ナンバープレートから見えるアメリカの州ジョージア州・Peach State

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ジョージア州(Georgia)のナンバープレートには桃(peach)がデザインされています。この州はスイカ、メロンなどの果物が多いのです。特に桃は有名なので「Peach State」、「桃の州」と呼ばれています。ここの桃は、日本の桃とは違い、少し堅めの肉感がします。甘みも結構ありますが、日本の桃とは比べられません。そのかわり安価で助かります。ナンバープレートのデザインは明るくのどかなものです。ジョージア州のモットーに「南部の帝国」(The Empire of the South)というのもあります。

ジョージア州名は、植民地設立の勅許をイギリスの軍人ジェームズ・オグルソープ(James Oglethorpe)に与えたイギリス国王ジョージ二世(George II)に由来します。悲劇もあります。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領(Andrew Jackson)がインディアン移民法に署名します。そして東部にいた多くのインディアンを現在のオクラホマ州にあった居留地に移住させる決定をします。これにはジョージアにいた全ての部族も含まれていました。1835年にチェロキー族(Cherokee)連合に対して行われた強制移住です。約15,000名のチェロキーのうち4,000から5,000名が途上で死亡したといわれます。この逃避行は「涙のトレイル」(Trail of Tear)と呼ばれました。その途中でインディアンは「Amazing Grace」という讃美歌を歌って気分を高めたともいわれます。

ジョージア州の居住パターンは、物理的な地理と同じくらい多様性に富んでいます。州の先住民族は、1500年代初頭のヨーロッパ人との接触の時点で、すでに豊かで複雑な村ベースの文明を確立していました。1700 年代にイギリス人入植地はマスコギー(Muskogee)と呼ばれていた先住する先住民部族との文化的対立を引き起こし、その世紀後半から1800年代初頭にかけて白人入植者が着実に西に移動するにつれて激化しました。元々の英国植民地の1つであり、最初に合併した州の1つであるジョージア州は、アメリカ独立戦争後に、米と綿花を栽培し、増加する黒人奴隷人口に大きく依存するプランテーション社会として台頭しました。

Map of Georgia

20世紀になると、ジョージア州の主要都市が拡大し、ジョージア州の人口は徐々に田舎の性格を失います。1980年代から90年代にかけて、州の南西部と中央部にある古い綿花地帯の多くは人口が減少していきます。しかし、これらの損失は、80kmも離れたアトランタ郊外での大幅な利益によって大幅に相殺されていきます。大西洋岸のサバンナ(Savannah)とブランズウィック(Brunswick)周辺の地域も急速な成長を遂げています。南部諸州の中で、ジョージア州は1970年代以降、フロリダに次ぐ人口増加が一般的となり、1990年代にはその増加はフロリダを上回りました。

Rev. King Center


ジョージア州等の南部の諸州は「バイブル・ベルト」(Bible Belt)という名称で呼ばれます。「福音派プロテスタント」というキリスト教の宗派が社会と政治において特に強い役割を担っている地域のことを指します、住民も一般的に社会に対して保守的であり、他の地域の人々よりも教会への出席率が高いのです。主にプロテスタントであり、アフリカ系アメリカ人コミュニティでは特にバプテスト教会とメソジスト教会が強い州となっています。

南部のアトランタ(Atlanta)はジョージア州最大の都市であり州都です。21世紀初頭には、州の繁栄は主にサービス業を基盤とするようになります。その中心は、アトランタとその周辺がその大部分を占めます。特にアトランタは、州の主要な公益企業、銀行、食品・飲料、情報技術産業の本拠地であり、企業本社の立地としてはまさに国内有数の都会となっています。アトランタの先進的なイメージと急速な経済・人口成長に後押しされ、ジョージア州は20世紀後半には、全体的な繁栄と全国的な社会経済規範の浸透で、深南部(Deep South)の他の州を大きく引き離していきます。コカコーラやCNN、保険会社アフラック(Aflac)の本社などがあることでも知られています。

ジョージア州は映画の舞台でもあります。「風と共に去りぬ」(Gone with the Wind)を書いたマーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)の記念館-The Margaret Mitchell House-がダウンタウンにあります。マーチン・ルーサー・キング(Martine Luther King Jr.)牧師が説教していたエベネゼル・バプティスト教会(Ebenezer Baptist Church)、そして師の功績を称えるThe King Center博物館は必ず立ち寄るべきところです。政治では第39代大統領となったジミー・カーター(Jimmy Carter)がでたところです。

大西洋側に前述したサバンナの港町があります。植民地時代は、サバンナは綿花のヨーロッパへの輸出港でした。今も貯蔵倉庫が建ち並び、多くのレストランなどに改装されています。マスターズ・トーナメント(Masters Tournament) のゴルフ大会が開かれるのがオーガスタ(Augasta)です。メンバーは世界中に約300名、会員になるためには数10年程待たなければならないそうです。

ちょっと寄り道ですが、コーカサス山脈(Caucasus Mountains)に囲まれ、黒海に面する国に「ジョージア」があります。もともとはソ連邦の一部で「グルジア」(Gruziya)と呼ばれていました。合衆国のジョージア州とは全く関係がありません。一度、ネブラスカ大学の友人からメールが来て、「今、ジョージアにいて学生に特別講義をしている」というものでした。てっきり南部のジョージア州だと思いましたが、首都のトビリシ(Tbilisi)にいるとのことで了解しました。

グルジアは1783年にロシアの保護を求め、1801年にロシア帝国に併合されます。1917年のロシア革命(Russian Revolution)の後、この地域は短期間独立します。1921年にソビエト政権が樹立され、1936年にグルジアはソビエト連邦の正式加盟国となります。1990年、ソビエト・グルジアで史上初めて行われた自由選挙で非共産主義連合が政権を獲得し、1991年にグルジアは独立を宣言し、海外からは「ジョージア」と呼ばれるようになります。2003年にジョージアのエドゥアルド・シェワルナゼを大統領辞任に追い込んだ暴力を伴わない革命が起こります。これは通称「バラ革命」と呼ばれます。現在はロシアとの対立路線をとることが多いといわれます。独裁者ヨセフ・スターリン(Joseph Stalin)は「グルジア」の出身でした。

ジョージアは黒海(Black Sea)の南東海岸、コーカサス山脈内に位置している共和国です。グルジアは1783年にロシアの保護を求め、1801年にロシア帝国に併合されました。1917年のロシア革命(Russian Revolution)の後、この地域は短期間独立しました。1921年にソビエト政権が樹立され、1936年にグルジアはソビエト連邦の正式加盟国となりました。1990年、ソビエト・グルジアで史上初めて行われた自由選挙で非共産主義連合が政権を獲得し、1991年にグルジアは独立を宣言します。

私は、アメリカ留学のために英語の研修を2か月受けました。その場所はジョージア州のステイトボロ(Stateboro)という小さな町にあるカレッジです。家族を引き連れての2か月の滞在でした。国際ロータリー財団(Rotary International Foundation)からの50名くらいの奨学生と一緒に、短期間でしたが南部の人々の親切さ(Southern Hospitality)と温暖な気候を満喫しました。

ジョージアに来て始めていろいろなことを知りました。コンビニもそうで、セブンイレブン(Seven-eleven)が大きなスーパー店の側にあるのです。タバコの競り市に行ったときです。人々がしゃべっていることが全く分かりません。南部訛り(Southern Drawl)というのを体験しました。いわば南部アクセントです。南部訛りは、ゆっくりとした話し方で、母音を引き伸ばすように話します。アクセントの配置にも特徴があります。例えば「police」の発音は、「ポ・リース」と、リースの部分を伸ばして発音するのが一般的です。イギリス英語と少し似ていて、carやfarの最後のrをはっきりと発音しない特徴もあります。そのせいもあってか、私の英語には南部訛り(Southern Drawl)があるようです。

毎日3時頃になると決まってスコールが通り過ぎます。市営ブールで遊ぶ子ども達はプールから出なければなりません。それと、午後にはスイカやメロン、ピーチを積んだトラックがきます。スイカはラクビーボールのような形です。滞在していたアパートの前にピーカン(peacon)の木がありました。くるみに似ているナッツで、始めて賞味しました。実に美味しかったのを覚えています。
(投稿日時 2024年2月25日)

