャンフランス語(Cajun French)の方言は、多くの地域(parishes)で話されています。ルイジアナ州南部ではフランス語なまりの英語に聞こえることがあります。さらに、州の北部と南部の両方に文化的な違いが数多くあります。これらは、イタリア語、スペイン語 (Isleños)、ハンガリー語(Hungarian)、ドイツ語(German)、ダルマチアとスラヴォニア語(Dalmatian-Slavonian)のコミュニティで構成されています。ダルマチアとスラヴォニアとは、クロアチア(Croatia)西部、アドリア海(Adriatic)沿岸の一帯を指します。このような背景でルイジアナ州南部には民族が混在する集落があるのです。

ルイジアナ州は、その初頭からアフリカ系アメリカ人が重要な役割を果たしてきました。20世紀半ばまでは、アフリカ系アメリカ人の人口は、彼らの労働によって維持されていたプランテーション周辺の地域に集中していました。現代のルイジアナ州では、アフリカ系アメリカ人コミュニティの大部分が都市部や郊外で非農業の仕事に就くことを選択しています。ルイジアナ州のアフリカ系アメリカ人は社会的、経済的権力につながる伝統的な職業の機会を拒否されてきました。それでも彼らの文化は、州とニューオーリンズの生活と性格に多大な貢献をしてきました。

Swamp of State Park

ルイジアナ州の歴史的集落のパタンについてです。独特のケイジャン文化だけでなく、フランス人、アフリカ系アメリカ人、アメリカ先住民の伝統が混ざり合った、民族的および言語的に異なるクレオール文化(Creole culture)も生み出しました。ルイジアナ・クレオール語(Louisiana Creole)は、フランス語に基づいていますが、フランス語とは異なり、それ自体人々の多様な伝統を反映しています。その後、ヨーロッパ、ラテンアメリカ(Latin America)、キューバ(Cuba)からニューオーリンズへ、またはニューオーリンズを経由する移住により、この州の民族的多様性はさらに豊かになります。その多様性は常に深南部(Deep South)の他の州よりも大きくなったといわれます。

Creole

ケイジャン文化の一つの特徴は料理にあります。シンプルな庶民の料理で、三位一体(Trinity)の野菜と呼ばれる玉ねぎ、パセリ、ピーマンを炒めたものがベースとなっています。フランス料理のミルボワ(mirebois)と関係があり、主食として米を多用します。肉や魚介類にチリパウダーの香辛料で味付けするといわれます。その代表が「チキンガンボ」(chicken gumbo)です。ガンボとはオクラのことです。ソーセージやカニを使うそうです。その他に「ジャンバラヤ」(jambalaya)もあります。スペイン発祥のパエリアがルーツで、肉や野菜などを米と炊きます。にんにく、チリバウダー、オレガノ(oregano)をブレンドしこちらもピリ辛の味付けの料理です。

French Quarter

クレオールのことです。クレオールとは人と物の両方に用いられます。人に用いる場合は、人種を問わず植民地で生まれた者はクレオールと呼ばれます。ルイジアナ州においてフランス人・スペイン人とアフリカ人・先住民を先祖に持ち、ルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々や子孫、また彼らと関わりのある事物のことを指します。クレオールは、ヨーロッパ系とアフリカ系の混血を指す場合も使われます。クレオールの料理は、イタリアの影響を受けています。トマトを使った赤いジャンバラヤはクレオール独特の料理といわれます。

ケイジャン文化とクレオール文化は、次の稿で詳しく紹介することにします。
(投稿日時 2024年5月14日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ユタ州・Greatest Snow on Earth

注目

ユタ州(Utah)のナンバープレートには、4つのフレーズが記名されているのがあります。「世界で最も素晴らしい雪」(Greatest Snow on Earth)、「高められる命のアーチ」(Life Elevated Arches)、「神に信頼を」(In God We Trust)、そして「ハイウエイよさらば」(Off-Highway Vehicle)です。塩と雪の白さで観光客が魅了される州といえましょう。

License Plate of Utah

この地域には紀元前1万年前に人が住んでいました。プエブロ族(Pueblo)が住みつき、ショショーネ族(Shoshone)、ユート族(Ute)、パイユート族(Paiute)などの集団が続きます。18世紀後半にはスペインの宣教師がユタを訪れます。1821年にメキシコに返還されます。アメリカ人開拓者ジム・ブリッジャー(Jim Bridger)は、1824年にグレート・ソルトレイク(Great Salt Lake)を見た最初の白人といわれます。

Map of Utah

この地域の最初の定住者はモルモン教徒(Mormons)で、初代教祖ジョセフ・スミス・ジュニア(Joseph Smith, Jr.)がイリノイ州で殺されると、1847年に教徒らはブリガム・ヤング(Brigham Young)に率いられてグレートソルト・レイクの谷に導かれます。この教会は末日聖徒イエスキリスト教会(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)と呼ばれます。

人口は事実上ほとんどがヨーロッパ人で、主に北欧人(northern European)です。アジア人、ヒスパニック(Hispanics)、アメリカ先住民、アフリカ系アメリカ人も少数ですが住んでいます。さらに20世紀後半には、ハワイ人や他の太平洋島民の数が増加しました。彼らの多くはモルモン教に改宗し、ソルトレイク・シティ(Salt Lake City)に移住しました。アメリカ先住民を除いて、少数民族人口のほぼ5分の4が、ソルトレーク、デイビス(Davis)、ウェーバー(Weber)のワサッチ(Wasatch)3郡に住んでいます。

Arches National Park

サンフアン(San Juan)郡の人口はアメリカ先住民の約半分であり、州のアメリカ先住民総人口のほぼ3分の1が含まれています。これらは主にナバホ族(Navajo)で、主にナバホ居留地のフォーコーナーズ(Four Corners)地域に住んでいます。ユート族はユインタ(Uintah)とオーレイ(Ouray)居留地に住んでいます。南パイユート族の多くは、部族の中でも最も経済的に貧しく、ユタ州南部のいくつかの小さな保留地に住んでいます。

ヒスパニック系の人々は州最大の少数派グループを構成しています。このグループの多くは農業、鉱業、製造業、サービス業の低所得労働者であり、教育と文化変容の問題にますます注目が集まっています。ユタ州ではモルモン教徒が宗教信者の大多数を占めていますが、ローマカトリック教徒も州全体で見られます。バプテスト、ルーテル派、その他のプロテスタント宗派、および非キリスト教の信者も居住しています。

メキシコ戦争後にアメリカが獲得したこの地域は、1850年にユタ準州(Utah Territory)として組織され、1868年には現在の州の面積に縮小されます。1857年から1858年にかけて、モルモン教徒と連邦政府との間でユタ戦争(Utah War)と呼ばれる対立が起こります。ユタ州で発生したルモン教徒とアメリカ陸軍との内乱のことです。モルモン教徒が一夫多妻制(polygamy)を放棄するまで州昇格は認められませんでした。

Monument Valley

1847年に始まった初期のモルモン教徒の入植者は、農業、手工業、小規模工業に基づいた自給自足の経済を営みました。1860年代後半に他の多数の入植者が到着すると、この組合経済は、モルモン教の教義に反する鉱石採掘と貿易に専念する非モルモン教徒の活動と競合していきます。州発足後、州の輸出可能な資源は、外部の企業によってますます搾取されるようになります。州の農業は牧畜牛、羊毛、そして牧草(alfalfa)や甜菜などの商品作物に向けられるようになります。一夫多妻制を放棄したユタ州は、1896年に45番目の州として連邦に加盟します。20世紀初頭以降、モルモン教会は公式には政治的中立を保っていますが、経済的な影響力が注目されています。

1921年と1930年代の経済不況は深刻でしたが、連邦政府のプログラムとモルモン教会の福祉プログラムのおかげで州は回復します。第二次世界大戦中、いくつかの防衛施設や空軍基地が建設され、ユタ州南東部ではウラン(uranium)ブームが起こりました。1950年代後半、ミサイル用のロケットエンジンを製造するためにワサッチ(Wasatch)地帯に沿っていくつかの大きな工場が建設されました。ユタ州は石炭と石油の埋蔵量が多く、世界最大のベリリウム(beryllium)の生産地でもあります。主要産業は農業と観光業です。

Bryce Canyon

州の経済は非常に多様化しています。農業および鉱業部門は、軽工業および重工業、金融、運輸、観光によって補完されてきました。ソルトレイク・シティは地域の金融と貿易の中心地であり、多くの大企業がオフィスを構えています。現在でもモルモン教徒が全州人口の約60%を占めているといわれます。敬けんで穏やかなモルモンの人々が育んできた風土のせいか、全米でも治安も良いことで知られています。ユタ州立大学(Utah State University)のあるローガン市(Logan)は小規模都市を含めて全米一位の治安のよいところのようです。

Utah State University

空からソルトレイク・シティに近づきますと、地上は真っ白。その名の通り塩の大地が広がります。しかし、州の中央部には海抜三千メートルの山脈があり、北海道のような粉雪で深く、世界的に名高いスキーリゾートとなっています。ユタ州の西部は起伏が続いています。ですが大部分が不毛の砂漠となっています。岩だらけの風景の中にひときわ目立つのがモニュメント・バレー(Monument Valley)です。しばしば西部劇の映画などで登場しました。

ソルトレイク・シティでは、モルモン教会合唱団の演奏を聴くのがお勧めです。この合唱団は「Mormon Tabernacle Choir」といい、神の幕屋教会合唱団と呼ばれます。世界一流オーケストラとの数々の共演や世界各地での演奏会で知られています。リハーサルは毎週木曜日午後8時から開かれ、その後に聴衆からの質問のやり取りがあります。私も一度このリハーサルの日時を確認してから幕屋教会に出掛けました。ユタ州立大学(Utah State University)を訪ねたついでのことです。

Salt Lake Temple


(2024年5月10日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州モンタナ州・Big Sky

注目

モンタナ州(Montana)のナンバープレートには、「Big Sky Country」と印字されています。さしずめ「蒼穹の空の州」といったところです。「モンタナの空は他のどこよりも大きく感じる」と地元の人は自慢げに言うのは、このためかもしれません。「モンタナ」という名前はスペイン語で「山、あるいは「山の国」を意味する 「Montana」から由来しています。州都はヘレナ(Helena)となっています。カナダのブリティッシュコロンビア州(British Columbia)、アルバータ州(Alberta)及びサスカチュワン州(Saskatchewan)と接しています。モンタナ州のスローガンに「宝の州」(The Treasure State) があります。金、銀、銅、鉛、石油、石炭など地下資源に恵まれ鉱業が盛んなせいでしょう。

License Plate of Montana

ヨーロッパ人が入植した当時、この地域にはシャイアン族(Cheyenne)、ブラックフット族(Blackfoot)、クテナイ族(Kutenai)、クロウ族(Crow)など様々なアメリカ先住民が住んでいました。モンタナ州の大部分は、1803年のルイジアナ購入によってアメリカが手に入れます。西部は1846年にイギリスが領有権を放棄するまで紛争が続きました。1804-1806年にわたるルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)がモンタナを探検します。1841年にローマ・カトリックの宣教師によって設立されたセント・メアリーズ・ミッション(St. Mary’s Mission)は、スティーブンスビル(Stevensville)を選び、ここが最初の恒久的な町となります。

Glacier National Park

1860年代初頭に金が発見されます。その10年後には牛や羊の放牧が始まり、狩猟場を破壊されたアメリカ先住民との激しい戦いに発展していきます。1864年にモンタナ準州(Montana Territory)が成立します。この州は白人とインディアンの土地をめぐって幾多の戦いが繰り広げられたところです。1876年の (Little Bighorn)の戦いが起こります。この戦いで、スー族(Sioux)、シャイアン族、アラパホ族(Arapahoe)らは、ジョージ・カスター(George A. Custer)率いるアメリカ軍を撃破し殲滅します。しかし、先住民は1877年に戦いをやめ、居留地に移されていきます。リトルビッグホーンの戦跡は今は「リトルビッグホーン国立記念戦場」(Little Bighorn National Memorial Park)として保存されています。

Native American Reservation

今日、モンタナ州の住民のほとんどは、西ヨーロッパや北ヨーロッパ、主にイギリス(Great Britain)、アイルランド(Ireland)、ドイツ(Germany)、フランス(France)、オランダ(Netherlands)スカンジナビア諸国(Scandinavian)、北イタリア(northern Italy)、少ないですが、東ヨーロッパのクロアチア(Croatia) 、ポーランド(Poland)からの移民で構成されます。

他の州との大きな違いがあります。それはアメリカ先住民です。モンタナ州に7つのインディアン居留地があり、アメリカ先住民が州の総人口の10分の1以上を占めています。そのうちの3分の2近くが居留地に住んでおり、残りのほとんどは居留地近くの都市、特にミズーラ(Missoula)、グレート フォールズ(Great Falls)、ビリングス(Billings)に住んでいます。

アフリカ系アメリカ人はモンタナ州の人口のほんの一部を占めています。アジア人はモンタナ州、特にビュート(Butte)周辺の鉱山地区に長く存在していましたが、現在ではその数は少数となりました。ヒスパニック系人口は、かつては主に季節限定でしたが、20世紀後半から21世紀初頭にかけて大幅に増加しましたが、州人口に占める割合は依然としてわずかです。

Park Trail

モンタナ州の住民の約半数はいろいろな宗教団体に所属しています。ローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)は単一宗派としては最大です。プロテスタントは、全体としては最も多くの信者を擁しています。少数ですが、モルモン教徒(Mormons)、仏教徒、アメリカ先住民の伝統的な信仰の信者、イスラム教徒、ユダヤ教徒などもいます。アメリカ先住民の多くは宣教師によって名目上ローマ・カトリックに改宗した経緯があります。

カナダ国境沿いの北層にはドイツのフッター派(Hutterites)が定住しました。 数十のコミュニティが残り、その中でドイツ語が広く話されています。フッター派とは再洗礼派の「アナバプテスト」の流れを汲むキリスト教徒です。農業生産者としての技術力は非常に高度であり、自給自足以上に農産物を生産し、外部社会に販売しています。隔絶的な生活態度で世俗の文化に同化せず、投票など政治活動にも参加しないことからアーミッシュ(Amish)に似ています。

Montana Isolation

1889年、モンタナは41番目の州となります。1890年代に銅の膨大な鉱床が発見され、鉱業はほぼ1世紀にわたって経済の主軸となります。現在は観光業が州経済の中心となっています。「大陸の王冠」(Continental Crown)と呼ばれ、氷河が残したグレイシャー国立公園(Glacier National Park)及びイエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)の一部を含み、大いなる西部にふさわしい大自然が一杯の州です。イエローストーン国立公園の入り口は5か所あって、そのうち3か所がモンタナ州内にあります。西部開拓時代の歴史、アメリカ先住民の文化が多くの観光客を惹き付けています。

Livingstone, Montana

モンタナ州は昔から二大政党が競合するところです。選挙で選ばれる議員や知事も両党から選ばれます。元上院議員で駐日大使を努めたマイク・マンスフィールド(Mike Mansfield)は民主党の出身です。

University of Montana

私のウィスコンシン大学での指導教授 Dr. LeRoy Aserlind氏はこの地に眠っています。研究と指導がてら、重量級で空冷の700cc以上のエンジンを搭載したクルーザー型オートバイのハーレーダビドソン(Harley-Davidson)で遠出をしたり、またスキーを楽しんでいた暖かい人柄の先生でした。私の最初の孫もこの7月からモンタナ州南西部にある都市、人口は5万あまりのボーズマン(Bozeman)で就職します。

Bozeman, Montana


(2024年5月5日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州メリーランド州・Old Line State

注目

メリーランド州(Maryland)のナンバープレートです。州のニックネームである「憲法に署名した由緒ある州」という意味の「Old Line State」とか「自由を求める州)」(Free State) 「チェサピーク湾を護れ」(Protect the Chesapeake)などが記されています。デザインもさまざまでカラフルなプレートです。州名の発音が心地良い響きもっています。

