ウクライナの歴史から学ぶ その六 宗教的な発展

リトアニアとポーランドにおけるウクライナ人の社会的な地位が次第に低下するにつれ、ルテニア貴族へも波及していきます。ローマ・カトリック教会が次第にウクライナに浸透するにつれ、ギリシャ東方正教会に対して、治世や法的な優越性を示していきます。外側からの圧力や規制によって、ルーシー・カトリック教会(東方カトリック教会)は次第に衰えていきます。16世紀中盤から、カトリック教会と活力を取り戻したポーランドにおけるイエズス会、そしてプロテスタント教会が、ルーシー・カトリック教会を脅かしたのです。

ウクライナ東方カトリック教会


ルーシー・カトリック教会の再興を期して16世紀の終わり頃、教会は結集し始めます。1580年には、コンスタンチン・オストロズキ皇太子( Konstantyn Ostrozky)が西ウクライナのヴォルィーニ(Volhynia)地帯やオストロ(Ostroh)等の街を建設し、そこを文化の中心にしようとします。学校や出版社をつくり、当時の有名な学者を招聘したりします。その成果はスラヴ語(Slavonic)による聖書の出版として現れます。リビュや近郊の街では信徒や市民によって教会が維持され、学校を運営し出版を行い慈善活動もやっていました。こうした人々は、しばしば正教会の階級制度と対立し、制度の改革を要求していきます。

マロン典礼カトリック教会

1596年10月にはベラルーシ南西部にあるブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)において急進的な宗教改革が起こります。キーウ近郊の大司教らがローマ・カトリック教会とギリシャ正教会の合同を発表します。この行為によって東方カトリック教会は、ローマ教皇権の承認、ギリシャ正教会やスラヴ語による典礼の維持により、地方教会の自治や伝統的な教理、そして聖職者の婚姻を認めていきます。こうして教会の合同によりローマ・カトリック教会との対等な地位を得ていきます。