懐かしのキネマ その20 七人の侍

1954年に製作された「七人の侍」は、黒澤明が監督した上映時間3時間27分という名画です。後に「日本映画史上空前の超大作」と呼ばれます。アメリカの西部劇映画 「荒野の七人」(The Magnificent Seven)の下敷きとなります。「荒野の七人」は西部開拓時代のメキシコに移して描かれます。

戦国時代後期、戦に敗れた野武士が悪辣な群盗と化します。あちこちの山間に繰り返し出没し、農村を襲撃しては掠奪を欲しいままにしていました。そこで思い余った農民が野武士を撃退すべく、貧しい浪人を雇うことにします。浪人へのご褒美は腹いっぱいの白米を食べさせるという条件です。農民たちは宿場町に出て腕の立ちそうな侍を探し、村の防衛を懇願します。侍探しは難航しますが、才徳にすぐれた勘兵衛という侍に出会います。勘兵衛のもとに個性豊かな七人の侍が集まります。最初は侍を恐れる村人達ですが、いつしか団結して戦いに挑むことになります。

土砂降りの雨の中、野武士との泥まみれになる戦闘は熾烈を極めます。戦闘が終わると七人の侍のうち、四人が討ち死にします。辛くも生き残った勘兵衛ら三人は、小高い丘に並んだ四つの土饅頭の墓を見上げて、「今度もまた、負け戦だったな、勝ったのはあの百姓たちだ、我々ではない」としみじみ呟くのです。主演は三船敏郎と志村喬、その他津島恵子や島崎雪子、東野英治郎、山形勲、左卜全が共演しています。今では、皆懐かしい俳優です。

心に残る一冊 その156  「山椿」 その四 「ゆだん大敵」

長岡藩に老田久之助というが「侍読」がいます。藩主は牧野忠辰で、彼に学問を教授するのが久之助の役割です。時に四書五経などの儒教の経典も教えています。侍読とは、このように主に仕えながら御読書始を担う者のことです

久之助は原田義平太という志士から三留流の刀法を修行しています。手筋の良さが認められ代稽古さえしています。義平太は久之助に云います。
「なんの道にも天成の才というものがある」
「そこもとの刀法がそれだ」
「学んで得られないもの、教えて教えられないものをそこもとはもっている」
そして義平太は久之助に秘奥とされているものを伝授するのです。

同じ藩の士に鬼頭図書という類のない偏屈者がいました。
「おれには尋常なご奉公はできない」と云って、城内外の草取りを役目に乞うのです。
「草取りをしようと下肥を汲もうとご奉公の一念に誤りがなければよいはずだ」
図書は、たとえ老臣であろうと足軽であろうと、理に合わない者にはあたり構わず怒鳴りつけます。久之助は図書の噂をきいて心が惹かれます。会えばなにか得るものがありそうだと考えます。

図書が久之助に云います。
「みな、一身一命を捧げると口では容易く云う」
「しかし、その覚悟を活かすことははむずかしい」
「鍛錬は家常茶飯のうちにある、掃き掃除、箸の上げ下げ、火桶の炭ののつぎ方、寝ざま起きよう、日常瑣末な事の中に性根の鍛錬がある」

二十三歳のとき久之助は主君の命で刀法修行のために江戸に向かいます。そして柳生家に入門します。それから三年。長岡に戻ると道場の師範の役に就きます。門人はたった五人と限って受け入れます。それ以上では鍛錬できないと考えるからです。

門人の一人に横堀賢七というのがいます。一刀流をやりかなり腕にも自信があります。門人は道場で寝起きし、そこから城にでかけます。朝は三時に起き、素裸で水を浴び道場内外の掃除、薪割り、炭作り、稽古は一時だけ、そして黄昏れるまで畑での蔬菜作りです。食事は極めて簡素です。横堀は不満をあらわします。柳生流の刀法を学べないと不平を云い、道場を出たいと申し出ます。久之助は「ならぬ」と冷ややかに云います。

一年目に和田藤吉郎という門人が免許をとります。五人の中で最も栄えない存在です。みな驚きます。
「そこもとにはもはや伝授すべきものはない」
「修行をわすれずご奉公なさるように、これは免許のゆるし書である」
いかなる秘伝が記してあるかとゆるし書を開くとそこに「ゆだん大敵」とあります。一同、唖然とします。

次々と門人は免許のゆるし書を貰います。一刀流の腕も相当だし、稽古ぶりも抜きんでいるのに、賢七一人だけ二期の門人の中に取り残されます。

神道流の武芸で淵田主税助というのが仕官したいとやってきます。御前で久之助は対戦します。しかし脆くも負けて師範としての面目を失いそうになります。
「先刻の勝負はどうした、余にはまこととは思えないが事実はどうなのだ」忠辰はきりっと眼を怒らせます。
「おめがねどおりでございます」
「譲ったのか?」
「要もないことでございます」久之助は穏やかに答えます。
「ああいう者には負けてやるのが武士のたしなみだと心得ます」
「勝ってもそれだけのはなしで、悪くすると他国へまいってあらぬことをいい触らしかねません」

忠辰は頷きます。主税助を召し抱えたものかどうか訊ねます。久之助はすぐに否と答えます。
「たしかにすぐれた技倆はあると存じますが、神に純粋でないものがあり、眼光も真っ直ぐでありません」
「お取立てはご無用でございましょう」

久之助のはっきりした態度に、忠辰には快かったようで、それまでの不機嫌な顔色を解いて「たいぎであった」と幾たびも頷くのです。

心に残る一冊 その155  「山椿」 その三「橋の下」

果たし合いや決闘をとおして和解や友情を描くのが山本の一つの作風のように思われます。「橋の下」もそうです。

練馬場に一人の若侍がやってきます。白装束のいでたちで、目鼻立ちのきりっとして年は二十四、五歳くらいです。寒さが厳しい朝です。近くに伊鹿野川が流れていて、土合橋が架かっています。侍は橋のあたりに焚き火を見つけます。

暖を求めて近寄ると老夫婦が焚き火に鍋をかけています。城下では夫婦乞食と呼ばれています。身なりはさっぱりして、道ばたで物乞いはしません。銭にも決して手をだしません。筵を取り出して石垣と橋桁の間に三尺ほどの隙間があり、そこが寝場所のようです。二、三の包みが見えます。刀の柄もみえます。

刀を見て侍は老人に訊ねます。
「さよう、私はもと侍で、国許は申しかねるが、、、」
「私まで八代続いた家柄だそうで、その藩主に仕えてから四代になり身分も上位のほうでした」
老人は若侍に粗茶を差し出しながら、語り始めます。四十年前に一人の娘のために親しい友を斬ってその娘と出奔したというのです。

父は病死したあと、縁談が二十一歳のとき、その娘を嫁にと望みます。
「彼女の年は十七歳。当人も私の妻となることを承知していました」
娘の親は、仲人に「せっかくであるが娘にはもう婚約した相手がいる」と云います。
「その相手の名を訊ねると友達でありました」
「友達は婚約したことを認め、私はかっとなりました」
「彼は幼い頃から私と娘のことをよく知っていました」
「娘の親に、ぜひと懇望されたと云います」
「私と娘のことを知っている以上、断るのが当然ではないか、そう詰問し、私はそこで彼に果たし合いを申し込みました」

「介添えもない二人だけの決闘です」
「私は初太刀で彼の方を斬り、二太刀で腰を存分に斬ります」
友達は云いました。
「人の来ないうちに医者をよんできてくれ、早く!」

「刀にぬぐいをかけるとそこを去り、娘を呼び出して始終を話し、そのまま二人で城下を出奔しました」

「僅かばかりの金を持ってだけで、すくに窮迫しました」
「ですが自分たちは恋に勝ったという喜びと若い頃の無分別さとで、ただもうその日その日を夢中ですごしておりました」
「友達を憎むことが、いっとき私どもの愛情をかきたてたようでした」
「この橋の下には人間の生活はありません」
「ここから見る景色は、恋もあやまちも、誇りや怒りや、悲しみや苦しみさえも、いいものにみえます」
老人は頭を垂れ、垂れた頭を左へ右へゆり動かします。「ただひとつの思い出すたびに心が痛むのはあの果たし合いで、友を斬ったことです」