License Plate of Maryland

メリーランド州は、首都ワシントンD.C.(Washington D.C.)のすぐ北隣りにあります。ペンシルバニア州(Pennsylvania)やデラウエア州(Delaware)とも境をなしている大西洋岸の州です。州都はアナポリス(Annapolis)、最も大きな町はボルチモア(Baltimore)です。

紀元前10,000年頃、氷河期後期の狩猟民族が最初に居住します、その後ナンチオケ族(Nanticoke)とピスカタウェイ族(Piscataway)が居住しました。1608年、イギリスのジョン・スミス少佐(Capt. John Smith)がチェサピーク湾(Chesapeake Bay)の海図を作成します。ヴァジニア州(Virginia)の北に隣接するメリーランド州は、株式会社ではなく個人経営者によって管理された最初の英国植民地でした。

最初メリーランドにやってきたのはイギリス諸島(British Isles)出身の白人でした。1700 年代にドイツ人(German)の農民や職人がペンシルベニア州からメリーランド州西部に移住し始めました。こうした人々の流入は、1840年代のアイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)によって加速し、続いてドイツ人やドイツ系ユダヤ人(Russian Jews)が徴兵から逃れ、その後、ポーランド人(Poles)、チェコ人(Czechs)、イタリア人(Italians)、ギリシャ人(Greeks)などが、19世紀の主要な移民センターであるボルチモア(Baltimore)に流入し田園地帯に広がっていきます。

Map of Maryland

Corn Field

こうしたメリーランド州の民族の多様性は、ポトマック川(Potomac River)以南の地域には見られない特徴の1つでした。南北戦争直後、この多様性は、敗北し荒廃した祖国での生活に絶望した南部人の流入によって様変わりしていきます。多くの元奴隷は北のボルチモアに移住し、数世代にわたって自由で確立されていたアフリカ系アメリカ人のコミュニティに加わっていきます。

メリーランド州のアメリカ先住民の人口動態です。1700年頃までに先住民のほとんどは絶滅するか西に押しやられてしまいます。何世紀にもわたって先住民が住んでいた場所として残っているのは、今でも発掘されるキャンプ場の遺物や湾岸にある有名な湾岸のカキ塚、そして理解力のない白人によって改名されチェサピーク(Chesapeake)、パタプスコ(Patapsco)、ポトマック(Potomac)、ウィコミコ(Wicomico)、パタクセント(Patuxent)、ピスカタウェイ(Piscataway)、サスケハナ(Susquehanna)などの地名だけです。

ボルチモア卿(Lord Baltimore)であるジョージ・カルバート(George Calvert) は、1632 年に国王から土地の補助金を与えられるまで、数多くの植民地化計画の投資家でした。彼はイングランドの法律から逸脱しない限り、植民地の貿易と政治システムを支配することができました。

ボルチモアの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死によりこのプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)沿いのセント・メアリーズ(St. Mary’s)での入植地を推進します。メリーランド州の入植者たちは、ヴァジニア州からも一部供給を受けて、当初から控えめなやり方で入植地を維持していました。しかし、ヴァジニア州と同様、メリーランド州でも 17世紀初頭の入植地は不安定で洗練されていないことが多かったといわれます。入植地は極めて若い独身男性で構成されており、その多くは期間限定の契約で雇われ、荒野での生活の厳しさを和らげる安定した家族を持つことがありませんでした。

アフリカ人奴隷は、投資家であったカルバート家の時代からメリーランド州で働いていました。多くのメリーランド州民、特にクエーカー教徒の良心は奴隷の存在や扱いに対し疑問を抱いていました。1783年から誘拐されてきたアフリカ人の輸入には重税が課されていました。メリーランド州は1864年まで奴隷制を正式に非合法化しなかったのですが、奴隷制が終わりに近づくとともに、他のどの州よりも多くの自由黒人の自由を保護していきました。こうして南北戦争後、黒人はメリーランド州が旧南部連合の州よりも居心地が良いと捉え、1900年までに、白人による黒人を生涯にわたり所有する権利が剥奪されていきます。

メリーランド大学(University of Maryland)の法学部への黒人学生の入学が認められるには、1934年の連邦最高裁判所の判決が必要でした。メリーランド州がバルチモアを含む区域から黒人代表を連邦議会に送るのは1970年のことです。この理由は、バルチモアの人口の半数以上がアフリカ系アメリカ人となった事情を反映しています。

University of Maryland

21世紀初頭、州の総人口の約3分の2を白人が占め、約3分の1をアフリカ系アメリカ人が占めていました。残りの大部分はアジア系アメリカ人で、少数のネイティブ・アメリカンもいました。現在同州にはヒスパニック系人口も少ないのですが増加の傾向にあります。

メリーランド州は、宗教の自由を確立した最初のアメリカ植民地となります。ペンシルベニアとの境界紛争は、1760年代にメイソン・ディクソン線(Mason-Dixon Line)が引かれたことで決着します。1788年、メリーランド州は合衆国憲法を批准した7番目の州となります。

メリーランドは、1791年に連邦首都の建設地としてコロンビア特別区(District of Columbia:D.C.)を割譲します。さらに1812年戦争(War of 1812)といわれた米英戦争に参戦します。この戦争は、イギリスがアメリカとフランスの貿易を妨害したことなどに対して、アメリカの反発から起こったといわれる戦です。この戦の勝敗はつかず。1814年に講和します。

Annapolis

1845年にアナポリス(Annapolis)に海軍士官学校(海軍大学)(Naval Academy)が設立されます。南北戦争中もメリーランド州は連邦に残りますが、南部からの強い影響によって戒厳令(martial law)が敷かれたりします。戦後は南部と中西部への消費財の重要な中継地として栄えていきます。20世紀には首都ワシントンDCに近く、人口増加に拍車がかかります。

メリーランド州の経済は主に政府サービスと製造業に基づいています。人々の一人当たりの平均収入は2007年から連続全米一となっています。これは、ワシントンD.C.に通う人々が多いこと、ハイテクの産業が多いことなどが理由となっています。350余りのバイオテクの企業が多いのも特徴です。そしてメリーランド大学が科学者や研究者などの専門家を輩出する中心となっています。

US Naval Academy

農業が盛んなのがアメリカのどの州にも共通する特徴です。メリーランド州もそうです。キュウリ、スイカ、スイートコーン、トマト、マスクメロン、カボチャ、梨などが採れます。

アナポリスの海軍士官学校は、ほれぼれするほど綺麗なキャンパスと街並です。ニューヨーク州のウェストポイント(West Point)にある陸軍士官学校(陸軍大学)(US Military Academy)と並び、合衆国の幹部将兵を育てるこの海軍士官学校は、長い歴史を有しています。1976年からは女性の入学も認められています。私と院生がここを訪れたのは2003年でした。D.C.での学会のついでに立ち寄って麦酒を片手に生牡蠣(oyster)を楽しみました。大西洋に抱かれるチェスピーク湾は人々の憩いの場となっています。

Francis Scott Key Bridge

2024年3月26日にボルチモア郊外にかかる全長およそ2.5キロのフランシス・スコット・キー橋(Francis Scott Key Bridge)の支柱に、シンガポール船籍の大型コンテナ船が衝突し橋の大部分が崩れ落ち、複数の車が川に落ちて死者がでました。コンテナ船の電源が切れ操縦がきかなくなり、SOS信号を発信しますがすでに遅しという状態だったようです。1977年開通の橋で半世紀近く経つ橋の老朽化や補強不足の可能性もあると指摘されています。
(2024年4月30日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州メイン州・Vacation Land

注目

メイン州(Maine)のナンバープレートには「Vacation Land」とあります。「The Pine Tree State」とも呼ばれ観光と森林の州を謳っています。多くの州立公園があり、キャンピングなどアウトドアでも盛んなところです。豊富な海産物を背景に観光客には、必ず立ち寄るのが海産物を提供しているレストランとなります。

License Plate of Maine


メイン州は合衆国本土の最東北部に位置する小さな州です。北、東、西側はカナダと長く国境線を有し、南は大西洋がひろがる州です。州の内部には森林が広がり、海岸線は観光地として知られています。メインはニューイングランドの一部です。州都はオーガスタ市(Augusta)です。州の海産物はなんといってもロブスター(lobster)そして貝類(clam)。その他、家禽及び卵、乳製品、牛、ブルーベリー(blueberry)、リンゴ、そしてメイプルシロップ(maple syrup)です。他にも産業生産で高いのは材木及び製紙です。合衆国の海軍基地を控え造船も盛んな地です。

Augusta, Maine

現在メイン州となっている領域には、アルゴン族Algonquian)インディアンがこの地域の最古の住民だったいわれています。ヨーロッパからの入植者たちは、ペノブスコット族(Penobscot)とパッサマクオディ族(Passamaquoddy)が川沿いと海岸に住んでいるのを発見します。最初の開拓地は、1604年にフランス人ピエール・デュギュア・シュール・ド・モン(Pierre Duguy Sur de Monts)がサンクロワ島(Saint-Croix Island)に設立したものでした。フランスは1603年にメイン州をアカディア州(Acadia)の一部とし、イギリスは1606年にプリマス社(Plymouth Co)に領有権を与えます。プリマス社はポパム植民地(Popham Colonyをつくりますが、短命に終わります。17世紀にはイギリスが散在する入植地を築きますが、1763年にイギリスがカナダ東部でフランスを征服するまで、この地域は常に地元インディアンとの抗争の地となります。

Map of Maine

メイン州は1652年から1820年のミズーリ妥協により連邦の23番目の州として承認されるまで、マサチューセッツ州の一地区として統治されます。カナダとの境界は1842年に定められました。19世紀には南北戦争と産業革命によって労働者と資本がメイン州から流出しますが、20世紀には南西部の沿岸地域を中心に緩やかながら着実に経済成長を遂げていきます。経済は農業と天然資源に基づいています。

アメリカ独立戦争(War of Independence)や米英戦争(War of America)のとき、アメリカの愛国者とイギリス軍がメインの領土を巡って争います。これはアルーストック戦争(Aroostook War)と呼ばれます。メイン州と英国系カナダ人のニューブランズウィック州(New Brunswick)の間で係争中であった境界線を巡る無血紛争です。

Pine Trees in Fall

アメリカ独立戦争に締結された1783年の平和条約では、2つの地域を分ける「高地」(highlands)、つまり分水嶺の位置が不明瞭なままになっていたのです。その後数年間、イギリスとアメリカの交渉は合意に至らず、この問題はなぜかオランダ国王(Netherlands)に付託され、1831年にオランダ国王が決定を下しますが、メイン州国民はそれに激しく反対し合衆国上院(Senate)も否決をすることになります。さらに、ニューイングランドからの入植者とカナダからの製材業者が係争地域アルーストック地域に移住し、1838年から1839年にかけて紛争は激化します。双方の役人や集団が「不法侵入者」を逮捕して捕虜にします。

Frenchman Bay

1839年3月、ケベック州(Quebec)のイギリス軍がアルーストックのアメリカ地区であるマダワスカ(Madawaska)に到着すると、メイン州議会は直ちに80万ドルを計上し、1万人のボランティア民兵を招集しアルーストックに派遣します。アメリカ議会も5万人の兵士と1,000万ドルの拠出を可決し、ウィンフィールド・スコット(Winfield Scott)将軍はマーティン・ヴァン・ビューレン(Martin Van Buren)大統領によってメイン州オーガスタ行きを命じられます。1839年3月、彼とイギリスの交渉官ジョン・ハーヴェイ卿(Sir John Harvey)とスコットは、満足のいく解決が得られるまで停戦することと、係争中の領土を共同で占拠することに合意します。後の1842年にメイン州とイギリスの植民地であったカナダ・ニューブランズウィック州の境界線の位置を巡る紛争は、ウェブスターアッシュバートン条約(Webster-Ashburton Treaty)によって解決されます。

1820年まではメイン地区としてマサチューセッツ州(Massachusetts)に属していましたが、1820年の住民投票でマサチューセッツ州からの分離を決め同年の3月15日にアメリカ合衆国23番目の州に昇格します。

Lighthouse in Maine

メイン州は19世紀の緩やかな成長を経て、20世紀後半に25万人近くという前例のない人口増加を経験します。この成長の大部分は、特に州の沿岸部と南西部への移民の結果でした。しかし、アルーストック郡(Aroostook)は実際に人口の10分の1近くを失い、人口は減少し続けています。

メイン州の人口は均等に分布していません。住民のほぼ4分の3が、メイン回廊(Maine Corridor)として知られる州の南西5分の1に住んでいます。州の北西部と東部内陸部にはメイン州の人口の1% 未満が含まれていますが、面積の5分の2を占めています。

メイン州の住民の約半数は都市中心部に分類される地域に住んでいますが、人口が25,000人を超える都市は3つだけです。都市中心部のほとんどはメイン回廊内にあります。メイン州最大の都市圏は、ポートランド(Portland), サウス ポートランド(South Portland),ビデフォード(Biddeford)などです。ポートランドは、キャスコ湾(Casco Bay)とその周辺の内陸に広がる大都市圏の中心です。州の商業と交通の中心地であり、その経済は成長し多様化した産業基盤を持っています。ポートランドの南にあるビデフォードは、かつては繊維の中心地でした。繊維と靴の重要な製造の中心地であったルイストン(Lewiston)とオーバーン(Auburn)の双子の都市は、州内で2番目に大きな都市圏を形成しています。

Village in Maine

現在、この地域は多様な製造業に依存しており、アンドロスコッギン(Androscoggin)渓谷とオックスフォード(Oxford)郡東部の両方にサービスを提供する重要な商業拠点となっています。バンゴー(Bangor)は、ペノブスコット川(Penobscot River)の航行の始点にある古い製材業の町で、メイン州の北部と東部を含む広大な後背地の商業の中心地です。

Camden, Maine

州都オーガスタはケネベック川(Kennebec River)の航路の先端にあります。州政府が主な雇用源でオーガスタはメイン州中西部の重要な貿易の中心地でもあります。オーガスタの北、ケネベック川沿いにあるウォータービル(Waterville)は、隣接するコミュニティとともに、20世紀後半に製造業へと転換し、小規模で多様な産業が集積し、オーガスタと同様に地域貿易の中心地となっています。

Augusta, Maine


(2024年4月27日)

ミネソタの伝説的人物・ポール・バニヤン

注目

ポール・バニヤン(Paul Bunyan)は、巨大な木こり(lumberjack)で、アメリカの森林キャンプでの神話上の英雄であり、大きさや強さ、みなぎる活力を象徴する架空の人物です。 ポール・バニヤンの伝説を形成する物語や逸話は、辺境のほら話(folk tale)の伝統であり、その典型とされて子ども達から大人まで親しまれています。

Paul Bunyan and Babe the Blue Ox

バニヤンには二人の仲間がいます。ベイブ・ザ・ブルー・オックス(Babe the Blue Ox)という巨大な雄牛とジョニー・インクスリンガー(Johnny Inkslinger)です。インクスリンガーは聡明な記者で詩人でもあり、彼は材木キャンプの食事を美味し作る料理人ですが、落ち着きがなく、自分にとってキャンプよりも人生の方が重要であると考える人物です。

三人は何ヶ月も続く雨、巨大な蚊、悪天候にも動じません。この物語は、湖や川を思いのままに造るバニヤンがどのようにしてワシントン州(Washington)のピュージェット湾(Puget Sound)、コロラド州(Colorado)のグランドキャニオン(Grand Canyon)、ノースダコタ州(North Dakota)のブラックヒルズ(Black Hills)を創造したかを語っています。

Paul Bunyan Land

彼らは製材業者の驚異的な食欲に驚きます。そのためバニヤンの森林キャンプ用ストーブは4047平方メートルですから、サッカーグラウンド1つ分の大きさで、ホットケーキの鉄板は非常に大きいため、スケート靴の側面を使用して油を塗るという按配です。そうして製材業者の食欲を満たすのです。といったように奇想天外なストーリーが展開します。