「あやまちのない人生というのは味気ないものです」
「心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗を繰り返したりするのがしぜんです」
「私が果たし合いを挑んだ気持ちはのっぴきならぬと思い詰めたからのようです」

「私が斬った友達はその後出世したようです」
「私には嫉む気持ちも、特に祝う気持ちはありません」

若侍は老人の眼をみつめます。礼を述べて岸の上にあがります。そして練馬場のほうへ歩き出します。
「もう刻限だろう、」「まだ来ていないようだな、」

一人の侍が土塀をまわって大股で寄ってきます。下は白支度で手早く刀の下緒を外します。
「おーい、待ってくれ!」
「話すことがある、待ってくれ!」
彼は相手のところに駈けより、右の脇に抱えた両刀をみせながらなにか云います。彼は熱心に話ししていくと、相手のきびしい顔つきがほぐれていきます。

心に残る一冊 その154  「山椿」 その二「屏風はたたまれた」

吉村弥十郎は九百五十石の中老で、槍組と鉄砲組を預かっています。頭がよく、容姿も抜きんでいます。十四歳のとき、論語の講義を受け一年間の講義が終わった時は短刀と銀二十五枚をもらいます。十五歳になって「みちあけの式」が済んでからは、すべてに磨きがかかってきます。
「みちあけの式」は吉村家に伝わる独特の家法です。事前になにも知らされず、式の間という部屋に寝かされます。闇の中で寝ているとやがて女がきて、同じ夜具の中にはいります。
「わたしのするとおりなさいまして、ようございますね」
「さあ、ゆったりとなすって」
初めての夜、女はそう囁きます。そして夜の明ける前にでていきます。

弥十郎は学問と同時に武芸にも身を入れ、めざましく上達しますが、決して他人に気づかれず、総試合のときもつねに中軸の位置を保ちます。弥十郎に北島という家との縁談話がおこります。ところが祝言を間近にして、娘の健康がすぐれないので、祝言を延ばしてもらいたいといってきます。弥十郎は他から紹介されたことでもあり、急ぐこともないので了承します。

中村座に「ゆき」という年増の女中がいます。弥十郎は茶屋に時々でかけます。ゆきが一人の女を紹介します。そして云います。
「川西という茶屋があります、そこにお越し下さい」
「わたしのお仕えするお嬢様でお名は千夜と仰います」
「どうぞおらくにあそばして、、」

弥十郎は川西で千夜と七たび会います。二人の間はだんだんと密になります。「もうおまえの他に妻を娶る気持ちはない」
「どんなことをしても約束のほうは破談にする」
「うれしゅうございます」千夜は囁き返して云います。
二人は再会を約束するのですが、それ以来、千夜はぴたりと消息を絶ちます。

弥十郎が仕える藩主は信濃守政利です。十七歳で結婚するのですが、夫人や側室が二、三人いても四十七歳まで子どもがいません。やがて藩公に世子が生まれたという知らせがまわります。「ひなというお部屋様の手柄だ、、」と藩の重臣たちは喜びます。ひなはやがてその一字をとって「奈々の方」と呼ばれるようになります。しかし、世子が藩主の胤であるかどうは疑わしかったのです。

弥十郎はやがて「奈々の方は千夜と同じ人ではなかったのか、」と思うようになります。吉村家には藩公の血が続いているという父親の言葉が弥十郎をとらえます。

心に残る一冊 その153  「山椿」 その一「饒舌り過ぎる」

近習頭で百三十石という小野十大夫と奉行職記録所の頭取心得で役料は十人扶持の土田正三郎の友情がこの短編小説の主題です。

近習頭は常に主君の身辺警護にあたる役で、奉行職は家老の補佐役といったところです。二人は、飲み友達であり剣術の師範格といってよいほど、腕がたけています。「道場で一本つきあってくれ」とか「一杯やりにいこう」という間柄です。熱が入って「饒舌り過ぎる」のです。枡兵という料理茶屋があります。代銀が高価で、主に中以上の侍とか金回りのいい商人が利用しています。この茶屋におみのという娘がいます。年は二十二歳で、時々十大夫と正三郎に酌をするのです。彼女に対して二人は慕情を寄せています。

あるとき十大夫が正三郎に本心を訊きます。正三郎はびっくりして十大夫の顔をみまもり、ついで微笑しながらそれは逆だ、と答えます。十大夫も正三郎がおみのを好いていることに気がついています。おみのは十大夫にのぼせているのですが、なるべく二人の邪魔をしないようにしています。

おみのは、「お二人とも同じくらいに好き」「お二人を別々にかんがえることできない、」とさも困ったように告白します。男二人に女一人ではどうにも片付けようもありません。しばらくこのままでようすをみようとお互いに合意します。この三竦みの関係は丸三年続きます。

十大夫は安川しずと祝言します。しずは剣術道場で凄腕の安川大蔵の妹です。正三郎も、城代家老の姪にあたる篠原しのぶという女性と結ばれます。二人が共に好いていたおみのではありません。

二人が三十二歳になったとき、十大夫が吐血して倒れます。その後なんどか吐血し十大夫が正三郎に会いたがっているという知らせがきます。しかし、正三郎は見舞いにいきません。周りの者は、あれほど仲が良かったのにどうしたことか、兄弟よりも親密で離れたことがなかったではないか、、そうした非難がひろまります。そして十大夫が危篤になります。

「しかし万が一のことがあったら」と安川大蔵がいいます。
「なにができる、」正三郎は大蔵の言葉を遮って反問します。
「二人の医者がついていて、それでもだめならものなら、私がいったところでどうしょうもないではないか、うろたえるな!」

正三郎は、十大夫の危篤が伝えられたとき、仏間にこもって夜を明かします。十大夫の死後も七日毎の供養をひそかに行います。家人の誰にもしれないように仏間で誦経してすごします。

しかし、そうしたことも正三郎に対する反感をたかめる役にしかたたず、かれの評判は少しもよくなりませんでした。そして六年が経ちます。正三郎が十大夫の墓参りをしたとき、十大夫の妻、小野しずが立っています。

しずはどうして良人を生前に見舞いをしてくれなかったのかを正三郎に訊ねます。正三郎はそれにこたえます。
「十大夫は私に道場の師範役を継がせるつもりでした」
「師範の次席には安川大蔵がいるし、彼は師範なる十分な腕をもっていました」
「十大夫は安川の妹であるあなたを娶りました」
「十大夫はあなたの兄に自分の役目を継がせることはできません」
「もし危篤の病床で私に師範を引き受けてくれと頼まれれば、いやとは云えません」
「それで見舞いに行けなかったのです」

正三郎はさらに云います。
「無情な奴だ、というような噂はずいぶんききました」
「見舞いに行けないという辛さは耐え難いものでした」
「あなたならわかってくれるでしょう、」

こうして正三郎は師範役を辞退したのです。

心に残る一冊 その152  「やぶからし」 その七 「やぶからし」

「やぶからし」という野草は道端や荒れ地、フェンス際、その他どこにでも生える多年草です。茎は弾力があり、高い木々に絡まり伸びていきます。植栽を覆って枯らしてしまうほど旺盛に生育します。厄介な野草で、別名ビンボウカズラともいわれます。

山本周五郎がなぜこのような題名を付けたのかは、この作品を読むとわかるのですが、皆から嫌われるほどどん欲な生活をしたり、時に狡猾な為政をして、市井で貧しく生きる人々を苦しめる者がこの世の中に多いことを主張したかったからでしょう。

主人公は十六歳になって細貝八郎兵衛とさちの家に嫁いできた「すず」です。本当の父と母は四歳のとき亡くなり、常磐家に引き取られて育ちます。常盤家三百石ばかりの扶持で、旗本を編制した部隊に所属する大御番でした。きびしい家風と家族のあいだの不思議な冷ややかさがあって、すずは本当の家とは感じないで生きてきました。