口頭伝承から記録されたポール・バニヤンのいくつかの逸話は、最初のバニヤンの物語がジェームズ・マクギリヴレー(James MacGillivray)によってデトロイト・ニュース・トリビューン(Detroit News-Tribun)上での「ザ・ラウンド・リバー・ドライブ」(The Round River Drive)で紹介されます。マクギリヴレーは、ポール・バニヤンはすでにペンシルベニア(Pennsylvania)、ウィスコンシン(Wisconsin)、および北西部の製材業者に知られていたことを書いています。

プロの作家によって、バニヤンは職業上の人物という描写から国民的な伝説に変わっていきます。バニヤンは、ウイリアム・ローギード (William.Laughead)というミネソタ州の広告マンよって初めて一般聴衆に紹介されます。彼は、1914年頃に材木会社の製品を宣伝するために使用した一連のパンフレットにバニヤンを登場させるのです。

Paul Bunyan

やがて作家のエスター・シェパード(Esther Shephard)に影響を与え、シェパードは1924年にポール・バニヤンの神話上の英雄についての本を書きます。こうした本は幅広い大衆向けにバニヤンのイメージを一新していきます。こうした作家によるバニヤンにまつわるユーモアは、製材技術の知識ではなく、バニヤンの巨大さに焦点を当てて読者を魅了します。

やがて バニヤンの伝説は、数多くの児童書や観光客を誘致するために1950年にミネソタのブライナード(Brainerd)造られた「バニヤンランド」とか、同州北部にあるベミジ(Bemidji) にあるバニヤンと雄牛の像が、1988年以来国家歴史登録財(National Register of Historic Places)に登録されて、市民フェスティバルなどによってさらに有名になります。
(2024年4月18日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミネソタ州・10,000 Lakes

注目

ミネソタ州(Minnesota)のナンバープレートには「10,000 Lakes」と印字されています。無数の湖があることでも知られています。昔、氷河がミネソタ全体を覆っていたようです。氷河はゆっくり移動しますが、そのとき大地を削っていきます。それが基で湖が出来たというわけです。あまりに沢山の湖があるので、目的地に着くには大分迂回しなければならないということを友人から聞いたことがあります。ホリネズミ(Gopher)が生息することから「Gopher State」というニックネームもあります。

License Plate of Minnesota


カナダと国境を接し、ウィスコンシン州の西隣に位置する州です。州都はセントポール(St. Paul)。その隣は最も大きな都市、ミネアポリス(Minneapolis)です。この二つは隣合わせなので「双子の都市」(Twin Cities)と呼ばれています。

Twin Cities

19世紀初頭に最初にミネソタに定住したのはイギリス人(English)、スコットランド人(Scottish)、スコットランド系アイルランド人(Scotch-Irish)の子孫であるカナダ人やニューイングランド人(New Englanders)でした。やがてこうした人々のほとんどが起業家(entrepreneurs)となり、ミネソタ歴史協会(Minnesota Historical Society)、ミネソタ大学(University of Minnesota)、立法問題を議論するためのコミュニティの集まりのための討論会やタウンミーティング(Town meetings)のための公開フォーラムの利用など、ミネソタ州で今も重要な機関や多くの伝統の確立に貢献しました。1858 年にミネソタ州が州となる前から、いくつかのコミュニティでタウンミーティングが開催されていました。

Minnesota Lakes

19世紀後半の最初の主要な移民グループは、伐採、鉄道建設、農業、貿易を行ったドイツ人(Germans)、スウェーデン人(Swedes)、ノルウェー人(Norwegians)でした。 ドイツ人入植者がミシシッピ川の沿岸部を支配し、州の中央部と中南部まで続きます。ノルウェー人入植者は郡の南層を越えて西に移動し、ミネソタ州中西部とレッド川(Red River)渓谷に主要な民族グループを形成します。 スウェーデン人入植地の主な地域は、ツインシティのすぐ北にあるいくつかの郡と、ミネソタ州中西部および北西部に点在していきました。

ヨーロッパ人が入植する以前、この地域にはオジブワ族(Ojibwa)とダコタ族(Dakota)が住んでいました。17世紀半ば、フランス人探検家たちが北西航路(Northwest Passage)を探しにやってきます。ミネソタ準州(Minnesota Territory)となった北東部は、フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にフランスからイギリスへ、そして独立戦争後の1783年にアメリカへ渡り、1787年に北西準州の一部となります。

Missouri River

かなりの数のフィンランド人(Finns)がミネソタ州北東部に定住し、ポーランド人(Poles)がミネソタ州南東部と中央部に定住します。ツインシティズ地域の南にボヘミアン人(Bohemians)が、南部全域にアイルランド人、ツインシティズのすぐ北とミネソタ州北西部にフランス人およびフランス系カナダ人(French Canadians)も定住します。一部にオランダ人(Dutch)およびフランドル人(Flemish)が住んでいます。ミネソタ州南西部にはアイスランド人、ミネソタ州北西部にはアイスランド人、そして州内に点在するデンマーク人(Danes)、ウェールズ人(Welsh)、スイス人(Swiss)が住んでいます。

1890年までに、ミネソタ州の生産的な農地のほとんどが所有権を主張されていました。したがって、その後数十年間に到着した移民のほとんどは、雇用の機会が拡大していたツインシティ地域または鉄山地帯で生計を立てようとしました。これらの後の移民グループには、イタリア人(Italians)、スロバキア人(Slovakians)、クロアチア人(Croatians)、セルビア人(Serbs)、ギリシャ人(Greeks)、ウクライナ人(Ukrainians)、ロシア人(Russians)が含まれ、さらに北ヨーロッパ人(northern Europeans)も引き続き流入しました。特にツインシティ地域は急速に成長し、州の主要なるつぼとなりました。しかし、元の民族クラスターの多くは、特に移民がほとんど定住していない農村部では、ある程度の均質性を保っています。

Map of Minnesota

1970 年代半ば以来、ヒスパニック系(Hispanic)、アジア系(Asians)、アフリカ系の移民が州の都市部や地域の中心部に到着しています。ミネソタ州のヒスパニック系人口は1990年代初頭から2004年頃までに 3倍に増加し、現在では総人口の約4パーセントを占めています。ベトナム人(Vietnamese)、ラオス人(Laotians)、カンボジア人(Cambodians)、モン族(Hmong)の難民は、1970年代後半からツインシティ地域に移住しました。実際、ミネソタ州にはアメリカで最大のモン族人が住んでいます。

南西部は1803年にルイジアナ購入(Louisiana Purchase)の一部としてアメリカが獲得し、北西部は1818年に条約により英国からアメリカに割譲されます。1819年にフォート・スネリング(Fort Snelling)に合衆国最初の永住地が建設されます。1849年に設立されたミネソタ準州には、現在のミネソタ州とノースダコタ州およびサウスダコタ州の東部が含まれていました。

ミネソタ州は1858年にアメリカ合衆国32番目の州となります。1862年にミネソタ州南部でスー族の反乱が起こり、500人以上の市民、兵士、ダコタ族が死亡する事件が発生します。1884年に商業的な鉄鉱石生産が始まり、1890年に州北部のメサビ山脈(Mesabi Range)の巨大な埋蔵鉄が発見されると、ダルース(Duluth)の人口は急速に増加します。

Nature of Minnesota

ミネソタ州は政治的に活発な市民が多いことで知られています。人々が政治に関わるという意識が高いのです。そのせいか、ミネソタ州の投票率は常に高いことで知られています。2008年の米大統領選挙では、投票権を持つミネソタ州民の78.2%が投票しています。これは全米平均の61.2%に対して全米で最も高い割合となりました。現在も民主党の牙城となっている州の一つです。

ミネソタ州からは二人の民主党員の副大統領がでています。1964年、合衆国大統領選挙で第38代副大統領となったハンフリー(Hubert Humphrey)で大統領はリンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)でした。1977年、大統領選挙で第42代副大統領になったのはモンデール(Walter Mondale)で、大統領になったのはジミー・カーター(James Carter)でした。

現代のミネソタ州ではサービス業が主な経済活動です。農業、特に穀物、肉、乳製品は依然として重要であります。鉄鉱石のほか、花崗岩や石灰岩などの鉱物資源にも恵まれています。

Cliffs and Fall

双子の都市ではプロ野球球団のMinnesota Twinsがあります。フットボールではMinnesota Vikingsが知られています。精密機器などの産業でも有名です。穀物の集散地であります。穀物メジャーで穀物市場を支配するカーギル(Cargill)がります。穀物のみならず精肉・製塩など食品全般及び金融商品や工業品に営業範囲を広げています。ミネソタ州には、3Mという世界的化学・電気素材メーカーの本社もあります。この会社には経営手法として「15パーセントカルチャー」(15% Culture) というのがあります。従業員が勤務時間の15%を日々の仕事にとらわれない研究活動にあてることを許すという興味ある不文律です。その他、合衆国内で最大のショッピングモール「Mall of America」は日本人の観光客も立ち寄るところです。

私事ですが、ミネソタ大学の友人が多く住んでいて何度もミネアポリスを訪問しました。私に洗礼を授けてくれたルーテル教会の牧師先生のご家族もここに住んでおられます。北米やカナダに伝わるおとぎ話に登場するのが巨人ポールバニヤン(Paul Banyan)です。西部開拓時代にミネソタ州でも活躍した怪力無双の木こりの物語です。次回ではこの人物を取り上げます。
(投稿日時 2024年4月月13日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミズーリ州・Show Me State

注目

ミズーリ州(Missouri)のニックネームは「Show Me State」となっています。これは、「俺は疑い深いのだ、証拠を見せてくれ。」という意味です。少々のことでは納得しない、という気概が感じられます。このフレーズがナンバープレートにプリントされています。

License Plate of Missouri

ヨーロッパ人が征服する前、ミズーリ州となる土地は多様な先住民族の本拠地でした。古代クローヴィス(Clovis)やフォルサム(Folsom)の文化複合施設の多くの遺跡から、人類は紀元前 9000 年頃からこの地域に居住したことが明らかになりました。最も著名な古代社会は「ミシシッピ文化」(Mississippian culture)と呼ばれ、現在の最大の先史時代の都市であるカホキア(Cahokia)の彫像(effigy)と古墳(burial mounds)で知られていました。

Map of Missouri

「ミシシッピ文化」とは、住居や墳墓などを建設するために、人工のマウンドを構築したインディアン文化です。およそ800年から1500年まで、現在のミズリー州などの中西部、東部および南東部に広まりました。墳墓の技術からみてヨーロッパの銅器時代にあたるされています。ミシシッピ文化の生活様式はミシシッピ川渓谷で発展し始めます。これらの遺跡からはヨーロッパ白人による遺物がほとんど見つかっていないので、白人との接触以前のものとされています。

ミズーリ州の先住民は一般に、北東インディアン文化(Northeast Indian)と平原インディアン文化(Plains Indian)として知られる2つの大きなカテゴリーに分類されます。北東インディアンの人々は、州の森林の多い東部全域に分散して集落や村に住んでいました。彼らはトウモロコシ農業、野生植物食物の採集、狩猟、漁業を組み合わせて生計を立てていました。州名は、このグループの最も著名な地元部族であるミズーリ族(Missouri)の名前から由来しています。平原インディアンは州の西部に住んでいました。オーセージ族(Osage)やクアポー族(Quapaw)などの人々のことで、この地域の川の谷に住み、東部の人々と非常によく似た生活をしていました。

この地域にはもともとさまざまなインディアンが居住していて、そのうちの1つであるミズーリ族(Missouri)が州名の由来となっています。1735年、フランス人猟師と鉛鉱夫によってセント・ジュヌビエーブ(Ste. Genevieve)に最初のヨーロッパ人定住地が作られます。やがてセントルイス(St. Louis)が1764年に設立されます。もともとの開拓には、フランスから移民としてやってきて、カナダでフランス植民地をつくった人々がミズーリにやってきたとあります。そのせいか、フランスの名前が目立ちます。

Lake Ozark

それから約30年後、ニューオーリンズ(New Orleans)出身のフランスの毛皮商人ピエール ラクレード リゲスト(Pierre Laclède Liguest)がセントルイス(St. Louis)を設立します。1803年のルイジアナ(Lousiana)買収当時、この地域の約10,000人の住民のほとんどはイリノイ州からのフランス人入植者でした。この地域の白人人口のごく一部はケンタッキー州 (Kentucky)とテネシー州(Tennessee)からやって来ており、ヴァジニア州(Virginia)とともに19世紀前半を通じて直接の入植者の主要な供給源となりました。

他方、特に18世紀前半に、新たな先住民集団がミズーリ州に流入してきます。これらのグループには南東部インディアンの小さなコミュニティが含まれており、彼らは北アメリカ南東部でヨーロッパの植民者との紛争を避けようとして、現在のミズーリ州東部に移住し始めました。ミズーリ州西部では、平原の人々の多くが馬を利用できるようになり、スー族(Sioux)などの騎馬遊牧民が存在するようになりました。

アメリカは1803年にルイジアナ購入の一部としてこの地域の支配権を得ます。1805年にはルイジアナ準州の一部となり、1812年にはミズーリ準州となります。1812年の戦争後、アメリカ人入植者の流入が起こります。ミズーリ州は1821年にアメリカ24番目の州となりますが、ミズーリ妥協案(Missouri Compromise)によって奴隷州として認められた後でした。1857年のドレッド・スコット(Dred Scott)判決に見られるように、ミズーリ州は奴隷所有者と奴隷廃止論者の間で多くの緊張に見舞われます。南北戦争中もミズーリ州は連邦に属し、市民は両陣営で戦うという有様でした。

ドレッド・スコット判決とは、合衆国における黒人奴隷制をめぐる賛成派と反対派の激しい論争で起こった裁判です。1857年、合衆国の連邦最高裁判所がミズーリ協定を憲法違反とし、自由州での奴隷所有を認めた判決です。カンザス・ネブラスカ法とともに奴隷制拡大派の民主党の主張に沿ったものでした。その結果、奴隷制度に反対するリンカーンらの勢力が反発し、共和党に結集し南北戦争の引き金となります。

戦後、ミズーリ州の経済成長は拡大し、1904年のセントルイス博覧会で賞賛されます。第二次世界大戦後、経済は農業から製造業に移行していきます。主にオザーク(Ozarks)地方を拠点とする鉛の生産では全米トップとなっています。

ミズーリは、合衆国中西部のミシシッピ川沿いの内陸にあります。8つの州にまたがるところでもあります。州都はジェファーソン・シティ(Jefferson City)。同州を代表する都市はなんといってもセントルイス(St. Louis)です。ミシシッピ川に面するこの町は、開拓時代より西部への玄関口として発展し、現在では中西部きっての観光地となっています。ミズーリ州出身の小説家にマーク・トウェイン(Mark Twain)がいます。『トム・ソーヤーの冒険』(The Adventures of Tom Sawyer)の著者として知られ、数多くの小説やエッセーを発表します。当時最も人気のある著名人の一人で、ユーモアと社会風刺に富んだ作品で知られています。

Mark Twain

ミズーリ州の発展は人や物の流通、電力の供給をささえているミズーリ川(Missouri River)にあります。その流域面積はアメリカ合衆国本土のおよそ6分の1に達する規模です。20世紀には上流に洪水防止、灌漑、水力発電用のダムがいくつもつくられます。フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)大統領が1944年洪水調整法(Flood Control Act of 1944)に署名した後、ミズーリ川を北アメリカ最大の貯水システムに変えたのです。

ミズーリ州は、大理石の生産で知られています。その他、鉛、石炭、採石が生産されています。ミズーリ川とミシシッピ川(Mississippi River)がこうした資源を運ぶ大動脈となっています。川には大小多くのバージ(barge)と呼ばれる運搬船が往来しています。ミズーリ川はミシシッピ川の最長の支流であり、北米で2番目に長い川です。この川は、モンタナ州南西部のロッキー山脈(Rocky Mountains)地域にある、海抜約1,200メートルのジェファソン川(Jefferson)、マディソン川(Madison)、ガラティン川(Gallatin)の合流点によって形成されています。ミズーリ州本土の総コースは3,726kmです。ミズーリ州とレッドロック川 (Red Rock River)水系の全長は約 4,090 kmで、アメリカで3番目に長い水系です。この川は カンザス州カンザスシティ(Kansas City)で川は再び東に向きを変え、ミズーリ州中西部を東に蛇行してセントルイスの北約16kmでミシシッピ川に合流します。

Missouri River

セントルイス市内には「Gateway Arch」アーチがそびえています。頂上からの眺めは、ミシシッピ川をはさんで360度の景色が楽しめます。ここには、Gateway Archが建設される様子の資料が展示されています。あの壮麗なアーチが出来上がる様をつぶさに映像で説明しています。ミズーリの主要産業は、航空宇宙産業、輸送設備、食品加工、化学工業、印刷/出版、電気設備、製造業など多彩です。農業生産品は、牛肉、大豆、豚肉、乳製品、干し草、トウモロコシ、ニワトリなどの家禽、及び 鶏卵です。特に豚や牛の生産が盛んです。近年はワイン産業の育成にも州は力を入れています。

第33代大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)はミズーリ出身です。民主党ではめだたない政治家でしたが、党内のニューディール派と保守派の妥協によってフランクリン・ルーズヴェルト大統領(Franklin Roosevelt)の副大統領に選出されます。ルーズヴェルトの死去により大統領になります。トルーマンは、ポツダム宣言発表前の7月25日に既に原爆投下を命令し、戦後は共産主義者摘発の「赤狩り」と呼ばれたマッカーシズム(McCarthyism)を黙認します。

Gateway Arch

面白い話題がミズーリ州にはあります。それはアルコールやタバコの生産にまつわることです。ミズーリは他の州に比べて、アルコールやタバコの規制が緩やかなことです。例えば、未成年の子どもに保護者が酒をのませることを認めたり、21歳以上であれば道端でプラスチックのカップなどで酒を飲むことができるなどです。禁煙運動が盛んな国としては、大変珍しいことです。バドワイザー(Budweiser)を製造するアンハウザー・ブッシュ(Anheuser-Busch)の本社もここにあります。

USS Missouri

ミズーリの高等教育機関といえば、セントルイスにあるワシントン大学(Washington University in St. Louis)を挙げなければなりません。ワシントン大学というと、ワシントンD.C.にある大学とかシアトルにあるワシントン大学(University of Washington)だと誤解されがちですが違います。セントルイスにあるのです。特に医科大学院は業績において世界的な知名度を誇り、中規模な大学にもかかわらず22名のノーベル賞受賞者を輩出しています。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ミシガン州・Great Lake State

注目

ミシガン州(Michigan)のナンバープレートには「Great Lake State」と印字されています。自然豊かなという意味の「Pure Michigan」もあります。五大湖を指しています。その名の由来は、オジブエ語(Ojibwe)のガリシア語化(gallicized variant)した変化形から由来し「大きな水」または「大きな湖」を意味するようです。「水と冬の驚きの地」(Water-Winter Wonderland)とか「 五大湖の素晴らしさ」(Great Lake Splendor)というフレーズもナンバープレートに見受けられます。

License Plate of Michigan

ミシガンは北はカナダと国境を接しスペリオル湖(Lake Superior)、ヒューロン湖(Lake Huron)を抱え、西はウィスコンシン州、南はインディアナ州とオハイオ州に接しています。州都はランシング(Lansing)で最大の都市はご存じデトロイト(Detroit)です。デトロイト国際空港は6本の滑走路を有し、デルタ航空(Delta Airlines)及びスピリット航空(Spirit Airlines)などの一大ハブ空港となっています。

Map of Michigan

ヨーロッパ人入植者が到着する前、ミシガン州にはいくつかの先住民族が住んでいて、そのほとんどがアルゴンキン語族(Algonquian)でした。先住民の大多数は湖岸近くに住み、水路を利用して移動していました。南部のポタワトミ族(Potawatomi)とオタワ族(Ottawa)は主に農民で、トウモロコシ、タバコ、ヒマワリ、カボチャを栽培し、周囲の森林から農産物も収穫していました。これらの南部の人々は比較的定住していました。対照的に、寒冷な北部に広く点在するオジブワ族は、狩猟と漁業の生計を立てて季節ごとに移動しました。1622年にエティネ・ブルーレ(Etienne Brule)というフランス人探検家がやってきて、その後宣教師や毛皮商人らが入植し、1668年にスーサント・マリー(Sault Sainte Marie)、1701年にデトロイトを建設します。

ヨーロッパ系ミシガン州の初期入植者のほとんどは、1830年代に一般に「ミシガン熱」(Michigan Fever)と呼ばれる移民の波の一環として、この地域にやって来ます。入植者の多くはエリー運河(Erie Canal)を経由してニューヨーク州(New York)からやって来ました。1850年までに、ニューヨークからの移民がミシガン州の人口の約3分の1を占めるようになります。1820年から1834年の間に、ミシガン準州の人口は10倍に増加しました。

初期の非英語圏移民の中で最も多かったのはドイツ人(Germans)です。デトロイトには1830年代半ばまでにかなりのドイツ人コミュニティが形成され、1850年までにいくつかの農村地域も形成されました。アイルランド人(Irish)の農民はミシガン州南部に見られ、1860年までにはアッパー半島(Upper Peninsula)にも見られましたが、大規模なアイルランド人人口は基本的に都市部で占めていました。オランダ(Holland)の影響は、1847年にオランダ人(Dutch)入植者が開拓に成功したオランダとゼーラント(Zeeland)周辺の西部の郡に今もはっきりと残っているといわれます。

フィンランド人(Finnish)、アイルランド人(Irish)、コーンウォール人(Cornish)はアッパー半島の経済的および文化的生活において重要な存在であり、そこでは多くが鉱山労働者として働いていました。初期のポーランド人(Polish)移民は1890年代まで農村部に定住し、1890年代には多数のポーランド人がデトロイトに集中しました。現在、この都市の人口にはポーランド系の人々が多く含まれています。最近では、ヒスパニック、アジア人、中東からの移民がミシガン州の民族混合に貢献しています。この州にはシリア人(Syrians)、レバノン人(Lebanese)、イラク人(Iraqis)、パレスチナ人(Palestinians)、ヨルダン人(Jordanians)、イエメン人(Yemenis)などが含まれる中東系の人々が住む国内最大規模の州の一つとなっています。彼らはディアボーン(Dearborn)付近に集中しています。

Michigan Foods

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にイギリスがミシガン州を支配し、1783年にアメリカに返還されます。1787年にはノースウエスト準州(Northwest Territory)に、1800年にはインディアナ準州(Indiana Territory)に含まれていきます。1805年にロウアー半島(Lower Peninsula)にミシガン準州が編成されます。1812年の戦争でイギリスに降伏したのですが、1813年にオリバー・ペリー(Oliver Perry)がエリー湖の戦い(Battle of Lake Erie)で勝利したことによりアメリカの支配が回復します。

20世紀初頭以降の最も重要な人口現象は、アフリカ系アメリカ人コミュニティの成長で、これは主に南部のアフリカ系アメリカ人の田舎から北部の都市部への大移動の結果です。1900年には16,000人未満でしたが、 21世紀初頭までに100万人をはるかに超えていきます。ミシガン州のアフリカ系アメリカ人住民のおよそ半数がデトロイトに住んでおり、人口の5分の4以上を占めています。また、フリント(Flint)やサギノー(Saginaw)の古い地区や中心市街地には、大規模なアフリカ系アメリカ人コミュニティがあります。

ミシガン州の宗教の歴史は、初期にローマ・カトリックが優勢であったという点で、中西部の他の多くの州とは多少異なります。デトロイトへの最初のヨーロッパ人入植者はフランス人のローマ・カトリック教徒であったため、19世紀にアイルランド人、イタリア人、ポーランド人が大規模に移民する前から、その信仰を持つ多くの移民がこの街に惹き付けられました。デトロイトは1833年に教区となり、1937 年に大司教区となりました。その他の教区はマーケット(Marquette)、グランドラピッズ(Grand Rapids)、ランシング(Lansing)、サギノー(Saginaw)、ゲイロード(Gaylord)、カラマズー(Kalamazoo)にも設立されました。

Mackinac Island

プロテスタントの宗派のうち、ルーテル派にはドイツ人やスカンジナビア人の信者が多く、メソジスト派はミシガン州の地方と都市部の両方で定住します。最初のオランダ人入植者は、オランダ国教会に反対するキリスト教改革派教会の会員でした。ミシガン州の改革派の会衆は、分離元のオランダ教会からはっきりと独立し、その状態は今も続けています。長老派教会、バプテスト派、聖公会教会員も多数います。ミシガン州には全体としては数多くのプロテスタント宗派があり、中には信徒数が少ない宗派もあります。

ミシガン州への最初のユダヤ人(Jewish)移民はドイツ系でした。1851年にデトロイトのユダヤ人がシナゴーグ(synagogue)と呼ばれる会堂を設立しました。 州内のシナゴーグにはあらゆる形態のユダヤ教が反映されています。州のアラブ人(Arab)人口の一部はイスラム教徒(Muslim)であり、そのほとんどがイスラム教シーア派(Shiite)を信奉しています。しかし、デトロイト地域では大部分がアラブ系カトリック教徒の数がアラブ系イスラム教徒(Arab Muslims)の数を上回っています。

話題はミシガン州の領土に関わることです。トレド戦争(Toledo War)として知られるオハイオ州との境界紛争は、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)大統領によって解決され、ミシガン州はアッパー半島(Upper Peninsula)を獲得し、その補償として州としての地位を得ます。そして1837年には合衆国26番目の州となります。南北戦争では北軍(Union)に大きく貢献します。

20世紀には自動車産業が州の経済を支配していきます。ミシガンは自動車工業発祥の州として知られています。その中心はなんといってもデトロイトでしょう。「自動車の街」とも呼ばれています。デトロイトとは、フランス語で「水道」を意味する「ル・デトロワ(Le Detroit)」に由来します。五大湖のうちの4つに囲まれるという地の利が自動車産業を支えてきました。ゼネラルモーターズ(GM)、フォード(Ford)、クライスラー(Chrysler)のビッグスリーの本社がデトロイトとその近郊にあります。

その他の産業も盛んです。アムウェイ(Amway)、穀物のケロッグ(Kellogg)、ダウケミカル(Dow Chemical)、ワールプール(Whirlpool)などの本社もここにあります。しかし、デトロイトのダウンタウン周辺の空洞化は続いていて、駐車場や空地、全くテナントのいない高層ビルも存在しています。富裕層は郊外に移住して貧賤な層が取り残され、治安の改善もあまり進んでいないのが今のデトロイトです。

ミシガンは一大レクリエーションの州でもあるのをご存じでしょうか。2005年の統計によるとミシガンはカリフォルニア、フロリダに続き全米で第三番目の観光客を集めた州といわれるほど自然に恵まれたところです。6,500の湖や沼が広がるというのですから、レクリエーション客を惹き付ける理由もうなずけます。4つの湖の側はどこも州立公園や観光地といってよいほどです。いくつかを紹介しましょう。

カナダの国境近くにはマキナック島(Mackinac Island)があります。夏はキャンプ、リゾート、なんでも楽しめます。この島は車禁止。移動手段は「リムジン馬車」か自転車となっています。コロニアルスタイルの建物が並びます。生ガキとキャビア、魚料理の食事もいいです。のんびりと時間が流れるようなところです。ムーリイ岬(Pointe Mouillee )はエリー湖に突き出す砂州のようなところで、世界最大の干潟プロジェクトによる自然保護地区となっています。ミシガンはどこを走っても州立公園でキャンプを楽しめます。広さと清潔さ、そして安全さは多くのリクリエーション客を呼び寄せています。この州にきましたら是非テント持参の野外旅行をお勧めします。ミシガンといえば五大湖といってよいでしょう。

University of Michigan

高等教育機関ですが、研究開発はミシガン大学(University of Michigan)、ミシガン州立大学(Michigan State University)、ウエイン州立大学(Wayne State University)、セントラル・ミシガン大学(Central Michigan University)、ウエスタン・ミシガン大学(Western Michigan University)が担っています。
(投稿日時 2024年4月8日)

ペンシルベニア州アーミッシュ

注目

アメリカ合衆国の特徴といえば、多様性(diversity)という言葉がぴたりと当てはまります。人種、性別、思想、言語、宗教、そして文化のどれにおいても多様な位相を示しています。多様性の語源としては、ラテン語の「divertere」「異なる方向に向ける」から由来すると言われます。多様性の一例が世俗から距離を置く人々の群れです。ペンシルベニア州のランカスター郡(Lancaster)には、アメリカで最も多くの「アーミッシュ」(Amish)の人々が暮らしています。アーミッシュとは、スイス系ドイツ人およびアルザス人 (Alsatian)を起源とする伝統主義的なアナバプテスト派(Anabaptist Christian)キリスト教会のグループです。彼らは、質素な生活、平服、キリスト教平和主義、現代技術の多くの便利さを取り入れることを返上することで知られています。アーミッシュは田舎暮らし、倹約、肉体労働、謙遜、ゲラッセンハイト(Gelassenheit)という神の意志への服従を重んじる人々の一団です。

アーミッシュの日常生活と習慣は、オードヌング(Ordnung)と呼ばれる暗黙の行動規範によって支配されていて、メイドゥン (Meidung)という、コミュニティが回避しなければならない規律を守っています。宗教的な教えにおいては、アーミッシュはメノナイト(Mennonites)とほとんど変わりません。聖餐式(holy communion)は年に2回行われ、信徒同士で足を洗うことで謙遜を覚える洗足式(foot washing)を実践しています。メノナイトとはアーミッシュやクエーカーと共に歴史的平和教会の一つに数えられ、非暴力、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義を掲げるキリスト教宗派です。ボランティア活動に強い宗教的な重要性を置いてもいます。

アーミッシュは17歳から20歳くらいで教会で洗礼を受け正式な信徒として認められ、ます。宗教礼拝は「高地ドイツ語」(High German)で行われ、家庭では高地ドイツ語、ドイツのさまざまな方言、英語が混ざったペンシルベニア・ダッチ語(Pennsylvania Dutch)が話されており、日常会話でもよく使われています。高地ドイツ語とは、ドイツ語の方言を二分した場合の一つで、ドイツ南部の高地などで話され、現在の標準ドイツ語は高地ドイツ語に基づいています。

Buggy


礼拝は家庭や納屋で交代交代で行われます。納屋での礼拝ではベンチが並べられ、その後の食事用の食器や食材を満載した大きなワゴンが礼拝の会場に運ばれてきます。ほとんどのアーミッシュの家庭では、「殉教者の鏡」(Martyr’s Mirror)と呼ばれる聖書を置く特別な場所が作られています。日本の家庭でいえば床の間のような所です。「殉教者の鏡」は、アーミッシュの歴史を記録し、信仰のために命を捧げた多くのアーミッシュ、メノナイト、再洗礼派(Anabaptist)の先祖を讃える本です。アーミッシュとメノナイトのコミュニティにサービスを情報を提供している「バジェット」(The Budget)という60ページ位の週刊誌があります。1890年に創刊され、毎号2万部が発行されています。この新聞はオハイオ州のシュガークリーク(Sugarcreek)という町で出版されています。

アーミッシュは、そのほとんどが自作の私服を身につけ、独自のライフスタイル貫いています。男性と少年は、つばの広い黒い帽子、濃い色のスーツ、襟のないストレートカットのコート、幅広のズボン、サスペンダー、無地のシャツ、黒い靴下と靴を着用します。男性は結婚するとひげを生やしますが、口ひげを生やすことは禁止されています。アーミッシュの中でも、規律や伝統を厳格に守る保守派といわれる「オールド・オーダー・アーミッシュ」(Old Order Amish)の女性と少女は、ボンネット、肩にケープが付いた長い正装、ショール、黒い靴とストッキングを着用します。アーミッシュの女性は髪を切らず、後ろで束ねて、どんな種類の宝石も着用することを禁じられています。アーミッシュの服装は基本的に17 世紀のヨーロッパの農民の服装といわれています。社会の変化を嫌がり伝統を尊重し、世俗の変化に流されないという聖書の解釈を大事にするからだといわれます。