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すずは、なぜか細貝玄二郎という放蕩な生活をしてきた男と祝言をあげます。初夜から大酒を飲み、すずに乱暴を働きます。それが毎夜続く始末です。しかも無頼の仲間と喧嘩をし傷つけたり借金を溜め込むために、細貝家はとうとう玄二郎を勘当します。

見かねた細貝八郎兵衛とさち女は、はすずに郷に帰るようにと言い聞かせます。
「すずは細貝家の娘です。この家の他に郷などはございません」

佐波久弥という書院番の男を八郎兵衛は夕餉に招きます。二十六歳で背丈は高く立ち振る舞いがのびやかです。酒はあまり飲みません。八郎兵衛とは親しくしていて、すずに嫁がせようとするのです。この二人は謡を唄うという趣味があります。その頃すずは鼓を習っていたので、食事の後に三人で唄うのです。

すずは久弥と再度の祝言をあげ、やがて二人の子供に恵まれます。娘のこずえを宮参りにつれていったとき、昔の良人、玄二郎にであいます。玄二郎はそこで過去の生活を語り、あげくにすずに五両を無心するのです。それが二十両になり、すずは一人で悩んだ末にとうとう懐刀をもって玄二郎の指定する場所にいきます。玄二郎を殺め、自分もその後を追っても、良人や子供たちは仕合わせに暮らせると決心したからです。

玄二郎はやくざ者たちによって始末されます。自らの手でかつての良人を殺めることがなかったことにすずは安堵するのです。

心に残る一冊 その151  「やぶからし」 その六 「こいそ」と「竹四郎」

本堂竹四郎という足軽組頭がいました。城代家老、藤川平左衛門の指名で家老の助筆をつとめることになります。助筆とは秘書官のような役割です。無礼から百二十石をもらうことになります。無礼とは下士、つまり下級武士のことです。助筆は、老職席と諸役所との取り次ぎや周旋をすることから、めはしが利き、すばやい判断と洞察力が求められます。稀有の抜擢だといわれ、周りの者からは反感や妬視を受けますが、ご本人は無頓着です。

竹四郎は剣術が得意で、藩の道場で代師範をしています。彼が教えるのは、身じまい、服装、作法、正しい挙措といったことで、ほとんど技の教授はしません。まるで舞いの稽古をするかのようで、「舞い舞い剣術」と陰口が広まります。

藤川平左衛門に「こいそ」という十八歳の娘がいます。明るい性格で愛くるしいすがたです。たびたび縁談が持ち込まれますが、平左衛門は本人の判断に任せてきたので、こいそはことごとく断り続けています。

あるとき竹四郎は付け文をこいそに渡し、呼び出して対面し結婚を申し込みます。「貴方を愛している、妻として娶りたい」と云うのです。こいそは、無礼きわまりない竹四郎の言葉に席を立ってしまいます。

良家の育ちである岡田金之助というのがこいそに縁談を申し込んできます。金之助は眼に落ち着きがなく、軽薄な人間です。役目で金子を勘定方から支出させるなど、不正なことをしています。あるとき、金之助は竹四郎のところに請求書を持ってきます。
「預かっておきます」と竹四郎は云います。
「今すぐ必要なのだ、、、」
「捺印はできない、」
「無礼なことを云うな、わたしになにか不正なことでもしたというのか、」
「大きな声を出さないがいい」
「貴方はいま、告白をした、わたしが触れもしないのに、自分の口から不正、、うんうんと云った」
「実は貴方が不正をしていることは調べ上げている」
「貴方の三人の仲間もつるんでいる」

金之助は仲間と一緒に果たし状を渡し、竹四郎に向かいますが全く歯が立ちません。二人はこの果たし合いやこいそをめぐる話題はだれにも口外しないと約束します。

城代家老藤川は竹四郎を館に招き夕餉の席を設けます。そして、喧嘩のこと、こいそのことを訊きだそうとします。竹四郎は男の約束があるとして、がんとして答えようとしません。平左衛門は竹四郎をめちがいだったとして助筆の役を罷免すると云い渡します。竹四郎は国家老助筆も足軽組頭もご奉公、お役の甲乙によって自分の値打ちはかわらない、と喝破します。

竹四郎が席を立とうとすると、「まあ座れ、、話は話、酒は酒だ、、」藤川は云います。そしてこいそに給仕を命じます。こいそは隣の部屋で二人の会話をきいていたようです。藤川の前で竹四郎はこいそに云います。
「貴女に申し上げたいことがあります。私はこんど助筆を免じられ元の役にもどることになりました」
「そうなると機会がなくなりますので、今ここで申し上げます」
「私の気持ちはもうおわかりの筈です、貴女のほかに一生の妻と頼む人はありません」
「その必要はございませんわ」
「よそからの縁談は断りました、わたしは貴女のお申し出をお受けいたします」
「なにを云うか、なにをばかなことを」 父親である家老は云います。
「足軽組頭の妻でもいいのですね」
「もしかして平の足軽でいらしっても」 こいそは微笑するのです。

心に残る一冊 その150 「やぶからし」 その七 菊屋敷

黒川一民。藩士で儒官。朱子に皇学を兼ねた独特の教授をしていました。二人の娘がいます。志保と小松です。跡継ぎとなる息子はいません。藩主の特旨で村塾を続けるようにとの命で志保が五人扶持をもらいます。小松は塾生であった園部晋吾に嫁いでいます。晋太郎と健二郎という男の子がいます。美しく才はじけて人の眼を惹く存在でありました。志保は妹に息子がいて睦まじそうな妹夫婦を前にして激しい妬みを感じます。

杉田庄三郎は黒川一民の門下生で、村塾にて熱心に学問に傾注しています。十数名の塾生の頭です。異国の思想に渦いされず、時代の権勢にも影響されない純粋の国史を識らなければならないというというのです。さらに、日本の先人の遺した忠烈の精神、それを子孫へ伝えるべき純粋の国体観念、これを明らかにしなければならないと同志に語るのです。藩国に仕えず王侯に屈せずという考えで、当時は危険な思想だったようです。

志保はあるとき付け文をもらうのですが、もしかしたら庄三郎からのものではないかと期待するのです。付け文に記されていた逢瀬の機会は、小松夫婦の突然の訪問でふいになります。庄三郎が自分に慕情を寄せているのではないかとひそかに悩みます。

園部晋吾は蘭学を学びたいと長崎に行こうとしまします。しかし、二人の子供と一緒に長崎に行くのは難しそうなので、志保に晋太郎を養子としてもらいたいと願いでます。こうした小松の我がままな要求が志保の生き方を思わぬ方向へ向かわせるのです。小松は姉の身の上を思いやる心の持ち主ではありません。しかし、志保は小松の押しつけを受け入れ、子育てを決意し将来は侍とすべく、晋太郎を厳しくも愛情を注いで育てます。

晋吾は故あって、江戸に戻って好条件の仕官にありつきます。次男の健二郎が流行病によって失うのです。やがて志保に対して晋太郎を戻すように求めてくるのです。
「本当はここにいたいのです。友達もいるしいろいろなものもあるし、、」
「いつもお母様はこう仰っていましたね、りっぱな武士になるには、子供のうちから苦しいこと、悲しいことにたえなければいけない、からだも鍛え心も鍛えなければいけない、、」
「本当はここにいたいんですけど、そんな弱い心にまけてはりっぱな武士になれませんから、、」
「晋太郎は江戸へまいります」

晋太郎が江戸の両親の許へいくと子供心に云うのも、志保の膝元に留まりたいというのは弱い心だ、というのです。志保の真実の心が晋太郎に引き継がれていることに志保は満足します。

しかし、幕府の大目付らが村塾にやってきて「上意である、神妙になされい」といって杉田庄三郎ら塾生を捕縛しようとします。庄三郎は同志に向かって上意を受けるように云い、大剣を差し出します。別れ際に志保に向かって庄三郎は云います。
「ご迷惑をおかけしました、志保どの、」
「長い間お世話になりましたが、たぶんこれでもうお眼にかかることはないでしょう」
「ほかに心残りはありませんが、今年の菊を見られないのが残念です、」
「では、、ご機嫌よう、、」