Horse Buggy

「オールド・オーダー・アーミッシュ」は自宅に電話をつけませんが、時折共同電話を使用します。彼らは自動車も使いません。代わりに自転車に乗ったり、バギー(buggy)という馬車を使ったりします。彼らの多くは緊急時には、会社が運行する車、電車、バスに乗ります。バギーは伝統的な箱のような乗り物ですが、必ずしも黒色であるわけではありません。それらの中には白、灰色、さらには黄色のものもあり、バギーの色によってどのアーミッシュやメノナイトのグループなのかが分かります。

バギーには、ヒーター、ワイパー、布張りのシートなどが装備されている場合もあります。しかし、電気は世俗との主要なつながりであり、地域社会や家族生活に有害な誘惑や世俗的な快適さをもたらす可能性があるとして、その使用を強く禁止しています。この禁止の例外としては、法律で点滅灯の設置が決められているとか、コミュニティの経済的生活が脅かされる特定の農機具が含まれています。たとえば、特定の搾乳設備は電気がなければ動作できないこと、電気柵は牛を飼育するために不可欠であると考えられる場合などです。ガスは、バーベキューグリルなどの機器の操作に使用され、ガス圧のランタンやランプは屋内照明に使用される場合もあります。「ニュー・オーダーアーミッシュ」(New Order Amish)と呼ばれる比較的進歩的な人々は、家庭内での電気の使用、車の所有、電話、コンピュータの使用が許されています。

Quilt

アーミッシュは優秀な農民と認められています。食料の大部分を栽培して保管し、店で購入するのは小麦粉や砂糖などの主食のみです。「オールド・オーダー・アーミッシュ」は、最新の農機具のほとんどを使用することを拒否し、現代の便利なものを使うのではなく額に汗して働くことを旨としています。彼らが使用する最新の機械は、多くの場合は電気ではなく、代替電源によって動作します。

アーミッシュは、隣人が総出で手伝う(barn raisings)棟上げ作業を大事にします。 こうした納屋造りの協力的な作業では、男性だけでなく食事を提供する多くの女性も参加します。 棟上げ作業は、アーミッシュの伝統、コミュニティ、産業、工芸を示す例です。納屋を飾るのに使うのが六角形の標識(hex signs) です。これは悪を追い払うために描かれた丸い幾何学模様の紋章(geometric emblems)で、「ペンシルベニア・ダッチ」(Pennsylvania Dutch)の農業コミュニティを表象するものとなっています。「ペンシルベニア・ダッチ」とは、17世紀から18世紀にかけてドイツ語圏からアメリカ合衆国に移住した人々の子孫、いわゆるゲルマン系ドイツ系アメリカ人のことです。

Barn Raising

アーミッシュは通常、自分たちの生活様式の写真撮影をとることを許しますが、彫像を造ってはならないというモーセ(Moses)の十戒(Ten Commandments)にある第二戒(Second Commandment)に違反すると信じて、自分の顔写真を撮ることを禁止しています。同じ理由で、アーミッシュの若い女の子が遊ぶ人形には伝統的に顔がありません。楽器も「オールド・オーダー・アーミッシュ」によって禁止されています。楽器を演奏することは、アーミッシュの生き方の中心にある謙虚さ、形式ばらない精神からみると「世俗的な」行為になると彼らは考えているのです。

アーミッシュが信じている人生は、イエス・キリストを模範として示されるものです。 他のアーミッシュはアコーディオンやハーモニカなどの楽器を私的に演奏することはできますが、公の場では決して演奏しません。しかし、仕事でも遊びでも、家庭でも教会でも、歌うことはアーミッシュの生活にとって重要です。オースバンド(Ausband)と呼ばれる彼らの賛美歌からの抜粋が一般的に歌われています。グループでの歌唱は常にユニゾンであり、決して合唱することはありません。賛美歌を歌うことは日曜の夜、特に若いアーミッシュの間で人気があり、その際には「薄い本」(thin book)と呼ばれる別のテンポの速い賛美歌が歌われます。

Amish Women and Children


アーミッシュの少女や女性のグループが丁寧に縫い上げたキルト(quilts)は観光客に人気があり、コレクターからも高く評価されています。ミツバチの巣のデザインをしたキルト作りはアーミッシュの女性にとって社交とリラクゼーションの一形態といわれます。グループでの作業はコミュニティと協力というアーミッシュの美徳を反映しています。キルトはカラフルな模様を使った複雑なデザインにすることができるのですが、派手で誇り高いと考えられる表現的なパタンがない場合もあります。キルトや六角形をしたヘックスサインなどの手作り工芸品、パンやパンの中身と糖みつを混ぜて詰めた「パイシューフライパイ」(shoofly pie)などの有名な焼き菓子やパンの販売は、アーミッシュの家族の一般的な収入源です。エリザベス・コブレンツ(Elizabeth Coblenz)という女性料理研究家のアーミッシュレシピは何百もの新聞に掲載され、彼女の料理本は国際的に知られています。

アーミッシュの子どもたちは通常、コミュニティが運営するワンルームの学校に8年通います。8年間の就学は1972 年の連邦最高裁判所(U.S. Supreme Court)の判決によって認められました。教師は女性で英語で行われ、読み書き、数学の基礎に重点を置いています。アーミッシュの歴史、農業や家事の実践的なスキルも教えられます。プロテスタントの分離主義派の信徒は他の宗派へ移りがちなのです。同様にアーミッシュの子どもたちを信仰共同体に留まるよう説得するのはしばしば困難なようです。若い男性がメノナイト教会や他のあまり厳格ではない教会に移ると、アーミッシュはよく「髪を切った」“He got his hair cut.”と言います。若者が信仰を完全に放棄すると、その人は「イギリスに行った」“He went English.”と言われます。アーミッシュの若者の中には、教会に献身する決断をする前に、「ラムスプリンガ」(rumspringa)と呼ばれる通過儀礼に参加する人もいます。この期間中、彼らは行動に対する制限が少なく、オルドナングの対象にはなりません。ほとんどの若者は最終的には洗礼を受けることを選択します。

Softball


アーミッシュは控えめで謙遜な生活態度を大事にしていますが、皆で娯楽やゲームを楽しむことは妨げられてはいません。バレーボールとソフトボールは多くのアーミッシュの家族に人気があります。こうしたスポーツは、純粋に楽しみのために行われており、試合ではありません。花畑作りも許されています。 一日の仕事が終わり、子どもたちの学校の勉強がすむと、アーミッシュの家族は一緒に本を読んだり歌ったりして、翌日の家事に備えて早めに就寝するといわれます。

アーミッシュは州や国家の政治には関与せず、平和主義者として兵役にも参加しません。いわゆる「良心的兵役拒否」 (conscientious objection)です。信仰上の理由や広く思想的・政治的な信条から、兵役につくことや兵役に応じても戦闘業務につくことを拒否することです。彼らはまた、社会保障やほとんどの種類の保険を否認し、困っているアーミッシュの家族を助けるために互いに資金を出しあっています。医師、歯科医、眼鏡店に通うこともあります。アーミッシュは質素で穏やかな方法で共同体を維持し、できるだけ社会からの独立を維持しようとしています。こうした世俗から超越した生活態度の人種は世界的に稀なようです。
(投稿日時 2024年4月4日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ペンシルベニア州・Keystone State

注目

ペンシルベニア州(Pennsylvania)は合衆国の北東部の州と南部の州、大西洋岸と中西部を結ぶ地点にあることから、キーストーン・ステート(Keystone State)「礎石の州」とも呼ばれます。これがナンバープレートに印字されています。その他、「自然を護れ」(Conserve Wild Resources) 、「友達がいる」(You’ve got a Friend in)というフレーズのもあります。

License Plate of Pennsylvania

ペンシルベニア州の名前の由来から始めます。17世紀にヨーロッパ人がやってきたとき、この地域にはショーニー族(Shawnee)やデラウェア族(Delaware)などのインディアンが住んでいました。ペンシルベニア州は険しい地形のため、ヨーロッパ人の入植はゆっくりと進みました。

最初に人々はフィラデルフィア(Philadelphia)から西へ北へ移動していきます。入植地が西のペンシルベニア州中央部のリッジ・アンド・バレー(Ridge and Valley)地域に広がるまでには約80年かかったといわれます。州西部では、最初の入植者がヴァジニア州(Virginia)から到着し、ポトマック川(Potomac River)を経由して西に進み、モノンガヒラ川(Monongahela River)に沿って北上し、1750年代にピッツバーグ(Pittsburgh)に到着します。1840年頃に入植者は最後に残った未開発地域、つまり州の北中部の険しい地域に到達しました。こうして最初の開拓地が開発されるまでには、最初の入植から160年位かかります。

Amish in Piedmont

1664年にイギリス人がこの地域を掌握し、1681年にイギリス国王がウィリアム・ペン(William Penn)に勅許を与え、1682年に宗教的寛容に基づくクエーカー教徒(Quaker)がコロニー(colony)を設立します。コロニーとは植民地という意味です。ペンがアメリカに到着する前、ペンシルベニアには数人のスウェーデン人(Swedish)、オランダ人(Dutch)、フィンランド人(Finnish)が入植していました。ペンは宗教的寛容を説き、その実践と民主的な統治の在り方によって、他のグループがペンシルベニアに定住することを奨励します。ペンはクエーカーで、やがてペンシルベニア植民地総督を務め、後にフィラデルフィアを建設した政治家でもあります。フィラデルフィアという単語は、「philos」(愛する)と「adelphos」(兄弟)から生まれています。

William Penn

ドイツ人はペンシルベニア州に移住した最初の主要集団でありました。彼らのほとんどはプロテスタントであり、主流のルター派や(Lutheranism)、カルヴァン派(Calvinism)から、アーミッシュ(Amish)、メノナイト(Mennonite)、モラヴィア派(Moravians)、シュヴェンクフェルダー派 (Schwenkfelders)、ダンカー派(Dunkers)などのさまざまな敬虔な宗派に属していました。アメリカ独立戦争の頃までに、ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)、より正確にはペンシルベニア・ドイツ人(Pennsylvania Germans)として知られていたドイツ系グループが人口の3分の1を占めていました。

ペンシルベニアに定住した次に主要なグループは、北アイルランド(Northern Ireland)出身のスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)などの人々です。彼らは農地を探して西のピードモント州 (Piedmont)西部やリッジ・アンド・バレー(Ridge and Valley)地域にやってきました。革命の時点では、彼らは植民地の総人口の4分の1を占めていました。4番目の主要な移民グループであるアイルランド人(Irish)は、1840年代と50年代にアイルランドのジャガイモ飢饉 (Potato Famine)のために祖国からアメリカに渡ってきます。

Declaration of Independence

当初、イギリスのクエーカー教徒は、デラウェア渓谷(Delaware valley)を占拠する最も重要なグループでした。 フィラデルフィアは、近隣のチェスター郡(Chester)やバックス郡(Bucks)とともに、最初に繁栄した農業商業地域となります。フレンチ・インディアン戦争の戦いの多くはこの地で起こりました。第1回と第2回の大陸会議(Continental Congresses) はフィラデルフィアで開催され、1776年に独立宣言が署名されます。

ペンシルベニアは連邦の原初州の一つであり、1787年に合衆国憲法を批准した2番目の州でもあります。南北戦争中は軍事活動の中心地となりました。ペンシルベニアには豊かな森が広がります。ラテン語で森を意味する「sylvania」にPennをつけたというわけです。その後、ペンシルベニアは開拓されて植民地化されてはいましたが、ペンらはその地の自治を求めて自由憲章の草稿を書きいています。そしてイギリスからの独立を目指していきます。信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立などの精神を訴えます。こうした考えは、その後のアメリカ合衆国憲法の基本となります。

産業革命は、ペンシルベニア州のダイナミックな経済の発展を促します。国内人口が必要な労働力を供給するのに不十分だったため、ペンシルベニア州にはイタリア人(Italian)、ポーランド人(Polish)、ロシア人(Russian)、ウクライナ人(Ukraine)、そしてバルカン地域(Balkan)から大規模な人々が定住していきます。こうして1890年から1900年にかけて州の人口は100万人以上に膨れあがります。この現象は主に鉱山地域や新しい産業の中心地へ人々が移住したことにもよります。20世紀になると、アフリカ系アメリカ人が南部から州に移住し始めます。彼らは現在、州の総人口の約10分の1を占めています。

Pittsburgh

戦後は経済、産業、人口が大きく成長し、商業大国としての地位を固めます。農業、鉱業、製造業、ハイテクを基盤とする経済で、最も繁栄した州のひとつです。州の特産品である鉄鋼の多くを生産し続け、石炭も豊富です。自由の鐘や独立記念館で有名なフィラデルフィアと重要な河港を持つピッツバーグは主要港であり、優れた教育、文化、音楽機関が存在しています。州都はハリスバーグ(Harrisburg)。エリー湖(Erie)やオンタリオ湖(Ontario)に面し、北はカナダとニューヨーク州に接し、東はニュージャージーにつながっています。形が横長の州です。

教育研究の中心は、カーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)やペンシルベニア州立大学(Pennsylvania State University)、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania)などです。日本でも人気のあるフィラデルフィア管弦楽団(Philadelphia Orchestra)はこの州にあります。

州のランカスター郡(Lancaster)には、アメリカ最大のアーミッシュ(Amish)の人々が暮らしています。アーミッシュは、スイス系ドイツ人およびアルザス人 (Alsatian)を起源とする伝統主義的なアナバプテスト派(Anabaptist Christian)キリスト教会のグループです。彼らは、質素な生活、平服、キリスト教平和主義、現代技術の多くの便利さを取り入れることを返上することで知られています。アーミッシュは田舎暮らし、倹約、肉体労働、謙遜、ゲラッセンハイト(Gelassenheit)という神の意志への服従を重んじるのです。

ほとんどのアーミッシュはペンシルベニア・ダッチ語を話します。「Dutch」とは古いドイツ語のことです。インディアナ州のスイス・アーミッシュはアレマン語の方言(Alemannic dialects)も話すといわれます。2023年現在、377,000人以上のオールド・アーミッシュ(Old Order Amish)がアメリカに、約6,000人がカナダに住んでいます。アーミッシュの教会グループは、非アーミッシュの世界からある程度分離された状態を維持しようとしています。一般的にアーミッシュから、アーミッシュ以外の人々は「英国人」と呼ばれ、外部からの影響はしばしば「世俗的」(worldly)として忌避しています。アーミッシュとペンシルベニアとの関わりは次回に紹介することとします。
(投稿日時 2024年4月2日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州フロリダ州・Sunshine State

注目

日本人にもフロリダ州(Florida)はよく知られています。フロリダ州のナンバープレートには「Sunshine State」とあります。文字通り太陽の降り注ぐ温暖な州です。特に冬は、各地から避寒客がやってきます。極寒の中西部では、「フロリダに行ってくる」というフレーズは周りの人からは羨ましがられるのです。

License Plate of Florida

子どもや親にとってはフロリダ州はわくわくするところです。ディズニー・ワールド(Disney World)やアメリカ航空宇宙局 (NASA) のジョン・F・ケネディ宇宙センター(John F. Kennedy Space Center)があります。数々のロケットやスペースシャトルが打ち上げられてきたところです。軍事用の偵察衛星や通信衛星、気象衛星、そして惑星探査機の打ち上げにセンターが使われています。