心に残る一冊 その149 「やぶからし」 その六 避けぬ三左

駿河国府中の城下街で、小具足をつけた三人の若者がひそひそと囁いています。大手筋の方から、ひとりの大きな男がやって来ます。眉が太く、口の大きな、おそろしく顎骨の張ったいかつい顔です。眼だけは不釣り合いに小さいのですが、柔和なひかりを帯びています。徳川家康の武将、榊原康政の家臣の一人、国吉三左衛門常信です。いつもは向こうから来る人であろうと、戦で矢弾丸だろうとなんであろうと、避けないので「避けぬ三左」と呼ばれています。雨の日でも雪の日でも傘や簑をつけません。「ああ、いい天気だな」というほどです。それでこの綽名がついています。

三左に突然憂うつが襲うのです。大橋弥左衛門という榊原家の年寄がいます。槍組の侍大将です。三左は、弥左衛門に鷲尾家の小萩という娘を妻にしたいと仲立ちを依頼します。しかし、実のところ小萩なる娘がいかなるものかを知らないのに結婚を決意するするのです。それは小田原評定後、徳川家が関東に移封されれば、家康の天下統一は三左の孫子の代の先になるのではと心配し、あえて出陣前に妻を娶ろうときめるのです。

箱根や鷹巣城攻めに加わった三左は、例の矢弾丸を避けぬ戦法で先陣にたって名乗りを上げます。
「城の大将にもの申す、山中城すでに落ちた」
「守将松田どのはじめ諸武将それぞれ討ち死にされた、早く城門を開いて降伏せられよ」

とたんに敵城方から射かけられた矢が三左の体へ突き刺さります。彼はそれでもぐっと槍をつかみ、城門へと悠々と大股で前身します。これを見た敵兵は恐怖にうたれ、動揺がおこります。その動揺はそのまま大きく敗走へと向かいます。榊原軍は一斉攻撃にうつり、難なく落城させてしまいます。

主君榊原康政に助けられた三左は、小田原城を見たいと願い出ます。城が指呼にあり、相模野が広がります。じっと眼を凝らして晴れやかにいいます。
「ああ、いい天気だな、、」

絶えてひさしい三左の言葉に、周りの兵たちはいいます。
「鷲尾の小萩どのを見たらもっといい天気だろうぜ、、」
「なにしろあのひとが駿府のかぐや姫といわれる佳人だとは、彼はまだ知らずにいるのだから」

短期決戦否定の戦争観と粘り強く天下制覇を果たした家康ごのみの色彩がはっきりと現れる作品です。

心に残る一冊 その148  「やぶからし」 その五 鉢の木

主人公の壱式四郎兵衛は元鳥居元忠の家臣です。主君から不興を買い琵琶湖近くに隠棲しています。そして勘当の許しを待っています。妹、萩尾の結婚のことで土地の豪族の当主である佐伯又左衛門と諍いを起こします。それは、又左衛門が萩尾を妻にと四郎兵衛に望むのですが、四郎兵衛から婉曲に断られたのが原因です。

四郎兵衛は籔下の家で賃取りの箭竹つくっているのですが、生活苦は一段ときびしくなります。折から、又左衛門は家康が上杉征伐に出陣のあと、伏見城の留守を預かった鳥居元忠ら1,800人が、石田三成軍ら四万人の軍勢に取り囲まれていることをしります。そして馬を曳き、鎧兜を負って四郎兵衛宅に駆けつけ、出陣の餞けとして贈ります。勘当の許しが届かないのは、元忠が敵に包囲されたためでした。

四郎兵衛は萩尾と又左衛門の結婚を許し、「鉢の木」の謡を朗吟しながら、四郎兵衛は恐らく再び還ることのない戦場へ勇躍出陣していきます。
「さて合戦はじまらば、敵大勢ありとても、かたき大勢ありとても、一番に割って入り、思う敵とより合いて死なん、、」

四郎兵衛は兜の下から萩尾と又左衛門をじっと見つめ、さらばと云いながら大股で外にでていきます。馬がたかくいななき、すぐ馬の蹄の音がおこり、それが道へと出て行きます。萩尾はつよく眼をつむります。馬上の兄の顔がありありと見えるのです。

心に残る一冊 その146 「やぶからし」 その三 抜打ち獅子兵衛

1940年2月の「講談雑誌」に収録された作品です。抜打ち獅子兵衛こと館ノ内左内は、お家再興を願っていたのですが、幕府や主家親族諸侯の冷たい態度から、御家再興に見切りをつけます。そして、往来繁華な両国広小路で賭け試合を行って話題を撒きます。

両国広小路は、人馬旅行客の往来は絶えず、旅館、茶店、見世物小屋などが軒を並べて賑わっています。その広小路の真ん中に次のよう高札が立ちます。

賭け勝負(木剣真剣望み次第)
  試合は一本勝負
  申込みは金一枚
  うち勝つ者には金十枚を呈上
  中国浪人、天下無敵
      ぬきうち獅子兵衛

軀つきこそ逞しく堂々としていますが、年は若く色白で眉の濃いなかなかの美丈夫です。しかも恐ろしく強く、その人気はすばらしいものです。群衆の歓声を浴びながら、出雲国広瀬三万二千石、松平壱岐守の子で虎之助が三人の供をつれて左内の前に現れます。虎之助は「鬼若様」と綽名されています。その活躍振りを私かにながめていたのが倫子という女性です。柘植但馬守直知という備中新見二万石の領主がいましたが、早逝したため藩は取り潰しとなります。その遺児が倫子でした。

鬼若様の供で左内に見事に打ち負かされた綿貫藤兵衛がやってきます。
「昨日お手合わせを仕った、拙者主人の申しつけでこれより屋敷へご同行願いたく参った」
「結構です、参りましょう」
「そんな口車に乗っちあ危ね、昨日の遺恨があるんだ、殺されちまいますぜ!」
「お止めなさい、先生、」群衆が云います。

左内は支度を直したうえ、藤兵衛に導かれて松平虎之助の前へでます。そして自分の禄をはむ気はないかとたずねられます。
「お言葉、身に余る面目に存じます」
「私にお願いがございます」
「できるこなら聞いて遣わそう」
「はなはだ不躾なお願いでございますが、こなた様に奥方をご推挙申し上げたいのでございます」

このことを云いたいがために、眼に尽きやすい両国に高札をたて、虎之助が来るのを待っていたというのです。
「ほう、、そうすると賭勝負は余を誘い出す手立てだと申すか、
「左内、余に娶れというその相手はいかなる身分の者だ、」
「こなた様とお見込み申し上げます、先生、ご改易に相成った柘植但馬守でございます」

左内らはお家廃絶のあと、家中離散のなかより不退転の者たちが御後室妙泉院の御息女倫子を護ってきたことを伝えます。
「お年は十七歳、御怜悧の質にて世に稀なお美しさをもちながら、このまま生涯、日陰のお身の上かと思いますと、わたくしども臣下の身にとり残念とも無念とも申しようがざいません」

「左内、、、、、それでよいぞ」
「もうなにも申すな、、そのほうほどの者に見込まれたら逃げられまい、」

心に残る一冊 その147 「やぶからし」 その四 蕗問答

寒森新九郎は秋田藩年寄役筆頭です。食禄は八百石あまりですが、佐竹では由緒のある家柄です。しかし、強情でおまけに健忘家として名を売っています。物忘れはずばぬけていて「忘れ寒森」と云われていました。

江戸にいた佐竹義敦から早馬の使者がやってきます。
「秋田蕗の最も大きいものを十本、葉付きのまま至急に集めて送れ」という墨付きの上意です。
江戸城では諸国の大名があつまって、お国自慢が披露されます。義敦は茎の太さ二尺、全長一丈をこえる蕗のことを話します。しかし、万座の者からさんざん笑殺されたのです。

新九郎は眼をむいて云います。
「つまらぬ自慢話のために早馬の使者をたてるとは怪しからぬ、」
そう云って、主君に諫言するために二人の供を連れて秋田を出立します。ところが途中まできて、大変なことになります。江戸へ行く目的である諫言の仔細を忘れてしまったのです。