フロリダの歴史です。1513年頃にフアン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de Leon)によって探検され、「La Florida」と名付けます。1565年にスペイン人がセント・オーガスティン(St. Augustine)を建設します。フロリダはフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)後の1763年にイギリス領となります。1783年のアメリカ独立戦争後、この地域はスペインの支配下に戻りますが、1812年戦争(War of 1812)中はイギリスが作戦の拠点として使用しました。第一次セミノール戦争(First Seminole War)でアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)がペンサコーラ(Pensacola)を占領したことにより、1819年にフロリダがアメリカに割譲され、その後フロリダは1845年に州となります。

Map of Florida

セミノール戦争とは、フロリダ地方に住むセミノール部族(Seminole)と合衆国との間で1816年から1858年まで続いた長い戦争のことです。子孫の大部分を占める約2,500人のセミノール人が抵抗したのが、アメリカ史上でいわれるインディアンとの戦いといわれます。3次の戦争を経て武力にまさるアメリカが勝利を収め,セミノール族の土地を領土としたのです。という経緯でフロリダの元々の住民であるネイティブ・アメリカンは、現在では人口のほんの一部にすぎません。1861年に連邦(Union)から脱退し南部連合(Confederate)に加盟します。南北戦争後は1868年に連邦に再加盟します。

1822年にアメリカが有効な市民の受け入れ制度を確立すると、ヨーロッパ系のかなりの人口が増加し始めます。第一次世界大戦の頃にスペイン北部からの移民がタンパ(Tampa)にやって来て、特に葉巻産業を拡大しその将来の発展に惹かれていきます。スペイン語を話すコミュニティも設立され、さらに第一次世界大戦後はイタリア人も大勢フロリダやって来ます。

メキシコ湾(Gulf of Mexico)のウォーターフロントにある小さな町で、ギリシャ系(Greek)アメリカ人が多く住むのがターポン・スプリングス(Tarpon Springs)です。この町はグリークタウン(Greektown)と天然スポンジ産業で有名になりました。1880年頃にギリシャ人が定住し、1905年までに祖国の伝統を活かしてスポンジ産業を開始して有名にしたのです。マイアミ – マイアミビーチ(Miami–Miami Beach)の大規模なユダヤ人コミュニティからマサリクタウン(Masaryktown)のスロバキア人(Slovak)居住地に至るまで、州全体が特徴となるような多様な民族の貢献がみられていきます。こうして非ヒスパニック系白人が州人口の最大部分を占めるようになっていきました。

Disney World

フロリダは20世紀後半には全米で最も急成長した州のひとつとなります。観光業が主要産業で、ディズニー・ワールドはその代表的なアトラクションです。州、特にキューバ人(Cuban)が多く住むマイアミ市(Miami)は、カリブ海(Caribbean)地域で主要な経済的役割を果たしています。多くのレクリエーション・エリアにはエバーグレーズ国立公園 (Everglades National Park)があります。

オーランド(Orland)から車で約一時間ほどの所にあるのが、ジョン・F・ケネディ宇宙センターです。フロリダ州の東海岸メリット島(Merritt Island)にあるこのセンターはフロリダ州の主要な観光地の一つとなっています。ケネディセンターでは、同センター及びケープカナベラル(Cape Canaveral)空軍基地の公開ツアーが組まれています。州経済の推進力はアメリカ軍にもあります。州内に24の基地があり多額のドルを落としています。電子機器製造も重要で航空宇宙産業では数千人を雇用しています。

オーランドにあるディズニーワールド(Disney World)は世界一の娯楽施設です。その広さはJR山手線内の約1.5倍というのですから、まさに桁外れのものです。その敷地内には、タイフーン・ラグーン(Typhoon Lagoon) 、マジック・キングダム(Magic Kingdom)などの4つのテーマパークを中心に、ウォーター・パーク(Walter Park)、エンターテイメントエリア(Entertainment Area)、マリーナ、ゴルフ場、牧場、キャンプ場などが配置されています。

Kennedy Space Center

どれをとっても娯楽の粋を集めてそのアイディアを競っています。レストランにはミッキーマウスや小熊のプーさんがテーブルを回って写真を一緒に撮ってくれます。子どもたちはもう大喜びです。夢を子ども達に与えるのがこうしたテーマパークの「テーマ」といえましょう。オーランドにはユニバーサルスタジオ(Universal Studio)もあります。ディズニーワールドとあわせて毎年6,000万以上の人々がオーランドを訪れるというのです。

あまりにもフロリダの観光業は知られ過ぎているので、目立たないのですが、フロリダの主要な産業は農業となっています。フロリダ州の面積の約半分は、商業森林、国有林、州立森林、州立公園および連邦公園、湖、ビーチ、軍事保留地で構成されています。森林活動は主に州の北部で盛んです。州の中央部と南部の広大な草原では家畜の飼育が行われています。州の約5分の2は農地であり、その多くは牧草地または森林にあります。フロリダの全土地のうち、作物の収穫で利用されるのは一部だけとなっています。

オケフェノキー沼(Okefenokee Swamp)という広大な湿地帯があります。広さは1773平方キロの黒い水の沼で、サウスジョージア(South Georgia)とフロリダにまたがっています。多くの人はこの名前を「震える大地」(land of the trembling earth)のような意味に翻訳していますが、ヒッチティ(Hitchiti)というジョージア州南部の先住民族の言葉で「泡立つ水」(bubbling water)を意味するようです。沼地の固い土地のように見えるもののほとんどは、実際には浮遊植物または泥炭の塊であり、触れると揺れ始めるのです。それで「震える大地」と呼ばれるようです。ここは国内最大の国立野生動物保護区 National Wildlife Refugesの1つであり、合衆国東部では最大の国立野生動物保護区となっています。

Okefenokee Swamp

畑作物が重要なフロリダ北部では農場が一般的ですが、そこでも広大な森林地域が広がっています。柑橘類の果樹園はフロリダ中央部と東海岸の大部分を占めています。特にオレンジで有名なフロリダは、国内の柑橘類の大部分を生産しており、野菜の生産量ではカリフォルニアに次ぐ第2位です。

柑橘系の果物は農場の収入のかなりの部分を占めており、フロリダ州のグレープフルーツの生産量は国内最高であるだけでなく、世界全体の大きな部分を占めています。グレープフルーツの主な輸出先は日本などとなっています。トマトも主要な野菜作物です。サトウキビはフロリダ州の主要な畑作物であり、全米の約半分を生産しています。

西海岸と柑橘類地帯の南北には広大な牛の牧場が広がっています。州南部では、オキチョビー湖(Lake Okeechobee)周辺でサトウキビと野菜の栽培が行われ、現在のプランテーション農業に相当するものが生み出されています。小規模な私有農場は、機械化と出稼ぎ労働者の参入に取って代わられています。移民労働者の低所得などの厳しい状況は大きな社会的な話題となっています。企業農業の台頭により、農場の規模は必然的に増大し、結果として農場数は減少しています。

Grapefruit

商業漁業(commercial fishing)は長い間州経済の重要な要素でありましたが、1990年代に生産性が低下し始めました。それでも水産養殖(aquaculture)も重要であり、水族館用の水生植物や熱帯魚の飼育、および食用のさまざまな貝類やひれ魚(finfish)の飼育が今も盛んです。映画「フォレストガンプ」(Forrest Gump)の終わりのところで、ベトナムの戦友と再開しエビ捕りにでかけるシーンがあります。

フロリダ人を指す単語に「フロリダ・クラッカー」(Florida Cracker)があります。この言葉は、植民地時代に今のフロリダに定住したスコットランド(Scotland)やアイルランド(Ireland)らの入植者のことで「White Southerners」とも呼ばれています。この用語は今に至るまでの彼らの子孫、および南部白人のサブカルチャーに適用されます。Crackerとは「楽しみ」または「娯楽」といった意味のようです。
(投稿日時 2024年3月30日)

モロカイ島のダミアン神父とハンセン病ハワイ州

注目

ハワイ諸島の一つ、モロカイ島(Molokai)はカイウィ海峡(Kaiwi Channel)を挟んでオアフ島(Oahu Island)の東、パイロロ海峡(Pailolo Channel)を挟んでマウイ島(Maui Island)の北西に位置します。モロカイ島の面積は676平方キロメートル、長さは約61km、幅は最も広い部分で16kmです。緑豊かな渓谷ハラワ(Halawa)など、多くの深い谷が交差しています。幅が広く、農業に適しています。

モロカイ島には長い間、自給自足のタロイモ(taro)栽培者や漁師が住んでいました。18世紀にオアフ王国(kingdom of Oahu)はモロカイ島の支配権を獲得します。その支配は1785年まで続き、その後マウイ島(Maui)とハワイ島の戦士たちが侵略し、別々に島を統治します。ハワイの酋長カメハメハ一世(Kamehameha I)は、ハワイ諸島統一の一環として1795年にモロカイ島を占領し、住民を従属させます。1830年代にキリスト教の宣教師がモロカイ島に到着します。カメハメハ五世によって大規模な牧場が設立されましたが、これにより島の植物や釣り堀の多くが破壊される事態となりました。

Kalaupapa Village

後述しますが、1860年代までにハンセン病(らい病) (Hansen disease) 患者のための入植地(colony)がこの島に設立さます。これにより1860年代から1890年代にかけて、島の原住民の多くが特にカラウパパ半島(Kalaupapa Peninsula)からの強制退去につながります。

1921年のハワイ住宅委員会法(Hawaiian Homes Commission Act)は、モロカイ島での定住と再定住を奨励します。水不足により開発は遅れるのですが、1923年以降パイナップル産業の成長に伴い、高原に小さな村が成長していきます。島の経済は1970年代と1980年代に、パイナップル生産者が海外との激しい競争に直面し事業を閉鎖し低迷しました。島の農業は現在はより多様化しており、コーヒーとサツマイモが主な輸出品となっています。

最も大きな村のカウナカカイ(Kaunakakai)は南海岸にあり、小さな港があります。モロカイ島では観光業は盛んではありません。しいていえば観光スポットとしては、かつてハンセン病のコロニーがあった場所にある1980年設置されたカラウパパ国立歴史公園 (Kakahaia National Wildlife Refuge)や、大きな池と絶滅危惧種のセイタカシギ(stilt)を含む数羽のハワイの鳥を保護するカカハイア国立野生動物保護区(Kakahaia National Wildlife Refuge)などがあります。

Kakahaia National Wildlife Refuge

ハワイの歴史で、モロカイ島のカラウパパ半島において、ハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げた人ベルギー人(Belgian)のダミアン神父(Father Damien)を忘れることはできません。ダミアンとは修道名で、本名はヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)といいます。ダミアン神父は、1873年からハンセン病によって亡くなる1889年まで、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちの療育に尽くします。後に2009年にカトリック教会よりハンセン病患者の守護聖人として列聖されています。

ハンセン病は主に皮膚と神経を犯す慢性の感染症です。主として末梢神経と皮膚、上気道粘膜を侵す病気ですが、菌自体の感染力は弱く、仮に感染しても発病することは稀だといわれています。治療法が確立された現代では完治する病気です。1873年にらい菌を発見したのは、ノルウェー人(Norway)のアルマウェル・ハンセン(Armauer Hansen)という医師です。

モロカイ島のカラウパパ半島は、かつて100年もの間、ハンセン病患者の隔離場所として使われます。1865年から1969年にかけて、ハワイではハンセン病感染が疑われる住民約8,000人が、強制的にカラウパパに送られ、患者だけでの生活を余儀なくされます。彼らの大半はハワイの先住民で、若いうちに家族と引き離された者も多く、最も幼い患者はわずか4歳だったといわれます。

長年の間、モロカイ島には適切な医療設備も、医療の専門家も配置されることがありませんでした。患者は自分たちで互いの世話をするしかなかったのですが、数百年前から半島で暮らしてきたマアイナ(Kamaaina)という地元住民が患者に援助の手を差し伸べたといわれます。

Father Damien


ダミアン神父は死後カラウパパに埋葬されたのですが、1930年代になってベルギー国内で「ベルギーの英雄」として、その遺体を求める世論が高まります。1936年1月に棺が掘り出され、ホノルルに運ばれその後、ベルギー軍艦で同年5月に故国ベルギーへ到着します。港では国王レオポルド三世(Leopold III)以下、多くの国民が集まり、その後追悼ミサが行われました。その遺体はルーヴェン(Leuven)の大聖堂に埋葬されます。2009年にカトリック教会の聖人に列されると、遺体の右手だけがカラウパパの墓に戻され今日に至っています。

Shrine of Father Damien


我が国のハンセン病対策の法律は、1907年制定の法律「癩予防ニ関スル件」から1953年年制定の「らい予防法」と変遷し、1996年3月にようやく同法が廃止されました。その基本的考え方は、患者を終身強制隔離して絶滅させようという誤った思想です。療養所内で結婚する場合は、断種や堕胎が条件とされ、断種は1992年まで続きました。現在、国内には13の国立ハンセン病療養所があります。そのうち2つは沖縄県にあります。

私は1973年に一度、沖縄県名護市の屋我地島にある国立ハンセン病療養所に住んでいたルーテル教会員を訪ねたことがあります。偏見や差別等から社会に復帰できず所内で生活されていました。お茶をだされたとき一瞬緊張しました。その時の私の無知を今も反省しております。ハンセン病について学んだのが沖縄在住の時です。
(投稿日時 2024年3月27日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ハワイ州・Aloha State

注目

ハワイ州(Hawaii)のナンバープレートには「Aloha State」と印字されています。「いらっしゃい」、「こんにちは」、「お元気ですか」、というのがAlohaですね。外国旅行をしたことがない人でも一度は行ってみるところがハワイです。言葉が通じ、食べ物が豊富で美味しく、景色がエキゾチックで、気候が温暖なのですから人気が高いのもうなずけます。誠に手頃な観光地です。ですが文化や歴史の多様な姿もまたハワイの魅力です。

License Plate of Hawaii

ほとんどの人類学者(anthropologists)は、ハワイへの最初の定住は、西暦4世紀から7世紀にかけてマルケサス諸島(Marquesas Islands)から北西に移住したポリネシア人(Polynesians)によるもので、その後、9世紀または10世紀にタヒチ(Tahiti)から移民の第2波がやって来たと考えています。1970年代に始まったハワイでの航海用カヌー(voyaging canoe)と伝統的な航行方法(navigation methods)の使用の復活によって実証された知恵と技能から、島々が最初の植民地化の後、かつて考えられていたほど孤立していなかった可能性があることを示しています。実際、ハワイと遠く離れたポリネシアの島々との間には、かなりの意図による航海があったと思われています。それでも、ハワイ人とその親戚であるポリネシア人との間には、言語や文化において依然としてかなりの類似点があるにもかかわらず、ハワイは独自の文化を発展させていきます。

Map of Hawaii

元々のハワイ人は漁業と農業に高度な技術を持っていました。18紀後半までに、彼らの社会は、首長と司祭(chiefs and priests)によって定められた厳格な法体系を持つ複雑なものになりました。人々は、神通力でも古代ギリシャのオリンポス山(Mount Olympus)の神々とは違った神々を崇拝し恐れていました。

ジェームズ・クック船長(Captain James Cook)は1778年にこの島々を訪れ、サンドウィッチ諸島(Sandwich Islands)と呼びます。その後40年間、ヨーロッパとアメリカの探検家、冒険家、猟師、捕鯨者が新鮮な物資を求めてハワイ諸島に立ち寄り島民に大きな影響を与えます。これらの影響の中でも特に重要なのは、東洋と西洋の両方からの病気の侵入です。島民はそれまで事実上病気にならず、自然免疫を持っていませんでした。性病(venereal disease)、コレラ(cholera)、麻疹(measles)、結核(tuberculosis)はすべて先住民の人口の減少をもたらし、その人口は1世紀ほど後の1890年代までに約30万人から4万人未満に減少します。

Captain James Cook

19世紀初頭、カメハメハ大王(King Kamehameha)がハワイ諸島を統一します。1820年にはニューイングランドの宣教師が続き、西洋の影響が島々を変えていきます。1851年、カメハメハ三世はハワイをアメリカの保護下に置くこととします。ですがアメリカの砂糖利権を巡って起こされたクーデターにより王政は倒され、1893年にハワイ共和国(Republic of Hawaii)が樹立されます。

King Kamehameha

その間、日本から多くの人々が移民しました。主としてオアフ島やハワイ島(Big Island)でのサトウキビ、パイナップル、珈琲栽培のためです。琉球からの移民が目立ちました。ハワイに到着すると、早速土地を開墾しサトウキビ栽培に従事していきます。今も琉球の名前を持つ人々がハワイの各地に大勢住んでいます。

1898年に新共和国とアメリカは併合に合意し、1900年にハワイはアメリカ領となります。1941年の日本軍による真珠湾(Pearl Harbor)爆撃をきっかけに、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、ハワイは主要な海軍基地となります。1959年8月21日にハワイはアメリカ50番目の州となります。最大の産業は観光業です。マウナケア山頂(Mauna Kea)には望遠鏡があり、世界の天文学研究(World Astronomy Center)の中心地となっています。

ハワイ州は、大小100位の島々から成ります。これらは海底火山によってつくられました。州都ホノルルのあるオアフ島は最も知られていますが、是非訪ねたいのはハワイ島(Hawaii)やカウアイ島(Kauai)、後述するモロカイ島(Molokai)などです。ハワイ島には日系移民によって開発された一番大きな町、ヒロ(Hilo)があります。そこに日系移民博物館があります。驚くことに、館内の展示物には神武天皇をはじめ、代々の天皇の写真が飾ってあります。日系移民の日本に対する郷愁と深い想いがこめられているのを感じます。

先住のハワイ人やポリネシア系が約10%なのに比べ、日系人は17%を占めます。政治、経済、社会における活躍は目覚ましいものがあります。日系人の活躍としては、戦時中の志願兵の活躍が特筆されます。ハワイで生まれの若い日系アメリカ人の多くは、志願兵として祖国に対する忠誠心を示し合衆国陸軍の大隊に入ります。この部隊は第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)と呼ばれ、真珠湾攻撃後、日系アメリカ人の兵役が禁止されていた時期に結成されます。この部隊は日系人だけで組織され、やがてイタリアやフランスなどのヨーロッパ戦線にて戦果を上げます。この戦闘団のモットーは「Go for Broke」といって「当たって砕けろ!」でした。オアフ島の真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナ記念館(Arizona Memorial)や戦艦ミズーリ号(Missouri)などを訪れると太平洋戦争の歴史が身近なものとなります。

The 442nd RCT

マウナケア山頂付近は、国立天文台が設置したすばる望遠鏡があります。周りには世界各国の天文台も並んでいます。ここに兵教大の院生とで天文台内部を見学する許可を得て訪ねました。ついでに山頂へも登ったのですが、酸素が薄くて息が苦しかったのを覚えています。ハワイ島のキラウエア(Kilauea)火山からの熔岩流は今も蒸気を上げています。そして虹が地平線から地平線まで見事なアーチを描きます。一行の中にいた中学理科の教師にはたまらない見学ツアーとなったようです。

Mauna-Kea

ハワイの高校には二つの有名な私立学校があります。カメハメハ・スクール(Kamehameha Schools)とプナホウ・スクール(Punahou School)です。カメハメハ・スクールは1887年に、カメハメハ家のバーニス・パウアヒ・ビショップ(Bernice Pauahi Bishop)の遺産によって設置されました。カメハメハ・スクールではプリスクール、1~12年生までの教育を行っており、英語で教えて大学への入学へ備えます。ハワイ語とハワイ文化も十分教えて、ハワイ人としての教育にも重点を置いています。バラク・オバマ元大統領の母校でもあるプナホウ・スクールは1841年の創立で、幼稚園から高校までの生徒3750名が通うアメリカ国内でも最大規模の学校です。プナホウ・スクール卒業生の大学進学率はほぼ100%という名門校となっています。
(投稿日時 2024年3月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州マサチューセッツ州・Spirit of America

注目

マサチューセッツ州(Massachusetts)のナンバープレートには「Spirit of America」というキャッチフレーズが印字されています。これは、建国の精神を意味します。州都はボストン(Boston)です。

License Plate of Massachusetts

イギリス人探検家でジェームスタウン・コロニー(Jamestown Colony)にいたジョン・スミス(John Smith)は、マサチューセッツ族(Massachusetts)にちなんでこの州を命名したとされます。「Massachusetts」とは、もともと「大きな丘の近く」(near the great hill)という意味だったといわれます。マサチューセッツ州といえば、ボストンを第一に挙げなければならないでしょう。その名前の由来です。チャールスタウン・コミュニティ(Charlestown Community)は「聖ボトルフの町」(St. Botolph’s town)として知られていたようですが、後に「ボストン」に改名されたといわれます。

1602年に最初のイギリス人入植者バーソロミュー・ゴスノルド(Bartholomew Gosnold)が到着したとき、この地域にはアルゴン族(Algonquian)が住んでいました。プリマス(Plymouth)は、1620年にメイフラワー号(Mayflower)で到着したピルグリム(Pilgrims)やピューリタン(Puritans)によって開拓されます。マサチューセッツ湾(Massachusetts Bay)植民地はマサチューセッツ・ベイ社によって設立・統治され、ピューリタン(Puritan)の入植に拍車をかけていきます。1643年にニューイングランド連合に加盟し、1652年にメイン州を獲得します。

Mayflower in Plymouth

マサチューセッツ州は、その歴史と文化が合衆国全体のものよりも古いという点が特徴的といえます。ピューリタンらが大英帝国(British Empire)の統治から逃れて新世界に定住し、最終的に信仰の自由を得ようとしました。1620年にメイフラワー協定(Mayflower Compact)や初期の法典である1641年の「自由の基盤」(Body of Liberties)などの文書により、政府は個人の表現や同意を保護する保証に基づいて統治すべきであるという概念が定められます。

こうした個人の自由の概念は、大英帝国の一部であった植民地の地位と衝突するようになります。アメリカ独立戦争はマサチューセッツ州で始まり、イギリスの植民地支配に対する最初の抵抗が始まりました。ボストン茶会事件(Boston Tea Party)に代表されるように、入植者たちが代表権のない課税に反対の声を上げ、叫んだのはマサチューセッツ州民であります。マサチューセッツ入植者の活動は他の人々に影響を与え、1775年のレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)で「世界中で聞こえた銃声」“shot heard round the world”で最高潮に達します。

Battle of Lexington-Concord

州の南東部と中央部の入植地は1675年にフィリップ王の戦争 (King Philip’s War)を経験します。1684年に最初の勅許を失った後、1686年にニューイングランド自治領(Dominion of New England)の一部となります。1691年の2度目の勅許により、メイン州とプリマスを管轄することになります。1680年頃から、マサチューセッツはイギリスの植民地となります。1760年代になると、マサチューセッツ憲法として権利の宣言と政府の樹立を叫び、イギリスの支配に反旗を翻します。やがて独立戦争が始まるのです。この自治と独立の精神が「Spirit of America」というものです。

18世紀、マサチューセッツはイギリスの植民地政策に対する抵抗の中心地となります。独立後の1788年には合衆国憲法を批准した6番目の州となります。19世紀になると産業革命の最前線となり、織物工業で知られるようになります。

今日の州の主要産業はエレクトロニクス、ハイテク、通信技術です。多くの高等教育機関があることでも知られています。観光業は、特にケープコッド(Cape Cod)地方とバークシャー地方(Berkshires)が知られています。マサチューセッツ州は、この新しい国が農業経済から工業経済への転換を始めた先駆的な州であります。貿易によって富を得たフランシス・ローウェル (Francis C. Lowell)のような州の商人は、1812年の米英戦争で深刻な損失を被りますが、より安全な投資を模索していきます。その結果、繊維、ブーツ、機械の製造はマサチューセッツ州やロードアイランド州(Rhode Island)で始まり、やがて繁栄の基礎を築いていきます。北東部の州で工業化や都市化が進みます。1870 年代半ばまでに、マサチューセッツ州は合衆国で初めて、地方よりも町や都市に住む人の方が多い州となります。

Lowell Mills

19世紀を通じて、マサチューセッツ州は主要な製造業の中心地となりました。20世紀前半の南部との競争は大規模な経済衰退をもたらし、その結果、州全体の工場が閉鎖されていきました。しかし、第二次世界大戦と冷戦は、国防支出という連邦政府の巨額に依存する新たなハイテク産業を生み出します。他方、金融、教育、医療などのサービス活動も拡大し、ボストンを中心とした新たな経済が発展します。2004年、マサチューセッツ州は同性結婚を合法化(same-sex marriage)した最初の州となります。この法律は、個人が所属する重要な組織から特定の国民を排除することは個人の自治と法的平等の原則に反すると規定します。地域社会のニーズに配慮しながら、個人の自由を尊重しようとするマサチューセッツ州の長い闘いの結果、アメリカの特徴である民主主義の原則と資本主義の推進の連携が生まれるのです。

1840年代、均等となったヤンキー(Yankee)社会に、アイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)の惨状から逃れてきたローマ・カトリック教徒のアイルランド人の波が押し寄せます。同様に1860年代、カナダの農業貧困のため、ヤンキー起業家(Yankee entrepreneurs)が開拓した新しい工場システムの労働者として大量のフランス系カナダ人(French Canadians)がマサチューセッツ州に流れてきます。ヤンキーと移民の間で深刻な対立と敵意が生じましたが、19世紀の産業の繁栄はこれらの対立を改善するのに役立ちます。

17世紀には、土地に飢えたイギリス人入植者がアメリカ先住民を強制的に追い出し始め、また非常に多くの先住民がヨーロッパの病気で亡くなります。こうしたプロテスタントのイギリス人入植者、またはヤンキーといわれる人々は、200年以上にわたり支配的な人口となりました。1890年代までに、20世紀の最初の数十年間に至るまで、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、東ヨーロッパから新たな移民がやって来て、繁栄していた州の工場で働くようになりました。1920年までに人口の3分の2が移民か移民の子どもとなり、ヤンキースは明らかに少数派となっていきます。そういう状況で1924年に連邦移民法(Immigration National Act)が可決され、移民は大幅に削減されていきます。

Boston Tea Party

プリマス(Plymouth)は州都ボストンから車で一時間のところにある港町です。ここにメイフラワー号(Mayflower II)のレプリカが停泊しています。メイフラワー号は1620年頃にヨーロッパからこのあたりに着いたことが記されています。長くてつらい大西洋の航海だったようです。

最初の移民の多くは聖教徒でした。船から下りた聖教徒が開拓したところが今も大切に保存されています。この居留地はプリマス開拓地(Plimoth Patuxet)と呼ばれて州の歴史的な公園となっています。開拓地は高い木の柵が巡らされてインディアンからの襲撃に備えたことを伺わせます。プリマス開拓地に入りますと、そこは1600年代という設定です。タイムスリップするのです。そこで働く人は百姓、鍛冶屋、洋服屋、パン屋さんなどいろいろです。当時の服装、言葉、動作で観光客に対応します。観光客はそのことを知らされません。次ぎのような会話が交わされます。

Plimoth Plantation

  観光客:当時は電気はありましたか?
  働く人:電気ってなんですか?
  働く人:どこから来ましたか?
  観光客:日本からきました。
  働く人:日本ってなんですか?どこにありますか?
  観光客:アジアです。
  働く人:どうやってここまで来ましたか?
  観光客:飛行機と車できました。 
  働く人:飛行機とか車ってなんですか?
  観光客:飛行機も車も知らないんですか、、、、。

このあたりまで会話が進むと、ちんぷんかんぷんの観光客もようやく「ここは1620年頃なのだな、、、」と合点がいきます。舞台が昔の開拓地であるという発想と働く人々の演技にえらく感心します。

ボストンはアメリカ独立戦争で大きな役割を果たしたことから、この時期の史跡の一部は、ボストン国立歴史公園(Boston National History Park)の一部として保存されています。その多くは、「フリーダムトレイル」(Freedom Trail)というルートに沿って歩いて見て回ることができます。フリーダムトレイルは、地面に赤い線が引かれた約4kmのウォーキングコースです。ボストンコモン(Boston Common)から始まり、州議事堂(State Capitol)、パークストリート教会(Parksteet Church)、オールドサウス集会所(Old State House)、旧州議事堂(Old State Capitol)、ボストン虐殺事件跡地(Boston Massacre)、オールドノース教会(Old North Church)、チャールズタウン(Charlestown)のバンカーヒル記念塔(Bankerhill Monument)など、16の公式スポットを巡るのです。ファニエル・ホール(Faneuil Hall)という商店街や会議場や、近くのクインシー・マーケット(Quincy Market)は、ショッピング、食事、各種イベントが楽しめ、観光客や市民が集まる場所となっていて年間1800万人以上がここを訪れます。

Battle of Bunker Hill

ボストンには、著名な美術館もいくつかあります。ボストン美術館(Museum of Fine Arts)がその代表です。エジプト美術から現代美術まで45万点以上の収蔵作品を誇ります。特に浮世絵をはじめとする日本美術、中国美術は、西洋でも屈指のコレクションとして知られています。ボストン公共図書館(Boston Public Library)は、1848年創設の歴史をもち、アメリカ最古の公立図書館であり、人々に無料で公開されています。かつて小澤征爾が音楽監督をしていたボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra)もここにあります。

ボストンはその文化的風土が高く評価されて、「アメリカのアテネ」(Athens of America)との名声を得ています。その理由の一つは学問的な名声にあります。ボストンの文化は大学から発している部分が大きいといわれます。ボストン都市圏内に50を超える単科・総合大学があり、教育・研究活動行っています。ボストンとケンブリッジ(Cambridge)だけでも、大学に通う学生は25万人を超えるといわれます。その中心はなんといってもハーヴァード大学(Harvard University)でありマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)といえましょう。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ヴァジニア州・Mother of Presidents

注目

ヴァジニア州(Virginia)のナンバープレートにもいろいろなデザインがあります。うっそうとした豊かな森や清流など自然の生態系を反映してデザインには野鳥などを配置しています。ヴァジニアは、「アメリカ大統領の母なる地」「Mother of Presidents」の名にふさわしい風格のある州です。

License Plate of Virginia

ヴァジニア州東部の大部分に最初に定住したヨーロッパ人はイングランド人(English)で、イングランドの中部および南部の郡、特にロンドンとその周辺地域からやって来ました。1700年代には、ウェールズ人(Welsh)とフランスのユグノー人(Huguenots)が移民の中で目立っていて、スコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)とドイツ系(German)の人々がペンシルベニア(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)に移住してきました。特に西部と南西部の郡では、スコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先を持つ人々が今でも多数派を占めています。

Map of Virginia

ヴァジニア州は、清教徒連邦(Puritan Commonwealth)と1653年から1659年の間に保護領(Protectorate)亡命したイングランド王チャールズ二世(Charles II)への忠誠心からオールド・ドミニオン(Old Dominion)と呼ばれました。17世紀初頭のジェームスタウン(Jamestoewn)入植以来、アメリカの州の中で最も長く続いている歴史の1つです。処女女王エリザベス一世(Elizabeth I)にちなんで名付けられ、当初の憲章では、大西洋岸の入植地からミシシッピ川、さらにその先まで西に広がる土地のほとんどが与えられましたが、ヨーロッパ人には未踏の領域でした。ジョージ ワシントン(George Washington)、トーマス ジェファソン(Thomas Jefferson)、ジェームズ マディソン(James Madison)などのヴァジニア人の貢献はアメリカ合衆国の建国に極めて重要であり、共和国の初期の数十年間、この州は大統領誕生の地として知られていました。

Alexandria, VA

1607年にイギリス初のアメリカ植民地がジェームズタウン(Jamestown)に設立された時、ヴァジニア州にもネイティブ・アメリカンが住んでいました。ヴァジニアからはアメリカ独立革命の指導者を生み、後にアメリカ最初の大統領5人のうち4人を輩出していきます。1788年には合衆国憲法を批准した10番目の州となります。