新九郎が出府します。数日前、義敦は諸侯たちに秋田蕗を調理してみごとにうっぷんを晴らしたのです。しかし、新九郎から小言をいわれると気づくのです。新九郎を数寄屋に招き、侍女の浪江に茶を点てさせます。浪江は「おこぜ」という綽名の醜女で年は二十六歳です。醜いながら愛嬌があります。
「急の出府はなにごとだ、、」
「は、、、真にご健勝にあらされ、、、、なんとも祝着に存じ、、、、」
新九郎の額に大粒の汗が噴き出しています。ああ、新九郎め小言の種を忘れたな、と義敦は察します。
「どうした、用向きを申さぬか、、」
「御意の如く、もちろん、新九郎といたしましても、遙々国許より、、その、、」
「なにを考えておる、押しかけ出府は筋ではないぞ、急用あらば格別、さもなくして軽々しく国許を明けるとは不埒であろう、新九郎どうだ!」
「恐れ入り奉る、実は、実は、、」

必死に顔を上げると、ふと侍女の浪江を見ます。その瞬間、苦し紛れの逃げ道をみつけます。
「我がままながら、このたび一生の妻とすべき者をみつけましたので、ぜひともお上のお許しをおね願い仕るべく、、、」
「ほう、嫁を娶りたいというのか、してその相手は誰だ」
「は、お上のお側におります者で、、、」
こうして新九郎は浪江を連れて秋田に戻ります。

浪江は秋田で主婦として手際よく家事を処理し、荒れ地を開墾し、秋田蕗を砂糖漬けにして秋田の名産として江戸に送りだそうとします。秋田蕗のことから、新九郎は諫言の中身を思い出します。再び江戸に参上して主君に忠告するという可笑味な娯楽小説となっています。

 

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心に残る一冊 その145 「やぶからし」 その二 笠折半九郎

「喧嘩は理窟ではない、多くはその時のはずみである」 このような書き出しで始まる短編小説が「笠折半九郎」です。

理窟のあるものならなんとか納まりもつくのですが、無条理にはじまるものは手がつけられないことが多いようです。半九郎と小次郎という二人の若侍の喧嘩がその例でした。二人は紀伊家の同じ中小姓で親友です。半九郎は西丸角櫓の番之頭を兼任し、食禄は三百石。小次郎は二百五十石をもらっています。半九郎は、生一本な直情径行派であるので対し、小次郎は沈着な理性派です。

喧嘩と和解を繰り返しながら、二人は主君紀伊頼宣の主従という隔てを超えた家臣への信愛によって絆で結ばれています。しかし他愛もない話柄が意外な方向へもつれ、ついには決闘を約して別れます。その前夜半叩き起こしたのは小次郎です。城の火事を知らせてきたのです。共に城に走り、配下を指揮して命がけで角櫓を守りとおします。

鎮火後に行われた恩賞で、持ち場を死守した半九郎だけには沙汰がありません。半九郎自身はなんとも思わないのですが、まわりが論功行賞の不平をあげつらって、半九郎をけしかける輩がでてきます。「自分は火消人足ではない」と答えた半九郎の返辞が恩賞組の反感を呼びます。仲介にはいった小次郎との勘定のもつれがまたも燃え上がって、再び決闘という次第となります。

争いの原因を知った頼宣が決闘の場に現れ、力一杯に「馬鹿者、馬鹿者、馬鹿者!」と連呼しながら半九郎を殴打して云います。
「世間の評判などはとりとめのないものだ、城は一国の鎮台として大切だ、宝物ものもまた家にとって大切だ」
「しかし、人間の命は城にも代えられぬ、予にとっては角櫓ひとつよりも、家臣のほうが大切なのだ」
「それほどの思し召しとも存ぜず、愚かな執着に眼がくらんでおりました」
「このうえは唯、、お慈悲でごさいます、わたしに腹を、」
「ならん!」
「そなたらは勝手に果たし合いをしようとした、軽からぬ罪だ、両人とも五十日の閉門を申しつける」
「小次郎も半九郎も一緒に謹慎しておれ、離れてはならんぞ、」

二人は平伏したまま泣いています。

心に残る一冊 その144 「やぶからし」 その一 入婿十万両

山本周五郎の作品の一つ、「やぶからし」を紹介することにします。讃岐多度津の京極藩に矢走源兵衛という槍奉行がいます。婿に迎えているのが一人娘、不由の良人である矢走淺二郎です。不由は京極藩随一の男勝りの才智容色をそなえています。

淺二郎は大坂の唐物売買商、難波屋宗右衛門の倅です。巨万の富者として知られていました。諸藩はいずれも財政難で逼迫しています。京極藩も例外でありません。淺二郎が京極藩に婿としてやってきたのは藩の財政事情があったのです。藩の財政を短期間に立て直す秘命を帯びて、見識の高い不由と祝言を挙げたにも関わらず不由は臥床を共にしません。

家中の若侍たちは、讃岐多度津の京極藩随一の娘、不由を横取りされたと怒り淺二郎に嫌がらせをするのです。出ては家中の侍に嘲笑され、入っては不由の卑めを受けるのです。
「なんだ、商人上がりの算盤才子が、、」
「あんな生白い奴に御槍奉行の跡が継がせるとは四国武士の恥辱だ」
こう云いながら嫌がらせが続きます。

ある時、淺二郎は三人の若い家中に襲われます。
「新参なれば遠慮しているのに、おのれを知らぬ無道者、、さあ参れ!」
日頃の柔和さとはがらりと変わった態度です。大きく見ひらいた双眸には犯しがたい威力と殺気が閃めいています。たまたま所用で通った不由ははからずも思いがけない淺二郎の姿を発見します。

淺二郎は恩師である岡田寒泉という人の示唆によって、京極家の家譜を閲覧して調べます。そこで京極家の家臣だった淺二郎の先祖が、唐物売買を始めるにあたり、藩祖から拝領した五千両を資本としたのが難波屋の巨富を積み上げるもとになったことを家譜から見つけます。淺二郎はその家譜を持って、ただちに生家に赴き十万両を藩家に献上させるのです。こうして藩の財政再建の目処をつけます。役目を果たした淺二郎は、槍奉行の矢走源兵衛に暇乞いをします。

「これにてお召し出しに与りましたお役目をどうやら果たしました、私を離別して頂きとう存じます」
「お嬢さまは清浄無垢にござりまする」
「殿にもお暇を願っております」
「ご承知くださいまするな」

淺二郎が立とうとするとき、不由が「お待ち下さい」と云って入ってきます。
「様子は次の間で伺いました、大坂へお帰りあそばすとのことでございますが、それならわたしもとお伴れくださいませ」
「、、、それはなぜでござるか、」
「わたしは貴方様の妻、妻は良人に従うのが道でござりまする、、、」
「それに貴方さまはわたしが清浄無垢と仰せられましたが、わたしはもはや身籠もっております」
「なにを仰せられる」淺二郎は呆れて「ご当家に参って以来、一夜たりとも閨を共にせぬこと、ご承知のはずではないか、」

彼の男らしさを知った不由は、不束を詫びて良人の膝に泣き伏します。

心に残る一冊 その143 「若き日の摂津守」 その二 町奉行日記

「望月どのはまだ出仕されない、その後なんの沙汰もなく、奉行職交代のようすもない」ー当番書役私記

家老や重臣を前に奉行職を任じられた望月小平太が云います。
「私は壕外をなくそうとするのではございません、長年の間、溜まっていた塵芥をかたづけ、毒草の根を断ち切るだけです、それだけがわたしの役目です」
小平太は脇においてある調書をとり、本田斉宮という重職に渡して「他の重職の方々でも回覧してもらいたい」と云います。

壕外をとりしきる三人の親方の一人、大橋の太十を小平太は訪ねます。着流しで刀をずっこけそうに差し、右手を懐にいれています。
「太十は私だが、、なにか私に御用ですか」
「おれは町奉行の望月小平太だ、」

二人は豪勢な造りの書院造りをとおり庭にでます。そこに茶と菓子が運ばれてきます。
「冗談じゃあね、おめえ大橋の大十だろう、」
「望月がどんな人間か、評判ぐれえは聞いている筈だ、おれは茶なんかほしくって寄ったんじゃね、ふざけるな」
太十は酒肴の用意を命じます。若い女が酌に座ります。どうやら太十の妾らしいようです。
「いい女だな」小平太は云います。
「お見通しでございますかな」
「いい心持ちだ、太十」
「痛み入ります」
小平太は云います。「まだそんな堅苦し口をきいているのか、こっちは兄弟分になろうと云っているんだぜ、さあ、大きいので一杯いこう」
「太十、、これはおめえとおれの、兄弟分のかための盃だ、いいだろうな」

五人の芸妓は小平太の陽気で巧みな遊び振りに、さそいこまれて、みんなすっかりはしゃぎだして無遠慮に嬌声をあげています。酔ったあげく休むと云って若い芸妓としけもむ小平太です。壕外の三人の親方、大河岸の灘八、継町の才兵衛、大橋の太十が集まり、小平太の桁外れの振る舞いを話題にします。
「あれは誰にもできるという芸じゃない、おらあすっかり惚れ込んじまったよ」灘八が云います。
「灘波屋八郎兵衛、気に入ったぞ、とても他人とはおもえねえって」

そこに小平太があらわれます。袴をさばいて上座に座り刀を置いて三人をみまます。濃い眉と一文字なりの唇とが、厳しい威厳を示しています。
「町奉行、望月小平太である」切り口上で云います。
「灘波屋八郎兵衛、継町の才兵衛、大橋の太十、こんにちはいずれも大儀であった」
三人は平伏します。
「これで挨拶は済んだ、三人とも楽にしてくれ」
小平太は手早く袴と紋付きを脱ぎ、白い下着の帯をぐるぐると巻き付け、三人の前へきてあぐらをかきます。三人はあっけにとられます。
「さあ、灘波屋のとっつあんから順に盃をもらおう」

「それはまた、どういわけです?」
「侍と町人、町奉行と壕外の親分、、こういう裃をぬいで、男と男になりたかった」小平太は云います。
「人間と人間、男と男になって頼みたいことがあったからだ」
「頼みとは?」八郎兵衛が云います。

小平太は懐から奉書紙で包んだ書状を出し、それを一通ずつ三人の前に出します。
「、、右により四月限り、壕外を立ち退くこと実正なり、万一仰せにそむき候ばあいは、いかようなる罪科に問われるとも、、、、」

同じ四月十二日の町奉行日記にはこうあります。
「壕外に住む親方三名、灘波屋八郎兵衛、継町の才兵衛、大橋の太十は、家財を処理していづれかへ立ち退いた、いかなる理由によるかわからないが、長年にわたって御政道のさまたげとなっていたことが、これでようやく落着した、藩家のために慶賀すべきことと思う」

心に残る一冊 その142 「若き日の摂津守」 その一 町奉行日記

「壬戌の年、正月七日
本日、新任奉行職の通達があった。江戸邸の望月小平太どのという、年寄り役武右衛門どのの長男で年は二十六才ながら小姓頭から上意によって町奉行に仰せつけられたということである、着任まで佐藤どのの代理に変わりはない」 このような当番書役の日記でこの小説が始まります。

国許では今か今かと新奉行、小平太の到着を待っていますが、なかなか着任しません。小平太は江戸邸で悪評の高い人物だといわれていました。武芸には長じているのですが、行状は放埒を極め、着流しなんとやらという仇名もつくほどです。家中の一部には新奉行の人事に反感を抱く者があり、特に徒士組の激派にはその動きが強いのです。徒士組とは将軍や藩主身辺の警固とか、行列に先駆して沿道の整備についたり、通常は玄関や中の口に詰めていました。いわば親衛隊といったような集団です。

城中大書院にて城代家老の今村掃部や他の家老が集まり、小平太の赴任披露を兼ねた重職評定が開かれます。小平太は末席から挨拶をします。
「私が町奉行に仰せつけられた仔細について、これから申し述べたいことがございざいます」
小平太は用意した調書をおいてもう一度重職を見渡します。
「おそれながら、、、故智光院さまのご他界によって、」この間諸般のご改革をすすめられましたが、お国表における壕外の問題だけが、こんにちなお放任されたままになっております」
「放任と言う言葉は承服できない」 一人の重職が云います。

この城下町の東端に船着き場があり、一方が海、他の三方は掘割りでかこまれ、港橋という橋一つで町とつながっています。この区域は町から隔絶していることと、船の出入りが多い港であることから「壕外」と呼ばれ、以前から悪徳の巣のようになっていました。宿屋はそのまま遊郭のようなありさまで、港外は抜け荷の売買が公然と行われ、そのため遠近から遊興にくる者、凶状持ち、浮浪者などがうろうろしていました。壕外には三人の親方がとりしきっていました。大河岸の灘八、継町の才兵衛、大橋の太十です。喧嘩盗賊のことから年貢運上の割府まであつかっています。
「御墨付です」小平太は云います。その書状を抜いて「上意」と云います。
「このたび、望月小平太に申しつけ候役目の儀は、藩家にとってゆるがせならぬ大事なれば、同人の望むことはすなわち余の望むところと心得べく、たとえ順序規律に違うがごときことありしとも、決して異議不服をとなえざるよう、屹と申し達するものなり」

小平太は墨付きを裏返しにして持ち、列座の人々に示します。
「御墨付けにはゆゆしき大事のように、仰せられてあったではないか」森島和兵衛という重職が訊ねます。
「町奉行のほかに特命がないなら、どうして御墨付けなのを下されたのか?」
「一口に申せば、壕外の処置がいかにむずかしいか、ということをご承知だからだとおもいます」
「壕外の処置とはという意味だ?」
「あの区域全体の掃除です」
「壕外は悪徒の巣窟です」
「抜け荷船が自由に出入りし、賭博場は大きいもので三箇所あり、宿屋は遊郭にひとしく、隠し売り女も野放しです」
「その取り締まりには三名の親方なる者が預かっており、外からの門渉をまったく受け付けない」
「こんな状態と続けていることは藩全体の恥辱です」

心に残る一冊 その141 「若き日の摂津守」 その二 君辱められるれば臣死す

「若き日の摂津守」の二回目です。光辰は十人ばかりの供をつれて遠乗りにでかけます。そのとき鹿を見つけます。光辰は馬を乗り捨てて、ただもう鹿に気を奪われて、斜面をすばやくのぼります。供のことはすっかり忘れるのです。一刻近く歩くと小屋の集落があり、一人の老人が土を掘っては埋めています。そこにいた老女に「喉が渇いた、」と云います。光辰は老人のことをきくと、「あれは市兵衛さんといって、気が狂ってるんですよ」
「川辺が鴨狩りのお止場になって、土地を追われて気が狂ったんです」
「ああやってなにもならない土を掘っては埋めしているんです」
「どうして、自分の田や畑がなくなったんだ」

お止場は重臣たちの直轄となり、郡奉行の支配となり、許しをえなければ立ち入ることが出来なくなります。お止場とは狩り場のことです。土地を追われた者たちは、ここに掘っ立て小屋を建て、その日暮らしの生活をしているというのです。お止場は鴨だけでなく鮎釣り場にも及び、土地の者は追い立てられたというのです。

数日の後の夜、一綴りの書類が寝所に届けられます。おたきはそこに置いてある書類を取って戻ってきます。
「いまこれを宿直の間から入れた者がございます」おたきは云います。
書類の内容は、藩主を敬して遠ざけたうえに、世襲の重臣たちが交代で政治を支配し、年々一万石以上にあたる横領を続けてきたその例がくわしく列記してあります。お止場も一例として挙げてあります。鴨は狩りごとに二万羽ちかく捕れます。名物として知られているため、高い値段でさばくことができました。

古くから、鴨も鮎も古くから湖畔の住民たちの生計を支えるものでした。お止場を指定して住民を立ち退かせ、郡奉行の支配に移し、とれた鴨や鮎を御勝手入りとして売るのです。売った代銀も藩主のものになるという名目ですが、実際は重臣達が分け取りをしています。住民は窮乏しているのです。