奴隷制度はヴァジニア州経済の重要な部分を占めていました。1831年にナット・ターナー(Nat Turner)の奴隷反乱がここで起こりました。奴隷であり反乱の指導者ナットは数人の信頼する仲間の奴隷と決起します。反乱は家から家へと伝わり、奴隷を解放し、見付けた白人全てを殺したといわれます。最終的に反乱に加わった奴隷は自由黒人を含めて50名以上になります。ナットとその反乱部隊が白人民兵の抵抗に遭った時、既に57名の白人男女や子どもが殺されていました。

Nat Turner Rebellion

Governor’s Palace, Williamsburg

南北戦争が始まってすぐの1861年に、ヴァジニア州は連邦(Union)から離脱します。リッチモンド(Richmond)は南部連合(Confederacy)の首都となります。そしてヴァジニアは戦争を通じて主な戦場となります。ただヴァジニア州西部は連邦からの離脱を拒否します。1863年に分離してウェストヴァジニア州ができました。ヴァジニア州は1870年に連邦への再加盟を認められました。その後数10年間、州の債務をめぐる争いが政治生活を引き継ぎましたが、第一次世界大戦後、州の繁栄は増大していきます。

第二次世界大戦により、数千人の捕虜がヴァジニア州の軍事キャンプに収容され、港町のノーフォーク(Norfolk)地域は急速な成長を遂げます。ヴァジニア州にとっては、連邦政府は州最大の雇用主であり、製造業は二番目に大きい規模となっています。州南東部の海域およびそれを取り囲む陸域であるハンプトン ローズ(Hampton Roads)は、国内有数の港の1つであり一大観光地域でもあります。

ヴァジニア州は正式には「Commonwealth of Virginia」と呼ばれます。植民地時代から地域がそれぞれに共通した目標である独立に向けて共に発展するという意思を表しています。歴代4名の大統領とは、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンらです。それゆえに「アメリカ大統領の母なる地」とも言われるほどです。ワシントンDCの対岸の州内にはアメリカ国防総省(Pentagon)やCIA本部もあります。

Monticello,VA

観光は州の重要な産業です。ヴァジニア州には、植民地時代のウィリアムズバーグ(Williamsburg)、ジョージ ワシントンの邸宅であるマウント・バーノン(Mount Vernon)、トマス・ジェファソンのモンティチェロ(Monticello)、南北戦争の戦場、現在のアーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)の敷地内にあるロバート・リー(Robert E. Lee)将軍の家など、多くの史跡があります。特に、ウィリアムズバーグは是非訪れたいところです。1690年代には植民地時代の首都でありました。2.25キロ平方の地域に入植当時の建物はすっかり復元されて、植民地時代の面影を感じることができます。

Jefferson Memorial

1693年設立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary)は、この国で2番目に古い大学です。この大学は、イングランド国教会によって設立され、イギリス国王の勅許状を持つ最初のアメリカの大学となりました。ハーヴァード大学に続いてアメリカで最も由緒のある、また優れた学部教育のカレッジとして知られています。研究機関の中心はなんといってもヴァジニア大学です。創立は1819年、ジェファソンらによって創建されました。学内のすべての建物がコロニアルスタイル(colonial style)で統一され、全米で最も美しい大学キャンパスと称されています。これらの大学は、「最も入学が難しい大学」 (Most Selective)となっています。

College of William & Mary

ナンバープレートから見えるアメリカの州ネブラスカ州・The Good Life

注目

ネブラスカ州(Nebraska) のナンバープレートには「The Good Life」とあります。「楽しく住めるところ」といった感じですね。「Give a good life」「Beef State」「Cornhusker State」というフレーズのもあります。。「Cornhusker」 とは「トウモロコシの皮をむく人とか機械」という意味です。ネブラスカ州人の俗称です。プレートには、小麦や鳥、大平原と煙突のような岩山が描かれていて素敵なデザインです。

License Plate of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国のほぼ真ん中に位置しています。北はサウスダコタ(South Dakota)に、東はアイオワ(Iowa)とミズーリ(Missouri)に、西はワイオミング(Wyoming)とコロラドに、南はカンザス州に囲まれています。州都はオマハ(Omaha)。州の大部分は平坦な大平原が広がります。トウモロコシを中心とする穀物地帯です。牛肉や豚肉の生産でも知られています。

Map of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国中西部の州の一つであり、第一次世界大戦中、主に北部と西部の豊かな罠猟の国、および山岳地帯と太平洋地域の入植地と鉱山の辺境に移住する人々の中継地でした。19世紀の半ば、南北戦争(1861~1865年)後の鉄道の発展とそれに伴う移民により、ネブラスカ州の肥沃な土壌が耕され、その草原では牧畜産業が生まれました。その結果、同州は発足以来主要な食料生産国となります。

紀元前8000年頃には先史時代のさまざまな民族がこの地域に居住していたといわれます。この地域に住むネイティブ・アメリカンの部族には、東部と中央部にポーニー族(Pawnee)、オト族(Otho)、オマハ族(Omaha)、西部にオグララ族(Oglala)、スー族(Sioux)、アラパホ族(Arapaho)、コマンチ族(Comanche)が住んでいました。アメリカは1803年にルイジアナ購入の一部としてフランスからこの領土を買い取ります。

ヨーロッパの探検家がネブラスカ州に到着する何世紀も前に、ネイティブ・アメリカンがこの地域に住んでいました。1854年の入植地開放に伴い、連邦政府はネブラスカ州北東部にオマハ族(Omaha)の保留地を設け、その後その一部はウィスコンシン州から避難してきたホーチャンク族(Ho-Chunk)の保留地となります。ミネソタ州のサンティー・スー族(Santee Sioux)の一部はネブラスカ州北東部の居留地への移住を余儀なくされます。オマハ・ホーチャンクおよびサンティー・スーの居留地は今も存在しています。さらに、アイオワ族(Iowa)、ソーク族(Sauk)およびフォックス族(Fox)のそれぞれの居留地が州の最南東の隅にあります。21 世紀初頭までに、州人口の約1パーセントがネイティブ アメリカンで構成され、オマハ(Omaha)とリンカーン(Lincoln)に住んでいました。

Chimney Rock

1804年、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)がミズーリ川(Missouri River)のネブラスカ側を訪れます。1854年のカンザス・ネブラスカ法によりネブラスカ準州の一部となります。ネブラスカ州は1867年に37番目の州として連邦に加盟します。その後まもなく人口が増加し、開拓時代のインディアンの抵抗がなくなると、入植地はネブラスカ州の細長く伸びたパンハンドル(panhandle)にまで広がります。

ネブラスカ州には国東部からの白人入植者に加えて、19 世紀後半に多数のヨーロッパ人移民がネブラスカ州に定住しました。最大の移民グループはドイツ人で、1890年には72,000人を数えました。スカンジナビア諸国(Scandinavia)、特にスウェーデン、ボヘミア(Bohemia)、ブリテン諸島(British Isles)からの移民、そしてアメリカに移住する前に最初にロシアに移住した別の異なるドイツ人グループもネブラスカ州に定住しました。

Old Gas Station

ボヘミア、ドイツ、アイルランドからの多数の人々はローマカトリック教徒(Roman Catholics)でした。ドイツとスカンジナビア出身のルーテル派の教徒、そしてドイツ系ロシア人移民の中のメノナイト(Mennonites)は、ネブラスカ州の宗教的や世俗的な生活に多様性をもたらしていきます。非英語を話すグループの言語的アイデンティティは世代ごとに薄れてきましたが、彼らの多様な文化遺産は今も生き残っています。

川はネブラスカ州の地理と居住地にとって重要でした。ネブラスカ州人の大多数はミズーリ川とプラット川(Platte River)の近くに住んでおり、州の大部分は人口が少ないです。ミズーリ川は、19世紀初頭、ミシシッピ州西部へ向かう主要幹線道路であり、プラット川はネブラスカ州の歴史においても重要な役割を果たしてきました。実際、州の名前はオトインディアンOto Indianの言葉で「平らな水」(Flat Water)という意味のネブラスカ(Nebrathka)(に由来しています。

Corn Field

20世紀に入ると、短期間ではありましたがポピュリスト運動という政治変革が起こります。改革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民による政治を目指す運動のことです。1937年には国内唯一の一院制議会を設置したのもネブラスカ州です。州の大部分は農業で、食品加工や機械産業が盛んです。主な鉱物資源は石油で、リンカーン(Lincoln) のほか、オマハが州の文化・産業の中心地となっています。

ネブラスカに関するエピソードがあります。学校の教師らとでネブラスカへ行ったとき、入国手続きをしたデトロイト空港でのことです。家内の番になりまして審査官との間で次のような会話が交わされました。

 審査官 「入国の目的は?」
 家内 「観光です」
 審査官 「これからどこへ行くのか?」
 家内 「ネブラスカです」
 審査官(けげんな表情で)「ネブラスカのどこで観光するのか?」
 家内 「リンカーンです」
 審査官 「観光でネブラスカへ行く日本人に会ったのはあんたが初めてだ、、、」

デトロイト経由の乗客の中で、観光でやってくる日本人の99%はニューヨークとかボストンとかフロリダへ行くのです。審査官も驚いたのでしょう。「ネブラスカに観光へ」には審査官は苦笑いしていましたね。

ネブラスカの西部にはチムニー・ロック(Chimney Rock)など巨大な岩で知られています。このあたりはでは沢山の恐竜が発掘されています。きわめて保存状態が良く恐竜の骨格がはっきりしています。それを展示しているのがネブラスカ大学リンカーン校(University of Nebraska-Lincoln)です。ここの恐竜博物館(Dinosaur Museum)は圧巻ものです。大勢の児童生徒が社会勉強であるフィールドトリップにあの黄色い車体のスクールバスでやってきます。

Soy Bean Field

ネブラスカ大学にDlwyne Harnischという教授がいました。兵庫教育大学にも客員教授として6か月間招いたことがあります。教育統計学の専門で多くの日本人研究者を暖かく招いてくれました。。ネブラスカ大学のフットボールチームはBig Ten Conferenceで何度も優勝した強豪です。そのときのコーチはのちにレジェンドと呼ばれたトム・オズボーン(Tom Osborne)で255勝49敗という戦績を残します。後にネブラスカ州からの共和党の連邦下院議員となります。
(2024年3月14日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューハンプシャー州・Live Free or Die

注目

ニューハンプシャー州(New Hampshire)のナンバープレートには「Live Free or Die」と描かれています。「自由を与えよ、さらば死を」という意味です。いわゆるニューイングランド地域の一部で、北部及び北西部でカナダのケベック州(Quebec)、東部はメイン州(Maine)、南部はマサチューセッツ州(Massachusetts)、そして西部はヴァモント州(Vermont)と隣り合っています。

License Plate of New Hampshire


1623年に最初のイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近郊に定住したとき、この地域にはアルゴンキ語(Algonquian)を話す人々が住んでいました。この地域は1641年にマサチューセッツ州の管轄下に入り、1679年に独立した王家の植民地となります。ニューハンプシャーは最初にイギリスの統治を離脱し独立への歩みを踏み出します。1776年にイギリスからの独立を宣言した最初の植民地です。独立宣言後、最初の13州の一つともなります。合衆国の州として最初に憲法を制定した州となります。

Map of New Hampshire

花崗岩の州(Granite State)として知られるニューハンプシャー州は、さまざまな多様性の研究対象の州としても知られています。19世紀後半以来、連合内で最も工業化が進んだ6州の1つでありながら、農業と牧畜が盛んな州として描かれることがよくあります。ニューハンプシャー州は、ヴァモント州と同様に、白人でアングロサクソン系プロテスタント(White-Anglo-Saxon Protestants: WASP)が多数を占める「ヤンキー王国」(Yankee Kingdom)を構成しているといわれます。同州にはフランス系カナダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、その他非英国人を祖先に持つ住民が多数住んでいます。

その政治的評価ですが、ビジネス寄りで保守的ですが、唯一最大の州の資金源は企業利益税となっています。さらに、同州は同性カップル(same-sex couples)のシビル・ユニオン(civil unions)を合法化した最初の州の一つとなっています。 ニューハンプシャー州の地域区分は非常に複雑なので、メイン州(Maine)、ヴァモント州、マサチューセッツ州をほぼ同じ割合で加えて3分の1に分割することを多くの人が提案しているのは興味深いことです。

Downtown Portsmouth

こうした議論はありますが、この州ははっきりとした特徴とかアイデンティティ(identity)を発展させてきました。そのアイデンティティの中心となるのは州政府の倹約のイメージです。ニューハンプシャー州には一般消費税や個人所得税がありません。州レベルでの倹約は町への責任の分散を強調した。市政府はニューイングランドのすべての州に存在しますが、ニューハンプシャーほど独自のサービスを提供する権限や責任を負っている州はありません。

そのアイデンティティのさらにもう1つの要素は、伝統への強いこだわりです。これは、「山の老人」(Old Man of the Mountain)として知られるフランコニア・ノッチ(Franconia Notch)の岩の輪郭によって長い間力強く象徴されているといわれます。 倹約、地方分権、伝統主義、工業化、民族性、地理的多様性の組み合わせにより、ニューハンプシャー州は多くのアメリカ人にとって非常に魅力的な都市となっています。ところでフランコニア・ノッチとは、州立公園のことで、キャノン山(Cannon Mountain)の州営スキー場が起点となっています。キャノン山は頂上の岩の形が山の老人に似ていたそうです。

Colonial Style House

建国後、ニューハンプシャー州は急速に発展します。農業が栄え、河川沿いで製造業が発展します。ポーツマスは造船の中心地となります。現在は主に製造業と観光業が経済の基盤となっていますが、酪農と花崗岩の採石も重要です。合衆国で最も早く大統領予備選挙が行われるので、多くの候補者の最初の試練の場となっています。その後の各州での大統領選挙を予測するうえで重要な選挙となっています。

ニューハンプシャーの州都はコンコード(Concord)という小さな街です。コロニアルスタイルといわれる町並です。植民地時代の木造家屋のデザインを示します。この州で忘れられないところがポーツマスという街です。日露戦争が終わり、当時の大統領ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介でポーツマス条約(Portsmouth Peace Treaty)が締結された街、それがポーツマスです。実に小さな港町です。こんなところで条約が結ばれたのか、と頭をかしげたくなるようなのんびりとした所です。街全体がコロニアルスタイルです。

Treaty of Portsmouth

日露戦争後、講和条約締結交渉の日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアは元大蔵大臣のセルゲイ・ウイッテ(Sergei Witte)です。ポーツマスの博物館に当時の交渉の様子を報道した写真や新聞記事が飾られています。大男のウイッテが小男の小村を威圧するイラストがあります。当時ロシアはヨーロッパの大国、日本はアジアの小国でした。アメリカは太平洋の利権があって日本に同情的な姿勢であったことを伺わせます。

当時日本は戦争のために財政が逼迫して、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。交渉にあたり困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったようでした。こうした中で、小村寿太郎らは戦争終結のため、困難な外交努力を重ねて条約をまとめ上げていったといわれます。

日本への風刺画

ポーツマス条約では、ロシアは北緯50度以南の樺太(サハリン)を日本に譲渡する、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認し、日本が韓国に指導・保護・監理の措置をとるのを妨げない、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲る、ロシアはロシア沿岸の漁業権を日本に譲る、などが定められました。

講和前と講和後の日本地図

交渉の会場となったポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Arsenal)では、1994年3月に会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されます。

アメリカにはNewが付く州や町がたくさんあります。州ではNew Mexico, New Jersey, ご存じNew York, New London, New Berlin, New Heavenという街もあります。イギリスやヨーロッパ各地からの移民が開拓したことを伺わせます。1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)とニューハンプシャー大学(University of New Hampshire)は州の2大教育機関となっています。

私にとってのニューハンプシャーとの繋がりは、長男の嫁の両親がポーツマスの隣町に住んでいることです。ポーツマスは実に長閑とした綺麗な港町です。条約交渉を伝える博物館は興味ありました。
(投稿日時 2024年3月11日)