「重大夫!」、と光辰云います。
「他の者も聞け、侍の心得として、君辱められるれば臣死す、ということがあるそうだ、知っているか」
「殿、、、」と重大夫がするどく戒めます。
「知っているか!」
「図書はどうだ、古大夫はどうだ、知っているかいないか、民部、そのほうだどうだ?」
「おそれながら、侍としてその心得を知らぬ者はないと存じます」永井民部が云います。
「よし、」と光辰は頷きます。
「、、、ここでは家臣が領主を辱めている、重大夫、もっと寄れ!」
「お口が過ぎますぞ、殿、御座にお戻りあそばせ」重大夫が云います。

すると光辰は槍の鞘をとります。静かな手つきで鞘をとると、槍を持ち直し「無礼者!」と叫んで重大夫の胸を刺します。動作は緩慢でしたが、槍を持ち直してからの素早さは水際たっています。それまでの光辰のぼうっとした表情は消えて、凜とした姿勢です。重臣達は度肝を抜かれ、口をあいたまま声を出す者がいません。そして周りの重臣たちに光辰は叫びます。
「重大夫の罪は死にあたると思うが、一命は助けてやる、江戸に帰ったら父上に申し上げ、改めてその罪の詮議をしよう、医者を呼んで手当をしてやれ!」
「民部帰るぞ、」 

永井民部は案内にたちながら、低い声ですばやく囁きます、
「いましがた城中から使者がありました。お部屋さまには御懐妊とのことでございます。」

心に残る一冊 その その140 「若き日の摂津守」 その一 若き日の摂津守

山本周五郎の作品には、白痴とか唖者を装って主君に仕えるとか、家臣を欺くといった場面が登場します。既にこのシリーズで取り上げた「小説日本婦道記」に収録される「「二十三年」という短編に「おかや」という女性がいました。二十三年もの間、口が利けず白痴のふりをして新沼靭負に仕え、その息子の牧二郎の養育にあたるのでした。若き日の摂津守光辰も白痴のふりをして藩を牛耳る家老や重臣を一掃する物語です。

摂津守光辰は「うまれつき英明果断にして俊敏」ということが藩の正史にありました。けれども別の藩の記録には次のような記述もありました。
「幼少のころから知恵づくことがおくれ、体は健康であったが、意力が弱く、人の助けがなければ何一つできなかった。つねに涎をながしながら、みずから拭くすべを知らなかったし、側近のものが怠ると失禁されることも稀ではなかった」

光辰は家督相続をして摂津守に任じられ、二十一歳のとき初めて国入りをします。二の丸御殿で祝宴がひらかれます。家臣が宴に列席します。光辰は上段に座っているだけで、しもぐくれのおっとりした顔立ちで、上背のあるいい体格だが、眼つきや口許にしまったところがなく、疲れたような、寝不足なような、とらえどころのない、ぼうっとした表情をしています。後ろに小姓頭がときどきみをかがめて光辰になにごとか注意します。すると光辰はでかかっていた欠伸を半分でやめたり、袖でゆっくりと口の周りを拭きます。家老や年寄らの重臣が光辰をみる眼には憐れみと軽蔑の色があらわれています。

光辰と正室の間にはまだ子がおりません。年が違いすぎるのか体質があわないのか、結婚してからもう五年もなるので、家臣たちは国許の健康な娘を側室にあげるということに決まります。酒宴の席上給仕にでたのは側室の候補なのですが、家老の浅利重大夫から光辰に告げてあったのですが、光辰はてんで娘達を見ようとしません
「殿、、お気に召した者がございますか?」
「おれは誰でもいい」光辰は途方にくれたような顔でこころぼそくそう云います。

「民部、、」光辰は助けるように小姓頭の永井民部に訊きます。
「このおれは、誰だ」
「おそれながら、、当松城五万六千石の御領主、摂津守光辰さまであらせられます」

「だめだな、、こちらで選ぶよりしかあるまい」と家老の浜岡図書が云います。その夜、重臣達が集まり、側室の選考をします。そして吉田屋という藩の御用商人の娘を選びます。商人の娘なら、たとえ世継ぎを生んだとしても親が藩政の邪魔になるような怖れはないという理由です。年は十七歳、容貌はまず十人並みですが、体はよく発達して健康そうです。この娘はおたきといいました。

おたきは寝所にあがります。白小袖に白の帯をしめた姿で褥の上へあがります。
「いいか、」光辰が囁きます。
「はい、」
光辰は妻戸をあけ、一冊の書物を出してくると、畳のうえにじかに座ったまま読み始めます。それはおたきが伽にあがって七日めの晩から、一夜も欠かしたことのない習慣です。
「黙っていてくれるか、、」
初めての夜、光辰はおたきに云います。家臣達に知られると困る、黙っていてくれるかと云うと、小滝は黙っていると約束します。おたきはやがて、殿様はばかをよそおっているのではないかと思うのです。光辰は、おたきに触れようとしないのですが、「決して嫌いではない、お前がすきなのだ、、それまで待ってくれ、」とおたきに云います。おたきは光辰の言葉には真実を感じるのです。

心に残る一冊 その139 「若き日の摂津守」 その一 逃亡記

山本周五郎の作品にもどります。「若き日の摂津守」に収録されている作品を取り上げます。今回は「逃亡記」です。

溝口掃部は城代家老で禄は3,200石です。あつみ、みさをという18才と17才の二人の娘がいます。横江半四郎は長女のあつみと結婚することになっています。城代家老の片山主水正と一代交代の定まりなので、半四郎が溝口家を継いでも城代にはなれません。

  横江家は代々江戸邸の年寄り役で禄は1,520石。半四郎の兄文四郎が横江の家督を継ぎます。あつみとの祝言をあげるために、江戸から国許についた半四郎は掃部の屋敷で草鞋を脱ぎます。掃部は、新しい国絵図を作る仕事をしています。
「そこで早速だが、そこもとに国絵図の支配をやってもらう、、」掃部は半四郎に云います。

話がややこしくなるわけは、半四郎はもともと横江の子ではなく、長門守祐永が侍女に生ませた子だということです。長門守祐永の世子である与五郎祐刻が病弱のうえに暗愚というので、一藩の主たる資質がありません。そこで半四郎を世子にしようという計画が生まれます。この計画を現老職が探知し半四郎を亡き者にしようとします。表面は溝口の婿という触れだしで城下に連れ出し、ここで暗殺するという手筈です。

この謀殺計画を知った溝口では、半四郎を逃がそうとします。その助けの案内をするのが溝口家の奥に仕えるさとという女です。

国絵図を作る理由は、領地を接している諸侯の間に境界の争いが起こるからです。まだ測量が不十分であり、各藩の国絵図なども明確ではなかったのです。通常、分限帳といって郷村の草木や川魚の運上金などを記したものがあります。これには藩の勘定奉行の署名があれば、どの藩の所領かがわかるのです。

半四郎らが逃げている途中、領内でも指折りの豪農の屋敷にやってきます。当主は殿島八右衛門といい藩主の長門守から特別の待遇をうけています。そこの屋敷で半四郎は年貢や運上の分限帳のうち、八右衛門署名の文書を見つけます。長門守と八右衛門との結託を示すのが分限帳なのです。吉岡郷は隣藩の領分だったのですが、境論が表沙汰になった場合、この分限帳がなければ松井藩の言い分がとおるかもしれない、半四郎はそう推測します。半四郎やさとが分限帳を抱えて立ち去ると間もなく、分限帳の存在を消そうとして殿島はこの館に火を放ちます。

殿島と松井藩とが通牒していることを知ったのも、分限帳を手にいれることができたのもさとのお陰で逃げ回ったからです。半四郎は、分限帳によって松井藩の企みを潰すことに確実に勝目算があると見通します。

半四郎はさとに「嫁になるのはいやか」と申し込みます。そして、さとが実は溝口家の妹、みさをであることを半四郎は知ってびっくりします。半四郎はもともと、あつみと許嫁だったのです。あつみとみさをは、こうしたいきさつを可笑しく会話しています。そして半四郎は分限帳をもって松井藩に掛け合いにいきます。